【紙ふうせんブログ】

令和5年

紙ふうせんだより 3月号 (2023/04/21)

自分の苦しさを思い出してみる

皆様、いつもありがとうございます。咲き散り急ぐ桜に人の世の邂逅と別離を重ねてしまうからでしようか、春はどことなく感傷的です。春の疾風に宮沢賢治も痛みを感じとっています。『春と修羅』には「雲はちきれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はきしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」とあります。春は再生の季節ですが、取り残された癒えない痛みを思い出してしまうのもまた春なのかもしれません。

春の心になるように

心が辛い痛い悲しい。そのような思い出が綴られにの中の「詩集」を「誰しも持っている」とする詩、『春の詩集』では、作者の河井醉茗(すいめい)(※ 1)は「春が来る毎に/春の心になるように/自分の苦しさを思い出してみることです」と、そっと呼びかけています。なぜ苦しみを思い出した方が良いのでしよう。

仏教では、自分の意のままにならないものにこだわってしまうことこそが「苦しみ」であるとして、その対象を「生者病死」の四苦と共に「愛」や「憎しみ」、「欲求」や「身心」へのこにわりを加えて八苦(※ 2)としました。アドラー心理学(※ 3)も「他者を支配しないで生きる決心すること」を説いていますが、「他者」もまた自分の意のままになりません。考えてみれば「若い時の詩集」には、納得のいかないことで多くの人とすれ違い結局自分で自分を孤独に追い込んにりした苦い思い出ぱかりです。「どうして」とこだわり続けるから苦しくて、忘れたいけどかえって忘れられなくなるということはあります。

痛みや悲しみは、それはそれとして受け入れて自然体となり、時思い出していれは後悔も何かの学びとなります。また、悲しみがあるからこそ人は人に優しくなれるのです。この詩にある、他人に見せたくない心の傷が「春の心になる」ということは、「自分の苦しさを思い出してみること」で、いつかその「苦しみ」が苦しみではなくなるということなのでしようか。




※ 1河井醉茗( 1874ー1965) 口語自由詩を提唱した詩人。『紫羅欄花』( 1932)など平明な作風が特徴。→春の詩集 — HAS Magazine (has-mag.jp)

※ 2八苦には愛する人と生き別れる苦、うらみ憎む人と会う苦等がある。

※ 3アルフレッド・アドラー( 1870ー1937)は「自己実現的な人にとって他の人が与えてくれる名誉や地位や報酬等は重要ではなくなっている」とし、マズローの「欲求5段階説」の「承認欲求」を求めるなと説く




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「どうして」 から 「どうやって」 

自分の命や運命もまた意のままになりません。何となくこの先もこのまま生きていく事ができるという漠然とした希望がある日突然断たれてしまった時、人は悩み苦しみます。そしてその「苦しみの意味」を「どうして」と問うのです。筋ジストロフィーと診断されていた石川正一さんは1 0歳の夏、ついに歩けなくなります。日記が書籍化された『たとえぼくに明日はなくとも車椅子の上の17才の青春』には、その時のことが記されています。

「お母さん/もう一度立ってみる/ちきしよう/ちきしよう/ほくはもう駄目なんだ /ぼくなんかどうして生れてきたんた! /生れてこなければよかったんだ!」

苦しい時、人は「何で自分は苦しまなければならないのか」と考えます。苦しみを抱えてまでして人はなぜ生きなけれはならないのか。生きなくてもいいじゃないか。死んでしまってもいいじゃないか。そう思うこともあります。

でも、無くなって欲しいものは本当は「苦しみ」の方です。その苦しみに「どうして、どうして」と問いかけても「苦しみ」は答えてはくれません。苦しみを抱えた自分が「どうやって」生きて行ったらよいのか、問われているのは、本当は「自分の態度」だったのです。答えの出ない問いから自分自身へと問いを反転させるために、仮定として自分の「死」を者えます。それが「死にたい」と言う表現です。

「自分が死ねばこの苦しみは終わるのか?」そう妄想します。苦しい時は、永遠不変の実在としての「苦しみ」の中に小さな自分が呑み込まれているように感じますが、本当は有限な自分の中に(自分よりも小さくて自分よりもさらに儚い)苦しいという「自分が抱く感情」あるのです。そうであれば「自分が変ればこの苦しみも変わるのではないか?」と言えるのです。「死にたい」という表現は「今までの自分の考え方は終わりにして、新しい考え方のできる自分に再生したい」という気持ちの表れではないでしようか。

「お母さん、もう、あんなことは言わないよ。生命をそまつにすることはいけないね。ごめんなさい。」

石川さんは14歳の時に20歳までの命と宣告されます。死を自覚して石川さんは変わっていきます。そして、自分に問うのです。

「たとえ短い命でも/生きる意味があるとすれば/それはなんだろう/働けぬ体で/一生を過ごす人生にも/生きる価値があるとすれば/それはなんだろう/もしも人間の生きる価値が/社会に役立つことで決まるなら/ぼくたちには/生きる価値も権利もない/しかしどんな人間にも差別なく/ 生きる資格があるのなら/それは何によるのたろうか」

石川さんは、「人生からの問い」に「自分の答え」を示すために生き抜くことに決めました。

「たとえぼくに明日はなくとも /たとえ短かい道のりを歩もうとも/生命は一つしかないのだ/だから何かをしないではいられない/一生けんめいを忙しく働かせて/心のあかしをすること/それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている/釜の火は陶器を焼きあけるために精一杯燃えている」

精一杯生きた証は誰かの心に残ります。「人か死ねばとても悲しいじゃないか。誰もが、必す死ぬのだということが解っていても、やはり悲しい事だよ。それは死ぬから悲しいのではなくて、実は”別れる”ということが悲しいのだ。」悲しみは悲しみとしてあるけれど、融和的に思い出されれば、それは優しくて暖かくて懐かしい春の風となります。苦しみは粘土のような自分を鍛錬して、陶器に焼き上けるための「炎」ではないでしようか。




※ 4石川正一( 1955ー1978)筋ジストロフィーは全身の筋肉が変性する進行性の難病で根本的な治療法はない。10歳で車椅子となり23歳で死去。

「2 0歳をこえようとこえまいと/人間は有限な存在にかわりはないのだ/生きているかぎりは/何かをしないではいられない/おまえは伸びようとしている/芽なのだ(20歳誕生日)」東映で「ありがとう」という記録映画がある。




※引用の河井醉茗の詩は、読みやすさを重視し旧仮名遣いを現代新仮名遣いに改め、一部の漢字をかなに、かなを漢字へと表記し直しています。

 

紙面研修

「ゆずりは」 に想う

【ュズリハ】ユズリハ科の常緑高木。福島以西の本州、四国、九州、沖縄に自生する。和名の「ユズリハ」は、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来します。漢字表記は「譲葉」です。一方、古名では「ユズルハ」とされ、万葉集にも見られる表記は「弓弦葉」です。これは、葉の主脈が太く目立ち、弓に張る弦のように見えることからだそうです。新葉が揃うまで古葉が落ちず新旧の葉が着実に入れ替わる様子に、円満な世代交代や子孫繁栄への願いが託されて縁起の良い木とされ、葉は正月飾りにも使われ、庭木としても利用されています。




古に恋ふる鳥かも弓絃葉の御井(みい)の上より鳴き渡りゆく

現代語訳:昔を恋しく思う鳥だろうか、弓絃葉の井戸の上より鳴き渡っていく(万葉集弓削皇子)

 

■この歌は弓削皇子が持統天皇の行幸に同行した時に大和にいる額田王(2代前の天皇の后)に贈ったものです。額田王は「昔を恋しく思う鳥はホトトギス(不如帰)ではないですか」(古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が思へるごと)と返歌をしています。

中国の故事に、古蜀の望帝の復位の願いが叶わずに死んでホトトギスとなり「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いたとあります。譲り葉の上でホトトギスが「昔に帰りたいけど帰れない」と鳴いて飛び去っていく。そんな光景です。




以前、利用者ご家族より利用者さんの「散財」について、それをどのように抑止するかを相談されたことがあります。私の回答の一部を引用します↓

 

金銭感覚については家族間でも異なっていることが多く、認知機能の問題とする前に異なっている事を前提に構えることが大切です。要介護高齢期になると金銭感覚も昔のご本人と比べて変化していく人も多いように思います。

支援側(昔のご本人も)が生活者の視点で見るのに対して、ご本人は、次代に何物かを「贈与」してこの世を去っていく「ゆずり葉」的な自己像を持っているように思います。身近な人や社会に対して「贈与」したいという欲求が、欲求の中でも強くなるような方もおられます。

それは、生活者視点では散財なのですが、本人にとっては自分を確認する行為としての「贈与」であるという視点での理解も必要かと思います。また、金銭管理は「自己決定」に大きく関わり、自己決定による物品購入や贈与は「自己効力感」とも大きく関わっているかと思います。(引用終)




人には、自分が誰かから何かを受け取ったと感じた時は、自分もまた誰かに何かを渡さないといけないと感じ実行する習性があります。与える義務、受け取る義務、お返しの義務。これらが履行されないことは、人にとっては(祟られる等)よろしくないのです。そうやって世界は循環し、その秩序が保たれる。これが文化人類学で論じられている「贈与」です。

考えてみよう

去るべき者が譲り遺していきたいと思っているものは、本当は何だろう

自分が受け取るべきものは何だろう

残った者の応答責任とは何だろう

 

参考資料:ゆずりは(河井醉茗『紫羅欄花』より)


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