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【紙ふうせんブログ】

紙ふうせんだより 8月号 (2020/10/26)

自己中心性からの脱却のために

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。お盆が過ぎて夕方の風に秋色が加わり、夜はいくらか過ごしやすくなってきました。体温調整の苦手な方は調子を崩しがちです。体調の変化に目配り気配り心配りをしていきましょう。

死の側から見えてくる「おごり」

お盆には先祖を迎えることによって生者は死者と対面します。もともと日本にあった祖霊信仰に仏教が融合した風習のお盆は、死の側から人生を見つめ直すことにもなります。全ての命は先祖から受け継がれた命の灯であると理解すれば、命への畏敬の念が生まれます。自分もいつかは死んで連綿とした繋がりのなかに還っていくと想像するならば、命を自分だけのモノと錯覚するような自己中心的な視点は相対化されます。死者の側から生を見つめてみることは、現代社会の軋轢によって極限まで狭くなった“自分”という境界線を内側から壊すことにもなるでしょう。若いころにブイブイ言わせてきた人が、高齢になってお盆などの風習を大切にし始めるといった態度の変化には、「今さえ自分さえ良ければ」となってしまってきたこと(誰にでもある過去の一部)への反省があるのかもしれません。

大抵の人は、自分の行為にそれなりの根拠を持っており、それなりに「自分は正しい」と思っています。また、今日の延長線上に明日があり、それがずっと続くような錯覚を持っています。しかし本当にそうでしょうか?『徒然草(つれづれぐさ)』で兼好法師は「我々の死の到来は、今すぐかもしれない。それを忘れて物見て日を暮らすのは愚かだ」と述べています。「死を忘れるな」という警鐘は、西洋伝統絵画の主題の一つメメント・モリや、日本の九相(くそう)図など様々な文化の中で繰り返し鳴らされています。現在の在り様をあえて疑うことによって思索を深め、より確かものを掴み取ろうと努める哲学者たちは、「哲学(※1)を極めることは死ぬことを学ぶこと」としています。シャカ族の王子であったシッダールタ(仏教の開祖の釈尊)は、自身の「若さのおごり」「健康のおごり」「生存のおごり」に気が付いて克服のために出家をします。昨今、コロナをめぐり極端な反応を示す人にもそれらの「おごり」の一端が現れているように思います。当たり前のことですが誰しも生きている自分を中心にして世界を見ています。そのような視点を相対化することは、私たちの内にある「生者のおごり」「健常者のおごり」「自分が正しいというおごり」に釘を刺し、私たちの生の在り様の点検を促すのです。

介護に即して言えば、自身に「生者のおごり」があれば、少しずつ死に赴(おもむ)く利用者さんと本当に向き合うことはできず、無意識の忌避(きひ)が生じます。「健常者のおごり」があれば、心身の衰えに嘆く利用者さんの気持ちに寄り添うことができません。「自分が正しいというおごり」があれば、利用者さんや周囲の人は常に自分より考えが浅いという無意識が働き、無自覚な上から目線となります。死の側からの生を見つめ直す視点は、より良い介護を提供することはもちろんのこと、世界観を拡げ心の余裕を生じさせ、自身の心の豊かさを育むのです。

※1フランスの哲学者モンテーニュの言葉、「死はどこで我々を待っているかもわからない。あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する」とある

歴史的視点から見えてくる「おごり」



 

 

 

 

 

 

 

「はだしのゲン」中沢啓治

 

見えている世界が自分の世界である人は、それでもその限られた範囲の中で自分の行為や考えをよりマシな側、比較対象とする側(自覚せずに見下しているものと比較する)よりも良くあろうとします。「盗人(ぬすびと)にも三分の理(り)」と言うように、暴力団の抗争なども双方共に「我に仁義あり」と主張します。しかし本当に自説が正しいかどうか、客観的に判断する尺度(※2)を持たない限り破綻はやってきます。

1945年8月、そのような破綻が社会全体で起こりました。当時日本は、国家を主語とし国家を目的とする国家主義であり(現在は国民を主語とし国民を目的とする民主主義)、自らが引き起こした侵略戦争を「聖戦」と叫び、戦争遂行が絶対正義でした。戦争遂行のスローガンは「一億玉砕」(一億の国民は、皆戦って死のう!)というものでした。全国民が死んでしまっては何の意味もないと思いますが、そのような視点を戦争指導者が持つことは一切ありませんでした。当時、命の重さは「一銭五厘(※3)」と言われていました。兵隊の命を大切にしない軍部では、司令官の自己顕示欲による乱暴な作戦が横行し、いたずらに前線の兵隊を全滅(※4)させて、戦略的にも愚かな失敗を繰り返していきます。「命を大切にしない者はやがて自身の命を滅ぼす」という道理のごとく、数多の国民や周辺国の人々等を道連れに殺して破滅したのが大日本帝国なのです。どうして日本は暴走を止められなかったのでしょう。それは自身を相対化する視点を決定的に欠いていたからです。戦前の日本は「神の国であり永遠不滅である」と信じ込まされていました。まやかし(※5)の「神州不滅」を信じ込ませた戦争指導者も戦局が悪化すると自分の「死」を直視するのが怖くなったのか、進んで狂信的観念に一体化していきます。日本は「絶対正義のおごり」や「不滅のおごり」に染まって道を誤ったのです。
ある利用者さんの話

「学徒出陣であの雨の壮行会にいました。学徒航空兵となった。訓練中に友人は着陸に失敗して操縦桿が腹に刺さって死んだ。ようやく離着陸できるような状態で、特攻への出撃命令が出た。はじめから特攻要員と決まっていた。断ることなどできなかった。出撃の報告に博多の両親に会いに行ったが、お互いに涙を流し一言もしゃべれなかった。山陽本線の広島で、原爆の焼け野原を見た。新型爆弾のうわさは聞いていた。もう少し早く戦争を終わりにしていれば、大勢の人が死なずに済んだのに!」と怒りに肩を震わせながら泣いていました。
ここまで、自らの生存や正しさを相対化して「死」の側からの自己点検の必要性を述べてきました。「死」からの視点の重要性は「死」の賛美ではありません。自らの「生」の中にある「老病死」をありのまま認め直視してこそ自らの「おごり」に気が付くことができるのです。私たちは、自身に繋がる死と生存の歴史を振り返えるとき、「自分は自分一人で生きているのではない」という気持ちになり、命に対して謙虚になります。同様に、自身に繋がる社会の歴史を振り返るならば、一方的な「正しさ」の危うさが理解できます。あれから75年、今の日本は命を大切にできているでしょうか。恐ろしい時代を生き延びた戦争体験者の肉声を聴けるのもあと僅かです。
※2その最低限の基準は、基本的人権の相互尊重・社会的弱者の権利擁護(命を大切にすること)であると考えます。

※3召集令状の郵便代なので今の63円の価値。

※4伸びきった戦線を維持することができず、司令部は前線の部隊に玉砕命令を出して「全滅」と処理することがあった。全滅の部隊への補給や救援は放棄され、生き残った兵士が地獄の苦しみ(一部では人肉食もあったと言う)を味わった。戦死の通知が届きながら帰還を果たした方が一部におられたのはそのような事情による。

※5「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」三笠宮崇仁親
 

紙面研修

一方通行の「介護観」を点検する

【相対化】そうたいか

一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。

 

人は誰しも自分中心に世界を見ています。だからこそ自分のモノの見え方や考え方を相対化する視点を持つ事が重要であって、「あなたの意見は唯一絶対ではない」と他者の意見を拒否することは誤った相対化と言えます。しかし、福祉の世界には、支援者側が利用者さんの意見を相対化してしまう一方通行な態度が見られる場合があります。なぜそうなってしまうのでしょうか。構造的な問題を持っている古い福祉の考え方は医療中心の視点であるため、「医療モデル」と言われています。
医療モデル (医学モデル・専門家モデルとも言われる)
支援の着眼点 「診断→治療→回復」を重視し、「人が抱える問題はその個人のどこかに欠陥・歪みがあるため」と考える。服薬やリハビリなど身体機能の改善が大切。
支援の主体者 専門家
支援関係の序列 上下関係がある(医者→ケアマネ→介護職→利用者など)
困難の原因 認知症や障害や病気など、本人の心身の状態が原因

(例)足が無い人が外出できないのは足が無いから
困難へのアプローチ 身体機能の改善を中心に障害の克服や病気の治癒を目指す
望まれる利用者の態度 利用者は専門家の指示に従うこと
解決のメド 解決は難しいことが多く、解決できない場合はあきらめが必要
利用者への情報提供 知らせるべき情報と知らせるべきでない情報を専門家が決める
支援関係のトラブル理由 利用者のワガママなど
社会との関係性 利用者が社会に適応できるように訓練する
対して新しいモデル(と言っても提唱されてから40年以上になる)は、専門家の専門領域からの狭い視点を相対化して、生活や社会全般を視野に入れるようになり「生活モデル」と呼ばれています。
生活モデル (社会モデルとも言われる)
支援の着眼点 「人と環境の交互作用」を重視し「個人と環境の両方」を支援する。

支援者と利用者の関係性の歪みを改めるだけで改善する場合もある。

利用者をいかにエンパワメントさせる(笑顔にさせる)かが大切。
支援の主体者 利用者本人(パーソン・センタード・ケアなど)
支援関係の序列 利用者を中心に支援者同士は対等な関係(チームケアなど)
困難の原因 利用者の認知症や障害や病気に対応していない支援関係や介護環境や社会の在り方などに原因がある

(例)足が無い人でも適切な支援があれば外出できる
困難へのアプローチ 利用者の気持ちに着目しながら、本人ができるやり方を考えたり、環境を改善したりする
望まれる利用者の態度 利用者は自分の困難さや望む生活の希望をのべること
解決のメド 利用者と支援者に信頼関係ができて、利用者の本心が聞かれれば一つ一つ進んでいける
利用者への情報提供 説明責任がある。極力理解してもらえるように伝える
支援関係のトラブル理由 支援者側の説明不足など
社会との関係性 どんな人でも普通に社会で暮らせる(ノーマライゼーション)ように社会に働きかける(ソーシャルワーク※)ことは、福祉従事者の使命
※ソーシャルワークとは、社会に対しては「社会変革」「社会開発」「社会的結束」を、個人に対しては「エンパワメント」「解放」を促進する実践を意味する。また、その実践を発動・継続する根拠(原理)は「社会正義」「人権」「集団的責任」「多様性の尊重」であり、働きかける対象は「社会の様々な構造」「実践を必要とする人々」である。(2014年7月の国際ソーシャルワーカー連盟の定義より)
考えてみよう

「利用者の○○さんは言うことを聞かなくて困っている~」というような嘆きが聞かれる場合、支援の主体者は誰になっているだろう? 支援の関係性に着目した時、何をどのように変えていくことができるだろう?

(その方の自動思考を仮定して検証し、その考えを問い直す模擬会話を考えてみよう)
 

以下の新聞資料は「自分が正しいというおごり」がもたらす暴力性への指摘です。戦時中の“非国民”大合唱の他罰的な雰囲気と合わせて考えていただけるとより理解が深まると思います。

自分は絶対に正しい」という思い込みが人間を凶暴にする 歪んだ正義   毎日新聞2020.8.23

◇不安から「正義」を振りかざす

「なんでこの時期に東京から来るのですか? 知事がテレビで言ってるでしょうが!! 知ってるのかよ!!」

「さっさと帰ってください。皆の迷惑になります」

東京都内在住の男性が青森市の実家に帰省するとそんな内容の手書きのビラが玄関先に置かれていたという。男性は帰省までに自主的に新型コロナウイルスへの感染を調べるPCR検査を2度受けいずれも陰性だった。帰省後もできるだけ自宅で過ごしていたという。

大渕憲一・東北大学名誉教授(社会心理学)によると、新型コロナウイルスで顕在化した人間の攻撃性の一つに「制裁・報復」感情や「同一性」(自尊心)を動機とするタイプがある。政府から自宅待機の要請が出ている時に外出している人やマスクをしないで歩いている人を激しく非難する――そんな「自粛警察」がこれに当てはまるという。

「社会秩序や規則順守といった『正義』を振りかざして人を攻撃することは自尊心を満たし、周りの人たちから賛同が得られれば承認欲求も満たされる」(大渕名誉教授)。「規則を守る人」と「守らない人」、「絶対的に正しい自分(たち)=善」(内集団)と「絶対的に間違った他者=悪」(外集団)に社会を二分して上から目線で懲らしめる行為で、通常なら「やり過ぎ」との自制心も働くがコロナ禍という非常事態においては「(内集団から)理解や承認を得られるはずだ」という思い込みから抑制が利かなくなりがちだという。

「自分は絶対に正しい」という思い込みが人間を凶暴にするのだ。


紙ふうせんたより 7月号 (2020/09/25)

※4小泉政権がマーケッティングによって扇動に弱く政権支持に誘導できると導き出した知性の低い層、米国のトランプ支持者と似る ※5アリストテレスの『政治学』の「共通の利益」に由来、マイケル・サンデルがNHK『ハーバード白熱教室』 (2010年)で強調、『これからの「正義」の話をしよう』に書籍化 ※6先進国で自殺が1位は日本だけ。他国は事故死(自殺白書)

新しい時代を拓くために

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。東京都の感染者集が1日で400人を超えてしまいました。感染予防対策をお願いいたします。日本の古典や仏典では人心や治世が乱れると飢饉・疫病や戦争や災害が起こるとしてきました。身内びいきの暗愚な政治がコロナ禍を加速させている様相ですが、時代を俯瞰しながらこれからの社会を考えてみましょう。

自分本位の“価値観の相対化”が否定してしまったもの

東西冷戦が解消しイデオロギー対立が終焉すると確固たる価値観は語られなくなり、あらゆるものが相対化して語られるようになりました。時を同じくして日本はバブル崩壊を迎えます。相対化の視点は、多様性尊重の揺りかごとなりましたが、同時に社会病理をこじらせます。より良い人生やより良い社会を目指していくという「目標」が失われ、“より良い”とは何か?と問う精神的営みや社会的努力を“無駄なもの”と考える人が現れるようになってしまったのです。漂流する社会は不況を長引かせ、根無し草となった者は確固とした手ごたえのあるモノ「金と権力」に吸い寄せられていきます。そして自由競争の中での勝者を正義(市場原理)と見なす新自由主義がグルーバリズムの嵐にのって規制の無い(弱者に対する配慮の無い)自由競争を叫び支持を集め、強者の論理で社会が動かされ、政治や経済などのシステムも変化していきました。格差社会が出現し、多くの人が“強者”の口真似をして「強者の論理」を語り、「価値観の相対化」と「新自由主義」が時代の空気となりました。

「“〇〇でなければならない”という価値観の押し付けはしないで欲しい」

「隙を見せたら強者に喰われてしまうので、自分も強者にならなくてはいけない(弱者の面倒をみている余裕は無い)」

相対化論法は“自分さえ良ければ良い”という自己中心性の自己弁護として使われたため、“〇〇”には「基本的人権」や「権利擁護」などが入り、善い自己・善い社会といった「目標」が冷笑されるようになりました。本来、自分の狭い価値観を破って「多様な他者の受容」へと導くはずだった「価値観の相対化」は、自分本位に使われることによって社会や自分自身の中の倫理的な基準を失わせてしまいました。自分本位の“価値観の相対化”は、自己中心的な劣悪な主張を許容し「万人の万人に対する闘争(※1)」を再現させ、民主主義や自由主義の基盤となる「基本的人権の相互尊重」をも破壊するようになってしまったのです。ネットの中で氾濫する差別発言や「やまゆり園事件」の植松被告や国会議員の一部にさえ見られる「障害者や高齢者への税金投入は社会の無駄。障害者は社会に迷惑をかけている。障害者は抹殺されるべき。また、このような主張も、言論の自由として許容されるべき。」という主張は、「大きな物語の終焉(※2)」として『歴史の終わり(※3)』などと肯定的に語られた時代の負の落とし子、 価値観の共有なんて幻想だ、孤独なまま『終わりなき日常を生きろ(※4)』、どうせ理解されない、といった観念に強迫された“他者との関係性が結べなくなってしまった病”なのです。現代社会は袋小路に追い込まれつつあり、閉塞感の中では偏見が増殖し差別や暴力となります。

※1 トマス・ホッブズの著作(1651年)による自然状態における人間の有様

※2 イデオロギーが無くなって価値観相対主義の時代(ポストモダン)とされた

※3 フランシス・フクヤマの論文(1989年)

※4 宮台真司の著作(1998年)

弱い者たちが“さらに弱い者叩く”負の連鎖から抜け出るために

悲しいことに“弱者叩き”は、自分がされた事を他人にしてしまうという側面があります。 一部の扇動屋を除いてB層(※5)とされるような者が自らの行為の自由を根拠に自分より弱い者を叩くという構造がありますが、これは自由をはき違えています。本来、私達が享受している「自由」は他者の人権を侵害しないという「基本的人権の相互尊重」を前提としているのです。しかし、自分本位の相対化論法は「そのような考え方もあるが、私の考えは違う」として自己中心性の変更を拒否します。コロナ騒動でも“他県ナンバー狩り”や“感染者差別”“医療従事者への偏見”が見られました。このような時代に必要なものは、「基本的人権の相互尊重」と「社会的弱者に対する権利擁護」を「共通善(※6)」として公教育レベルから再確認していくことではないでしょうか。多様な生き方やマイノリィとの共存を当然の前提として「どのように共同体を維持していくのか」という方向性を持って各個人が社会の構成員としての「善き生き方」を考慮に入れていくのです。各個人が自由を享受しつつも自分自身の自己中心性を相対化して「異なる者への寛容」を示していくならば、「異なる者を排除しようとする差別や暴力」への不寛容な空気が社会に醸成されます。例えばイジメをしてしまう・されてしまう子供たちにとってもこのような「人権」の考えを真に自分のものにできたならば、自分が生きていく柱となり負の連鎖から抜け出す道筋にもなってくると思います。

介護職とはどのような仕事か 時代を拓く鍵となる職業

「やまゆり園事件」は4年前の7月26日に発生しました。植松被告は介護職を経験し権利擁護や虐待防止などの研修も受けただろう“にもかかわらず”という福祉業界の敗北がそこにはあります。私達自身が、福祉の仕事が社会にとってどのような意味や価値を持つのかを問い直していかなければなりません。私達の仕事は、弱肉強食や自分本位を是とする社会の風潮に対して反対(カウンター)する位置づけにあることをはっきりと自覚する必要があります。私達の仕事は、「基本的人権の相互尊重」や「社会的弱者に対する権利擁護」の実現を柱としながら、困っている個人に対して具体的に直接的に支援します。それは、漂流する社会に根を下ろし、さらにはそれを「共通善」という大地につなぎ止め、「善き社会」の成立・維持・継続に関わる仕事なのです。私達が健全に福祉の仕事に邁進するならば、有るべき社会の姿「この社会は生きるに値する」という事を現実に示す事になり、同時に誰かの「生」に対して「この命は生きるに値する」と感じさせていく事になります。

若者(※7)の死因・第1位が「自殺」の日本、先進国で最も酷い社会の中で若者は生きています。誤解してはいけません。若者は「自分の人生を生きるに値しない」と思ったのではありません。そう思わされた構造的な歪みがあった上で、より本質的には「この社会は生きるに値しない」から、この社会から去っていったのです。また、「国際比較調査に見る日本の高齢者の意識」の調査結果(平成27年)では、家族以外の人で相談し合ったり、世話をし合ったりする親しい友人がいるか尋ねたところ、「いずれもいない」と回答した高齢者の割合が、日本は、アメリカ、ドイツ、スウェーデンを含めた4ヶ国の中で最も高いのです。自殺する若者と同じように要介護高齢者も「死にたい」と言われる方が多くいます。何がそう言わせてしまうのか。私達介護職は、まずそこから戦わなければならないのです。

※5 小泉政権がマーケッティングによって扇動に弱く政権支持に誘導できると導き出した知性の低い層、米国のトランプ支持者と似る

※6 アリストテレスの『政治学』の「共通の利益」に由来、マイケル・サンデルがNHK『ハーバード白熱教室』 (2010年)で強調、『これからの「正義」の話をしよう』に書籍化

※7 先進国で自殺が1位は日本だけ。他国は事故死(自殺白書)

 
紙面研修
 
QOLから見た死
【安楽死】(日本臨床倫理学会)

安楽死は、行為の主体として他人が関与し、自分自身ではもはや実行することのできなくなった患者に、身体的侵害によって直接死をもたらすことです。

積極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何かをすること」

消極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何かをしないこと」

【自殺ほう助】

自殺幇助とは「自殺の意図をもつものに、有形・無形の便宜を提供することによって、その意図を実現させること」です。安楽死が、行為主体として他人が関与するのに対して、自殺幇助は、その時点で意思能力のある患者本人が関与します。患者は、例えば処方された薬物、あるいは毒物、あるいは他の行為によって自分の命を絶ちます。

【患者の意思で延命治療をしないこと(差し控え・中止)』と、『消極的安楽死』との違い】

患者の命を終わらせようとする意図や目的がある場合は「安楽死」であり、それに対して、患者本人に延命治療拒否の(事前)意思があり、その意思を尊重しよう、患者の苦痛を除いてあげようという意図・目的の下に延命治療を中止・差し控えるのが『患者の意思で延命治療をしないこと』です。患者の‘命’を終わらせる目的ではないので、消極的安楽死とは異なる概念であると考えられます。

したがって、『患者本人の意思で延命治療をしないこと』においては、無益な延命治療は中止したり差し控えたりしますが、その患者が生きている限りは、緩和ケアのコンセプトの下に、十分な心のこもった快適ケアは提供されることになりますし、疼痛緩和のために必要な治療も提供されます。

 

 

【尊厳死】(清水哲郎『医療現場に臨む哲学』)

「尊厳ある死」(Death with Dignity -本来の意味での「尊厳死」) とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。「尊厳死は倫理的に許されるか」と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなる。すべての死は尊厳死が理想である。

 

★POINT★  自殺(ほう助)→死ぬこと(手伝うこと)……死を目的とする人為的な死

積極的安楽死→死なせること(殺すこと )……死を目的とする人為的な死

消極的安楽死→死ぬにまかせること……死を目的とする自然な死

尊厳死→緩和医療・緩和ケアの実施……苦痛を取り除くことを目的とする自然な死

★治療が困難であり、患者は死が避けられずその死期が迫っていることが医学的にも判っており、本人や家族が延命を望まない場合は、一般的には延命治療をやめて緩和医療に切り替えられる。

★苦痛を取り除くことはQOL(クオリティ・オブ・ライフ)にとって大切(ライフ=人生・命、QOL=質の高い人生・質の高い生存を追求すると、最終局面は尊厳死となる)、その意味でも、生と死を分断されたものではなく連続したものとして考える必要がある。「皆に迷惑をかけるからから死にたい」という“死にたい”は本当に「自己決定」と言えるでしょうか。
【考えてみよう】  “クオリティ・オブ・デス”(質の高い死)とは何だろう

※尊厳死を誤解して“安楽死”と呼ぶ方が多くいます。また、「死の自己決定」を求めて医師による自殺ほう助や積極的安楽死の合法化を求める声(どちらも“安楽死”と主張)もありますが、なかには意思表示できない人を殺すこと(明確な殺人)をも“安楽死”と呼び実施を叫ぶ人がいるため、安易な(意図的なのか?定義をぼやかした)“安楽死”是非の議論は危険です。(死を選ばざるを得ない状況での「選んだ死」は「本当に望んで選んだのか?」ということに注意を払う必要があります)
 
 「嘱託殺人、安楽死議論の契機にすべきでない」日医会長

日本医師会の中川俊男会長は29日の会見で、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)への嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件と、安楽死の議論を結びつけることについて「これを(議論の)契機にすべきではない。慎重にしたい」と述べた。

中川氏は「今回の事件のように患者さんから『死なせてほしい』と要請があったとしても、生命を終わらせる行為は医療ではない」と強調した。「そのような要請があった場合は患者さんがなぜそのように思ったのか、苦痛に寄り添い、ともに考えることが医師の役割だ」と述べた。

終末期医療のあり方については、これまで日本医師会内部で検討を重ねてきたといい、「ALSをもってただちに人生の最終段階ではないことを確認している」とした。「死を選ばなければいけない社会ではなく、生きることを支える社会をつくる」と訴えた。(久永隆一2020年7月29日朝日新聞)
熱中症にご注意下さい(自分も利用者さんも)


◎疑いのあるケースは、すぐに現場からお電話下さい◎
 
介護福祉士国家試験

【申し込み】令和2年8月12日(水曜日)から9月11日(金曜日)まで(消印有効)
筆記試験 令和3年1月31日(日曜日)

左のようにはがきを記入して郵送すると、「社会福祉振興・試験センター」より『受験の手引』(受験申し込み書)が送られてきます。なお、

はがきの裏面は「あて名ラベル」として使用するそうなので、はっきり大きく正確に!

Webからでも申し込みできます。

受験希望者はご相談下さい。
~8月のヘルパーミーティングは例年、懇談会ですが

開催は自粛予定です。~
 

 

 


紙ふうせんだより 6月号 (2020/07/31)

鳥ははばたくということ

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。脱水や熱中症にはご注意下さい。利用者さんにも声掛けをお願いします。皆さんの対策は何でしょうか? 私は濡れ手ぬぐいを首に巻いていますが、水が乾くことによって頸動脈が冷やされます。手軽で良いですよ。また、事業所には冷たい飲み物も用意していますので、水分補給や休憩にご利用下さい。

“想定内の自分”の外に出るということ

事故や病気は皆さんも注意をされていると思います。とは言っても、注意していたらその全てを防げるというものでもありませんし、全てを警戒して怯えて生活することも無理です。もちろん事件は未然に防ぎたいところですが、起こってしまった時にどのように対応できるか、ということが大切です。その時、動転せずに対応できるかどうかは、自分自身の失敗も含めて「想定外は起る」という事を心の中に入れていたかどうかにかかっています。強く動転してしまうと、「気持ちがついていかない」というのは有ります。後悔に似た孤独を感じる苦しい時間がやってきます。しかし、その時間もまた気持ちが静まっていく中で自分を振返り、新たな発見をするものとなれば、結果的に良いものに変わっていきます。それらは“想定内の自分”の外側に出るということなのです。

計画通りに行かないということ

危険をいち早く察知し適期を見逃さないことは、生存競争に必須です。やがて先を見越して計画し実行の積み重ねが文明となりました。そうやって人類は発展してきたのですから、見通しが立たないものに人はストレスを感じます。計画は大切です。計画を立てて実行し、結果を評価して課題を抽出して再度改善計画を立て、効率的に成果を求めるPDCAサイクル(Plan計画→ Do実行→Check評価→Act改善)という方法論は、ビジネスや介護保険制度でも使われています。しかしここに落とし穴があります。枠組みをもった計画が“立派”なものであればあるほど、枠組の外に“想定内の外”に出られなくなってしまうのです。例えば子供の頃からマジメで夏休みの宿題は計画通り実行し良い成績を修め難関校に入った人が、もはや何の為の勉強かを忘れて、望み通りの大学合格に拘泥してしまっているところに、失敗してしまったとします。失敗に慣れていなかったばかりに、たった一つのつまずきに人生の計画の一切が終わったと感じて引きこもってしまう、というのはある話です。

介護計画とは何の為にあるのでしょう。利用者さんのニーズを満たし、「その人らしい生活」の実現が目的であって、その為に課題と取り組み内容を明らかにする道具として介護計画書があるのです。計画の目的が“計画通りの実施”ではないことは明らかです。利用者さんが計画から外れていくということは、新しい課題やニーズが生じたという意味では良い展開なのです。(※但し、計画に沿ったサービス内容でなければ給付は下りないので、収まるようにする工夫は大切です。)想定内の外側は、見通しが立たたない不安はあります。しかしそれは新たな成長の幕開けであり、歩み始めれば不安は希望へと変わっていくものです。

 

卵の中からぬけ出ようと戦うこと

ヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』は、シンクレール少年が幼年期の自分を脱して思春期へ青年期へと成長していく物語です。世界の破壊のような第一次世界大戦に従軍したシンクレールが敵弾に吹っ飛ばされて担架に担がれて病床に寝かされる劇的な幕切れとなるこの物語には、「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。」という一節があります。

生まれるということや生きるということは、一体何でしょう。「生きているのがつまらなくなった」と言う人は、自分の世界の外側への絶えざる飛翔の試みを止めてしまっています。また、自分の価値観に固定された狭い世界から抜け出せない人は、いつかは自分に限界を感じて「生きていてもしょうがいない」とつぶやくかもしれません。若さや美貌、知力や体力、仕事での活躍、社会的地位や財産、愛する人や友人との交流。自分が重きを置いているものから離れなければならなくなってくる時は、必ずきます。その時、自分の世界が崩れ去っていくように感じるのです。しかし、自分の世界の外側にも世界はあります。これは「卵の中からぬけ出よう」とする再生の戦いなのです。そしてその戦いの瞬間、世界の確かな存在に気が付くということ。それが生きているということではないでしょうか。

生きているということ

これから一部を抜粋して引用する谷川俊太郎の「生きる」という詩は、世代を限定したものではありません。誰にでも当てはまります。しかし私には、最後の時間を必死に生きるあの人の姿が重なって見えてくるのです。
 

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

あなたと手をつなぐこと

(----中略----)

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ

(----中略----)

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと

(----中略----)

鳥ははばたくということ

(----中略----)

人は愛するいうこと

あなたの手のぬくみ

いのちということ




※マスクやアルコールが事務所にあります。足りない方は取りに来て下さい。

 

紙面研修

熱中症を防ぐ 

下記の空欄の穴埋めをしてみよう

 

【身体に熱がこもるとどうなるのか】

人間の体の中では、いつも熱が作られています(産熱)。そして体の体温を一定に保つ働きが人間の体にはあります。気候条件や運動量増加により、体内の熱量が増えたにもかかわらず、放熱とのバランスが崩れてしまったときに熱中症は起こります。

体の熱量が増えると、体の表面(皮膚の下)の ① は拡張し血流量は増加します。体内の熱を体の外に逃がしやすくする為です。その時、血液が全身に行き渡るために体内の血液が一時的に不足して ②  が下がってしまう事があります。すると ③ に十分な血液が送られなくなります。 ③ への血液供給が少ないと、脳は酸欠を起してしまい、めまいや立ちくらみや、意識を失ってしまう事があります。これを「熱失神」と言います。お風呂の“のぼせ”と同じ原理です。なお、高齢者がお風呂で亡くなってしまう原因は入浴中の急な血圧低下によって失神し溺れてしまうからだと言われています。

体を冷やすためには、太い動脈が体表近くにあるところ(首、わきの下、太もも等)に、保冷剤や濡れタオルなどを当てるクーリングを行います。

 

【脱水になるとどうなるのか】

体温が上昇した時には体は汗をかきます。汗の ④ によって、体は放熱する事ができます。この時、発汗量が多いにもかかわらず、水分補給が足りないと、体は脱水状態になります。脱水状態が長く続くと、頭がボーっとして全身がだるくなって、水分や食事を摂ろうという“やる気”さえ無くなったりします。

「だるい」「なんとなく手足がツル、痺れるような感じがする」さらには「頭が痛い」「吐き気がする」「めまいがする」ということも起こります。「熱疲労」とも言われます。

これらの症状の怖いところは「ぼんやりとしてしまって、判断が鈍る」事です。例えば、炎天下にちょっと外出して帰宅したけれども、だるくってコップ1杯の麦茶を飲んで寝てしまった。その後、目が覚めても疲れが抜けず夕食を抜いてしまった…。単なる“疲れ”であれば、1食抜いても寝て休めば治ります。しかしこの“疲れ”が脱水に起因するものであれば、寝ている間にも症状は進行します。そして、食事から補給される水分量は多いわけですから脱水の悪化は避けられません。翌朝、脱水状態で一晩過ごしてしまったために脳梗塞を起してしまった!となったら大変です。

そのようになる前に、頭がぼんやりとして身体の危険信号に注意を払えなくなってしまう前に、日頃の意識的な水分補給が大切です。体への吸収の速いポカリスエットなどのスポーツドリンクなどが有効ですが、高齢者などで水分摂取が困難な様子であれば、病院へ搬送し点滴をしなければなりません。独居の方は救急車要請を検討する場面です。

脱水症状の本当に怖いところは、それが心筋梗塞や脳梗塞の原因になる事です。体温が上がると、身体は「放熱」の為に血管を拡張させます。その結果、血圧が下がって血液を送り出す力が弱まります。そのような時に脱水が加われば、脱水症状でドロドロになった血液は「血栓」ができやすくなります。血栓が心臓に詰まれば ⑤ 、脳に詰まれば ⑥ です。どちらも対処が遅れれば命に係わります。

 

【運動中の若者が倒れる「熱射病」】

運動中に疲労はつきものですし、喉も乾きます。だからと言って身体のサインを無視し続けると、熱の影響が脳に出てしまいます。これを「熱射病」と言います。そうなると自分では判断できませんし、意識が遠のいて倒れてしまいます。運動部の練習などで炎天下にトレーニングしていたらぐったりしていたので、木陰で寝かせていたらそのまま亡くなってしまったというニュースがあるように、大変危険な状態です。また、汗の中にはナトリウムなどの塩分(電解質)が含まれていますが、大量の発汗の後に、塩分を補給しないと体の中の塩分量が不足してしまいます。電解質は筋肉の動きを調整する役割も持っているので、塩分が不足をすると手足がつったり、筋肉が ⑦ をおこしてしまうことがあります。これを「熱けいれん」といいます。

【要注意】 ◾元気がない ◾食欲が無い ◾便秘が続いている  ◾尿の色が濃く量や回数が減った

◾居眠りをしていることが多くなった ◾手足が冷たい ◾指の先が青白く冷たい ◾首筋がべたべたする ◾皮膚やわきの下が乾燥している  ◾口の中が乾いている ◾皮膚に張りが感じられない

◾微熱が続いている ◾血圧が低い ◾脈が速い(120回/1分) ◾体温が37℃以上ある

◾爪を押して離した時、赤みが戻るまで3秒以上かかる ◾手の甲をつまむと形が残る(富士山)

◾吐き気がする ◾頭痛がする ◾しびれや痙攣がある ◾受け答えの反応が弱い ◾めまいがする

◾夜間や日中の室温が高い ◾下痢や嘔吐、大量の汗をかくなどを繰り返している(脱水リスク)




熱中症にご注意下さい(自分も利用者さんも)

◎疑いのあるケースは、すぐに現場からお電話下さい◎



自転車移動中のマスク着用は、

よっぽどの人混みでない限り

不要です。

また、利用者さんと適切な距離

の取れている掃除などの時は、

マスクから鼻を出して鼻呼吸

で作業するようにして下さい。

(マスク着用での負荷のかかる作業は、

体温が上昇して熱中症のリスクが高まります。また、呼吸数の上昇・血中二酸化

炭素濃度の上昇によって心拍数も上昇し心臓にも負担がかかります。)

※医療用のサージカルマスクであってもウイルスの空気感染は防げません。現実

的にはコロナウイルスの主な感染経路は飛沫感染と接触感染です。

マスクをする意味は、飛沫感染の予防にあります。(5分間の会話で1回の咳と

同程度の飛沫(約3,000個)がでます。)

※飛沫(原因は咳・くしゃみ・会話)を飛ばさないために、利用者さんとの会話ではマスクを着用してください。

 

◎引き続き、手洗い・うがいの実施をお願いします。

※空気感染(飛沫核感染)とは、ウイルスの単体など(直径0.004ミリメートル以下=4マイクロメートル以下)が空気中を長時間漂うことによって感染を起こすものです。空気感染する主な感染症は「麻疹(はしか)」「水ぼうそう(帯状疱疹)」「結核」の3つです。ほとんどのウイルスは空気感染ではなく唾液や鼻水が微小な粒子となって飛散する飛沫感染(直径0.005ミリメートル以上→重いため1~2メートルで地面に落下する)で感染拡大します。また、飛沫の付着した物を触った手で自分の目や鼻や口(粘膜)を触ることによっても感染(接触感染)します。必要に応じて室内換気を促して下さい。






 

 

 

筆記試験 令和3131日(日曜日)

【申し込み】令和2年8月12日(水曜日)から9月11日(金曜日)まで(消印有効)

筆記試験受験には、「介護職員実務者研修修了」が必要です。(実務者研修修了者は実技試験不要です。)

 

 

(紙面研修 回答) ①血管 ②血圧 ③脳 ④蒸発・気化 ⑤心筋梗塞 ⑥脳梗塞 ⑦けいれん

 


紙ふうせんだより 5月号 (2020/06/29)

未知のウイルスが問うものとは

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。新型肺炎感染拡大予防のためのご協力に感謝します。先の見通しが立たない状況はストレス要因となります。ストレスへの対処方法は、運動やリラックスをして身体に刺激や休息を与えたり、好きなことを行って気分転換したり、“今・ここ”の自分の存在に集中(マインドフルネス)して気分の波を穏やかにするなどが考えられます。是非自分なりの方法を試みて下さい。その上で、もう一つ方法があります。少し大変ですが問題に向き合ってその意味についてよく考え、思考や行動の偏りがストレス要因になってないかなど、今見えていないものを見ようとする試みです。

見たくないものを“無いこと”として退けてしまう風潮

「わからない」これがコロナ禍の特徴です。陽性者数を少なく見積もりたかった願望による不作為なのか、実態は報告の「10倍か20倍か30倍かは誰もわからない(※1)」という状況。検査稼働率は低く正確な検査人数もわからないので、市中感染の本当の陽性率はわからない。本当の死者数(※2)もわからない。症状程度別患者数もわからない。データの信頼性が低いため、非常事態宣言が解除されたとは言え本当の見通しはどうなのか不安は拭えません。行政府の長の場当たり的な“リーダーシップ”は、間違いなく混乱に拍車をかけました。しかし無能な長は脇に置いてより根本的に考えれば、日本の社会が未知の災厄に対して真摯に向き合う姿勢を忘れ、準備を怠ってきたことの現れのように思います。例を見てみましょう。

2020年度の政府予算では、病院のベット13万床削減を目標に削減のための助成金84億円が計上されています。現在でさえ入院患者は短期で退院を迫られていますが、医療費削減を目的に入院患者数を抑制しようというのです。病床数が今よりも13万床も少なくなったときに、もし新型の感染症が起こってしまったら一体どうなってしまうのでしょうか。でもそれは起こるかどうか解らない“未知”のものだからと、考慮に入れる事を排除しているのです。確かに、どのような性質の感染症が起こるかは未知です。しかし、未知のウイルスによる感染症が起こる事は、“既知”であり何度も警鐘は鳴らされてきました。SARSやMERSや新型インフルエンザなどの未知の感染症の蔓延は今までもあったのですから。

東日本大震災から遡ること2年前、福島第一原子力発電所建屋に大津波が直撃する危険性が貞観地震(869年)の最新研究から指摘されていました。しかし東京電力はそれをよく解ってない「歴史上の地震」として、“未知”なものに対しての対策は退けてしまいました。“未知”の地震が起こり得ることは、阪神淡路大震災などで日本は経験済みのはずです。

本来、危機管理の要諦は“想定外”に備える事です。山登りなら天気予報が晴れでも雨合羽を持っていく、旅行なら予算より多めにお金を持っていく、それと同じです。しかし現代の新自由主義的な風潮は、効率のみを追求して“想定外”への備えは非効率としてコストカットして“想定内”に限定した対策や計画に満足し、“想定をし尽くした”として退けた可能性は“無いこと”としてしまうのです。これは社会を主語とした一種の自己欺瞞です。

 

※1専門家会議の尾身茂副座長の5/11の答弁。※2インフルエンザ関連の死亡者数が2月下旬から3月末の期間に例年の平均値を約300人も上回る異常値となっており、新型肺炎による死者(未検査)が相当数含まれるのではないかと疑われている。
 

「どこを生かして、どこを捨てるか」 選別する社会の病理

緊急事態宣言前、発熱があっても解熱剤を服用して出勤する人が後を絶ちませんでした。本人だって本当は仕事に行きたくないはずです。しかし、休むことが許されないような業務の仕組みが個人に矛盾を押し付けます。業務には“想定をし尽くした”計画があって、風邪などの計画外のエラーは自分の評価を下げるため、人も壊れない機械のように“騙し騙し”振る舞わなければなりません。もし壊れてしまえば、自分が捨てられる恐怖があるのです(※3)。

未知のウイルスは、社会の自己欺瞞や矛盾を暴き立てました。既に3月から全国各地の保健所は電話が繋がりにくくなっていました。公務員を削減してきた結果、有事の際に対応できる余剰人員がいなかったのです。現在流行している経済政策や経営の方法論は「選択と集中」です。利益を生みだす分野にリソースを集中し、非効率な分野はカットする。この考えは、コロナ禍で立ち行かなくなる事業者があっても「業界再編や雇用の流動性が進むので、弱い事業者は潰れても構わない」という選別の思想(※4)となります。同様の議論は、介護保険業界再編を視野にささやかれています。曰く、「小さい事業所は潰れて貰って枯渇している介護人材を流動化させ、介護事業を大手数社に集中させた方が、効率的に介護提供ができる」という主張です。この考えは、「医療費や介護費用をもっと削減せよ」「生産性がない高齢者や障害者への税金投入は無駄(※5)」という選別の極論に道を開きます。社会のあり方は、誰もが社会的弱者になり得るとして考えなければなりません。「今だけ・ここだけ・自分だけ」といった風潮は、自分自身も要介護高齢者や障害者になり得るという“既知”の可能性を排除するから成り立つのであって、「今の自分さえ良ければ」という考えは、未来に手渡すべき社会や環境を棄損し、結局は自分の首を絞めるのです。人は、あらかじめ結果が判っていれば自分は愚かな事はしないと考えます。人は、多くの可能性の中から“想定内”の自分を選別して、退けたものは“無いこと”として、自己イメージを形成してしまいます。だから忘れた頃に過ちが繰り返され、それが禍となるのです。

老いや死を忘れた社会に対して

コロナによる混乱は人々の不安を呼び覚ましたが、自分や社会が良く変わっていく機会にもなります。不安とは不確実な未来への恐れです。普段は忘れている可能性が自分の視野に入ってきた時、急に綱渡りをしているような怖さを味わいますが、不確実な未来をただ恐れるのではなく、確実な結果から現在を見つめ直してみるのも一つの手です。例えば自分がどのように死ぬか、それは“わからない事”です。しかし、自分が死ぬことは確実です。運よく若くして死なずに老齢にさしかかったとしても、老いをどのように生きるのかは“わからない事”かもしれませんが、老いていることは確実です。その時、「どうしよう」と慌てるのではなく、今から「こうしよう」と考えておく。見たくないものを考慮に入れてみることは、視野を拡げ考えを深めることとなり、自分や社会を俯瞰して見つめ直すことになるでしょう。

老いや死の側から人生を見る視点は、介護職だからこそ得られるものでもあります。私たち介護職の使命は、人生のラストステージが心の豊かな価値のある時間となるように支援することですが、老いや死を忘れた社会に対してその時間が意味のあるものとして“有ること”を示し、人々の記憶を呼び覚ましていくことにもあるのではないしょうか。

 
※3紙面研修参照 ※4選別の結果「一億総中流社会」と呼ばれた日本は格差社会となり、分厚かった中間層がやせ細り個人消費が低下。結局、日本の経済は活力を失った。※5自民党国会議員の杉田水脈は、LGBTは「『生産性』がない」から支援は「度が過ぎる」と2018.8の「新潮45」に寄稿し批判を集める。「新潮45」は杉田擁護の“差別肯定”の特集を組むがその後休刊。
 
熱中症にご注意下さい(自分も利用者さんも) ◎疑いがあれば、現場からすぐ連絡◎
 

紙面研修

 

認知の歪みに気が付く

 

物事は良い事ところばかりでも、悪いところばかりでもありません。しかし強いストレスを感じると、人は悲観的になりがちで、認知にも歪みが生じてきます。「認知」とは、「ものの受け取り方や考え方」という意味です。その歪みが更なる不安感や抑うつ感を引き起こす悪循環となります。

その時に考えていることはいったん脇に置いて、悲観的にも楽観的にも偏ることなく考えのバランスを取ることが出来きれば、ストレスに上手に対処して過度に自分を追い込んだりパニックに陥らずに、今起きている現実の課題に取り組んでいけるようになります。

先の「自分が捨てられる恐怖」は、社会構造の歪みが個人にも歪みを生じさせている例ですが、社会の風潮も先入観や固定観念となって個人の思考や行動に影響を及ぼしています。繰り返し同じような悩みやトラブルや不快な感情を抱えてしまうようなら、自動的にそうなってしまう“思考や行動の枠組み”があるのではないかと考えられます。「認知行動療法」では、問題が生じた「その瞬間に浮かんだ考え」(自動思考)に着目し、その考えの妥当性などを検証(話し合い)する事によって“自分の心の癖”(認知の歪み)に気が付き、思考の枠組みの修正を助けます。

以下で、認知行動療法の考え方を参考に、ある要介護高齢者の「もうダメだ」を自動思考として検証してみましょう。



 

 

 

 

 

検証は、バランスの取れた考え方を促します。しかし、「それを考えられないから私はダメなんだ」となってしまうかもしれません。そのような時は、「認知の歪み」があるのかもしれません。「認知の歪み」(ネガティブな語感なため「認知の偏り」とすることも)にはいくつかの類型がありますが、歪みがあるだからダメということではありません。悪循環するパターンにはまっている自分に気が付くことができれば、パターンを生じさせる枠組みから脱した思考や行動を自分に促すことができます。

 

【認知の歪み】(⇒気づきを促す「問いかけ」を考えてみました。責めるのではなく、気が付くように促す事が大切です。)

 

1.全か無か思考 (二項対立の思考 グレーゾーンが無い)

『100点でなければ0点と同じ』『理解してくれないないなら、あいつは切る』『若々しくなければ死んだも同然』『遊びでやってるんじゃないんだから、完璧にやらないと』⇒友人やパートナーや親は100点でしたか?0点でしたか?(グレーゾーンに気付く)

 

2.一般化のしすぎ (一つの事例から全部そうだと思う)

『いつも会話が続かなくなって、みんなに嫌われる』『今日は身体がだるい、もうずっと死ぬまで体調が悪いんだろうな』『体を悪くしたら、良い事なんて一つもないよ』⇒昨日はどうでしたか?一昨日はどうでしたか? 会話の続かない時はどんなときですか? それ以外は上手くいっているのですね?(例外に気付く)

 

3.心のフィルター (良いところが見えなくなる)

『ミスが無ければ満点だったのに、ミスが多すぎて自信を無くす』『歳を取ったら全部だめ、何にもできなくなった』『調子が良かったことなんて一度もない』⇒着替えはご自分でされているんですか?昨日はよく眠れましたか(眠れてる前提で)?(良いところに気付く)

 

4.マイナス化思考 (良いことを悪いことに変えてしまう)

『あんなに頑張ったけど、空回りなだけだった』『あの時の業績も運が良かっただけ』『前のはまぐれ、やっぱり失敗した』『皆に笑顔を振りまいてるから私はダメなのよ』⇒どうやってその運の強さを引き寄せたんですか? 頑張れたのはなぜですか?(良いところを掘り下げる)

 

5.結論の飛躍

心の読みすぎ (人の心を勝手に読む)

『あの笑い、私を見て「バカなヤツ」と思ったんだろうな』『ヘルパーさんに迷惑かけているに違いない』⇒迷惑だって言われましたか? 誰が思ったのですか?(事実ではなく自分の考えであることに気付く)

先読みの誤り(最悪の結論に飛躍)

『今日は身体がだるい、もう死んでしまうに違いない』『どうせ頑張ったって、失敗して責任を取らされるに決まってる』⇒お医者さんに言われましたか? 責任を取れ言われたのですか?(事実ではなく自分の考えであることに気付く)

 

6.拡大解釈と過小評価 (悪いところを針小棒大に 良いところは卑下 ※他人には逆)

『痛くて痛くて我慢できない』『自分なんて大したことない』『あの人は素晴らしいのに、私は全然ダメ』⇒立つ時に痛い?休んでるときも痛いのですか? 救急車呼ぶくらいですか?最大のダメを10としたらどれくらいですか?(客観性や具体性のある尺度に置き換える 極端化したところから思い直す)

 

7.感情的決め付け (自分の感情のみを根拠に、自分が正しいと結論する)

『自分が許せない!もうどうなったっていい!』『嫁が買ってきたものなんて、気持ち悪くて食べたくない!』『とは言ったって、ムカつくものはムカつく!嫌いだから嫌い!』⇒ヘルパーが同じものを買ってきたら食べるのですか? ヘルパーを嫌いになったらどうしますか?一週間前も同じように考えていましたか?(感情に振り回されている自分に気が付く)

 

8.すべき思考 (個別的な状況を考慮に入れずに理想を押し付ける)

『自分の事は自分しなければならないなのに…』『人に迷惑をかけてはいけない』『こっちは困ってんだから配慮すべきだ』『健康でなければならない』⇒人に迷惑をかけないで生きれたら本当に良いですね(「べき」を「ありたい」に置き換える 願いであることに気付く)

9.レッテル貼り (柔軟性のないイメージを貼り付ける)

『挨拶もしないなんて、あいつはろくでもない奴だ』『まったく私はダメな人間だ』⇒常にダメですか?ダメに気が付くのは良いところがあるからではないですか?(見方が狭くなっていることに気付く)

 

10.個人化 (全ての原因を個人に帰属させ、責任転嫁や罪の意識が伴う)

『私が生きていると皆が迷惑するでしょう。国の財政だって悪くなる』『チームが負けてしまったのは

全部私が悪い』『あいつが足を引っ張るから皆が迷惑するんだ』⇒皆とは誰ですか? 全部とは何ですか? 具体的な問題はどこですか?(問題を切り分ける)
考えてみよう(下記の表に記入してみよう)

 ・繰り返し同じような嘆きをされる方に、周囲の人はどのように話を聞いたら良いだろう?

(その方の自動思考を仮定して検証し、その考えを問い直す模擬会話を考えてみよう)
 



 

 

 

 

 
~ヘルパーミーティングは、6月は自粛します~

利用者さんの状況等・支援計画の変更の必要性の有無等の情報共有は、

随時、電話やメールやラインによって行ってまいります。各自、紙面研修を行って下さい。

(紙面研修を記入して提出して下さった方には、研修手当として1370円支給します)

 
※マスクやアルコールが事務所にあります。足りない方は取りに来て下さい。
 

 

 

 

 


紙ふうせんだより 4月号 (2020/05/29)

一緒に考えるコミュニケーション

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。コロナ禍によって、緊張感を強いられながら仕事をされているかと思います。ご苦労をおかけして申し訳ありません。こんな時だからこそ不安に呑み込まれずに地に足をつけ、できる事を積み重ねていきたいと思います。

悪手のリスクコミュニケーション

4月3日、在日米大使館は「幅広く検査をしない(※1)という日本政府の決定によって、新型コロナウイルスの有病率(※2)を正確に把握することが困難になっている」と指摘しました。日本政府の意図はともかくとして、以前から“検査数が少ないのではないか?”との声が巷にあり、一部のコメンテーターや専門家が「検査へのハードルを下げると不安にかられた人が検査に殺到して“医療崩壊”が起きる!」と批判を押さえ込もうとしていました。これがリスクコミュニケーションとしては実に悪手なのです。リスクコミュニケーションとは、リスクに備えたり対応するためにリスクに関する情報を関係者間で共有し意思疎通を図る事です。

日本政府の対応は、突然の「休校宣言」や一方的にマスクを送付するなど一方通行の態度に終始していました。当事者である市民と共に情報を共有しようという姿勢が薄いため、伝えられていない情報が有るのではないか?と市民は疑心暗鬼に陥りました。スーパーやドラックストアの店頭からは、市民が自衛した結果として商品が消えていきました。政府やその周辺からの情報発信の何が問題なのか。それは、「(市民は)合理的な思考をしないから間違った判断をしてしまう」という思い込みがある事です。コミュニケーションのパートナーであるはずの市民をパートナーとして認めずに見下していたら、意思疎通は成立しません。放置されたという疎外感から、社会が投げやりな雰囲気になってしまいかねません。

※1 Newsweek日本版の記事より。大使館は「帰国を望む米国民は即時に帰国に向けた用意を整えるべき」と呼びかけた。

※2 検査数が圧倒的に少なく検査人数の集計も杜撰なため有病率(陽性者/検査人数)のデータが得られなくなっている。

“上意下達モデル”では、もはや対応できない

コロナ対応が私たちに強いている緊張感とは一体何でしょう。それは「目に見えないモノに対して、適切に恐れなければならない」という矛盾です。目に見えないから怖いのです。しかし私たちは職業柄闇雲に恐れる訳にはいきませんし、「全員、無症状感染者だと思って行動を!」と行政は呼びかけますが、感染者だったら介護業務なんてできる訳ありません。「自粛の要請」も「お願いの強要」のような語義矛盾ですが、矛盾は強いストレスとなります。

矛盾した行動を強いられる中で、何をどのように考え自分を保ったら良いのでしょうか。

古いリスクコミュニケーションの考え方は、行政や専門家が一般市民を指導・教育するというものです。このような“上意下達モデル”では、上は下を無知のままに「お上」に依存させてしまい、権限の無い下は責任も無く上に明快な正解を求めます。しかしリスクが現実化した時、実際の選択肢や答えは一つではありませんから、「追って沙汰を待て」というやり方ではどうしたって遅延や矛盾が生じます。現代の情報化社会では不十分な情報提供はかえって不安をかき立ててしまう事を理解しなくてはなりませんし、目に見えないウイルスを正確なデータ等の提示によって“見える化”すべきところを、政府は怠ったのです。

新しいリスクコミュニケーションとは

新しいリスクコミュニケーションの考え方では、対応策という一つの「結論」が大切なのではなく、合意形成に皆が参加していく「過程」が大切だとしています。その過程の中で危機意識は共有され、相互作用によって対応策は変化しながら厚みを増していくからです。そして、インターネットやSNSは新しいリスクコミュニケーションを可能にしています。

この新しいリスクコミュニケーションの肝は、介護の支援過程の肝と当然ながら重なってきます。要介護者への支援は、転倒や介護度悪化などのリスクを前提とした関係性だからです。健康社会学者の河合薫は「リスクコミュニケーションとは一般の人たちの『知る権利』であり、リスクに対する彼らの不安や被害をできる限り減らすための唯一の手段なのだ」(日経ビジネスの3/10)としていますが、これは利用者さんやヘルパーさんに対する説明責任や相互コミュニケーションの重要性と同じです。また、土田昭司は「合意形成のプロセスにおいて深められた互いの信頼感によって(略)もたらされた現実を誰もが納得して受け入れられるようになる」としていますが、これは終末を見据えた支援とも重なってきます。

ともあれ、困難な時こそヘルパーさんや利用者の皆様を支えられる事業所でありたいと考えています。不安やわからない事があったら、その声を事業所にお寄せ下さい。元より介護には唯一の正しい正解などありません。皆で一緒に考えていく事、誰かに依存しない自分自身の考えの核を持つ事、これらが大切だと考えます。今後ともよろしくお願いいたします。

 
リスクコミュニケーションとは何か:安全心理学からの提言(日本保健医療行動科学会年報 Vol.27土田昭司)

Ⅱ-1.欠乏モデル(一部省略して引用)

分野によってその時期は異なるが、リスクコミュニケーションが導入され始めた頃(例えば原子力利用などの巨大科学技術の社会的受容を目的とする分野では50年ほど前)には、「住民や患者などの受け手は事象について事実にもとづいた正しい情報をもっておらずまた合理的な思考をしないから間違った判断をしてしまう。だから、情報の送り手である専門家が事実にもとづいた正しい情報や正しい考え方を受け手である住民や患者に正しく伝えることがリスクコミュニケーション(あるいはサイエンスコミュニケーション)である[=欠乏モデル]」と考えられていた。

この欠乏モデルは、正しい情報をもとに理性的に考えれば誰でも同じ一つの結論に到るはずであると前提されている。しかしながら、後述するようにリスク事象では結論となる選択肢が一つではない場合が多く、また、判断した結果がどのようになるかは不確実である。そのため今日では、正しい情報を正しく伝達すればリスクコミュニケーションは十分であるとは考えられていない。さらに、欠乏モデルでは、情報の送り手と受け手が対等とは想定されておらず、リスクコミュニケーションがともすれば高圧的な説得ともなりかねない。そのため欠乏モデルによるリスクコミュニケーションは受け手の反発や不同意をまねきやすく生産的な結果が得られにくいと指摘されている。

Ⅱ-2.参加と対話モデル

欠乏モデルによるリスクコミュニケーションの反省から、今日ではリスクコミュニケーションはリスク事象に関係するすべての人々(ステークホルダー)の合意を形成することを目的とする双方向のコミュニケーションであると定義されることが多い[=参加と対話モデル]」。さらに、リスクコミュニケーションを、「関係者の信頼をもとに(ないしは信頼を高めながら)行うリスク問題解決に向けての共考の技術」であるとも定義している。参加と対話モデルが意味する重要な点は次のように指摘できる。リスクコミュニケーションは合意形成を得るものである。したがって、単なる情報提供、教育、説得、あるいは、意思決定を一方に押しつけてしまうことなどはリスクコミュニケーションではない。

リスクコミュニケーションにおいては、成果よりもそのプロセスが重要である。リスクコミュニケーションはステークホルダー間の合意形成を達成する共考の社会的技術であるが、そのプロセスにおいて互いの信頼感を醸成し深めることが合意形成には必須である。合意形成のプロセスにおいて深められた互いの信頼感によって、リスク決定の結果が成功であれ失敗であれ、もたらされた現実を誰もが納得して受け入れられるようになるのである。

 
新型コロナウイルス感染症の状況

米国のブルッキングス研究所の予測による「日本の死者数」は最悪シナリオで57万人、最良で12万7千人との報道が3/6にでましたが、政府の対応は後手に回っていました。にもかかわらずヨーロッパと比べて日本の死者数は少なく抑えられており、BCGワクチンの接種がコロナによる重症化を防いでいるのではないかとも言われています。一方で市中感染は水面下で拡大していると考えられていますが、PCR検査の少なさから感染拡大の実態が判らないところです。慶応大学病院が感染予防の為に手術前にコロナ症状の無い67名に検査を実施したところ、4名が陽性となり有病率は6%となりました。その割合を元にした神戸大学感染症内科の岩田教授の試算では、東京都の感染者の実数は推定で23万~430万となります。日本の死者数は4/27現在(この数字が正しければ)394人となっており10万人あたり0.31人となっています。(394人/ 1億2596万人 東京都人口13,951,636人 2020.1)

 
【紙面研修:考えてみよう】

利用者さんから不安を訴えられた時、

どのように受け答えれば「信頼を高める」事になるだろうか。
 

出勤前の体調・体温確認、訪問時や前後の手洗い・うがい・マスクの着用をお願します。

早めの就寝や人混みを避ける等、また、ストレス解消の工夫をお願いします。

利用者さんのストレスにも気を配りながら、コミュニケーションで不安を和らげていきましょう。
 

※マスクやアルコールが事務所にはまだ少々あるので、足りない方は取りに来て下さい。

※もしヘルパーさんに感染があったとしても、責任をヘルパーさんに問う事はありません。現在(4/28)風邪症状によるお休みのヘルパーさんはいたものの、ヘルパーさん・利用者さんに検査実施による陽性判明者はいません。

※利用者さんには、必要に応じて換気や手洗いやうがいを促して下さい。

※以下の文章は利用者さんに配布したものです。
ご利用者の皆様へ(新型肺炎の件)

【感染予防の取り組み】ご安心下さい

ヘルパー(及びケアマネージャー)は、以下の取り組みを行っています。

出勤前に体温を測るなどの体調の確認を行っています。

訪問前に、事務所や前のお宅や移動途中の公園等で手洗い・うがいをしたり、アルコール等で消毒を行うなど、衛生に努めています。

ヘルパーに風邪の症状が見られる時は、そのヘルパーの訪問は中止します。

(厚労省の基準では37.5度以上の発熱で出勤停止となっていますが、それよりも厳しく対応しています。)

 

【訪問時のお願い】ご了承下さい。

必要に応じてマスクを着用させて頂きます。

手洗い・うがいのために手洗い場所をお借りする事があります。

訪問時には、ご利用者さんの体調を伺います。心配な事があればお伝え下さい。

必要に応じてご利用者さんの体温測定をお願いしています。ご協力お願いいたします。

ご利用者さんに手洗い等をうながすことがあります。

 

【ご利用者の皆様の体調や生活について】 不安のある方はご相談ください。

帰宅時に手洗い等を行って、感染症予防に努めて下さい。

(ご家族の方へ)消毒関連の商品の流通が不足しています。いわゆる“ハイター”(塩素系漂白剤)と呼ばれる商品を水で薄めることで消毒液を作る事ができますので、参考にされて下さい。ドアノブや電話機、テーブルなど手をふれるところの拭き掃除に利用できます(手が荒れるのでご注意下さい)。

 
商品名 作り方
ハイター

キッチンハイター

 
水1Lに対して

商品付属のキャップ1杯

 
ブリーチ

キッチンブリーチ

カネヨブリーチ

カネヨキッチンブリーチ
水1Lに対して

商品付属のキャップ

半分

 
 

消毒用の0.05%次亜塩素酸ナトリウム水溶液の作り方(厚労省)

感染予防のためだからと言って、室内に閉じこもりがちの生活をすると、かえって運動不足から体調や介護状態の悪化をまねく恐れがあります。そのため、厚労省も散歩や室内運動を推奨しています。人の少ないところでの外出歩行(必要があればご相談下さい)や、室内での運動に努めて下さい。

 


ヘルパーミーティングは非常事態宣中は開催いたしません

 

利用者さんの状況等・支援計画の変更の必要性の有無等の情報共有は、

随時、電話やメールやラインによって行ってまいります。
 


紙ふうせんだより 3月号 (2020/04/30)

人権」は誰のもの?

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。3月16日、やまゆり園事件の被告に死刑判決が下されました。判決を受けても被告は「死刑に値する罪ではない。時間と金を奪う重度障害者に基本的人権はない」と述べているようです。これを特異な性格による特殊な事件として考えてはいけません。事件当時インターネットには犯行を賞賛する声が多く見られたからです。被告もその賛同者も、「人権」を与えたり奪ったりできるという誤った考えを持っています。人権とは法律や国家の規定に関わらずに、全ての人が生まれながら持っているものです。

「人権」を教えない日本の義務教育 道徳教育の問題
「日本の学校教育制度における人権教育(※1)」によると、2002年から導入される学習指導要領(※2)において「人権または人権問題は、いくつかの学年で「教えなければならない知識」に指示されているが、人権教育は、教科あるいはコース、あるいは課外活動として指示されてはいない。自立・平等・人間の尊厳・寛容・世界平和などの人権に関わる概念はいずれも「道徳教育」に含まれている。しかし、自由及び人権という概念は道徳教育ではふれられていない。」となっている。自分が受けた義務教育内容を思い出してみても容易に想像がつくが、「個人の尊厳」や「個人の自立」などの確固としたものは無く、ただ“仲良く”“皆で一緒に”といった全体志向の中に“友達を大切にしましょう”“思いやりを持ちましょう”と情緒レベルに人権が薄められて、きちんと人権が教えられていないのだ。人権を理解する為には「個」の多様性を考える必要があるのに、道徳教科書は、かけがえのない「個」に焦点を当てないで、全体の“秩序維持”が重視されている。(※3)
例えば小学一年生の道徳教科書では、カボチャが蔓を自由に伸ばしている様子を“ワガママ”と捉えて、“皆が困っている”とし、犬がカボチャを踏みつける行為(イジメ)を助長している。本来植物は光を求め自由に伸びて行くものだ。その自然の営みを超越的な存在の車に轢かせてしまう事は、子供に対して「自分らしく自由に育つな」「和を乱したら制裁されるぞ」と脅しているようなものだ。これでは「きそくただしい せいかつ」ではなく、「学校の規則を守れ」という大人都合の命令でしかない。

※1鍋島祥郎(大阪市立大)他

※2約10年に一度改訂

※3人権侵害は全体(多数・政府・強者)対少数という構造的な権力関係の非対称性(構造的暴力)があり、それにお墨付きを与える文化的暴力(社会の風習や文化)が背景にある。


他者の痛みへの共感を教えない道徳教科書


 このような刷り込み教育の結果、日本では個人の尊厳よりも集団の輪を乱さない事が大切な事となってしまった。日本の社会では全体の秩序維持のためには、少数者への人権侵害が許されてしまうのだ。社会保障費が枯渇しているという財務省発信の刷り込みが蔓延して久しい現在、やまゆり園事件に同調する者が「障害者はお金がかかるから皆の迷惑」と考えてもおかしくはない。だが、ちょっと待って欲しい。人には他者に共感する力があるはずだ。いくら大義名分があっても、他者の痛みへの共感によって、障害者差別が悪いという事くらい解るはずではないのか。では「かぼちゃの つる」の「まなびの てびき」を見てみよう。全ての項目がかぼちゃから“反省”の言葉を引き出す誘導となっている。この設問の流れでは、素直な子供が「かぼちゃだって言い分あるのにな」「痛いだろうな」と思っても、授業の空気を読んで発言を控えてしまうだろう。こうやって子供は同調圧力に順応し長い物に巻かれる事を覚えていくのだ。

人々が「人権」を知らない事によって、誰が得をするのか

人権思想は専制君主の横暴に対抗して西洋で生じました。王の権力は“人民を守る”との人民との約束(義務)によって成り立っているので「人民を守れ」と国王に要求できる。これが人権です。そしてフランス革命やアメリカ独立革命という命がけの戦いがあって、人権思想は確立していきます。明治になって日本にも人権思想が入ってきました。生まれながら持っている人権には「天賦(ぶ)人権」という訳語が当てられました。「天(※4)」とは自然の摂理です。しかし当然現実の社会は、権力を持つ者によってあるべき状態が歪められ、身分の下の者の人権はないがしろにされていました。福沢諭吉(※5)は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と『学問のすゝ(す)め(※5)』で訴え、学問を身に付ける事によって差別を乗り越えて行けると主張しました。『武器』があれば弱者も権力と戦う事ができるのです。福沢は「愚民の上には悪い政府、良民の上には良い政府が理(ことわり)。人民が学問を身に付ければ政府の法も良くなる」との趣旨を述べています。良い介護、良い政治、良い社会、悪人に騙されない事、より良き自己への道は、まずは自分自身が何をどのように『学ぶ』のかが大切なのです。



↑Twitterの犯行を賞賛する声

※4植木枝盛は『天賦人権弁』(1883)で天賦人権は 「天然の人権」であり「国家ありて然後にその法律の上に生じたるもの」とは異なると述べた。

※5明治六大教育家の一人。中津藩の蘭学塾を慶應義塾に改める。

 

紙面研修

どうやって人権が奪われていったか

 

【“ニーメラーの警句” 明日は我が身】

第二次世界大戦中、ナチスドイツ民族浄化と称して600万人以上のユダヤ人や20万人の障害者を虐殺している(虐殺総数は1100万人との説も)。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、当時世界一民主的な憲法と呼ばれたワイマール憲法の中にある緊急事態条項を使って、憲法の効力と人権を停止させて独裁政権を完成させた。ナチスの手口は、ナチスがテロを自作自演(国会議事堂炎上事件)し、それを共産党の責任として共産党や野党を弾圧、国家防衛を口実に国民の基本的人権を停止する大統領令を出した。この大統領令がユダヤ人迫害、ホロコーストへとつながっていった。この時の事を反省する有名な警句がある。キリスト教の牧師だったドイツ人のマルティン・ニーメラーは、最初はナチスの支持者だった。しかし、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、反ナチスとなった。ニーメラーは強制収容所に収容されたが、ホロコーストをまぬがれ収容所から奇跡的に生還し、反戦平和運動に生涯を捧げている。ニーメラーは、誰かへの人権損害を放置した結果が自分自身への人権侵害となる事を警告する詩を書いている。

「彼らが最初 共産主義者を攻撃したとき」

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
 
考えてみよう

 ・誰かへの「人権侵害」を目撃した時、自分はどうしたら良いだろう?

・なぜ「人権侵害」が悪いのか、どうやって説明しますか?

・日常に潜む人権侵害にはどんなものがあるだろうか。
 
私たちの生活を支えている「人権」と「権利」(一部抜粋)

自分の思ったことを自由に口にすること、自分の選んだ宗教を信じること、自由に学ぶこと、自分の選んだ人と結婚すること、好きな服を着ること、好きな音楽を聴くこと、病気になったら医療を受けること。これらはすべて、私たちが持っている「人権」です。

今の日本では、「あたりまえ」だと思われているこれらの人権。しかしこれらは、ずっと「あたりまえ」だったわけではありません。これらの人権を「あたりまえ」にしたのは、これらの人権がないために苦しんできた無数の人びとの願いと命をかけた努力なのです。

私たちが暮らす社会には、色々な権力関係があります。警察と一般の市民。会社の経営者と、被雇用者。学校の先生と生徒の間にも力関係がありますね。

権力は、どのような社会においても、かならず生まれます。秩序をつくるために権力が必要なことも少なくありません。警察がいなければ、強盗や泥棒から身を守るのは大変です! でも、権力はよく乱用されます。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する。」という格言もあります。何も策を講じなければ、弱い側は虐げられる一方になりかねません。そこで、権力関係の中でも人間の尊厳が守られるように、弱い側が「人権」という概念を生み出したのです。

(アムネスティ・インターナショナルHPより引用。アムネスティ・インターナショナルは1961年に発足した世界最大の国際人権NGO、1977年ノーベル平和賞受賞、翌年に国連人権賞を受賞)
 

現行の道徳教育は2006年の教育基本法の改正(第一次安倍政権)によって愛国心教育等が義務となり道徳が教科として学習達成度を評価されるようになったが、問題点が多いとされ様々な団体が意見表明をしている。「子どもに対し、国家が公定する特定の価値の受け入れを強制することとなる点で、憲法及び子どもの権利条約が保障する個人の尊厳、幸福追求権、思想良心の自由、信教の自由、学習権、成長発達権及び意見表明権を侵害するおそれがあり、見直されるべきである。」(東京弁護士会)


紙ふうせんだより 2月号 (2020/04/30)

虐待防止と権利擁護(ようご)

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。梅の花が綺麗に咲いていますね。寒さもインフルエンザも峠を越していますので“一安心”と言いたいところですが、新型コロナウイルスが流行の兆しです。むやみに公共物を触らない、触った手で目や鼻や口を触らない、手洗いうがいの励行、マスクを着用(予防効果は高くはないようですが)するなど意識的に予防を心がけましょう。さて、前号では倫理の根幹にある「人権」について意識的になる必要性を述べ、複雑な課題も「権利擁護(※1)」に集約されるように記しましたが、今号ではさらに深堀りをして虐待の構造の中にそれを見ていきたいと思います。

虐待件数はなぜ減らないのか?

(下画像:2019.3.26産経新聞より)

平成18年に高齢者虐待防止法が施行され、それ以来さまざまな介護保険事業所で虐待防止研修が行われてきました。しかし、施設職員による虐待件数が11年連続で増加し続けています。厚労省は「社会的関心の高まりで通報件数も増え、虐待が顕在化してきているのではないか」としています。社会的関心の高まりは同時に介護職員や施設の意識も高めているはずで、相談・通報に対する虐待判断の比率は確かに年々低下しており、介護保険事業の取り組みは一定の効果を上げています。一方で、昨年は虐待殺人事件(※2)が発生しました。背景には人手不足も指摘されていますが、他人事ではなく自身の事として虐待に至る要因を考えてみましょう。

※1アドボカシーの訳語。法律用語では「社会的弱者やマイノリティーの権利擁護・代弁」「社会環境による性差撤廃」「地球環境問題」など広域な分野での活動や政策提言を意味していた。医療介護領域では、自ら自己の権利を充分に行使することのできない終末期患者や障害者、アルツハイマー病、意識喪失の患者などの権利を代弁することなどがあげられる。

※2 昨年4月には有料老人ホームで夜勤中の介護職員が利用者を暴行して殺してしまう事件も起きた。

 

虐待は無防備な“善意”から生じる

増え続ける虐待判断件数の中には、「“悪意”は無かったにも関わらず、虐待判断となった」または、「“善意”で行ったにも関わらず虐待判断となった」というケースも含まれている事でしょう。介護職員は研修等で 「虐待は良くない、これをやったら虐待」という事は学んでいるはずです。にもかかわらず「虐待」だと思い至らずに、自分自身が当事者になってしまうケースが確実にあるのです。善意は、それが善意であるがゆえに、善意の行為者自身から疑われにくいという傾向を持っています。ことわざには「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」とありますが、曲がった牛の角を“善意”で見栄えよく真っ直ぐにしてやろうと叩いたり引っぱったりしていたら牛が死んでしまった、というものです。自らの“善意”に対して疑いの目を持たない“善意”は無防備です。無防備な“善意”は結果的に“悪”となってしまう事があります。そのような善意の罠に陥らないようにする為には、自分自身の“善意”を疑ってみるという、自分に対する厳しさが求められます。他人の人生に関わる対人援助職という責任上、そのような内省は必須のものなのです。

多数者の利益を優先する社会とは?

線路を走っていたトロッコが制御不能になり、このままでは前方の作業員5人が猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう状況を仮定します。目の前には線路の分岐器があり、『私』が操作をすれば5人の命は助かります。しかし、実は切り替えた先にも1人の作業員がいて、5人か1人のどちらかの死が確実で避けられないものである場合、『私』はどうするべきだろうか。『私』が何もしない場合5人が死に、『私』が分岐器を操作すれば1人が『私』によって殺される…。倫理学の思考実験の「トロッコ問題」が突きつけているのは、「多数のために少数への犠牲の強要は正義か?」という問いです。多数が利益を得る代わりに、『私』が1人の人間を直接的に加害しなければならない場合、大抵の人は躊躇します。しかし現代社会は、そのような加害が明確には見えないようになっていて、多数者への利益という“善意”によって、1人に対する加害が隠されています。「多数の為には少数が犠牲になっても構わない」という考えを突き詰めると「全体の為には個人は命を捧げるべきである」という社会になります。そのような社会では、非対称な権力関係があるために権力者や政府の利益は守られる一方で個人の権利はどんどんと奪われて、権力を持たない大多数の権利も侵害されていきます。「トロッコ問題(※3)」から言えるのは、倫理的問題の善悪の判断は「人数や利益の量の問題では無い」という事なのです。しかし現実には、“会社の利益の為には多少の過労死はやむ得ない”“生産性の無い障害者への社会保障は削減すべき”“家族皆が困っているから○○さんには施設に入って貰いましょう”“職員の皆が困るから〇〇さんへの身体拘束はやむ得ない”“自分が皆に迷惑をかけていると思うなら遠慮すべき”といった、多数の利益という“善意”に巧妙に隠された個人への犠牲の強要、100人への人権侵害は許されないが5人への人権侵害は許される」といった考えが存在しているのです。



※3論点を明確にするために「臓器移植を受けなければ確実に死ぬ患者が5人いて、臓器移植をすれば救命されて完全な健康体になると解っていて、5人を助けるために1人の人間が犠牲となって健康な身体から臓器取り出して5人に提供する事は倫理的に可能かどうか」というバリエーションもある。

虐待は非対称な権力関係の中で発生する

現実の社会は様々な主張の折り合いによって成り立っているのですから、実際全ての主張を通すわけにはいきません。場合によっては苦渋の決断というのもあるでしょう。そこで、折り合いを付ける最低限のルールとして、まず「基本的人権の尊重」があります。その次に力関係に差(非対称な権力関係)がある場合は、弱い立場にある人の生命や権利や利益を擁護するべきであるという「権利擁護」の考えが必要となります。「トロッコ問題」を再び思い浮かべて下さい。5人の家族が自分達の安らかな生活の為に1人の利用者さんを「施設に入れてくれ」と声高に主張して、利用者さんは沈黙していたとします。そのような場合、支援者は力関係に引きずられて1人の犠牲を安易に“良し”としてしまいがちです。だからこそ自分で自分の権利を守れない方への「権利擁護」が福祉職の使命とされているのです。

虐待(※4)のほとんどは不適切ケアの延長にあると言われています。不適切ケアは、介護職員が多数の介護職の為に“良かれ”と思って、職員都合のルールを1人の利用者さんに押し付けてしまうところから始まります。介護職員個人が架空の全体に同一化して「少数の犠牲は全体の為だ」と自己正当化して「やまゆり園事件」は起こりました。誤った善意を正当化しない為には「権利擁護」や「基本的人権の尊重」などの基準が自分の中に必要なのです。

 

※4介護職員と利用者の力関係も非対称である。

 

紙面研修
不適切ケア・倫理・法令遵守の関係 


不適切ケア「勝手に物を捨てる」

利用者さんと話をしていると、「ヘルパーさんの勝手に捨てられた」と言われる事があります。大抵は、利用者さんの了解を得て捨てているのだと思いますが、中には??と思う事もあります。ある利用者さんは、味噌汁を歩行器で運ぶためにコンビニのドリップコーヒーの容器を洗って保管していました。それを、ゴミだと思った誰かが捨てていました。ゴミかどうかを決める権利を持っているのは誰でしょう。

 

不適切ケア 利用者さんの物を勝手に捨てる
職業倫理 利用者主体のケアでは無かった 説明責任を果たしていない
人権問題 自己決定権の侵害・所有権の侵害
法令遵守

(高価な物の場合)
高齢者虐待防止法の経済的虐待の可能性→罰則規定なし
刑法の器物損壊罪→3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料
(持ち帰った場合)刑法の窃盗罪→ 10年以下の懲役又は50万円以下の罰金
 
勝手に捨てたと言うような場合は、その物が価値の低い物と判断しての事でしょう。刑事事件の実際では物の価値は基本的には「時価」で合理的に判断されます。しかし、その物の価値があるか無いか感じを決めるべきは、本当は誰でしょうか。「利用者さんの物を勝手に捨てる」という不適切ケアの延長線上には、利用者さんの判断を仰がない、気持ちを考えない態度が状態化していきます。気が付けば利用者さんに対して介護職員が“介護”“支援”“あなたのため”という理由の下に権力を行使し支配するという「虐待」に発展するのです。「〇〇すると虐待」というマニュアル思考的なNGリストで考えるのではなく、虐待を引き起こす「非対称な力関係」という構造に目を向けていきたいと思います。

 
考えてみよう

 ・どうしてこのような不適切ケアが始まってしまったのだろう

その理由をいくつか考えてみよう。(例・家族が「捨てて下さい」と言った)

不適切ケアにならないためには、どんな対応が考えられるだろう

(例・捨てられない理由を本人に聞く。捨てる必要を家族からも本人に説明してもらう)

不適切ケアを引き起こしやすい利用者さんの状況について考えてみよう(例・耳が遠い)

不適切ケアを引き起こす職場環境要因について考えてみよう(例・時間が無い)

不適切ケアは、他にはどのようなものがあるだろうか

・不敵切ケアを引き起こしてしまう自分自身の要因について考えてみよう(例・弱い)





世田谷区帰国者・接触者電話相談センター 03-5432-2910 (平日8:15-17:15)

世田谷区新型コロナウイルス相談窓口(世田谷区保健所) 03-5432-2111 (平日8:15-17:15)

(休日・夜間)東京都帰国者・接触者電話相談センター 03-5320-4592

 


紙ふうせんたより 1月号 (2020/02/27)

自分の可能性を拡げるために

ヘルパーの皆様、あけましておめでとうございます。年末年始の稼働・忘年会・新年会等、お疲れ様でした。乾杯のグラスの泡に時の移ろいを浮かべては、せわしない我が身とこの世を飲み干してやろうと思った私ですが、束の間の憩いに酔いながら、これからも皆様と少しだけでも良い交わりをして、困り顔は少しだけでも明るく変えて行ければと願った次第です。

悪くなるのを防いで良くなるために

さて、どうしたら良いでしょう。「智に働けば角かどが立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」とは、夏目漱石『草枕』の冒頭です。世の中と自分がどのように関わって生きるのか。人の世も人自身も、ひとところに安定して存在し続けられるものはありません。どうせ変わって行くのなら、自分自身に良い事を勧め、悪に流されないようにしなければなりません。

法律と倫理

まず、最低限度の事として「何をしてはいけないか」という事は法律に書かれています。法律は、外的な強制力(刑罰など)をもって悪を防止しています。法律は、誰かの権利を侵害してしまう、もしくはしかねない行為(公共の福祉に反する行為)を禁じています。逆に言えば、誰かの権利を侵害しない限りは何を行うのも個人の自由です。そのような「個人の自由を侵害してはならない」という「基本的人権の尊重」が、法体系の原則となっています。

では、法律を守ってさえいれば人は悪い方向に流されないのか、と言えば答えはNOです。これ以上は罰せられる“犯罪だよ!”という線引きを法律は示しますが、安易さに流されてしまう個人の心の中には、法律は干渉してはならないのです。ここで言う安易さとは、他人の状況などは視野に入れないで「自分の思惑のみを最優先にする」というものです。例えば、移動中に転倒している老人を見かけたとします。助け起こしていては約束の時間に遅れてしまいます。自分の都合を最優先して老人を無視しても法律に触れる事はありません。しかし、そのような“見て見ぬふり”の生活習慣を積み重ねていると日常的に視野が狭くなっていきます。そして「これぐらい良いだろう」「どうせ大丈夫だろう」と、安易に自分の思惑で行動していたら、気が付いたら法を犯してしまっていたという事があるのです。このような自己中心性の罠に落ち込まないためには、法律や他人の目などの外的条件に依存するのではなく、自分で「内的な自律」を育む必要があります。それは、自らの行動を「最善」へと導くために、絶えず自分を問う意志を持ち、そのための判断基準を自分は持っているのか? という事なのです。では、そのような判断基準となる普遍的なものとは一体何でしょうか。

 

倫理
「どのような行為が正しいか」を示す 「どのような行為が正しくないか」を示す
内的な自律から生じる 外的強制力によって作られる
 
倫理の中核にある「人権」

「医療現場で看護職が直面する倫理的課題は、法律がそれを解決してくれるものではありません。『その場面においてどのような行為が最善であるか』という倫理を持ってでしか、倫理的課題は解決することができないのです」と、日本看護協会のホームページにはあります。介護の現場でも同様です。例えば、セルフネグレクト(自暴自棄)の方が命に関わりかねない状況の中で「ほっといてくれ、俺に構うな!」と言われているようなケースをほっといても、法律では問われません。支援者側にはあきらめる選択肢が残されつつも、倫理的な課題は残ります。このようなケースは、支援者が踏みとどまって「最善」とは何かを考え続け、最善を尽くそうとする努力によって、少しずつ状況が変わるかもしれない性質のものです。変わらないかもしれません。しかし「変わらない」と決めつけるのは簡単です。そのような安易な決めつけに流されない努力が、支援者の倫理観(最善を目指していこうとする「内的な自律」)を育むのです。

さて、このケースの倫理的課題とは一体何か考えてみましょう。「倫理」を辞書で引くと「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。」とあります。このケースでは、「俺に構うな!」という「自己決定権」と命に関わる「生存権」が競合状態(コンフリクト)を起しているのです。そのどちらもが普遍的な規準である基本的人権として守るべきものであり、安易に片方を無視してしまったら、それは“支援”という名の人権侵害になってしまいかねないのです。この競合は根源的には二者択一の対立関係ではなく、「誰もが生まれながらに持っている自分らしく幸せに生きる権利」を支援者がどこまで尊重できるのか、支援者自身に問われている『権利擁護』(アドボカシー(※1))の問題なのです。

人の命と、その命に基づく緒権利を守る

基本的人権は「侵すことのできない永久の権利(※2)」として、日本国憲法でもその保障が謳われています。世界人権宣言(※3)には「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」とあり、法や国家の枠組みよりも人権は自然権(※4)として上位にあります。『人権を守る』とは、特別な話ではありません。「人の命と、その命に基づく緒権利を守る」という倫理的に正しい態度を、どんな状況でも誰に対しても貫こうというものです。これが正しく理解されたならば、ルールやマニュアルに依存しなくても、権利侵害は悪だと自ずと理解されます。例えば、“外国籍の人が生活保護を受給する事(生存権の保障)はケシカラン”という発言の誤りや、“認知症だから本人に断りなく(※5)「物を捨てた」(自己決定権の侵害)、勝手に「貰った」(所有権の侵害=窃盗)”などは、悪だという事は自明なのです。

ともあれ、悪くなるのを防いで良くなるためには、あらゆる隷属(れいぞく)を排して人間の解放を目指す「人権思想」を自分のものにしていく事です。もしそれができたなら、人は自分らしく幸せに生きる権利も能力も生まれながらに持っているという事が、自身に対しても本当の事として信じられ、自分の可能性を限りなく拡げて行けるのではないでしょうか。
※1弱い立場にある人の生命や権利、利益を擁護して代弁すること。

※2第11条

※3 1948年国連総会で採択

※4人間が、自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階より保持している生命・自由・財産・健康に関する不可譲の権利。人権は自然権の代表的なものとされている。

※5経済的虐待の可能性もある
 
紙面研修
セルフネグレクトへの支援
 セルフネグレクトの方への支援は、人権・法的根拠・権利擁護への理解や、支援者の倫理観、対象者の心理的課題、関係機関との報告相談・組織的対応、公的・非公的な様々なサービスの活用、現場での“心を開いて貰う”工夫、支援者のストレスマネジメントなど、あらゆる要素が関わるため、支援者にも多くの学びをもたらす貴重な体験となります。今回は、倫理的判断に関わる日本の構造的な問題を1点指摘します。

 
介護・医療サービスの利用を拒否するなどにより、社会から孤立し、生活行為や心身の健康維持ができなくなっている、いわゆる「セルフ・ネグレクト」状態にある高齢者は、高齢者虐待防止法の対象外となっています。しかしながら、セルフ・ネグレクト状態にある高齢者は、認知症のほか、精神疾患・障害、アルコール関連の問題を有すると思われる者も多く、それまでの生活歴や疾病・障害の理由から、「支援してほしくない」「困っていない」など、市町村や地域包括支援センター等の関与を拒否することもあるので、支援には困難が伴いますが、生命・身体に重大な危険が生じるおそれや、ひいては孤立死に至るリスクも抱えています。必要に応じて高齢者虐待に準じた対応を行えるよう、高齢者の見守りネットワーク等の既存のネットワークや介護保険法に基づく地域ケア会議も有効活用しつつ、セルフ・ネグレクト状態にある高齢者に対応できる関係部署・機関の連携体制を構築することが重要です。「市町村・都道府県のための養介護施設従事者等による高齢者虐待対応の手引き」
 

医療倫理の4原則 原則とは、他の原則と対立しない限り常に拘束力をもつ一応の義務。恣意的に無視できる経験則ではないが絶対的な拘束力があるわけではない。問題の解決への指針となる根本的な行動基準。

自主(自律)尊重原則→自己決定権を尊重する。患者が自律的な自己決定が出来るように支援する。

無加害(無危害)原則→悪くなるのを防ぐ。悪くなる治療をしてはならない。

与益(善行)原則→良い事を勧める。良くなるように治療する。

公平・正義の原則→治療を行うにあたって差別や不公平があってはならない。
原則の競合の例

末期患者へのモルヒネ等の鎮痛剤の使用は、寿命を短くする効果(加害)と同時に、苦痛を軽減する効果(与益)がある。
日本の社会の問題点 「パターナリズム」が強い!

パターナリズム(※1)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の“利益のため”として、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することを言います。これは介護現場でもよく見られます。「もう決まった事だから、デイサービスに行って下さい」という“命令”や、嘘をついて認知症の方を丸め込む(※2)支援方法などです。“与益”を優先して利用者さんの自己決定権を安易に無視してしまうのです。

このように「自主尊重原則」が無視されがちな文化にあっては、福祉サービスに対する安心感や信頼感は低下します。結果として利用者さんの援助を求める意欲は低下し、サービスを利用する前から「施設は怖いところ。サービスは受けたくない」などという頑なな気持になっています。このような社会的な構造によって本当に援助が必要な時に助けを求められず、サービスの恩恵(与益)を受けられなくなるのです。

【参考】「愚行権(※3)」人には他人に危害を及ぼさない限り、自分の生命・身体・財産に不利益となる事でも自己決定し、行う権利があります。(医者に注意されているのに酒を飲む。ギャンブルをやめない。等)
利用者さんはなぜ“拒否”してしまうのだろう? その「拒否」の理由は何だろう?

心身機能の低下→聞こえない、見えない、理解できない、意欲がわかない

情報不足→説明が足りない、お金が大変そう、納得がいかない

不安や恐怖→自分はどうなるのか? 解らないから嫌だ、何されるか解らない

経験による→前に嫌な事があった、その話に触れて欲しくない、信用できない

支援者の態度→一方的に話す、私を解ってくれない、押し付けがましい

 
※1 paternalismとは、親が子どもを養育するような態度を他者に対してとること。ギリシャ語の父親(パテル)に由来し、温情(干渉)主義などと訳される。※2これは「バリデーション」でNGケアとされる“やりすごすケア”(パッシング・ケア)です。介護者は手を変え品を変え誘導しようとするものの、利用者には、「何だかよくわからないけれど、嘘をつかれている」と感じさせ、かえって不安にさせてしまう。※3ジョン・S・ミルが『自由論』(1859)で展開
 


紙ふうせん便り 12月号 (2020/01/31)

私達の使命とは何か

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。皆様のおかげで祖師谷訪問介護事業所の開設から一年が経ちました。梅丘もケアマネさんや訪問の社員が増え、大所帯になってきています。日頃からの皆様のご協力に感謝いたします。年末年始に稼働されるヘルパーさん、本当にありがとうございます。皆様が健康を維持され利用者さん共々に無事に年を越されるように念願しています。年末なのであらためて視野を拡げて介護について考えてみましょう。

目的が明確になる事によって高まる喜び

企業の目的は、サービスを通して社会(顧客)に貢献する事です。私たちが仕事をする事は、企業という枠組みを通して社会(顧客)に貢献する事です。企業の目的が明確になり正しく進んでいるならば、従業員の会社への貢献は、そのまま社会への貢献となります。これは「仕事のやりがい」にも直結します。自分自身が、誰のために何の為に働いているのか明確になれば、労働意欲は高まります。顧客のニーズに気付く力は高まり、会社の業績も伸びていくでしょう。逆に、社会の風潮や企業が目先の利益だけに捕らわれていると、個人の視野も「生活の為」「お金のため」だけに限定されてしまいがちです。そうなると仕事は面倒な作業をこなす時間の切り売りとなり、意欲は低くなってしまいます。目的が不明確で視野が狭い生き方からは、自分自身の人生を自分らしく生きているという豊かな実感は生じてくるでしょうか。人と人の様々な社会的な関わりは必ず誰かに影響を及ぼします。「善い関わり」という目的意識を明確にして、それを自分の態度に具体化させていく事は、周囲と自分を変えていきます。その関わりは自分の心にも影響を与え、自身の生きる喜びとなるのです。

現代経営学者でありマネジメントの父とも呼ばれるピーター・ドラッカーは、「事業の目的は顧客の創造である」としています。解り易く言えば「仕事の目的は(サービス提供を受けて)喜ぶ((顧客))人を増や((創造))す」という事になります。企業は大きな利益を上げた時、その利益を事業拡大などに再投資します。そこで顧客の再創造が行われますから、企業の目的は(仕事の目的も)どこまで行っても「喜ぶ人を増やす」事となります。ドラッカーは、経営者や株主の利益を増やすためだけに企業があるのではないと喝破しています。

ドラッカーは、「成功を収めている企業は、『われわれの事業は何か』を問い、その問いに対する答えを考え、明確にすることによって成功がもたらされている」としています。そして次の5つの問いを立てています。①われわれのミッション(使命)は何か? ②われわれの顧客は誰か? ③顧客にとっての価値は何か? ④われわれにとっての成果は何か? ⑤われわれの計画は何か? この問いが「われわれ」なのは、自分こそが自分自身の生き方のマネージャー(経営者・監督)でなければならないからであり、また、目的は周囲と共有する必要があるからです。

 

 

「5つの問い」を介護に即して考える

私達の使命とは「生きてて良かった」と利用者さんに感じてもらう事です。これが①です。➁利用者さん。 ③命の価値。(利用者さんが自分の命の価値を感じられるようにする事) ④「あなたに会えて良かった」という気持ちを利用者さんと支援者が交感できる事。 ⑤尊厳を守り自己決定を支援する「自立支援」の推進。 いかがでしょうか。この目的を皆で共有するのなら、私達全員が介護職員でありケアマネージャーであるとも言えます。利用者さんの声なき声に耳を澄ませ代弁者にもなる私達には、「支援の持つ意味」への深い自覚が必要なのです。ケアが上手くいかないのは誰か一人の責任ではありません。「家族が無理解だから」「制度が」「ケアプランが」「ヘルパーが」「サ責の対応が杜撰だから」と悪者を作っても解決しません。それで困るのは利用者さんです。元より「家族を含め関係者皆がケアの目的を共有しているか?」「目的を共有する事に対して、また共有された目的に対して一人一人が自分の役割を明確に自覚しているか?」「自分自身はどうか?」という事が問われている(反省)のです。事業所の体制も大きな課題です。皆でより良いケアを目指して行きたいと思います。

「命そのもの」を目的とする社会へ

さて、「社会に貢献する」という言葉に引っかかった方もいるのではないでしょうか。「能動的に周囲に働きかける事のできない重度障害者の方などは具体的に社会貢献するイメージが持てない方もいるのであって、“何かに貢献する事”が生きる価値のように言ってしまったら、“貢献できていない人は生きる価値がない”となってしまわないか。“貢献”という考えは、健常者に限定される尺度ではないか?」という疑問です。繊細で素晴らしい感性です。そこは、ドラッカーが企業の目的を利益確保から社会貢献へと視野を広げたように、視野を拡げて見ればどんな人も社会に貢献する事は可能であり、どんな重度者でも「生きているだけで価値がある」と断言できるのではないかと思います。

地(※)獄のような状況下で「生きる価値とは何か?」を考え抜いた心理学者V・E・フランクルは、人生の価値を次のように示しています。それは、人が何かを創造する事によって、世界に何かを与える価値(創造価値)。人が人との出会いや体験を通して、世界から何かを受け取る価値(体験価値)。人が現実に対して「とる態度」によって生じる価値(態度価値)です。このうちの創造価値と態度価値は社会貢献に該当します。フランクルは、強制収容所は人間からあらゆるものを奪ったが「与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由を、とることはできない」という事実を持って、何者にも奪われない人生の価値を確信し、「態度価値」はどんな状況でも実現可能だと訴えています。困難な状況に陥った利用者さん、思い出深い利用者さんを思い浮かべて下さい。その方から私達は生きる事の困難さと、それ故の「生きる事の崇高さ」を学びませんでしたか? 利用者さんが生きて死ぬ事によって示した態度価値によって、その方の頑張りが私達心の中に焼き付いているから、私達は今日も頑張れるのではないでしょうか。「社会に貢献する」とは特別な事ではありません。私達が目の前の利用者さんに一所懸命になる事、利用者さんが頑張って生きる事、それが社会の中の誰か対して「あなたは生きているだけで価値がある」「あなたに生きていて欲しい」というメッツセージを送る事になり、「命そのものを大切にする社会」へと社会の変革を促していくのです。

※ヴィクトール・E・フランクル(1905-1997)のナチスの強制収容所に収容された体験を元に著した『夜と霧』は、17カ国語に翻訳され多くの人に影響を与えている。(紙ふうせんたよりH26.7月号や「スピリチュアルケア研修」でもフランクルを取り上げています。この資料は自宅学習ができるようにまとめてあります。個別研修にお役立て下さい。
 
紙面研修
「生の意味」を見出す支援
 ユダヤ人として苛烈な体験をした神経科医で心理学者のフランクルは、「ロゴセラピー」を提唱した。ロゴセラピー(意味中心療法)とは、人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒そうとする心理療法だ。ロゴセラピーは以下の3点を基本仮説としている。

「意思の自由」 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。

(これは決定論や運命論の否定であり、自立支援の中でも最も基盤となる「自己決定権」とも重なる。)

「意味への意志」人間は生きる意味を強く求めている。

(支援の中で「生きる意味が無い」と言われる方は意味を見失っている状態。自分の役割や他者からの承認が無いような自分の意味を見出せない状況は苦痛である。)

「人生の意味」  それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。

(その意味は、その人自身が見出すものである。)

ロゴセラピーは、絶望している人に対して、「あなたは生きていてもしょうがないと言われますが、どうしてそう思うのですか?」「その理由が解消したらどう思いますか?」「考え方を変えてみたら、この状況も意味のあるものになりませんか?」「あなたを必要とする人がいても生きていく意味がないのでしょうか?」などの平易な言葉での対話によって、生きる意味の再発見や転換を促すものです。それは、人生の意味や価値への評価の「評価の仕方」を変えようというものです。ここでの対話は、説教ではありません。
 

自分自身の生きる目的を見出すのは誰だろう?

 自分が「どうする」か「どうしたい」かを決める権利や力は誰にあるだろう?

利用者さんに「〇〇したい!」と思ってもらえるような支援はどうやったらできるだろう?

 
介護に即して言えば、「だめよ、そんな風に思っちゃダメ!」という支援者本位の説教は、そう思える「支援者」とそう思えない「私」の間にある壁をより高く自覚させてしまい、利用者さんは本当に「利用者」という受け身の殻に閉じこもってしまい、自分の変革を拒んでしまいかねません。同様に、「危ないから歩かないでね」という声掛けも「もう歩けない、歩いてはいけない利用者の私」という支援者側の自己イメージを利用者さんに押し付けてしまい、利用者さんの生きる力を奪ってしまいかねません。声掛けをするなら「歩きたい時は声をかけてね」とか「歩くときは十分に気を付けてね」と言い換えるべきです。

ロゴセラピーは、「生きていく意味がない」という辛さに共感を示しながら、「どうしてそう考えるのですか?」「それはなぜですか?」と質問を重ね、「状況に意味を見いだせるような質問」を行う事によって、自己覚知を促していきます。そのような質問は経験を重ねる事で上手になれる技術のようなもので、実際に困難にめげないで挑戦できる人は、自分自身に対しても「どんな出来事にも意味がある。この出来事が自分に求めている変化は何だろう?」と、問いかけをしています。フランクルは、『自分の人生に意味を見出そうとする努力は、人間の内なる根源的な動力である。』『人間は、自分の人生の意味の充足に自らを委ねれば委ねるほど、その程度に応じてのみ、自分自身を実現する。』と言っています。意味を見出そうとする意欲も力も人間の中にもともと備わっているのです。だから、私達のなすべき事は「生きてて良かった」と感じられるような「楽しみ」や「喜び」といった「感情の交流」を支援の中で作っていく事なのです。

 

「紙ふうせんだより」のバックナンバーが必要な方はお申し出下さい。

 


紙ふうせんだより 11月号 (2019/12/25)

命そのものを目的に

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。気が付けば師走の足音が聞こえます。寒くなると気も急いてきますね。陽が落ちるのも早いです。交差点では確実に減速しましょう。「急いては事を仕損じる」とのことわざもありますが、自転車事故には気を付けて下さい。

秋深き隣は何をする人ぞ

独りで過ごす時間は様々な思いが去来します。秋が深まってくると冬支度をしなきゃならないなどと思いますが、もう自分ではなかなかできない状況にあります。自分の「やりたい事」をやっていた生活は過去の思い出となり、今は自分に残された僅かな「できる事」を、どうにかしてやり続けていく事が、生活の中心となっています。「どのように生きて行きたいか?」などと悩んだ若き日を懐かしく思い出しながら、いつの間にか自分の胸に秘めている問いが「どのように死んで逝きたいか?」に変ってきている事に気が付いてしまう特にすることもない夕刻、静かにしていると利用者さんはふと隣家の生活音が気になります。

「隣の人は何しているのだろう?」忙しく何かをしている若者の姿を思い浮かべます。

そうだった、自分もそうだった…。あの頃も「やりたい事」を思い浮かべながら仕事に我が身を忙しくし、結局は「自分に求められているもの」を必死でやっていた。それが人生の大半だった。けど、今もそうだ。私は自分に求められている“介護を悪化させない”という事を一生懸命やっている…。できるだけ迷惑をかけたくないと思うから、それは自分の「やりたい事」と重なってもくる。しかし、本当に「自分のやりたい事」をやってこれたろうか。迷いながら生きてきた自分のやりたかった事の「本当」は、生きている不思議、人間や世界の秘密に触れてみたいという事ではなかったか。秘密を解き明かせる事なくこの齢になってしまったけれど、それが解る時は死んでゆく不思議が身をもって体験される時ではないか。そうであるなら死は大きな希望であって、今私はそのような“死んでも良い”という気持ちを秘めながら、ヘルパーの皆さんの支えに励まされて生きている…。

本当の「やりたい事」ってなんだろう

日本がまだ貧しく利用者さんが若者だった頃、ともかくお金が無かったから“憧れ”を抱きつつも「できる事や目の前の事を頑張った」という話をよく伺います。日本は高度経済成長を経て生活水準が高くなり、貧しかった頃の“夢”は若い世代に託されます。「夢を追いかける」事を理想とした漫画なども多く描かれました。そして現代、「やりたい事」や“夢”が見つからないために、自分の生きる価値が見出せなくってパワレス状態になる人もいれば、やりたい仕事が無いから「働かない」と“高学歴ニート”を決め込む人が現れたり、快楽や欲求を消費行動に置き換えて何かの消費を「やりたい事」とはき違える人も相変わらずいますし、「疲れるから」その方が「楽だから」と“理想を求めない生き方”を主張する人もいます。やりたい事は「本当のところ」何か? と悩む気持ちは老若問わず同じなのです。

介護の目的から考えるLife(命・人生・生活)について

介護の本当の目的は何でしょう。利用者さんに安全に生活して頂く事でも、食事や排泄に困らないようにする事でもありません。それらは必要な事ですが目的ではありません。手段が目的となれば「安全に生活する為の生活」「食事や排泄の為の人生」となってしまいます。人間の命が求めている本当の事は、一つの無駄も無く命を燃焼し尽して命を終える事です。それは命そのものの価値を実感する事です。だから介護の目的は「生きてて良かった」と利用者さんに感じてもらう事です。本来、安全や食事や排泄が侵される事も、その為の支援を受けなければならない事も、望んでそうなるわけではありません。介護を受けるような状態になるくらいなら「死んだ方がマシ」と多くの人は考えます。俗にいう「ぴんぴんコロリ」です。この考えは、命を「自分だけのモノ」として“自己所有”の観念で捉えています。しかし命は独りで生まれてくる事はできませんし、赤子は独りで成長できるものではありません。人が生きるという事は、人間の命の揺りかごである人間社会を支える事であり、その支えは誰かの命を育みます。命は自分だけのものではないのです。しかし、複雑に分業化した社会は、時(※1)に命と命の繋がりの関係を忘れさせてしまいます。「ぴんぴんコロリ」を理想としていた人が介護を必要とした時に、いったんは「死んだ方がマシ」と思うかもしれません。その時、やってきたヘルパーさんに食事や排泄の支援を受け励まされながら、生れてくる時と同様に「命は独りでは死ねない」という事を理解するのです。「命は命と命の繋がりの中にある」という本質の再認識は、「生きてて良かった」という実感として現れます。

“やりたい事の無い俺って無価値なのか?”と若者が悩める時、若者もまた人生を自分だけものモノとして捉えてしまっています。しかし、命が求める本当の事は、命を燃焼し尽して命の価値を感じながら命を終える事です。疲れるから“理想を求めない”としてしまうのは、“理想”が人を疲れさせてしまうのではなく、自分が“理想”として描いたものの中に、命そのものを目的とする考えが入っていなかったがゆえに、筋違いな努力による疲労なのではないでしょうか。お金も地位も名誉も外見は飾れても、命を磨く事にはなりません。命を命の底から喜ばすものは、命以外にありません。具体的には「あなたに会えて良かった」という気持ちを誰かとの間で交感する事です。それは、身体介護を通じた濃密な命と命の支え合いの関係の中で利用者さんとヘルパーの間に共に生じてくるものであり、分かち合えたならば、それぞれの中で「生きてて良かった」「生れてきて良かった」となるのです。

「生きるという事」とは

「やりたい事」が明確でそれを仕事にできる人は幸せです。だからと言って「やりたい事」が明確で無くても不幸せという事はありません。むしろそのような本源的な悩みと向き合う事こそが、自身の命の練磨となるからです。ことわざには「(※)艱難(かんなん)汝を玉(たま)にす」とあります。「大器晩成」にも通じる言葉です。あせってはいけません。命を目的とした支援とは、「生きてて良かった」だから今“死んでも良い”という実感とその日までの道のりを利用者さんのペースで歩む事です。急いては事を仕損じます。今「できる事」「やるべき事」に精一杯勤めましょう。人生の目的を命そのものに定めるなら死ぬまでに起こる様々な喜怒哀楽を味わい尽くす事こそが「生きるという事」なのだから、生きるに早いも遅いも長短もありません。

※苦労や困難を堪えてこそ立派な人間になれる。 〔西洋の諺ことわざ「逆境は人を賢くする」の意訳という〕

 

利用者さんの事は利用者さんに習え
 

 「自立支援」、皆さんはどんなイメージを持っていますか? 単純に「リハビリ」すれば良いと考えていませんか? リハビリ職の方はよく「やる気が無ければ意味が無い」と言いいます。例えば週1回リハビリを実施したとしても、日常生活での動作量を増やしていかないとリハビリ効果は上がらないからです。つまり日常生活そのものがリハビリ的な意味を持つ必要があり、日常生活でのヘルパーさんの関わりが大切なのです。これを「生活リハビリ」と言います。その為には「自分でやろうとする」という意欲を再び利用者さんが持つ事が大切です。そのような方向が模索される時に、「このままではもっと悪くなるよ!悪くなってもいいの!!」という声掛けは反発を招きます。「いいよ、もう悪くなってるし。もっと悪くなったらあなたがやってくれれば良いんだから、私はやらない!」という気持ちを引き起こします。まるで自分が「悪くなって良い」と思っているかのように言われてしまった上に生活の主導権を支援者に奪われてしまったら、残骸として投げやりな依存心だけが残るのです。「悪くなったらここに住めなくなるよ!!」という言葉も“呪い”となります。「どうせここに住めなくなるなら、頑張ってもしょうがない」と決まってもいない施設行きの身の上を嘆いて暮らす事になるのです。このような悪い声掛けは、利用者さんの表面的な事だけを見ていて、利用者さんの心の動きを見ていないところに起因します。もし、きちんとした目的意識を持ち利用者さんの心に関心を払っているなら、同じ意味内容でも「悪くならないように自分でやろうね」「ここに住み続けられるように自分で動こうね」という声掛けになるでしょう。悪い声掛けの失敗を介護職ならば誰でもしてしまった事があると思います。どうしてそのような失敗をしてしまうのか、それは「利用者さんそのものを見る」事を忘れ、方法論や介護手順ばかりに気を取られているからです。「松の事は松に習へ 竹の事は竹に習へ」とは俳聖・松尾芭蕉の言葉です。これは「自分の観点を捨てて対象と同じ気持ち(物我一如・主客合一)になるくらいでなければ本質は見えてこない」という教えです。芭蕉は俳諧に対する論評を著しませんでした。弟子が盲目的に信じ込んで、俳風が師匠の形を真似ただけの形骸と化すことを恐れたのです。訪問介護でも下手に手順書を示せば、利用者さんを見ないで手順ばかりを追いかけるという手段と目的の逆転現象が起こる事があります。常に本質を意識していきたいものです。

「利用者さんが〇〇して欲しいと言ってますが、どうしたら良いですか?」という問い合わせをヘルパーさんから受ける事があります。「どうしたら良いか利用者さんに聞いて下さい。聞いたら報告して下さい」と私は言っています。利用者さんの一番の専門家は利用者さん自身です。利用者さんの意欲がどうやったら高まるかは、利用さんと一緒に支援者自身も悩みながら探していく必要があります。第一に利用者さんの今までの生活を知る事です。いたずらに生活を改変する事は、生活の主役の座を利用者さんから奪う事になりかねません。利用者さんが何を求めているかは、日々の嘆きに現れています。まずはその嘆きに傾聴し、心の痛みを分かち合うところから始めましょう。敬意を持って「利用者さんから教えて頂く」という姿勢が大切なのです。

 
秋深き隣は何をする人ぞ

この句は松尾芭蕉が詠んだものです。この日、病床の芭蕉を励ます句会が催される予定でしたが芭蕉は床を離れられず、発句としてこれを弟子に託しました。床に臥せって静かにしている芭蕉の心にふと浮かぶ隣の人への想像。世間から隔絶しつつある自分。周りの弟子たちは自分と芭蕉が同じ世界の住人であると思っているだろうけれど、自分はもうこの世界から離れかかっていることを自分だけが解っている。2週間後の元禄7年10月12日(西暦1694年11月28日)、芭蕉は「病中吟」の句に「夢」を詠んで旅立っています。

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

芭蕉の夢は枯れて朽ちゆく身体を離れていきました。今、俳句は世界最短の定型詩の一つとしての日本文化の粋とされ世界にはばたいています。
 

 

 

 

 

 


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