介護ってたのしい
自宅で介護するという事
在宅介護は、介護を必要としている方のお宅にヘルパーが訪問し、介護をします。その方を支えるために、訪問診療(医師)や訪問看護(看護師)、訪問介護(訪問介護員=ヘルパー)などが連携しあい、訪問スケジュールを組んで、生活の大変なところや健康面の支援を行います。スケジュール調整や連携や介護目標立案の要にいるのが、介護支援専門員(ケアマネージャー)です。
施設介護と大きく異なる点は、その方の“自宅”で介護支援が行われる事です。半世紀以上もの生活を営んだ家は、もちろん綺麗な家もありますが、本が山積みであったり、趣味のものに埋め尽くされていたり、子供が小さい頃の写真が貼ってあったり、欄間に並んだご先祖様の遺影がじっと見下ろしていたりと、本当にいろいろなお宅がありまさにその人自身の現れが自宅なのです。
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施設では、ご利用者が“お客様”として、施設職員の縄張りにいわば間借をするわけですが、在宅介護では、その方の縄張りに訪問するのです。自宅では、おそらくは施設では見られない無防備な心の弱さや、我を貫くようなこだわりや、何度語っても語りあきないお得意の思い出話などが、どんどん出てきます。
なかでも、直接身体に触れて、食事や入浴やトイレなどのお手伝いをしているヘルパーさんに対しては、親しみも含めて、その人自身が“今までどのように生きてきて、これからどのように人生を全うしたいのか”という想いが、全身で向けられてきます。その中で、介護保険制度という枠組みはありますが、本当にその方が必用としている支援とは何か、どのように関わればその方の自己実現を支える事ができるのか、などを模索していく介護となるのです。
介護とは新たな出会い
訪問介護の仕事は、考えてみれば不思議な仕事です。日常生活を自力で営めなくなった方への援助という仕事ですので、生存を支える重要度から考えれば、食事を食べさせたり、お下の世話をしたり、お風呂に入れたりなどの身体介護が大切になってきます。身体介護では、その人の体を直接触り、なるべく心地よくなって頂けるように気を配ります。おそらく、訪問介護以上に他人の体に触れる仕事は、他に無いと思われます。しかもその場面は、病院や施設ではなくその方の自宅なのです。
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そのような濃密な接触は、公的で一時的な関係でありながら、深い“他者体験”を生み出すのです。お互いに、自分自身が常識として疑わなかった事が、他人にとっては常識ではなかったという以外な事実が、たくさん見出されてきます。そうして、行き違いやもどかしさなどを突き抜けていくうちに、他人の価値観を認め尊重するという事は、どのような事なのかが学ばれていきます。もちろん介護現場は重たい話ばかりではありません。世代を超えて、冗談が通じた時などは、お互いに涙をうかべながら笑い転げてしまう時もあります。
介護を必要とされている方々は、実にさまざまです。医師や政治家や芸術家からサラリーマン、一介の主婦、みんな“元”がつきますが、この“元”が大切なのです。今は肩書きが不要になりつつあり、“本来の自分自身”と向き合う時が来たのです。その“向き合い掘り下げる”という心的な労作業を行う時に、“深い関わりのある他人”という位置づけの人間が、そばに居てくれるという事が強い支えになるのです。そしてヘルパー自身も、“人生とは何か”という問いにさらされて、今までにない驚きと新たな発見を得て、自分自身が深められていく体験をするのです。
今までにない人間関係、思ってもみなかった価値観、変わりゆく自分―
赤や黄色の色さまざまに木々が錦に染まる秋は、人生における晩年に例えられます。
やがて葉が一枚一枚と散っていきます。自然も人間も大きく変わる時です。
腰が痛くなった。長く歩けなくなった。物忘れが多くなった…。少しずつ身体機能は低下していきます。しかし、それらを“喪失”ととらえるのは早計です。木々の紅葉は、葉にある栄養を根に送って身軽になるための冬支度です。枝に葉が残れば雪の重みで枝も折れてしまいます。そして根に栄養を蓄え、木は冬を越すのです。
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一枚一枚葉を落とす事は、自分の“執着”や“こだわり”から離れ、無駄をそぎ落とし、精神的に純化されていく過程でもあります。自分にとってかつては大切だったものが思い出として遠のいて行き、本当に大切なものだけが残っていきます。根は地上からは目に見えません。しかし確実に蓄えられていくものがあります。それは、目に見えるものや社会的なモノサシから離れ、感性が研ぎ澄まされていくなかで得られていく心の豊かさです。
言葉にならない声、目に見えない想い。繋いだ手の温もりから感じたい
認知症がある方は、自分の気持ちを上手に伝える事が出来ずに、周囲からは何も解らなくなった人のように思われる事がありますが、決してそんな事はありません。防御の無いむき出しとなった感性が鋭敏になって、周囲と衝突する事もありますが、敏感な心ゆえに、優しい意味の言葉とは裏腹の苛立ちや、冷たい眼をしっかりと感じているのです。繊細な子供が、表現力は持たなくても感受性豊かに、世界を自分の心の鏡に映しだしていくのと同じです。
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もう子供の顔も解らなくなってしまい、時々不安な表情を浮かべているある方が、ヘルパーと散歩をしていました。風が渡っていくと、目の前を赤い葉がひらひらと舞っていきます。にっこりと穏やかな表情を浮かべたその方は、落ち葉を拾うと「持って帰って子供にあげるの…」と、大事そうにしまっていました。自分にとって本当に大切なものは、心の中に生き続けているのです。
心は目に見えません。簡単に評価する事はできません。だからと言って、心を粗末に扱うと、結果として自分に帰ってきます。目に見える物や社会的評価ばかりを追い求めて来た方にとっては、自分の大切なものが自分からどんどん離れていった結果として、秋は喪失の痛みだけであり、自分には何も残らなかったという残酷な冬の訪れとなる事もあります。
介護を受けるという事は、変化を受け入れるという事
戦後の高度成長期をモーレツサラリーマンとして生きてきた男性にとっては、目に見えるものを追い求めてきた生き方が、一般的傾向だったと言えます。良くも悪くも“仕事に打ち込んだ人生”であり、反面、家族は妻にまかせっきりでした。そのような方が、病いや老いの痛みを通して、“待つしかできない者”のもどかしさや苦悩を知り、頑なな心が開かれて、周囲の人と心の交流がはじまるという場合もあります。
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誰しも、自分の老いは受け入れ難いものです。介護保険サービスの利用は、衰えを痛切に感じたからこそ、本人や周囲が行政に申請を出し、認定調査などを経てサービスの利用となります。それらの手続きが自らの老いを再確認させられるようなものであれば、自尊心の高い方は、誰かの手助けを必要と感じるものの、他人に家の中に入ってもらいたくない、というアンビバレンツな感情を抱くことになります。結果として、周囲の親切心を押し付けがましく感じてしまう方もいます。そんな方は、ヘルパーを若かりし日の自分と比べて、「私だったこうするのに」などと批評的な視線で、訪問介護サービスの荒さがしをされます。それをヘルパーが、老いを受容する過程での“あがき”として、肯定的に受けて止めていくと、本人のなかでも受け入れるという変化が見られてきます。ヘルパーの訪問に対して拒否的だった方が、ヘルパーの訪問を楽しみに心待ちされるようになると、ヘルパーもとても嬉しくなります。そして、ヘルパーの心も海の潮が静かに満ちてくるように、いつの間にか変化しているのです。
何かと出合うという事は、変化するという事
それが良いか悪いかは自分が決める
秋の訪れとともに、身体機能は低下していきます。それに伴い心の中も変化をしていきます。変化は世の常、人の常ですが、それを発展とみるか後退ととらえるかは、その人自身に任されていると言っても良いでしょう。
ライフサイクルという、人生全体を視野に入れた考え方をした時に、介護する側の季節は、“春”や“夏”やせいぜい“初秋”にあると言えます。その時期に、冬支度をする方々と出会い、「冬も決して悪いものではない」という見通しが持てるという事は、生き方の幅が拡がります。
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介護する側とされる側の出会いは、介護する側にも大きな変化をもたらします。春も、秋と同じように変化の時ですが、変化を肯定的に受け入れ成長の糧とできるかどうかは、自分次第であるという事を、他人の姿を通して自分の眼で実際に見る事ができます。夏の安定した時期にいても、ただ安穏と過ごすのではなく、「自分にとって本当に大切なもの」をゆっくりと見つめる事ができるでしょう。初秋の時期にあっては、具体的な学びを得る事ができます。
さまざまな方の晩年に関わっていくと、人生には “勝ち組”も“負け組”も本質的には無いという事がわかってきます。人生からどのような意味を汲み取るかは、自分の自由なのです。このように、自分自身の価値観の拡がりを体験できる事が、介護の仕事の本質的な楽しさなのです。
全ては自分で決める
福祉業界で大切とされている、「自己決定」という言葉があります。自分の事は自分で決める事とういう事が、自身の尊厳を守るという考え方です。
(※参照→「表札」)
この「自己決定」という言葉と真摯に向き合った時に、「本当に自分は自己決定してきたのだろうか」という疑問を抱きます。親や友人から強い影響を受け、流されるように生きたというのも、人生の真実の一側面です。しかし、その中でも「これだけは譲れない」として自分で決めた事はやり抜くでしょうし、スポーツ選手などで実績をあげた人は、多くの事を自分で決めてきたからこそ、それが自信と力になったとも言えるでしょう。自分で決めるという事が本当に理解できれば、何かから苦しみを感じる事よりも、楽しさを感じる事の方が多くなってくるのではないでしょうか。
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自己決定は、福祉の枠を越えて、自分の人生をどのように生きるのかという意味において、とても大切な視点です。そして、「死」という究極の問いに対しても、自分でその意味を決める事が出来るという事を、ある方は教えてくれました。
「雪が真っ白でね、ずっと降っていて、大きな川が黒く流れていて、そこに橋がかかっていてね…」夫婦共に百歳になろうかという老夫婦宅を訪問すると、ご主人は同じ話を初めてのようにいつも語っていました。
「雪の降っている中、二人で手をつないで橋を渡ったんだ…」それは結婚の申し込みに行った、若き日の思い出です。そして「死ぬときは一緒に死のうと約束しているんだ」といつも話をしていました。
ご夫婦は家族の都合で離ればなれに施設入所となってしまい、高齢に環境の変化は耐え難かったようで、間もなくお亡くなりになってしまいました。離れた場所で、同じ日に。約束どうり、二人は本当に手をつないで逝ったのでした。
冬、木は枯れるのではなく来春に備えて準備をしています。春の到来を待ちわびるような、春の再会を確かに予感できる、そんな冬の訪れもあるのです。