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紙ふうせんだより 10月号 (2021/11/19)

「ありのまま見る」ことの難しさ

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。木々が色づきはじめて、一段と寒くなりましたね。お風邪をひかぬようご自愛ください。また、身体が硬くなり腰を痛めやすいのでお気を付け下さい。

紅葉と聞いて思い浮かべるのは、真っ赤な紅葉や一面の黄金色のイチョウでしょうか。私は案外と桜が好きです。ぼんやりと眺めると何だか茶色であまり綺麗ではない桜ですが、注意深く見つめると一つとして同じ葉は無く、それぞれが赤や黄色、緑や茶色のグラデーションやまだら模様になっていて、とても趣があるのです。

決めつけてしまうのは、解像度が低いから?

ぼんやりと眺めることと注意深く見るのとでは、見え方が異なってきます。良い介護サービスを提供できている人の共通要因を考えてみますと、確かに言えることの一つは、利用者さんのことを良く見ています。そのことについて「解像度」というキーワードで考えてみましょう。(画像参照)

解像度が高いのはAです。これは普通の画像でもありますから、解像度高く見るというのは「ありのまま見る」ということに通じてきます。これが良く見えている状態です。解像度を落としたものがB、もっと落とすと昔のTVゲームのドット絵のようなCとなり、経験によるパターン認識のおかげで顔と認識できるようになります。そして画像Dは、もはや背景は消えて記号化された情報としての「笑顔」となります。

私たちは利用者さんをどのレベルで見ているでしょうか。良くてB、だいたいはC、レッテルを貼ってしまうような人はDになっているのではないでしょうか。Dの問題点は、笑顔なのか泣き顔なのか判断を躊躇してしまうようなCよりも、「笑顔」と断定してしまっているところです。判断が早くて迷いが少ないためにDの「決めつけ」をしたくなる誘惑は、誰にでも常にあります。そして、パターン認識を押し進めてしまった結果、記号のように利用者さんを「利用者」と決めつけて見てしまい、ありのままが見えなくなってしまうです。

『良く見たくなる』ための工夫

どんな人も関わりの深い相手に対しては、その人のことを理解したいと思っていることでしょう。にもかかわらず利用者さんを決めつけで見てしまうのは、第一に「良く見る」ことが足りていないのではないかと思われます。そこには時間などの余裕が無かったり、“効率的”に関わりたいなどの自身の欲求が、「良く見る」欲求を上回っているようなこともあるかもしれません。しかしそれを性格や人格の問題としてしまうと、改善はよほど時間がかかってしまいます。“向いていない”と自分を決めつけてしまうかもしれません。

そうではなくて、利用者さんを『良く見たくなる』ような工夫をしましょう。工夫には、例えば文学や映画などを味わうことも挙げられます。優れた作品は高解像度で人間を描いています。眼を養うことができれば、心象風景はより鮮やかとなり、同じ介護サービスでもより楽しくなるはずです。締めくくりに、解像度の高い吉野弘(※1)の「詩」を4篇ご紹介します。電車移動のぼんやりとした時間も、見る人によってはこんなにも違うのか、と驚かされるのです。

※1吉野弘(1926- 2014)詩人。有名な作品に「祝婚歌」、鳩山元首相はこれを“外交の要諦”述べる。「生命は」は是枝裕和が映画に引用している(紙ふうせん便りH27.1にも引用)。浜田省吾は「雪の日に」刺激を受け全文をアルバムに引用。

 
白い表紙

ジーンズの、ゆるいスカートに

おなかのふくらみを包んで

おかっぱ頭の若い女のひとが読んでいる

白い表紙の大きな本。

電車の中

私の前の座席に腰を下ろして。

 

白い表紙は

本のカバーの裏返し。

やがて

彼女はまどろみ

手から離れた本は

開かれたまま、膝の上。

さかさに見える絵は

出産育児の手引き。

 

母親になる準備を

彼女に急がせているのは

お腹の中の小さな命令――愛らしい威嚇

彼女は、その声に従う。

声の望みを理解するための知識をむさぼる。

おそらく

それまでのどんな試験のときよりも

真摯な集中。

 

疲れているらしく

彼女はまどろみ

膝の上に開かれた本は

時折、風にめくられている。

 
夕焼け

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横合いから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押しだされた。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をぎゅっと噛んで

身体をこわばらせて――。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持ち主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持ち主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで。
 
好餌

或る駅で電車に乗り込んできたお婆さん

顔中、黒胡麻をまぶしたような風貌

大きく膨らんだ布の袋を引きずって

私の左側に腰を下ろした

腰を下ろすと、すぐ

袋を膝の上に載せ

中を覗いて探しもの

右腕の肘が

遠慮なく

私の脇腹をゴリゴリと突っつく

袋の中身をひっかきまわし、

探しものは出てこない

右腕の肘はしつこく私の脇腹を突っつく

電車に乗ると私は

なぜか、いつも

この種の災難に出会うのだ

探しものは見つからず

お婆さんの右肘は

際限もなく私の脇腹を見舞う

いつまで続く肘鉄ぞ!

私が席を立とうとしたとき

一瞬先に黒胡麻婆さんが席を立ち、袋をひきずり

少し離れたドアの傍まで歩いて行った

ドアの傍らには、深々と腰の曲がったお婆さんがいた

その人に

私の左側を指さして

「坐れ」と言っているのだ

腰の曲がったお婆さんは私の左側に来て腰を下ろし

黒胡麻婆さんは

ドアの傍らに立ったまま外の景色を見ている

――袋の中ばかり覗いていたお婆さん目に

ドアの傍らの腰曲がり婆さんが見えていたとは!

そのとき私の耳に届いた腹話術もどきの声は

黒胡麻婆さんの閉じた口から

私に向けられて発せられていた

「何の不思議もありはしないよ

私を非難することでいきり立っていたお前さんの目に

私以外のものなど見えなかった筈さ」

 

人の欠点を責める人間が大好物という神さま

そういう神さまがおわすと

かねがね私は信じていたが

ひょっとしたら、この黒胡麻婆さんは……

 

黒胡麻婆さんは、やがて電車を降りた

ホームに出たその人の横顔は

窓越しに私を見て

かすかに笑っていた

腹話術もどきの声が、また

そのヒト(?)の閉じた口から

はっきりと

私の耳に届いた

「他を非難して周囲が見えなくなっている人間が

私の舌の好みには一番でね

おいしいことこの上なし、さ!」

 
或る声・或る音

発車合図の笛が駅のホームに響き

電車が静かに動き出すと

隣り座席の若い母親の

膝に寝かされた一歳ほどの男の子が

仰向いたまま

また、声を発する。

初めは低く

次第に声を高め

或る高さになったところで

そのあと、ずーっと同じ声を発し続けるのだ。

電車が次のホームにすべりこむと

その声は止む

電車が動き出すと

その声は再び声を発し

次第に声を高め

或る高さの声を保ち続ける

母親の膝に仰向いたまま、微笑んで。

――私は気付いた

レールを走る車輪の音を、その子は

声で真似ていたのだ。

発車して、車輪が低いサイレンのうように唸り始める

速度を増すにつれて、やや高まり

走行中、唸りは切れめなく続く

その音を、声でなぞっていたのだ。

レールを走る車輪の音に、こんなにも親しく

どこの大人が

声で寄り添っただろう。

電車に乗れば足もとから

必ず湧き上がってくる車輪の音に

私は、なんと久しく耳を貸さなかったことか。

私は俄かに身の内が熱くなり

目をつむり

あどけないその子の声と

その声に寄り添われた鉄の車輪の荒い息づかいを

そのとき、聞いた

聞こえるままに、素直に聞いた。

 
考えてみよう

良く見るために必要なことは、

自分にとっては何だろう
 


祖師谷訪問介護事務所に関するお知らせ (2021/11/18)

【お知らせ】紙ふうせん祖師谷訪問介護事業所は、前住所が手狭になったために、前住所の近くに移転いたしました。
(移転は訪問介護のみ。居宅介護は引き続き移転前の住所で営業します。)

移転作業中に各業務が滞るなどの影響により、ご迷惑をお掛けした方々に、お詫び申し上げます。大変失礼いたしました。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

新住所:〒157-0071 世田谷区千歳台2-13-8 千歳台マンション202

(千歳接骨院の左側階段登る)

電話番号:03-6411-9132

FAX:03-5787-7421


紙ふうせんだより 9月号 (2021/10/15)


学ぶ心を起動せよ!

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。学び問う秋です。気温の乱高下に体調も振り回されてしまう9月でしたが、このお便りが届くころは10月になってしまいますね。皆さんの体調はいかがですか? 無事に暑さを乗り切られましたか? 涼しくなってきて幸いです。10月なのにお便りが9月号という押し気味感に察して頂ければ幸いですが、倦(う)まず弛(たゆ)まずに続けていきたいと思います。

他の事はさておいても、利用者さんに対しては常に精一杯の気持ちで接したいものです。そこに惰性が生じてしまったら命に対して不誠実になってしまいます。とは言え、毎週同じ会話と同じサービス内容を繰り返していたら飽(あ)くこともあるわけで、そうならないためには「何が必要か」ということを真剣に考えねばなりません。

学ぶということ

「学ぶ」とは何でしょう。「知らないことを知る」ということがまず挙げられます。とは言え、知らないことを探して(確かに世の中は自分の知らないことに満ちていますが)興味のままにネットサーフィンをしても暇つぶしにはなっても充足感は得られず、変らない日常を過ごすということも多々あるわけで、単に「知らない“情報”を知る」ということだけでは学びにはならないようです。

何が足りないのか。充足感のある「学び」が得られた時のことを振返ってみると、その時には物事の成り立ちや構造や原理など、何かに「気が付いた!」「解った!」という発見や感動がありました。思い出してみましょう。学びを得た前と後とでは、何かかが違う。知りたかったことを知っている。解らなかったことが解った。学んだ後に見える景色は、学ぶ前とは少し違っているはずです。つまり「知らないことを知って“自分が少しだけ変わった”」ということが学びの本質にあるようです。

自律的学習に必要なこと
例えば、優れた教師は意欲の薄い子に興味を抱かせることが抜群に上手いのですが、これは、手を変え品を変え学ぶきっかけをどう作るか、という教える側の課題となります。きっかけを得られると、伸びる子は教わった所を超えて自分の興味で学習領域を拡げていく自律的な学習の循環に入っていきます。

この時、どんな内的変化が起きているのでしょうか。さまざまな物事に対して「なんでだろう」「どうしてだろう」「どんな仕組みになっているのだろう」と、疑問が沸き起こっているはずです。ひと度『自ら考える』ことが起動すれば、思考は次々と立ち上がります。「これはこうなっているのではないかな?」「こうしたら良いのではないかな?」と、仮説を立てては検証するというトライ・アンド・エラーの繰り返しとなり、ついに「わかった!こうだ!!」という“発見”に至ります。たとえそれが“皆が知っていること”であっても、この発見には大きな意味があります。発見したのは情報という“答え”ではなく、回答を自分の力で導き出せるという『自信』だからです。そしてこの自信は自己効力感(※1)の源ともなるのです。

※1自己効力感(セルフ・エフィカシー)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること。カナダ人心理学者アルバート・バンデューラが提唱した。自己効力や自己可能感などとも訳される。


自律的学習を阻むもの


自律的学習の好循環は、現実的には多くの壁があります。例えば“コスパ”といような効率重視の風潮です。学習が単に“情報を覚える”というような浅い認識にある場合、自分で考え仮説を立てて思考錯誤して回答を導くという迂遠なやり方は、「教えた方が、教わった方が速い」となってしまうのです。

しかしこれでは「習得」にはなりません。習うことは出来ても「得る」ことができないからです。学びによって本当に得るべきものは情報ではなく、問題に対して自律的学習を起動させて解決していく『自らの力』なのですから、その力が身につかなければ、習った情報を応用することもままならなくなってしまうのです。

学びの要諦は「学ぶ側」にあり

昔の職人は「見て覚えろ」と言われていました。弟子は道具の手入などの下働きを積みながら親方の仕事を手伝います。ほとんど教えては貰えずにモタモタしたら怒られるので、親方の一挙手一投足を観察します。「どうしてその動きなのか」「今何をしようとしているのか」「何でそれをやるのか」「次は何をやるのか」「次に必要な段取りは何か…」先回りして準備をします。手入で道具の扱いは自然と身についています。暇な時は見様見真似して自分でもやってみます。そうしているうちに親方から「お前、これやってみろ」と言われて出来てしまうのです。

これは不思議なことではありません。親方の手元をじっとみているうちに、脳内にあるミラーニューロン(※2)と呼ばれる神経細胞の波長が親方の脳波と同調し、いざ自分がやってみる段になった時、ミラーニューロンは学習した脳波を再現するのです。これは赤ちゃんが言語を習得していく過程に似ています。親の語りかけに何だろうと耳を済ましているうちに自然と音を覚え、認知機能の深いところで論理構造が構成されていくのです。

このように、現代ではあまり好まれない徒弟制度ですが、師匠の教える能力の高低に関わらず技の伝承ができるという優れた面を持っています。よく観察し絶えず自問自答する弟子は、「一を聞いて十を知る」態勢が整うので、案外早く独り立ちしていきます。また、不器用な弟子も長い下積みに飽きさえしなければ必ず出来るようになります。ともあれ、現代では促成栽培のような学習が求められていますが、その悪弊としてのマニュアル思考に陥ってしまえば、教わったこと以外は手出し出来なくなってします。いずれにしても、学びの要諦は教科書や指導者等の「教える側」にあるのではなく「学ぶ側」にあるのですから、「教わってないからできない」という受身では、学ぶ力を自分で弱めてしまうことになるのです。

※2霊長類などの脳内で、自ら行動する時と他の個体の行動を見ている状態の両方で、活動電位を発生させる脳神経細胞。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をすることから名付けられた。単に行為の視覚特性に反応しているのではなく、他者の行為の意味の理解・意図の理解などに関わっていると考えられている。

学びの要諦は介護におけるコミュニケーションと同じ

利用者さんとのコミュニケーションも、基本的には利用者さんから「学ぶ」というスタンスが大切です。利用者さんが語った一言に「どうしてこの話題なのだろう」「何を伝えたいのだろう」という気持ちで耳をすませ続けていけば、深い理解に向けた態勢が整ってきます。そうしているうちに率直なやりとりの瞬間、利用者さんの気持ちが“腹落ち”します。

これが“登竜門”のように機能して、利用者さんとの間に信頼関係が築かれるのです。このようにして私たちは、利用者さんから私たち自身の目指すべき姿を学ぶことが出来るのです。そして、築かれた深い信頼関係は介護職員としての自己効力感となり、やりがいにもなるのです。利用者さんを「師匠」と捉えて、自身の学ぶ心を起動していきましょう。

 

紙面研修

自己効力感を高めるケア

心理学者アルバート・バンデューラ(1925 – 2021.7.26)によると、人は行動を起こす前に2つの予測を立てていると言います。それは「自分はうまく行うことが出来るかどうか」という予測(効力予期)と「結果を出す事ができるかどうか」という予測(結果予期)です。この予測のポジティブ度合いの高さが自己効力感となります。当然ですが、自己効力感が高ければ成功する可能性は高まります。

言い換えれば、自己効力感とは、行動を起こす時や目標に向かっていく時に「やってみよう!」と思える力のことです。この気持ちの背景には「きっとうまくやれる」「自分にはできる」という感情があります。その感情は、「失敗してもリカバリーすれば良い」とか「厳しい判断を迫られた時には人に聞いたり調べたりして適切に選択できるように最善をつくそう」とか「諦めずに続ければ必ずできる」「今、ノリノリだから必ず出来る!」等といった自分に対する認識の仕方によって強まったり弱まったりします。この自分に対する認識の仕方が「自己効力感の先行要因」となります。その要因は主に4つあります。

 

1.達成経験:自分が何かを達成したり、成功したりした経験。最も重要な要素

2.代理経験:身近な人などが何かを達成したり成功したりすることを見聞きすること

3.言語的説得:「君ならできるよ」等の言語による励まし。但し効果の度合いや持続期間は相手への信頼度等に左右される

4.生理的情緒的喚起:身体的・精神的・心理的要因での気分の左右。生理やお酒や体調等も含む。例えば緊張して失敗した経験があれば 緊張感はネガティブ要因になるし、リラックスはポジティブ要因になる等。心身の状態を整えてネガティブに向かないようにすること。

 

 

※その他にも想像的体験(自己や他者の成功経験を想像すること)や承認(周囲から認められているかどうか)や、行動に対する意味付けや必要性の理解、達成する為の戦略や、成功や失敗の責任が誰に帰属するか(失敗の責任を押し付けられるとたいていは躊躇する)、周囲の支援の有無や、認知能力なども関わってくる。

 

近年、臨床や看護の現場でも自己効力感の高さによって、患者の回復の度合いが異なる事例が多く報告されており、自己効力感の概念は重要視されています。具体的には、セルフケア不足の患者は自己効力感が低い状態が見られることがあり、自己効力感を意識したアプローチが大切だと言われています。

例えば、リハビリで日常生活動作(ADL)が拡大している患者でも、介護してもらうことが当然であると思いこみ、自分では行なわなくなってしまっているケースがあります。このような時は、全面的な介護の段階から一部介護の段階へと「励まし」を行いながら移行し、自己効力感を高めていく必要があります。そして、最終的には自分一人でも出来るような仕組みを構築し、やり方を教えていくのです。(全代償的看護システム→一部代償的看護システム→支持・教育的看護システム)当然ですが、リハビリ効果を高める為には、自己効力感の形成はとても大切なのです。

自立支援的介護も全く同じことが言えます。利用者さんが小さな成功体験を多く積んでいくことは、利用者さんと介護職員の信頼関係ともなります。そうなれば、介護する側も「自分なら利用者と信頼関係が築ける」「自分はよりよいケアが提供できる」という、介護する側の自己効力感となります。なお、自己効力感は「自己肯定感」と似ていますが、自己肯定感はありのままの自分を認める感覚であり、自己評価の高低とは関わりなくあるものです。


紙ふうせんだより 8月号 (2021/10/12)


自助を支える共助・公助


ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。脱水や熱中症など、利用者さんや自分自身の体調不良にはくれぐれもお気をつけ下さい。やまゆり園事件(※1)より5年が経ちました。

やまゆり園事件に見る組織の問題

相模原19人殺害の植松聖が勤めた「やまゆり園」の実態”(文春オンライン 渡辺一史)

智子さんは事件後にやまゆり園を退所して横浜市内の施設に移ったが、智子さんの両親が、やまゆり園時代の支援記録を請求したところ、《突発的な行動もあり、“見守りが難しい”》という理由から、車いすに長期間拘束されていたことが明らかになったのである。

ところが、智子さんが今の施設で拘束を解かれた生活をするうちに、長年の拘束で凝り固まった足腰のリハビリによって歩けるようになったほか、散歩やカフェでの食事、地域の資源回収の仕事までできるようになったという。支援の仕方しだいで、障害の程度は大きく変わりうることが証明される形になったのだ。
「やまゆり園事件」の重い教訓、障害者虐待ゼロに向けた神奈川県の決意表明(DIOMONDオンライン 福原麻希)

検証からは「現場の職員や組織の都合を優先する管理的な支援体制と考え方」が見えたため、検討部会から「人権や権利擁護の理解や意識の不足」「専門的支援の知識や技術の未熟さ」「職員間・関係者間のコミュニケーションと情報共有の不足(職場の風通しの悪さ)」などを厳しく指摘された。

今回の検討部会で「重度知的障害者をどのように支援するか」についてプレゼンをした、社会福祉法人北摂杉の子会の松上利男理事長は「エビデンスに基づいた支援をしていけば、身体拘束はゼロにできます。仕方ないと言うのは“支援放棄”です」と話す。
 

どのようにして植松死刑囚は歪んだ“正義”を持つに至ったのでしょう。かねてより指摘されているのはインターネットに蔓延する差別や憎悪表現による感化ですが、やまゆり園の運営法人の組織的な問題も浮かび上がってきました。利用者への長時間に渡る身体拘束(虐待)などが常態化していた事実です。

植松は当該法人に入職当時、積極的なやる気のある職員で、利用者を「かわいい」と周囲にも話していたといいます。しかし、そこで見たのは素人感覚では理解を超える実態です。「職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」と裁判でも事実認定されています。植松は悪しき組織文化にも感化され誤った学習をしてしまったのです。

「おかしいこと」に気が付くために必要なこと
ある職員は「『この支援はおかしい』(※2)と気付いても、上司や同僚に言い出せない雰囲気があった」と証言しています。

不適切支援を過度に正当化する論理が組織にあると虐待は構造化します。個人が組織の「おかしい」ことに気が付くためには、比較対象としての健全なめざすべき方向性をあらかじめ知っている必要があります。それは、様々な社会経験や人間関係から得られる多様な人間観や、学校教育や研修や先輩を通じての人権意識や、良い組織や良い支援での成功体験などを「自分のもの」として内面化することによって明確に自覚されます。

植松には教養不足やうわべ(※3)だけの人間関係もあったのでしょう。「めざすべき方向性」への自覚的な理解が形成されなかったがゆえに、植松は悪い組織風土を内面化させてしまったのではないでしょうか。

※1 異常な精神状態による犯行ではなく被告には「責任能力」があるとして2020年3月16日に一審で死刑判決。被告が控訴を取り下げたため死刑が確定した。

※2神奈川県による聞き取り調査。

※3「やんちゃでお調子者」との精神科医の評価。

 

正当化」と「合理化」の隘路(あいろ) 周囲と対立的な自己
社会保障制度の歴史と意義(日本医師会資料)田中滋

社会保障制度の真の受益者は、社会不安によって被りうる損失を予防される階層に他ならない。工員たちが革命側に行かないことによって得をする受益者は、政府と富裕層である。繰り返すと、社会保障機能の直接の対象者は、けが人や病人、日本の介護保険で言えば要介護の方々と理解してよいが、機能の本質的受益者は、政府・統治者・富裕層なのである。会社保有者が経営に専念できるとか、政府が外交や国家運営に専念できることと言い換えられる。
 

植松は誤った方向性を「正当化」していきます。そこには利用者に対する共感性よりも同僚職員に対する同調性もあったでしょう。「職員中心ではなく利用者中心」という理念が体現されていない環境では筋違いの愛着(※4)は修正がなされず、支援職や家族は障害者と対立関係にあると捉えて障害者理解を拒絶してしまった。それを「合理化」していった先に“重複障害者は家族や職員を不幸にするから不要”という考えが生じます。

そして“重度知的障害者を殺すことは正義”という独自の“正義”を発見します。それが植松に“真理の発見者”という自己陶酔をもたらしたことは想像に難くありません。植松の過剰な承認欲求や自己正当化・合理化は自己形成の未熟さや、病的な思い込みもあります。

しかし提起された問題を個人的側面にのみ帰着して処理してしまっては、事件の再発を防ぐことはできません。

第一に、「合理化」とは「後からもっともらしく理屈をつけて自分の行動を正当化すること(※5)」で「諸個人が自己正当化という意図をもってみずからの行為の真の動機を意識的あるいはなかば無意識的に隠蔽して、社会的な承認を獲得しようとすること(※6)」であるため、程度の差こそあれ個人でも組織でもやってしまいがちなのです。行き過ぎは自分以外を責め始めるので、関係性は対立的になり孤立します。

第二に、多様な個人を包摂することを前提とする社会は、個人(自助)の問題も周囲の人間関係(共助)や社会や組織の仕組み(公助)として支えることができなければ機能不全となるからです。

公助とは誰の為? 自他を包摂する考え

身体が弱くなれば介護を提供し、お金が無くなれば生活費を提供する。病気になったら誰でも病院にかかれるようにする。公助とは具体的にはこれらの社会保障制度です。弱者差別を正当化する人は「公助は弱者の為にあり、それに社会資源を差し出すことによって普通の人や強者が割を食っており、経済成長の妨げにもなっている」という定型的な言い分を持っています。しかしこれは事実として間違っています。

近代の社会保障は、富国強兵・殖産興業を驀進するドイツ帝国が発祥です。宰相ビスマルクは社会保障制度(※7)を疾病保険・労災保険・年金保険と世界で初めて整備していきます。なぜか。良質な労働者を確保できなければ重工業の発展が望めないからです。熟練工が病気になって困るのは資本家です。生活不安が高じて労働者が仕事をサボって生産が滞ったり、暴動や革命に走ったら困るのは政府や資本家なのです。

私は、社会保障は「資本家や政府のためにある」と主張したいのではありません。「他人の利益は自分の損」というような対立的思考や、自分の利益にならないものには「無関心」を決め込むような、自他や社会との有機的な繋がりを自覚しない断絶的な観念を問題と考えるのです。このような狭隘な自己認識は植松にもあったでしょう。そうであるならば、この社会の根本的な成り立ちを再確認しておきたいのです。『自助・共助・公助(※8)』は自分の為でも誰かの為でも社会の為でもある。そして、自助を支えるために共助・公助があるのです。

※4仏教では苦しみを生み出す根本的原因(三毒)として貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を説く。「愛着」は慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる事で、「貪」である。「瞋」は対象への拒絶、「痴」は無関心。

※5日本語大辞典

※6ブリタニカ国際大百科事典

※7  1838年・1884年・1888年

※8「互助」を加えることもある。明確な定義はない。

 

 

コロナ感染拡大防止をお願いします。変異株(デルタ株)が蔓延しています。臭いや味がおかしい、風邪症状等がある場合は申告してください。原則は出勤停止です。

 

新聞記事より

三次の介護業者を提訴「ヘルパーから感染」、82歳死亡(中國新聞 2020/10/2)

新型コロナウイルス感染症のため82歳で亡くなった三次市の女性の遺族の男性=広島市=が、三次市の訪問介護事業所の運営会社に計4400万円の損害賠償を求めて広島地裁に提訴したことが1日、分かった。担当ヘルパーが訪問を控えていれば母親の感染は防げたとし、運営会社の安全配慮義務(※A)違反や使用者責任(※B)を問うている。

訴状などによると、三次市で1人暮らしをしていた女性は4月3日に発症し、PCR検査で9日に陽性と分かった。広島市内の病院に入院し、19日に新型コロナによる肺炎のため死亡した。10日に陽性が判明した50代のヘルパーの訪問サービスを3月23、27、30日と4月2、6日に受けていた。

このヘルパーは3月31日に発熱と味覚・嗅覚異常があったが、翌日にいったん症状が改善した。原告側は、ほかに母親を感染させたと考えられる人がおらず、ヘルパーの親族にも新型コロナが疑われる症状が出た4月1日までには、自身の感染可能性を十分に認識できたとする。ヘルパーが訪問サービスを回避すべき注意義務を怠り、運営会社に損害を賠償する責任があると主張。運営会社は安全配慮義務を怠ったとも指摘する。

新型コロナ関連を担当する広島弁護士会災害対策委員会の砂本啓介委員長は「現時点では、全国でも新型コロナに関連して病院や介護施設などの責任を問う訴訟はあまりないのではないか」とみる。遺族の男性は中国新聞の取材に対し「ヘルパーを交代させていれば母の命は奪われなかった。運営会社は責任を認めて謝罪してほしい」と話している。(略)

 

「ヘルパーから感染」と提訴の遺族、訪問介護事業所側と和解 コロナ82歳死亡「お悔やみ表してくれた」(中國新聞 2020/10/12)

(略)男性と運営会社が12日、和解した。男性側は法廷での審理開始前に、訴訟を取り下げた。和解書などによると、運営会社は女性の死亡について遺憾の意を表し、哀悼をささげるとし、運営会社に法的な賠償義務のないことを双方で確認した。

訴訟取り下げの理由として男性側は、介護現場の安全管理体制についての問題提起は報道である程度達成された▽訴訟継続で介護現場が萎縮するのは本意ではない―などを挙げた。提訴時にはネット上で「損害賠償が認められると介護現場が持たない」などの声が上がっていた。

男性はこの日、取材に対し「金銭の請求が目的ではなかった。運営会社にお悔やみと遺憾の意を表してもらい、和解という結果に満足している」と話した。運営会社は「早く解決に至り、ほっとしている。これまで以上に気を引き締めて感染対策に取り組んでいきたい」と話した。(略)

(※A)【安全配慮義務】従業員が安心して働けるために必要な企業側の義務。

(※B)【使用者責任】従業員が業務上の過程における不法行為により加害者としてより誰かに損害を与えた場合、その人に対して会社(従業員の事業監督者)も賠償しなければならない。
【東京都】介護従事者に対するワクチン(ファイザー社製)の

大規模優先接種開始

予約:インターネットのみ 会場:西国分寺、立川、丸の内、御茶ノ水

https://tokyovaccine.pa-cv19-reserv.jp/ed590140

厚生労働省によると、ワクチンの変異株に対しての発症予防効果は

若干低くなるものの重症化は予防できるようです。

「英国公衆衛生庁(PHE)が公表した、ファイザー社のワクチンを実際に接種した後の状況に基づく研究結果によると、発症予防効果に係るワクチン有効率は、B.1.1.7(アルファ株)で約94%、B.1.617.2(デルタ株)で約88%、また、デルタ株による入院を予防する効果は約96%と報告されています。(厚労省)」

※なお、ワクチンを接種しても感染はするようなので(デルタ株に対する感染予防効果はモデルナ76%、

ファイザー42%とのデータも:米国ミネソタ州)、引き続き感染拡大防止行動を取って下さい。
(厚生労働省HPより)
 

「生活保護」について正しく理解していますか?

不正受給“官製バッシング”(片山さつき厚労大臣2012年当時)以降、生活保護への誤解が広まっています
①    生活保護の利用率は低下している

2011年度は生活保護利用者数がそれ以前の過去最高となったが、2位の1951年度の204万6000 人当時(利用率2.4%)と比較すると人口も1.5倍に増えているので、利用率は3分の2に減少している。
②    日本の生活保護捕捉率は、先進諸外国とくらべると極めて低い

生活保護レベル以下の所得の方が、実際に生活保護を受給している割合が捕捉率。日本の生活保護捕捉率は先進諸外国よりも極めて低い(日本15.3~18% ドイツ64.6% フランス91.6% イギリス47~90% スウェーデン82%)。

全国で起きている「餓死」「孤立死」発生の背景には、生活保護の捕捉率の低さも影響している。不正受給バッシングの陰で、必要な人が受給できてい事の方がより大きな問題。生活保護の捕捉率は高めていく必要がある。

 
③    不正受給の割合は保護費全体の0.4%程度(大きな変化はない)

不正受給は件数で2%程度、金額で0.4%程度で推移しており大きな変化はない。悪質な不正受給(※昔から反社会勢力が「しのぎ」にするなどが言われている)に対しては厳しく対応すべきだが、「不正受給」の事例の中には「高校生の子どものアルバイト料を申告する必要がないと思っていた」等、不正とは言い難いケースもある。
④    「働けるのに働かないで生活保護を受けている人が増えている」は誤り

高齢者・母子・障害者・傷病者世帯以外の「その他の世帯」の増加を指摘しての誤り。「その他の世帯」=「働けるのに働かない人」ではない。「その他の世帯」の3分の1は「働いているが最低生活費以下の給料しか出ない」ために保護を利用している。

雇用情勢悪化で中高年齢者、中軽度の障害や傷病を持つ人、低学歴・無資格の人、人間関係が苦手な人などの「就職弱者」が順に仕事を失い生活保護を利用せざるを得なくなっている。

 
⑤    「財政破綻を防ぐには生活保護を減らせばいい」はミスリード

日本の生活保護費(社会扶助費)のGDP における割合は0.5%でOECD 加盟国平均の7分の1。

生活保護費が財政を圧迫しているとはいえない。生活保護費は国民の命を守るために必要な支出。
⑥    「外国人の生活保護受給は違法」は誤り

日本国は基本的人権の問題として、適法に日本に滞在し永住・定住等の在留資格を有する外国人については、日本人と同等の保護基準で国際道義上人道上の観点から予算措置として生活保護法を準用している。

外国籍(1永住者、日本人の配偶者等、永住者の配偶者及び定住者 2特別永住者〈1945年以前に日本国籍だった方等〉 3認定難民)の生活保護受給世帯は受給世帯のうちの2.87%(2016年、ここ数年は同程度で推移)、で日本人国籍者と同じく、高齢・障害・病気・雇用情勢悪化等で働けないなどの受給の条件を満たしている方である。
 

◆参考資料:⑥以外は「今、ニッポンの生活保護制度はどうなってるの?(日本弁護士連合会)」

 

差別発言を繰り返すネット系著名人の暴言には、一定のパターンがある。「俺様凄い」の裏返しの弱者叩きと「俺様の金が弱者に使われるのは許せない」というものだ。なぜ暴言が繰り返されるのか。一面には差別発言を受け入れる素地が社会の中にあり、不満のはけ口(弱者叩き)として差別を喜ぶ人が少なからず一定数存在することだ。

マスメディアでは扱わない情報が選択的にユーチューブなどで流通しているが、動画再生回数(=利益)を稼ぎたくて一部のユーチューバーが(迷惑系ユーチューバーなどと同様に)“過激化する”という構図がある。件の「メンタリスト」の炎上動画は怖いもの見たさ的な消費もあり20万回以上再生(現在は削除)されているが、“ファン”からの賛同も多数見られる。「炎上商法」をする人は、炎上をもコンテンツ化して“問題提起だ、タブー無く議論を”と正当化して言うが、その「差別扇動」に感化されて、暴力衝動を正当化して行動化する人がいるので許されない。

実際に、2020年には1月に上野公園、3月に岐阜県、11月に渋谷でホームレスの方が襲撃を受けて命を落としている。「生存権は社会的効用とは無関係に存在するのであり、たとえ「問題提起」だったとしても否定されてはならない。これが人権というものについて、妥協できない大前提なのだ。(NewsWeek日本版2021.8.15)」 言論の自由(基本的人権)は大切だ。しかし言論の自由を隠れ蓑にした生存権(基本的人権)の否定は根本的矛盾であり許されない。

 

生活保護を申請したい方へ 

生活保護の申請は国民の権利です。

生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください(厚生労働省より)

 


紙ふうせんだより 7月号 (2021/09/17)

共助に応えることが自助となる
ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。店頭でお盆のお飾りを見かけますね。
昔よりも先祖や地縁血縁が意識されなくなった現代でもお盆が続けられているのは、祖霊を迎える行事が死者のためより生者にとってより本質的な意味を持つからなのでしょう。
お盆は、生者の生きる社会的な枠組み(共同体)の成り立ちとその中での立ち位置の確認となり、
死者にさえ“先祖となって子孫繁栄を見守る”という役割が付与されるため死は虚無ではありえず、生を超越した視点から自身を振り返ることになります。
つまり、お盆によって確認される先祖や地縁血縁という「物語」は個人にもアイデンティティ(※1)を付与してきたのです。

アイデンティティは個人と社会の関係性の問題でもある
人間は社会的な動物とよく言われます。老年期の「自己統合」という課題も実は、個人の心理的過程だけではなく社会的な側面からも捉えないと片手落ちなのです。
「百科事典マイペディア」には「現代におけるアイデンティティの喪失の問題は個人と社会の不適合の現象として,社会学の研究課題となっている。また最近では,
人類学や政治学において,アイデンティティの,個人を他者との連鎖の中に位置づけ,個人を超えた想像の全体へと結びつける側面が注目され,
近代世界における〈想像の共同体〉としてのネーション(※2)やエスニシティ(※3)を,個に強固な集団的アイデンティティを付与する物語としてとらえる視点が有力となっている。」とあります。では、現代の個人のアイデンティティの確立に資する「物語」とは一体何でしょうか。人間とはどんな生き物なのか、人類史的な視点から考えてみましょう。

介護(助け合い)は人間の本質に関わる
他の生物種に比べて非力だった人類は、樹上生活から押し出され草原で生活するようになりました。
非力で慣れぬ環境ゆえに人類は群れで協働しコミュニケーション能力と道具の工夫を覚えます。
そうして生息域を拡げた人類は多数の種に分化していきますが、我々ホモ・サピエンスはその中でも一段と非力だったのです。
筋骨隆々として頑丈なネアンデルタール人はその腕力ゆえに繊細な道具を作り出さず、やがて非力なゆえに辺境の厳しい環境に適応したホモ・サピエンスに取って代わられます。
我々の先祖が厳しい環境を生き延びるために取った行動は、群れの中の“弱者”を助けるというものでした。
発掘される化石人骨には、生まれながら歩けない障害を持った人が(おそらくは介護を受け)成人になったものや、
深い傷を負いながら治療されてその後も(おそらくは介護を受け)長く生き延びた人などの例がたくさんあるのです。
もし人間が、弱い個体は死ぬに任せて放置する性質を持っていたなら、種族の命脈を繋ぐことはできなかったでしょう。他者と自己との生存を同一視する共感性こそが、
群れと自己の生存を守ったのです。群れの協働によって生存が守られる弱い個体は、結束の象徴として群れ全体に生きる希望を与えたことでしょう。
現代にいにしえを伝える古い民族には、弱い個体が選ばれて部族のシャーマンになるという例も知られています。

※1変化する環境の中で自己がさまざまな役割を演じるとき,そうしたさまざまな〈私〉を統合する変わらない自己。
※2・3 「国家や民族」と訳せる。民族や国家はそれ自体としては普遍的な妥当性を持つ実在性はないと考えられる。

 

 

共同体を維持するための知恵
文化人類学の知見では、「神話」が共同体を維持するために機能するとしており、現代の会社には創業神話・英雄伝説・ブランド神話などが見いだされることから、
民族神話と会社神話は同じ構造だと指摘しています。現代の「協働」の単位(共同体)は、会社や仕事の仲間です。
人類史的な視点で企業(共同体)の生存確率について考えるならば、社内競争を激化させて「弱い社員は去れ」というような「会社」は、滅びの道です。
まず共同体の成員の心理的安全性(※4)が守られません。そうであれば、成員の意識は他の成員よりも優位になることに集中され、
相対的な“弱者”や弱い部門が増えることを無意識的に望むようになり、それらをフォローせずに放置することになります。結果的に離職は連鎖するし、
弱い部門の崩壊が企業の命取りとなるのです。協働が機能し共同体として存続するための根本原則は「弱い成員を全体でフォローする」ことです。
「お年寄りを大切に」という教えも共同体を維持する一つの知恵なのです。では「協働」とアイデンティティについて考えてみましょう。

「やれること」に応じることは共同体の中に自己を位置付ける
働くということは「やりたいこと」と結びつけて語られることも多く、アイデンティティと深く関わります。「やりたいこと」とは、
たいていは「映画が好きだから映画を作りたい」というように、自らの欲求を出発点とします。共同体における「協働」とは複数の主体が共に力を合わせて活動することですが、
労働のイメージに「やりたいこと」(もしくは「やりたくないこと」)ばかりが主題化してしまうと、他の主体が目に入らなくなってしまいます。
それは、「他者との連鎖」の中に見いだされるアイデンティティを見失ってしまうことでもあります。
一方で「やれること」とは、自分では興味のわかない対象であっても、誰かからの「○○をやってくれる人はいませんか?」との呼びかけがあり、
「私がやります」と応じるものです。共同体の要請が無ければ「やれること」は主題化しないのです。「やれること」に応答することは、
共同体の「物語」の中に個人を位置づけることであり、物語性を獲得した個人のアイデンティティは手ごたえのある確かなものとなるのです。

「態度価値」は自分の人生物語の中に自己を位置付ける
「自分とは何か」「自分の人生に意味は有るのか」という「人生の問い」に対しては、その人が自らの態度によって生き方を示す「応答責任」があります。
私の「人生の問い」の回答者は、テレビのコメンテーターやどこそこの偉いセンセイではないのです。V・E・フランクルは人生に意味を見出せる価値として、
創造価値・体験価値・態度価値という“物語”を提示していますが、「やりたいこと」と「やれること」の対比では、創造価値や体験価値は主に「やりたいこと」に属し、
態度価値」は、どんな困難な状況でも示すことができると言われているように主に「やれること」に属します。「態度価値」の重要性は、
自己確立や自己統合など人生の全般に言えます。例えば、「人が見ていなくてもゴミを拾う」というものは、自分の人生物語の中に自己を位置付ける「態度価値」でもあるのです。
そうやって「やれること」を全部やって想像の人生物語を実現した野球選手が大谷翔平さんです。
私たちは他者と連鎖する「自分の物語」を生きています。それを確かなものとする「誰かの心への支援は、自分の心を豊かにする」という“介護物語”も確かにあると思うのです。

※4「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうか。
自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられるため、心理的安全性が高いほど協働の効果は高い。
Googleが社内研究によって明らかにして注目される。

 

紙面研修

「9マス思考」マンダラチャートの紹介

詳細は以下の記事参照

https://forbesjapan.com/articles/detail/42534

 

 

 


紙ふうせんだより 6月号 (2021/07/30)


死の自覚に変化する「人生の意味」




ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。暑さが増してきました。利用者さんへの水分補給の声掛けや自分自身の水分補給をお願いいたします。



作家でジャーナリストの立花隆(※1)さんの訃報が入ってきました。立花隆さんは『脳死』や『臨死体験』など人間の死に関する著作があります。『臨死体験』は、1991年にNHKスペシャルで「立花隆リポート 臨死体験〜人は死ぬ時 何を見るのか〜」として放映された内容の書籍化ですが、TVでは伝えきれなかった膨大な取材内容が収められ、関連書籍は計4冊にのぼります。驚愕するような証言の数々にもあくまで懐疑的に取材を積み重ね、冷静な筆致で描いていたことが印象的でした。

※1 1974年『田中角栄研究~その金脈と人脈』を発表し、田中角栄首相失脚のきっかけを作り、ジャーナリストとして不動の地位を築く。他には『日本共産党の研究』や『宇宙からの帰還』『青春漂流』など。「知の巨人」のニックネームがある。スタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』では雫の父親役を演じる。2021年4月30日没。享年80歳






「臨死体験」とは何か



臨死体験(近似死体験とも言う)の事例収集は+レイモンド・ムーディやエリザベス・キューブラー=ロスの先行研究があります。それらや立花の結論は、医師から死亡宣告が下されるような生存の危機的状況下で、体験者(患者)が「死後の世界」と感じられるような世界に入って行き戻ってくるという証言が数多くあり、それらは主観的「事実」であり臨死体験は頻繁に起こり得る、というというものです。最近の研究(英国、オーストリア、米国での調査、2014年発表)によると、2060名の心停止患者のうち330名が心停止から生き帰りその中の140名(約40%)が心停止中に意識があったと報告されています。



臨死体験は、医師の死亡宣告や周囲で悲しむ人を体外離脱した自分が見下ろしている状況から始まり、ブーンというような音が聞こえて暗いトンネルをくぐりぬけ、花畑や川や橋などあの世との境界のような所にたどり着きます。そこでは精神的な存在と出会います。「光の生命に包まれる感じ」と報告する人もいます。(人によっては故人や阿弥陀如来やキリストのイメージを見ます。子供の場合は生きている人が出てくることもあります。また良い匂いがすることも。)



そこはとても心地良くこのまま留まりたいと感じるものの、「まだそちらへ行く時ではない」と考え直したり「戻りなさい」と諭されたりします。生涯の回想(走馬燈体験)をする場合もあり、気が付くと自分の肉体に戻っていた、という一連の体験です。それらの要素を全て体験する人もいれば部分的な体験の人もいます。また、無宗教の人も体験しており、知覚される情景のイメージは文化的背景によっても異なりますが、多くの人が「痛みもなく表現しようのない安らぎ」だったと述べていることは共通しています。



立花隆はキューブラー=ロスにもインタビューを行っています。ロスは臨死体験の症例のあまりの多さと自分自身の実体験から、臨死体験を「現実体験説」とする立場を表明しています。対して立花は命の危機に際して脳内に異常が生じ、それが臨死体験を引き起こす「脳内現象説」に寄った立場を取っていますが、体外離脱体験をして見た光景(普通には絶対に見ることの出来ない内容)が「本当にその通りだった」という体験例もあり、現実に何かが知覚されたと見なさないと説明できないケースも多くあります。



より良く生きることへの意欲



「ただ、実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。」立花隆は『臨死体験』結びでこのように述べています。



「臨死体験の取材にとりかかったはじめのこころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。しかし、体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。(中略)



もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、『臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった』ということである。(中略)みんなよりよく生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、『いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きている間は、生きている間にしかできないことを、思いきりしておきたい』と考えるようになるからであるという。」



自らが生きることによって示す「人生の意味」



世界中に「死を忘れるな」という格言があるのは、「臨死体験における人生観の変化」と同様に、「死の自覚によって生の意味が裏打ちされる」ことを示しているのでしょう。



死がそう遠くない先に待っていることを自覚した人は「残りの人生から何を得られるか」「残りの人生に何を期待できるか」と自問します。やり残した仕事を完成させたい。自分が生きた証として何かを残したい。旅行に行って美味しいものを食べたい。そう思ってあれこれ考えを巡らせるかもしれません。しかしそうしているうちに体は衰え歩くこともままならず思考も働きにくくなったとしたら、「残りの人生に何も期待できない」となってしまうのでしょうか。



確かに何かを作りあげる「創造価値」や素晴らしい体験をする「体験価値」の機会は、失われていくものです。しかし体の自由が全くきかないような状況になったとしても、息を引き取る瞬間まで「態度価値」は示すことができると言います。「態度価値」とは、運命から挑戦を受けた自分自身が、運命に対してどんな態度をとることもできるという“意思の自由”によって示される自分自身の尊厳なのです。「より良く生きる」とは、人生に何かを求める態度ではなく、生きることによって自らの「人生の意味」を示すことではないでしょうか。「態度価値」を提唱するV・E・フランクル(※2)は、人生の意味はその究極において「つくりだされるものではなく、発見されるもの」と述べています。自分の外側に答えを求めてばかりいては、自分の心の内側に生じる「意味」を見落としてしまうのです。

※2アウシュビッツ強制収容所を生き延びた精神科医。フロイト、ユング、アドラーに次ぐ「第4の巨頭」(1905-1997)。実存主義をもとにした実存分析を創始し「ロゴセラピー」を展開。深層心理学に対比させて「高層心理学」とも呼ばれる。フランクルは立ち位置を「巨人の肩の上に立っている小人は巨人自身よりも遠くを見ることができる」と述べた。





それはなんだろう



幼くして筋ジストロフィーと診断され10歳で行動不能となった石川正一さんが、自分の余命を父に聞いた14歳の時に記した詩を紹介します。石川さんは23歳で亡くなりました。



「たとえ短い命でも/生きる意味があるとすれば/それはなんだろう/働けぬ体で/一生を過ごす人生にも/生きる価値があるとすれば/それはなんだろう/もしも人間の生きる価値が/社会に役立つことで決まるなら/ぼくたちには/生きる価値も権利もない/しかし どんな人間にも差別なく/生きる資格があるのなら/それは何によるのだろうか」









紙面研修
「人生の意味」を見出すロゴセラピー



【ロゴセラピーの基本的な考え方】



  1. 人間は様々な状況・条件下であっても、自分の態度決定の自由(意思の自由)を持っている。
  2. 人間は生きる意味を強く求めている(意味への意思)。「生きる意味が無い」ような嘆きは意味を見失っている状態と考えられる。
  3. それぞれの人生にはその人独自の意味があり(人生の意味)、それを見つける事が大切。






私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。『それでも人生にイエスと言う(V・E・フランクル)』

 



フランクルの心理学は「人生にはどんな時も意味がある」と考えるため、「人生に意味は有るか?無いか?」との問いは“ズレた問いの立て方”なのです。自問自答は大切ですが、人生の諸問題には自らの生き方によって「回答を示す」(人生の問いに対する「応答責任」)ことがより重要なのです。



人生を意味あるものとする3つの価値



人間の本当の関心事は、自らの人生の「意味」であり、快楽を探すことや苦痛の軽減は表面的なものと考えられます。人生に意味があると決めている人は、人生の困難を乗り越えていこうとし、その苦しみにも意味を発見することができます。「創造価値」や「態度価値」の実現に行き詰まったとしても「態度価値」はどんな状況でも実現可能であるため、「意味が無い」との嘆きは前者のみに固定された価値観を持っていると考えられます。ユーモアによって自分の頭を柔らかくしましょう。




創造価値」…人が何かを創造することによって、世界に何かを与える価値
体験価値」…人が人との出会いや経験を通じて、世界から何かを受け取る価値

態度価値」…人が現実に対して「とる態度」によって実現される価値





※態度価値は、それが形に残らなくても記憶する人がいなくても成立します。世界や人間存在の意味は、自分自身で意味付けをするものだからです。行為や態度の伴わない意味はあり得ず、人間や自己の「尊厳」も態度で示すからこそ実現されると言えるのです。(考えてもわからないなら、考えをいったん脇において「できることをやってみる」「決めつけないで、待ってみる」というのもアリです。)



ロゴスセラピーの具体的手法 「逆説志向」と「反省除去」



ロゴセラピーは嘆く人に対して「あなたは生きていてもしょうがないとおっしゃいますが、どうしてそう思うのですか?」などの平易な言葉による対話で、人生や出来事への「評価の仕方」が柔軟になるように働きかけます。その自身が自分で意味の再発見ができるように手助けをするのです。



【逆説志向】 予期不安の悪循環を終わらせます。(介護に即して)「転んだら終わり」と自分に言い聞かせる→出かけたら「転ぶのではないか?」との予期不安が増大する→ますます出かけられなくなる→予期不安の悪循環



★逆説的に考えて、不安の対象の「お出かけ」をあえて実施する→転ばないことを学び、予期不安を解消する。



(point)本人の意思でチャレンジができるように、ユーモアで気持ちを盛り上げて積極的に不安を受け入れる。ユーモアで不安に囚われている自分を笑い飛ばす。



★(自分で自分に行う場合)人前でのスピーチに緊張してしまう人が、「人生で一番緊張して世界一恥ずかしい自分を晒してやれ」「赤面して滝のような汗をかいてガタガタふるえてやれ」と自分に言い聞かせると案外普通にやれたりします。例えば不眠症でも「今晩は朝までアレコレ考え抜いてやろう」と腹を据えると、「眠れなかったらどうしよう」という不安から離れられます。このように自己の囚われから離れることを自己距離化と言います。



【反省除去】 過剰な反省に気が付き、反省を意図的にやめてみます。何か失敗した時に「やっぱりダメだった」と呟いてみたり、人と比べて「私はダメなんだ」と思ってしまうのは過剰な反省です。これは、物事に対する過剰な期待や「自分」にこだわり過ぎること(自信を失ったからこそ、自分で自分を何とかしたいと空回り)等の「自己執着」から起こります。



★このような時は、反省過剰な「意識」よりも自分の「無意識」を信頼するように勧めています(自己離脱)。反省ではなく自分のやるべきと思うこと(3つの価値)に意識を向け没頭することによって、そこから生じてくる新た気付きが自己の囚われのブレイクスルー(自己超越)となる場合があります。(無意識が活性化して思いがけぬところから「意味」が発見できるかもしれません。)


紙ふうせんだより 5月号 (2021/07/09)


欲に働きかける支援




ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。今年は例年より梅雨入りが早いようです。転倒や事故等には気を付けて下さい。雨天時の見通しの悪さ、歩道の段差やマンホールなど滑りやすいところでの自転車のハンドル操作や斜め侵入、ブレーキの制動力の低下など、注意箇所はたくさんあります。また、階段等でのスリップにもご注意下さい。




私の高齢者介護の源体験




時には自己開示(※)も必要と考えますので、私が最初に勤めた高齢者介護について書きます。
学校を卒業してTVドラマの制作進行をしばらくしたあと燃え尽きてしまった私は、知り合いからの偶然の電話で欠員の出た知的障害者の作業所でアルバイトをすることになりました。人生観の地殻動の始まりでしたが、




今回お伝えしたいのはその次の職場の話です。
介護保険制度が始まる前年、制度開始までの期間限定雇用で調布市総合福祉センターのリハビリデイサービスに無資格でしたが入り込みました。介護に対して特段の思い入れはないけれど、「どうせだから福祉関係の仕事をもうちょっとやってみよう」という軽いノリです。そんな私に上長だった理学療法士の田村さんは介護の本質を教えてくれました。




「佐々木くん、ここに来ている利用者さんたちが家でどのように生活しているか考えてみて。
ここで見せている姿は“外面(そとづら)”なんだよ。ここでいくら頑張っているように見えても、どれだけの人が家でもちゃんとやっているだろう。ここでは、着替えの手伝いも食事の準備も本人のADLをよく見て必要最小限にしているけど、皆家では家族にやってもらって上げ膳据え膳の生活になっているんじゃないかな。それをやってしまったら結局自分ではできなくなってしまうんだよ。ここでリハビリをいくら頑張ってみても一週間の内の僅かな時間でしかない。ここでやってることを家でもやらなければ、ここでのリハビリは意味が無いんだ。プライドがあるからここでは皆“外面”はしゃんとしているけど、家では意欲が無くボーっとしている人も多いんじゃないかな。」




そう言われて初めて私は、表現されている態度とは裏腹の“自分では自覚したくない、他人には知られたくない”気持ちについて、それが人にはあることについて考えてみたのです。ここでは偉そうにしている方が家では奥さんに怒られている。ここでは家柄の良さを自慢する方が家では相手にされていない。とても優しい瞳で立派な髭を蓄え後光がさすような穏やかさで笑うあの人の独り住まいの孤愁、笑顔の輪郭にうっすらと漂う悲しみの影について、心を働かせたのです。




「あの人はもう家でも動かないからほとんど歩けないんだ。でもそれを自分では認めたくない。本当はリハビリ効果が上らないなら支援を終了して他の方を入れなければならないんだけど、意欲が低くてもあの人がここに来ているのは他に居場所が無いからなんだよ。誰かあの人の家で関わってくれる人がいたらなぁ…。」田村さんは、叱咤激励をしてもずるずると低下してく方を見て、自分が携われる領域の限界に悔しそうに呟いていました。




(介護保険制度は、それまでの老人福祉が公費で支える「措置」のため「利用者本意」の考えが未熟だったことを背景に、財政的な限界もあり「利用者本位、予防とリハビリの重視、在宅ケアの推進、高齢者の介護責任を家族から社会へ、公助から互助(保険制度)へ」などを主題として平成12年(2000年)の4月から開始されました。)




( ※私的な情報を言語で相手にありのままに伝えること。趣味の話をすれば相手も趣味の話をしてくれるような、自己開示をされた側も同じように自己開示をしたくなる「返報性」があります。こちらの“本音の深い気持ち”を伝えることによって、「そこまで話をしてくれたのなら自分も“本音”で話そう」となり、関係性を深めることができます。)




「意欲が見えない」からといって、「意欲が無い」わけではない




意欲が見えない人への支援をどのように行なっていくかは、様々な支援関係の中でも最大の課題と言って良いでしょう。算数で表すならば、意欲ゼロにはどんな数字を掛けてもゼロになってします。だからと言って意欲ゼロは支援対象にならないかというと、そうではありません。“意欲の高い方”は多少の障害なら自力で何とかできてしまうのですから、支援が必要になるということは、何らかの要因で“意欲に陰りがある”ことが前提なのです。




ある利用者さん夫妻は、奥様が圧迫骨折になり寝たきりの生活となってしまい、ご主人は調理ができないとのことで毎日の調理の支援から始まりました。「何を作りましょうか?」と聞くと鬱状態の奥様からは答えを聞けず、ご主人に問うと「蕎麦」や「素麺」の回答です。そこで、毎日のように蕎麦や素麺を提供していたのですが、ご主人は或る日ぼやきました。「蕎麦や素麺だったら自分でも作れるんだよなぁ」と。ご主人は経験不足で「何を作りましょうか?」と聞かれても、どのように答えて良いかわからなかったのです。そして、奥様も完全に寝たきりという状態ではなかったので、車椅子で買い物同行を行いそこで購入しうたものを調理に活かすようにしました。関わり方を変えると、今まで見えてこなかったところが見えてきます。奥様に意欲が見られなかったのは、寝たきりにさせてしまっていた介護体制に問題があったのです。奥様とは、外出先では歩行練習を開始し調理も共に行うように変えていきました。すると奥様の意欲はますます向上し、家族関係も明るく変わっていったのです。ここでもわかるように、最初に見られる状態像は、その時の精神的落ち込みや負い目などで自分の希望や状態を正しく伝えることができていない場合が多いのです。




「見えないところ」は発展する「可能性」




言葉として正しく語れていない出来事の真実、外面に隠された願いや葛藤や痛み、意識下にある無意識の働きなど、私たちには見えないものがたくさんあります。認知症の方の個人史も語る言葉は風の中に消えかかっています。しかし、見えないからと言ってそれらが無いわけではないのですから、「見えないものを見ようとする努力」が大切です。そしてその人のことが見えてきたとしても、「私たちには見えてないところの方が多い」という自戒も必要であり、見えてないところが多いからこそ、それは発展する「可能性」となるのです。




ある末期ガンの方はサービスに拒否的でしたが、終活のゴミ出しはして貰おう考えたようで訪問開始となりました。ゴミ出しが終わると要望はほとんど聞かれなくなり、部屋を綺麗にすることによって明るい気持ちになって頂こうと掃除に取り掛かりました。随分昔に縁を切った子供の図工の作品に積もった埃を綺麗にしましたが、「そんなことをして何の意味があるんだ」という雰囲気です。程なくしてその方は望んで入院されサービス終了となりました。その後伝え聞いた話では、入院先で食事摂取を拒否して亡くなられたそうです。




利用者さんの「困難」に対処するところを入口として信頼関係を築き、見えなくなってしまった「可能性」を利用者さんと一緒に探すことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし簡単にはいかないのも事実です。未熟な私たちには手の届かないところに心がある方もおられます。だからこそ一度でも気持ちが通じ合った利用者さんのケアは、どんな状況になったとしても、明るい方へと発展する「可能性」に賭けていきたいと思うのです。




紙面研究




【自立支援について】
2018年に「老計10号」の改正(追加点はゴシック体)がありました。自立支援の推進は介護度悪化を防ぐ最重要の取り組みであるため、老計10号に更なる具体例が追加されたところです。在宅介護の中心課題は「自立支援」と「認知症対応」です。どちらも「身体」で算定可能です。具体例は「考え方」を示すものであり、例示以外は算定できないものではありません。考え方を学び介護に活かしていきましょう。身体介護を算定する時は「重度化防止のための見守り的援助」「自立支援」「ADL・IADL・QOL向上」「一緒に行う」「共に行う」「認知症進行防止」「BPSDへの対応」「生活歴の喚起」「思い出してもらう」などのキーワードがプラン上にあった方が良いでしょう。




1-6 自立生活支援・重度化防止のための見守り的援助(自立支援、ADL・IADL・QOL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守り等)
ベッド上からポータブルトイレ等(いす)へ利用者が移乗する際に、転倒等の防止のため付き添い、必要に応じて介助を行う。
認知症等の高齢者がリハビリパンツやパット交換を見守り・声かけを行うことにより、一人で出来るだけ交換し後始末が出来るように支援する。
認知症等の高齢者に対して、ヘルパーが声かけと誘導で食事・水分摂取を支援する。
○入浴、更衣等の見守り(必要に応じて行う介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認などを含む)
○移動時、転倒しないように側について歩く(介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る)
○ベッドの出入り時など自立を促すための声かけ(声かけや見守り中心で必要な時だけ介助)
本人が自ら適切な服薬ができるよう、服薬時において直接介助は行わずに側で見守り、服薬を促す。
○利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う掃除、整理整頓(安全確認の声かけ、疲労の確認を含む)

○ゴミの分別が分からない利用者と一緒に分別をしてゴミ出しのルールを理解してもらう又は思い出してもらうよう援助
○認知症の高齢者の方と一緒に冷蔵庫のなかの整理等を行うことにより、生活歴の喚起を促す。
○洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒予防等のための見守
り・声かけを行う。
利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行うベッドでのシーツ交換、布団カバーの交換等
利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う衣類の整理・被服の補修




【Q質問】(15.5.30事務連絡介護保険最新情報vol.151介護報酬に係るQ&A)
自立生活支援のための見守り的援助の具体的な内容について
【A回答】
身体介護として区分される「自立生活支援のための見守り的援助」とは自立支援、ADL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守りをいう。単なる見守り・声かけは含まない。
例えば、掃除,洗濯,調理などの日常生活の援助に関連する行為であっても、
・利用者と一緒に手助けしながら調理を行うとともに、安全確認の声かけや疲労の確認をする
・洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒防止予防などのための見守り・声かけを行う
・認知症高齢者の方と一緒に冷蔵庫の中の整理などを行うことにより生活歴の喚起を促す
・車イスの移動介助を行って店に行き,本人が自ら品物を選べるように援助する
という、利用者の日常生活動作能力(ADL)や意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援のためのサービス行為は身体介護に区分される。掃除,洗濯,調理をしながら単に見守り・声かけを行う場合は生活援助に区分される。
また、利用者の身体に直接接触しない、見守りや声かけ中心のサービス行為であっても、
・入浴,更衣などの見守りで、必要に応じた介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認を行う
・ベッドの出入り時など自立を促すための声かけなど、声かけや見守り中心で必要な時だけ介助を行う。
・移動時、転倒しないようにそばについて歩き、介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る
という介助サービスは自立支援、ADL向上の観点から身体介護に区分される。そうした要件に該当しない単なる見守り・声かけは訪問介護として算定できない。




 




老計10号による「身体介護」の定義
身体介護とは、




①利用者の身体に直接接触して行う介助サービス(そのために必要となる準備、後かたづけ等の一連の行為を含む)、




②利用者のADL・IADL・QOLや意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援・重度化防止のためのサービス、




③その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要となる特段の専門的配慮)




をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービスをいう。(仮に、介護等を要する状態が解消されたならば不要※となる行為であるということができる。)




※ 例えば入浴や整容などの行為そのものは、たとえ介護を要する状態等が解消されても日常生活上必要な行為であるが、要介護状態が解消された場合、これらを「介助」する行為は不要となる。同様に、「特段の専門的配慮をもって行う調理」についても、調理そのものは必要な行為であるが、この場合も要介護状態が解消されたならば、流動食等の「特段の専門的配慮」は不要となる。




専門性の高い「認知症対応」は身体介護となる




認知症状や精神症状による「BPSD(行動・心理症状)」が見られる場合は、本人の不安を和らげるために傾聴しつつ、本人の行動や感情に配慮した適切な声掛けや説明、誘導や見守りの介助が必要となります。




ヘルパーが中心的に家事動作を行う場合でも、本人が不安にならないように”一緒にやりましょう””これはどうしましょう”などと本人とかかわり、例えばゴミ出しをするにしても”捨てるものを本人に決めてもらうよう促す”必要があります。これはケアに対する「参加意識」を本人に持っていただく取り組みです。家事行為の気持ちの中心はあくまで本人なのです。




もし、”決まっていることを単純に実施すれば良い”というような実施方法であれば、本人は「勝手にやられている」といった「疎外感」を抱いてしまい、BPSDはますます悪化してしまいます。というのも、BPSDは自分の記憶が不確かになるという中核症状の上に、「自分のことが自分で分からなくなる・できなくなる」という不安と「周囲が自分の生活に、勝手に突っ込んでくる」という恐れも重なった「自己疎外の不安の表現」でもあるからです。




「自己疎外」とは、「人間の個性や人格が社会関係の中に埋没して主体性を失って結果、他人やほかの事柄に対してだけでなく、自分自身に対してさえも疎遠な感じにとらわれてしまう状態(日本語大辞典)」です。例えば帰宅願望が生じるのは「自分自身に対しても疎遠な感じ」が生じているから「自分の心が安らぐ場所を求めて」のことだと考えられます。




「疎外感」を防ぎ不安を解消し、BPSDの重症化を予防して改善していくためには、何事も本人に意見を求める態度を示し、”本人の意見や考えのもとに支援が実施されている”という実感を作り出す必要があります。もし本人が、事実関係と異なる話をしたり、適切な生活環境の整備に反する意見を述べたとしても、即座には否定せず、時間をかけて傾聴や会話を行い、望ましい方向へ本人が自ら進んでいけるようさりげなく後押しする必要があります。




このような対応は「ともに行う」支援であり、「利用者中心」であり、「本人が生活の主役であることを守る」自立支援でもあります。このような支援方法は、掃除を行うにしても”掃除さえできればよい”ような性質のものではなく、認知症対応の研修や経験を重ねて適切に行われるものですから、「その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要とされる特段の専門的配慮)をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービス」となります。




当然これらは、認知症状や精神症状、BPSDが解消されて、自分の要望を自分自身でヘルパーに適切に指示を出せる状態となれば、不要となる行為です。よって、このような専門性の高い認知症対応は身体介護であると考えられるのです。




 




『生活歴の喚起』とは
日常生活の過ごし方は、どんな事でもその方のやり方というものがあります。
利用者さんが“認知症になったから”“身体機能が衰えたから”と安易に家事等の代行をしてしまうと、とたんに今までの自分のやり方が継続できなくなり、ますます衰えてしまう事があります。そのような時、利用者本人の今までのやり方や考えに基づいて、ヘルパーが一緒に行う事を試みる事によって、本人の生活の継続性や一貫性が保たれ、本人が自信を取り戻すという事があります。
それは、本人が生活の切り盛りの主役に返り咲く事でもあります。生活の継続性や一貫性は自分らしさの重要な要素です。老いという困難を迎える時、利用者さんに「今までどのように生きてきたのか」「どうやって困難を乗り越えてきたのか」「昔の自分はどんな自分だったのか」等、『回想法』を意識した会話を心がける事も生活歴の喚起につながっていくでしょう。


 


紙ふうせんだより 4月号 (2021/05/17)


人生物語から何を読み取るか
ヘルパーさんや利用者の皆様いつもありがとうございます。空に向かってその葉を広げていく草花のように
私自身もまた伸びていきたい。若葉が光に揺れるような、そんな優しさを風に願わずにはいられません。
人生には、薫風ばかりではなく暑熱に焦がされたり暴風雪に叩かれる時があります。それでも必ず実りの季節はやってきます。

●人生の「実り」とは
人生を草木や四季になぞらえてみましたが、ここで言う「実りの季節」について、どんな印象を持つでしょう。
果実の実りと考えれば人生の最も甘美な時期を思い浮かべるかもしれません。秋の穏やかな日々のような悠々自適の晩年を思い描くかもしれません。自身にまつわる因果応報の一切を自分で引き受ける(と仮定される)「死」という人生の「収穫」を想像するかもしれません。
人は、人生に何らかの「実り」を求めています。そしてそれを手にする自分を想像するから、今の生活に意義を見出すことができます。
「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」という言葉があります。「苦しみ悩んでこそ立派な人間になれる」という意味です。

 

努力できる人は「努力は必ず報われる」と信じています。そして努力を継続できる人は、一度はくじけても今は実らなくてもいつかは「花は咲く」という願いを持ち続けます。これは、どんでん返しを期待しつつも裏切られる結末をも想定し不安に揺れながらも、難解な小説を最後の場面まで読み進めるような忍耐と同じで、人生を俯瞰する視点を生じさせます。この視点は、自分が登場する物語を見下ろす様な自制的な強さとなります。

 

人生に何らかの「実り」を求めるように、人は「物語」を生きています。この物語のテーマは「生きることの意味は何か?」というものです。
子供の頃、「将来の夢」という夢想に含まれる原初的な形態で一度はそれを考えても、そのうちに忘れてしまいます。しかし物語が終章に近づくと自己存在への根源的な問いとして再びそれは現れてきます。エピローグにあっては、問いへの答えは新しいストーリーとしては展開せず、今までの場面を回想し描かれてきた物語の中から読者自身が答えを探すことになります。今までは人生物語の書き手だった自分自身が、今度は読み手となるのです。ここで「努力は必ず報われる」という言葉の表層の超えた意味が現れます。路傍(ろぼう)の石が玉(宝石)と輝くとされるのは、材質や外的条件による結果ではなく、磨く行為そのものに輝きがあるからではないのか。

 

玉を得るから人生が報われるのではなく、生ききった自分自身の人生こそが玉ではないのか。人生の「実り」とは「人生から何を得られるか」ではなく、命そのものが既に「実り」としてあることに気が付くことではなかったか。老いや病という波乱を終章に置くことによってそんな読解ができるように、現代の人生物語は必然的に構成されているように思えてなりません。私たちは介護という関わりを通して、長い小説を最終章まで書き進めてきた利用者さんと共に、そのエピローグを一緒に読むような経験をします。そして利用者さんは、今までの場面の回想をしながらも、物語全体から何かを読み取っていることは確かなのです。

 

●肯定的な回答を支えるための支援関係
描かれた物語から何を読み取るかは、作者の手を離れ読者に委ねられます。だから「このように読むべきである」という押しつけはできません。しかし、介護者である私たちがその読解に全くの無関係かと言うと、そうではありません。既に私たちは終章からエピローグにかけての登場人物となっているのですし、私たちはエピローグを利用者さんと一緒に読むような経験をするのですから、より肯定的に物語を読み取りたいという気持ちは、私たちも同じです。「生きることの意味は何か?」との問いへの回答は本当に多数あります。いずれにしてもその中に肯定的なものが少しでも含まれていれば、それは世界に二つとない尊い答えとなります。しかし「一切が無意味」という全否定の回答は没個性(※1)となってしまうために避けたいところです。支援関係の中で肯定的な回答を得ることを支える方法は多数あります。本気で行うならそのどれもが有効なものとなるはずです。一方で肯定的な回答を潰してしまう方法が一つあります。それは利用者さんの「尊厳」を踏みにじってしまうことです。

 

●物語の「読者」である自覚
私たちは自分自身が物語の書き手であることは、設定やプロットの自由度はともかくとして一応は知っています。
しかし読み手としての力量の大切さは、どれほどの人が自覚しているでしょう。現代においては、途中で投げ出したくなるような展開を乗り越えて結末まで自分で書き切るためには、自分で書いたことの意味を自分で読み解く力が必須になってきています。そして物語の幸運な展開は書き手の力量によらず運が今も昔も大きな要因ですが、読解力を高める方法は、「自分自身を磨く努力」の他にはそう多くは見当たらないのです。
実はここに私自身が介護職員になれたという幸運を噛み締めている理由があります。人生物語の読解力を高めることの一つには多くの物語を読むことが挙げられますが、介護という場面は、利用者さんの物語が終章にさしかかり作者自らがその読み解きを行っている読書会に、介護職も参加させて貰うことになるからです。
ある利用者さんがノートに聖書の一節を書き写していました。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(中略)そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全なものとなります。」私はこれを読んで肯定的な意思を感じ、
とても幸せな気持ちになりました。深い物語は読み手を育てます。そして、良い読み手は物語を完結させんとする書き手の支えにもなります。
そしていつか一つの物語が終わっても、物語は誰かの物語へと連なっていくのです。



 

 

 

 

 

 

 

 

(※1)ユング心理学では個人が自分自身というかけがえのない個別存在となっていくことを「個性化過程」と呼びます。
一方「周りがやっているから自分もやる」等は没個性化であり、自分で自分の事が解らなくなり自己存在の否定に結びつく。

 

令和3年度介護保険改定 ②

今回の改正では、訪問介護とケアマネージャーや地域包括支援センターとの利用者さんの状況に関する連携や情報提供(訪問型サービスの提供に当たり把握した利用者の服薬状況や口腔機能等の利用者の心身の状態及び生活の状況に係る必要な情報の提供を行うこととされている)がより重要視され、具体的な事項が例示されています。それは例えば以下の様なことですが、類似のことがあったら報告をお願いします。

 

・薬が大量に余っている又は複数回分の薬を一度に服用している

・薬の服用を拒絶している

・使いきらないうちに新たに薬が処方されている

・口臭や口腔内出血がある

・体重の増減が推測される見た目の変化がある

・食事量や食事回数に変化がある

・下痢や便秘が続いている

・皮膚が乾燥していたり湿疹等がある

・リハビリテーションの提供が必要と思われる状態にあるにも関わらず提供されていない

 

もちろん報告すべき大切なことは「転倒」や「発病」など他にも沢山あるのですが、見落としがちなこととして例示があったとお考え頂き、改めてご確認ください。なお、その連携の中核的役割はサービス提供責任者が担うこととなっていますが、連携やサービス提供に関わることは多岐にわたることから(当然ですが、利用者さんの生活に必要なことや連携すべき事項の全てをケアプランや介護計画書やサービス指示の中に盛り込むことは不可能なため)次のように改めて示されましたので、ご協力をお願いいたします。

 

「重要な役割を果たすことに鑑み、その業務を画一的に捉えるのではなく、訪問型サービス事業所の状況や実施体制に応じて適切かつ柔軟に業務を実施するよう留意するとともに、常に必要な知識の修得及び能力の向上に努めなければならない。」

 

もとより社会保障としての介護サービスは、介護保険制度があるから行われているのではく、万人の基本的人権を尊重しようという現代社会が掲げ共有する理念があるからであり、一人では生活が成り立たなくなった方の生存権を保障したり、家族で介護を抱え込まなければならない状況(介護離職や家事労働者への負担の押しつけが懸念される)の解消の必要性(介護の社会化)という国が責任をもって解決すべき人権問題があるからなのです(国には基本的人権を保障し擁護する義務がある)。だから当然ですが、介護保険制度の運用方法は、利用者さんの尊厳や人権を守るために、必要があれば工夫がなされ柔軟に対応することが「適切な運用」と言えます。くれぐれも、その業務を画一的に捉えるのではなく、適切かつ柔軟に業務を実施するようにお願いいたします。

 

(参考)日本国憲法 第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

考えてみよう

・「健康で文化的」な生活とはどのように暮らせることだろう。

・介護の仕組みは利用者さんの「健康で文化的」な生活を保障できているだろうか。
 

紙面研修

「虐待」は不適切ケアの延長

ハラスメントも虐待も人権侵害です!
ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し(中略)、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。

ハラスメントとは、相手の意に反する行為によって不快な感情を抱かせることであり、「嫌がらせ」を指します。ここで重要なのは行為者がどう思っているのかは関係なく、相手が不快な感情を抱けばハラスメントになる」ということ。概念としてはシンプルで分かりやすい定義ですが、人の感情は表立って現れないこともあり、「そんなつもりではなかった」などと行為者がハラスメントをしていることを理解できていないケースも少なくありません。(引用:WEBサイト「日本の人事部」)
「虐待」判断も、「ハラスメント」の考え方と同じように、行為者の“虐待する気は無かった”の意図に関係なく、高齢者が嫌な思いをしているかどうかが大切です。

★不適切ケアはなぜ起こる? → 人権侵害に気が付いてない(「権利擁護」意識が低い)

・支援者が“善意”の押し付けに気が付いていない

・自己決定権をないがしろにする“支援者都合”の押し付け

・パナーナリズム的な介護文化(親が子どもを養育するような態度を他者に対してとることを。強い立場にある者が、弱い立場にある者の“利益のため”として、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること。これらを良しとする介護文化。)

★介護保険法も高齢者虐待防止法も、全ての人の人権を守るために作られた(皆やがて高齢者になる!)
介護保険法

第1条 この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。
・「尊厳の保持」 ⇒ 基本的人権や諸権利が守られて、「自分自身の誇り」や「人間らしく生きることできる事」が失われてはいけない。

・「自立した日常生活」 ⇒ 「自己決定権」を中核として、自分の事ができる。

ADLは自分でできなくなってきても、「自分でできている」という誇りや「自分で決められる」という主体性は失われてはいけない。

・「尊厳の保持」や「自立した日常生活」が他者によって奪われることは虐待に等しい。

・“職員都合”による一方的な命令や指示は虐待となり得る。

 

ケアマネ・ケアプランはなぜ必要??

・“職員都合”に流されやすい介護現場中心の視点や声の大きい家族視点への偏りを是正する。ケアマネは力関係の偏りを是正するため利用者の代弁者となって介護に利用者視点を導入する。

・ケアプランの作成とは、自己決定能力が衰えてきた方への「自己決定への支援」という権利擁護です。

※ただし、ケアマネに力が一極集中して介護職員や利用者に君臨するようになって“善意”のパターナリズムを発揮してしまう恐れもある。その時は介護職員が利用者の代弁をする必要がある。


紙ふうせんだより 3月号 (2021/04/26)

「聴くに値する」声とは・・・

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。桜が咲きましたね。あと何回私たちは桜を楽しむことができるでしょう。
できることなら命の終わりの時まで花鳥風月を愛でる気持ちを抱いていたい。
そう願いながらも心の余裕を無くし何かを楽しむ気持ちは失せ「人生終わりだね」と嘆くようになることは誰にでもあり得ることです。だから「そうなったらそれは意味のある展開で、その時こそ自己変革の時なのだ」と心しておきたいと思います。

「変わりたい」と心の奥底では叫んでいる状態像

「あれができない」「これができない」といった嘆きは過去の自分との比較です。
過去の栄光はもはや遠く、新たな時代や世界に突入してしまっているというのに、その中での自己像は確かな焦点を結ばず、「あれができる」「これをしよう」という
主体としての自分自身が朧に霞んでいるから意欲も失せがちになってしまう…。

このような状態像は、高齢者だけではなく若者にも見られることです。
「スチューデントアパシー」という概念が1960年代からあります。「アパシー」とは意欲低下や無気力と訳します。
大人への登竜門のように大学受験には懸命になったけど、いざ入学してみると「何を学びどのようにそれを将来に活かしていくのか」というイメージが掴めずに、
意欲が停滞してしまう大学生がいます。天真爛漫に遊んだ子供時代はもはや遠く、新たな時代を拓こうと受験勉強に努力し勝ち抜いたのも既に過去の栄光です。
にもかかわらず将来の“夢”は大学に合格しただけでは焦点を結ぶことは無く、「何の為に俺は大学に入ったのかな…」と、落ち込んでしまいます。
具体的な志を持って高校卒業と同時に職人を目指した友達が眩しく見えて、その分だけ自分の思慮が浅く見え、自分は「ただ大学に受かりさえすれば良い」と安易に考えていたんじゃないか、と過去の自分を責めてしまうのです。ざっくりと言えば青年期の心理的課題は「自己確立」で、晩年の心理的課題は「自己統合」です。
不安定な過渡期の期間にあってどちらも「自分とは何か」という「自己」を標的としています。朝日と夕陽が似た色合いなのと同じように、状態像は似てきます。
スチューデントアパシーの研究では、それを「時間感覚が乏しく、生活リズムが乱れ、生活に張りがない」「物事に興味や意欲が湧かず、生活全体が受身的となる」などとしていますが、これらは高齢者にもあります。そして、責任回避的なところや「批判が予想される状況からの選択的回避」の背景には、殻に籠りながらも無意識的には自分を責めている心理が伺えます。

臨床心理学研究の理論と実際-スチューデント・アパシー研究を例として-(1997)下山晴彦(一部抜粋)
・批判が予想される状況からの選択的回避。
・自らが陥っている困難な状況に関してその事実経過は認めても、それを自らが対処していかなければならない深刻な状況として受け止められない。
・問題解決行動を約束しておきながら、その場面になると回避行動をとり、一貫性のない行動を繰り返す。
・感情の動きが乏しく、楽しいとの感覚がない。生き生きをした実感がなく、物事に興味や意欲が湧かず、生活全体が受身的となる。(感情希薄)
・時間感覚が乏しく、生活リズムが乱れ(昼夜逆転など)、生活に張りがない(一日中ボーッとしている)。それに焦りを感じない。(時間感覚の希薄)

自分を責めてしまう硬直した考え方

自分を責めてしまう方は、ある種の“真面目さ”を持っています。“勝手気まま”に生きてきたような方は、責任を強く感じるというようなことは少ないように見えます。
社会的な役割や責任ある立場を得て自己像は安定し「中年期」が始まりますが、この時期の標的は「社会」です。意味のある仕事に取り組み子育てや後継の育成をして、社会の担い手のバトンを次世代に繋いでいきます。そして社会的な役割から降りるところから老年期が始まります。
青年期や老年期になって自責の念が湧いてくるのは、社会的なミッションが見えなかったり、その責任を果たせないと思うからなのでしょう。
苛立ってしまい責める気持ちを他人に向けてしまう人もいるでしょう。
「齢をとるとこんなになるとは思わなかった。がむしゃらに仕事をしてきた自分の思慮は浅かった」などと自分を責めてしまう利用者さんもおられますが、
真面目なのだからこそ地力は持っているはずです。自責のエネルギーを方向転換して狭い自己評価の型を壊し、型に押し込められた自己像を解放していくことが必要です。

自分の中の「支配的な考え」に疑問を持つ

さて、狭い型に自己像を押し込んでしまう「思考の型」について考えてみましょう。既成概念の中に安住して広がりを持たない思考の型を「垂直思考(※1)」といいます。
垂直思考は意見や価値の上下にこだわります。囚われすぎると視野は狭くなります。権威(法律・会社・学校・先生)や自分の考えからはみ出すことを恐れて、
物事を硬直化(マニュアル化)して理解します。自分が“理解”したことは「こんなの当たり前だよ!」と疑問無く振りかざし、それに反する考えは“誤り”と決めつけてしまいますから、自分の中に新たな考え方を導入することができません。創造的な発想が求められても一般論に終始してしまいまい、経験の範疇外の事象には対応できません。
そして、本当の意味での「自分らしさ」も、自分の中の経験則や「支配的な考え」で塗りつぶしてしまいます。同様に、他人の「その人らしさ」も軽視したり見落としてしまいます。

遂には「支配的な考え」に適合しない自己像に対しては“失格”の烙印を自分で押してしまうこともあるのです。しかしこれは“変わり時”です。
垂直思考から脱するために必要なのは「水平思考」と呼ばれています。水平の意義は、価値の上下を安易に決めつけてしまう意識から距離を置くことです。
権威をうのみにすることも、他人の意見の上に自分の考えを常に置いてしまうこともありません。様々な考えを「聴くに値する」ものとして検討してみることがモットーですから、反対意見にも、多数者の陰に隠れた少数意見にも、立場の低い者の声や声なき声にも耳を傾けようと努めます。もちろん自分の中の小さなしこりにも気を配るでしょう。

だから新たな発想が生まれてきます。
「自己」を標的とする発達課題が生じる時期は、今まで大きく聞こえてきた“自分の声”と思っていたものが実は、
関係性の中で自分に刷り込まれてきた借り物の考えではないかと疑問を抱く時期でもあります。自分の中にある支配的な思考の型を捨てて、
自分の中の自信の無い弱い声にも耳を澄ませてみましょう。大きな否定の声に隠れて小さな肯定の声も聞こえてきませんか。思考の型の創造的解体が行われるならば、
いままで気が付かなった物事の価値や側面、例えば「××が実は自分の〇〇だった」などが見出されるでしょう。そうやって自己存在に関する再評価が行われること。それが自己確立や自己統合なのです。

※1 ※ イギリスの心理学者デノボが提唱した「水平思考」と対概念となる思考方法。一般的には順序立てた論理的思考を指すが、
順序などに囚われると権威主義化し思考は硬直する。そのため「水平思考」では固定観念を取り払い自由な発想からの創造性の展開を目指す。
ランダム発想法・刺激的発想法・挑戦的発想法・概念拡散発想法・反証的発想法などがある。


 

紙面研修

「水平的思考」の発想法

エドワード・デノボの提唱する「水平思考」は問題解決のために既成の理論や概念にとらわれずアイデアを生み出す方法論です。穴掘りに例えると「垂直思考」は既に掘られている穴をさらに掘り下げることですが、「水平思考」は新しく別の穴を掘ってみることに例えられます。

ランダム発想法

一見関係なさそうな物事を結び付けて検討する。(アイデア発想法としては、辞書をランダムに引くなどして出てきた言葉と関連付けてアイデアを広げてみる)

刺激的発想法

物事のある部分を「発展させたらどうなるか?取り除いてみたら?何かと合わせたら?何かと置き換えてみたら?順番を入れ替えてみたら?」などと検討する。(アイデア発想法としては、表を作成して発想を比較して一番刺激的なものを選んでみる)

挑戦的発想法

「それはなぜ存在するのか?」「何のためにそうなっているのか?」など物事の根源を突き詰めたところを源として固定観念をひっくり返してみる。(新しい鍋のデザインの検討会で、「料理を加熱できれば、鍋の形である必要なくね?」)(介護の例:1日3回の薬がうまく飲めないんだけどどうした良い?→そもそも何の薬?3回も飲む必要ある?1回にまとめられない?)

概念拡散発想法

ある概念を他の物事に応用してみる。(介護の例:認知症進行ではなく意欲低下じゃないかな?スチューデントアパシーの状態像に似ていないかな?)

反証的発想法

提示されている考えは間違いであると仮定して、反証を試みることで打開策を検討する。(介護の例:〇〇さん歩けないんだけどどうしたら良い?→本当に歩けないの?介助方法工夫してみた?)

 

例題) 「〇〇さん、食事が全然進まないんだけど、どうしたら良い?」

「刺激的発想法」を参考に検討を深めてみよう。(「ちゃんと食べなきゃダメよ!」という垂直思考オンリーでは行き詰る場合が多々あることに気が付くことが大切です)

 

発展させてみる メニュー内容の発展や介助方法を発展させてみる→
取り除いてみる メニューの中の何か、また食事環境の何かを取り除いてみる→
やめてみる 食事の前の何かをやめてみる。食事や介助自体をやめてみる→
合わせてみる メニューの中に何か、また食事環境の何かを追加する→
置き換えてみる 食事自体を別のものと置き換えてみる→
入れ替えてみる 食事のタイミングを変えてみる→
 


考えてみよう(担当する利用者さんを事例として)

①支援が行き詰っている人はいるだろうか?それはどのようなところだろうか。

(そこに「垂直思考」のような支援者側の発想の固さはないだろうか。)

②「水平思考」の発想法などを参考に、自由な発想で打開策を提案してみよう。)


 

介護保険改定(令和3年4月1日より) ※原則3年に1度の見直しです

【改正の要点】

1.①感染症対策の強化、自然災害時等の業務継続に向けた取り組み強化(BCP等の策定)

感染症や自然災害が発生してもサービス提供が継続できる体制を構築するため、上記について委員会等の設置や指針や計画の策定、研修や訓練等の取り組みが事業所に求められるようになりました。

2.PDCAサイクルと科学的介護の推進として、どんな利用者にどんな取り組みが効果有ったかをデータ化して、国をあげて分析しようという「科学的介護情報システム」(LIFE:ライフ)が作られました。ゆくゆくは分析結果をケアプラン作成等に活用していこうというものです。

3.高齢者虐待防止の推進介護や育児と就業の両立支援の推進(人員基準の一部緩和)。職場におけるハラスメント対策に関する事業者の責任の明確化、会議や多職種連携によるICTの活用等。

4.基本の単位が今回1単位(訪問介護 身体1 249単位→250単位)上がりました。しかし6年前の大幅マイナス改定前の2014年の水準には戻っていません。(2015年改定 身体1 255単位→245単位)

 

【訪問介護としましては、重要事項説明書と運営規定に以下の記載を行いました。】

虐待の防止 (重要事項説明書←利用者へ交付)

「高齢者の虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律(高齢者虐待防止法)」は、介護従事者の虐待行為(身体的虐待、放棄・放任、心理的虐待、性的虐待、経済的虐待)を禁止し、虐待してしまう恐れのある養護者に対しては支援をしなければならないとしています。虐待を発見した場合には、介護従事者は関係機関への連絡義務があります。

(当事業所の「高齢者虐待防止」に関する指針)

・従業者に対して人権の擁護・虐待の防止等の研修・啓発を実施します。

・従業者による利用者への虐待事例が見られた場合には、関係機関に適切に報告を行うとともに、再発の防止のための対策の検討会などを開催し、その結果について従業者に周知徹底を図ります。

・利用者の同居者や親族等から利用者への虐待が疑われるような場合には、関係機関に必要な相談を行うとともに、再発の防止に向けて介護環境の改善の検討や対応など、必要な支援や取り組みを実施します。

(職場におけるハラスメント防止) (運営規定←事業所にて閲覧可)

第12条 当事業所は、適切な指定訪問介護の提供を確保する観点から、職場において行われる性的な言動又は優越的な関係を背景とした言動であって業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの(職場におけるハラスメント)により、従業者の就業環境が害されることを防止するために必要な措置を講じる。職場におけるハラスメントとは、利用者等から訪問介護員等に対して行われるいわゆる介護ハラスメントや、上司や同僚からのパワハラ、セクハラ等がある。

(虐待の防止)

第13条 当事業所は、利用者の人権擁護・虐待の防止等のため、利用者等に対して虐待防止法について説明を行ったり、従業者に対して人権の擁護・虐待の防止等の研修や啓発を実施したり、虐待の防止のための指針等を明確化するなど、必要な措置を講じる。


紙ふうせんだより 2月号 (2021/03/16)

心の中を日々新たに!

へルパーの皆様、いつもありがとうございます。いつもヘルパーさんには感謝しています。日頃の忙しさに皆さんとゆっくり話をする時間を作れないことも多く、伝えきれていない気持ちをここで表明させて頂いているつもりです。それにしても毎回同じ書き出しですから、変えてみる必要もまた一方ではあるんだよな、と思っています。なぜかというと、変えてみることは新しい可能性の発見につながるからです。

 

変わっていく第一歩 自分の「型」と「苦手」を知る
高齢になると「新しい物事に取り組むのが苦手」になるというのはよく聞く話です。一方で、高齢になってから生活の「型」を変えて新境地(※1)を開拓する人もいますから、一概に知力や体力の年齢による衰えとは言えないところもあります。何が「苦手」意識を生じさせているのでしょう。
人には、役割分担をしながら仕事や生活するなかで出来上がった自分の「型」というものがあります。

「型」にのっとったやり方については、誰よりも経験は豊富で上手にやる自信がありますが、反面「型」から外れることを求められると「苦手」となってしまいます。
「型」が形成されることはごく自然なことです。例えば、脳神経細胞同士の結びつき(シナプス)の数が最も多いのは幼児期ですが、認知機能や動作や思考の「型」を作ることによって脳は情報処理の効率化を行い、脳神経回路も簡素化されて10歳頃までにシナプスは半減します。

特定の分野に秀でている人はその分野に必要なシナプスの結びつきは強いと言われています。
このように必要に応じて形成された「型」ですが、「型」に合わない事は、「できない」事となってしまうのでしょうか。

そんなことはありません。例えば、怪我や病気で脳神経回路の一部が損傷しても、リハビリによって健全な細胞がシナプスを伸ばして欠けたところを補う回路が作られますから、「苦手」なことも練習によってできるようになることは事実なのです。自分の「型」と「苦手」を知ることは、自分の可能性の再発見となります。

「できない」ことと「しない」ことの取り違えに気が付く。ある利用者さんは事前情報では「歩けない」という話でした。これを鵜呑みにしてはいけません。
どうして「歩けない」のか、それを誰が言っているのか、介助があれば歩けるのか、必要な介助の度合いはどのくらいか、有効な自助具が使えれば一人でも歩けるのか、問題の分析が必要です。

結論から言うとこの方は、「歩けない」のではなく「歩かなかった」のです。夫が入院して、その状況を上手くのみこめない認知症状もあって、不安などから一人では「外出しなくなった」ようなのです。ヘルパーさんと一緒に外出し、買い物の時に自分で歩いて頂くようになってから、ほどなくして一人で外を歩いている姿を見かけるようになりました。

これは支援の重要な分岐点です。もし、「歩けない」という伝聞を鵜吞みにして利用者さんに歩いて貰わなかったら、「しない」ことが「型」となってしまい(構造化されてしまい)、やがて本当に「できない」「歩けない」となってしまうところでした。

 

「できない」と切り捨てていることは多い
“料理ができない”という話はよくありますが、本当に「できない」のでしょうか。日常生活動作(ADL)として包丁や菜箸が握れないのでしょうか。

たいていの方はそうではありません。台所に長時間立っていられないとか固い野菜が切れないなどの部分的な困難があって料理をしなくなってしまい、それを「できない」と表現しているのです。椅子に座ったら包丁を安心して握れますし、「できる」要素はたくさんあるのです。

料理の手順の組み立ても同様です。材料を目の前にして「何から始めれば…」と困ってしまう方も、「まず野菜を切りましょう」とまな板と包丁をセットすればできたりします。
自立支援は十把一絡げに「できない」と言ってはいけないのです。

これは健常者も同様です。料理や掃除や洗濯をしない夫は、ADLとして「できない」のではなく「してこなかったから」理解が浅く、これからもする気が無いから「しない」だけということは、「する」妻の側からすれば見え透いています。
私たちはいかに多くの事を「できない」と切り捨てているのではないか、ということに思い当たります。

 

“型破り”から得られる自分自身の再発見
要介護高齢期とは、今までの自分の生活の仕方の「型」が通用しなくなる時でもあります。多くの方が一度はそこで意欲の低下を経験します。
今までの生活の「型」から新しい生活の「型」に移行する中で、なぜ「しない」となったのかについては検討が必要です。

きちんとできる自信がないから、普通の人が手早くやってるのに遅い自分が恥ずかしいから、「危ないからダメ」と言われたから、やってもらった方が楽だから、などといった言葉が聞こえてきます。私たちはそのような方々に「一緒にやってみましょう」ときっかけを作り、「できるじゃないですか!」と褒めて意欲を盛り上げていく働きかけをします。

具体的には、支援の中で本人が活躍できる「型」を作ることになります。
しかしこれは、「今までと同じようにできる」という表面的な「結果」を求めているのではありません。

閉じていくのみと思われた人生にも、別の新たな可能性が開かれていると気が付いていくことに意味があります。
今までの「型」からは接点の無かったような人と出会ったり未体験の体験を通じて、経験してこなかった人生の側面を再発見すること。これは「生老病死」という命の全体性の中で、若い時には知り得ないかった「老」や「死」についての“型破りな学び”(自己統合)でもあります。

利用者さんだけが挑戦するのは“もったいない”
利用者さんにとって「自己統合」は、とても大きな挑戦となります。そのような挑戦を利用者さんにのみやって頂くのは“もったいない”と私は思っています。
利用者さんから勇気を貰って、自分の「やらない」ことを「やってみる」挑戦に変えていくこと。今までの「型」を破ること。

「我らが外なる人は壊れども 内なる人は日々に新なり(※2)」 これはある利用者さん宅に飾ってあった色紙の言葉です。90歳を超える方がしたためたそうで、そう聞くとなおさら励みになりませんか。私たちの頑張りも同時に利用者さんへの励みにもなるはずです。

 

※1 :伊能忠敬は50歳になって家業を引退し、江戸に出て19歳年下の高橋至時に弟子入りして暦学や天文学を学び、地球の大きさを測量するという夢を実現させた。世界最高精度の地図も作成している。高齢になっても挑戦することは可能である。

※2: 新約聖書に収められた書簡の一つ『コリントの信徒への手紙二』の一節。パウロがコリント教会に宛てた手紙。苦難の中の慰めや弱さの中の強さについてなど、教会員への励ましや感謝、教えについてなどを記している。

 


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