【紙ふうせんブログ】

平成27年

紙ふうせんだより 12月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。年末年始に仕事をして下さるヘルパーさん、本当に有難うございます。皆さんあっての利用者さんの生活です。また、皆さんあっての事業所です。本当に有難うございます。くれぐれもお身体をお気を付け下さい。ところで、皆さんにとって今年はどんな年でしたか? 来年はどんな年になるでしょうか。皆さんが、介護の仕事を通して、各々の人生観を深め、良い人生を生きられる事を念願しています。

人生観を深められる介護という仕事

紙ふうせんのホームページをご覧になった事はありますか? 2年前の暮れ頃にホームページを立ち上げ、その際に『経営理念』として「介護職一人一人が、介護という貴重な体験を得て人生観を深め、豊かな心で生きていく事が最高の果実です。」と掲げさせて頂きました。

 

豊かな心を次世代に継承しゆく大樹でありたい (紙ふうせんホームぺ―ジより)

会社組織を樹木に例えるなら、樹冠(枝や葉)が現場、幹が管理者や責任者など、根が経営者と言えます。

樹冠は葉を青々と陽光に差し向け光合成をして栄養を作ります。幹はその栄養を根に送り、根は養分と水を吸い上げ、幹を通して葉に送ります。作られた栄養は、新たな枝を伸ばして葉を育てる為に使い、冬を乗り越える蓄えとして使います。

根が弱れば、大風に根こそぎ倒されてしまいます。「縁の下の力持ち」の役割をしっかりと果していかなければなりません。幹が弱いと樹冠を支えきれず、大風が吹けば樹木は折れてしまいます。また、枝や葉を多く茂らせる事もできなくなります。

樹幹・幹・根の調和し協動していくことが大切です。それぞれが、自分の役割と他への責任を果し、共に成長をしていく事が全体の成長です。全体の成長は、それぞれに還元されなければなりません。なかでも、一番充実して欲しいところが樹冠です。

葉が色艶よく輝いている事こそが、樹木が健康な証しです。樹冠には鳥が歌い、花が咲き果実が成ります。

介護職一人一人が、介護という貴重な体験を得て人生観を深め、豊かな心で生きていく事が最高の果実です。そしてその心を次世代に継承してゆくことができる大樹でありたいと願っています。

 

人生観とは、山あり谷ありの人生で起こる楽苦とどのように向き合うのか、という態度決定の問題です。人生観は、学習や経験や人との出会いによって形成されますが、それは人間に対する価値観でもあります。自分という“人間”は何者だろう。また、他人という“人間”とどのように関わっていくのか、人生観は人間観でもあるのです。

自己の人間観をチエック

人間観について、平木典子はマズロー(後述)を引用しながら支援者の態度について、自己の人間観の検討の必要性を述べています。本文中の「カウンセリング」の言葉を「介護」に置き換えて読んで頂くと理解し易いと思います。『カウンセリングの話』の中には「カウンセリング(※介護)の学習の中には自分自身への検討も含まれる」とあります。

 

あなたの人間観は (「カウンセリングの話」平木典子 朝日選書)

カウンセリングや人間相手の仕事をしようとする人は、マズローの人間観を持たないまでも、少なくとも自己の人間観をチェックしてみる必要があるだろう。もし根本となる人間観が「人間は駄目な存在だ」というものであるならば、何を目的に人を援助することになるだろうか。人間の本来の姿を自己実現に求めるか、欠乏動機を満たすことに求めるかということは、重要な分岐点だと思われる。自己の価値観や人間観の検討なしに、理念に一貫性のないままカウンセリングの理論や技術を学ぶとするならば、木に竹を接いだようなカウンセリングになってしまうことをまぬかれないだろう。

つまり、カウンセリングの学習の中には、自分自身についての検討も含まれるのである。

 

自分自身への検討

自分の姿というものは、知っている様で実は、自分ではよく解っていないものではないでしょうか。私は、介護の仕事を通して自分自身を成長させる事ができると思っています。利用者さん等のリアクションを見て、自分の姿を鏡で見るように検討していく事ができるからです。私達が利用者さんにとって本当により良い支援とは何かと考える時、それは自分自身にとっての本当に良い生き方や人生観は何だろうと問う事にもなります。目の前の利用者さんについて真に悩む時、自分自身の人間観・人生観をも深める事になるのです。

新年に向けて

できれば楽しい年にしたいですね。でも、楽しい事ばかりではないですよね。悩む事もつまづく事もあります。しかしどちらかというと、避けて通りたい悩みやつまづきこそが、実は自分自身を深めてくれるのではないでしょうか。そこから逃げては何も変わらない――。いつでも皆様からの相談をお待ちしています。来年もどうぞよろしくお願いいたします。新しい年が、私達にとってより成長する年である事を願っています。


紙ふうせんだより 11月号 (2016/02/08)

 

 

皆様、いつもありがとうございます。あっという間に年末がやってきます。早いものですね。この早い感じは、それなりに充実している事だと捉え、前向きにいきましょう。
人間の心の中に生じる暴力
先日、パリで大規模なテロ事件が発生しました。犠牲になった方の無念さや、ご家族や友人の方々のはかり知れない痛みに、足のすくむような思いがします。また、テロを弁護するつもりはありませんが、テロリストに志願した者も心に苦悩や痛みがあり、やがて憎悪へと成長し、それが悪用されての事件と考えると、人間社会の痛みや憎しみの連鎖というものに、やるせない悲しみを感じます。ロックバンド「ザ・ブルー・ハーツ」の『トレイン・トレイン』に、「弱いもの達が夕暮れ さらに弱いものをたたく / その音が響き渡れば ブルースは加速して行く / 見えない自由が欲しくて 見えない銃で撃ちまくる / 本当の声を聞かせておくれよ」の歌詞が思い出されます。移民として差別されたものがその恨みを晴らそうと、銃を手に取り“弱者”から“強者”になろうとしたのです。
このような暴力の連鎖は国際社会が解決してゆかねばならない問題ですが、人間の心の中に生じる問題と捉えると、介護や福祉の問題ともリンクしてきます。
暴力の連鎖の背後にある構造的な問題
暴力とは銃で撃つ事だけではありません。例えば虐待防止法が虐待の定義を、①身体的虐待 ②放棄・放任 ③心理的虐待 ④性的虐待 ⑤経済的虐待 としているように、心理的なものも暴力になります。また、個人間の暴力だけではなく、組織や国家が個人に対して暴力を振うという事もあります。ここでは、暴力の連鎖について考えてみたいと思います。
ある方が幼児期に親から暴力を受けたとします。その方が親になり子を授かった後に、子育てで周囲から孤立しイライラも高じて、泣く子を黙らせようとつい手をあげてしまったとします。本当に辛い気持ちになります。その辛い気持ちから自分を省みる余裕が失われ、子供の心を想像する事が出来ませんでした。後ろめたさから“しつけの為なんだ”と自己弁護します。叩けば子供は一時は言う事を聞きます。自己弁護が自己欺瞞となると正常な感覚がマヒしてしまいます。手を挙げる事がやがて習慣化してしまう…。このような時、個人の病理の背景に家族の病理がある事を見ていかなければなりません。この方は、自分が小さかった時に、泣いていても優しく抱きしめて貰う事ができずにいたため、言う事を聞かずに泣く子を見てどうしたらよいか解らなかった。そして自分の受けた心の傷の痛みが瞬時に蘇ってパニックになり気がついたら手を挙げていた、という事もあるのです。このような親から子への暴力の連鎖は、事実よく見られます。暴力とは、“強者が“弱者”に何かを強制するものです。その暴力が連鎖する時、単純に個人の問題と捉えるのではなく、個人の背後に働く構造的な力を見逃してはなりません。ここでは親子関係が連鎖しているのですが、学校でイジメを働く子供が、家では親からの心理的な暴力にさらされていた、という事もあるのです。

暴力の連鎖を断つ
 暴力が連鎖する場合、そこには構造的な問題が隠れています。暴力を働いた者を処罰すれば解決するというような単純な考え方では、暴力の連鎖は止められません。ではどうしたらよいのか。パリのテロの被害者が「君たちに憎しみという贈り物はあげない」という文章をフェイスブックに投稿しています。憎しみに対して憎しみを返さない事。それが本当の意味で暴力に勝つという事だと教えてくれています。

テロ遺族フェイスブック投稿文(朝日新聞デジタルより)
金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。

介護現場の問題を構造的に理解する
ある利用者さんが、こんな事を言っていました。「娘が介護してくれるんだけど、私にいろいろ命令したり指示したり口うるさくて、本当に辛い。でも、仕方がないのよね。今になって気が付いたんだけど、私もそのように子供を育てたんだもの…」
ここにも構造的な問題が見られます。辛い気持ちは辛いと受け止めつつ、一つ良かった事を挙げれば、介護されるようになって親がそれまで知らなかった子供の心を理解したという事です。そして子供の方も親の世話をしながら、自分を世話してくれた時の親の気持ちを理解するでしょう。そしてお互いに介護状況を辛いと感じながらも、その共感の先にそれぞれが新たに理解した事を話あえれば、親子関係が再構築される可能性があるのです。

ケアする人の「共感疲労」 日本赤十字看護大学名誉教授 武井麻子 (こころの健康だより No113)
人をケアする施設で起きてはならないことが起きる。それは、その仕事の性質と関連しています。そうした施設でケアを必要としている人たちは、身体的にも心理的にも自由を奪われ、健康な生活や自分なりの楽しみ、自尊心、大事な人とのつながりなどを失ってしまっています。多くは、そうした状況に怒りや無力感、虚しさを抱えながら言葉にできず、孤独と絶望の中で目や声や行動で伝えてくるのです。こうした言葉にならない感情にさらされる中で、スタッフはまるで自分が責められているように感じるようになります。気づかないうちに毎日の仕事に意味を感じられなくなり、時にそうした状況を引き起こすクライエントに苛立ちや憎しみまでもが湧いてくるのです。
つまり、クライエントの怒り、無力感、絶望などがスタッフに流し込まれ、彼らに代わってスタッフがそうした感情を体験するのです。そこにはある意味「共感」が起きているのですが、スタッフとしてはそのようには思えず、自分がケア提供者として失格のような気がして、自己嫌悪が募ります。すると、クライエントのところに行きたくなくなり、仕事が嫌になっていくのです。これが、「共感疲労」と呼ばれる心理的状況です。
実は、ケアする者にネガティブな感情が湧いてくるのは必然的なことなのですが、悪いことには、そうした感情は言葉にしにくく、言っても伝わらない気がします。そして、同僚や家族など身近で一番わかってほしい人に苛々してしまいます。こうして職場の人間関係が悪くなっていくのです。そこで、ケアする者の第一の任務は、こうした辛い感情を持ちこたえ、そしてクライエントとともに生き延びることなのです。

共感のその先を見る
ところで、辛い気持ちへの共感は「共感疲労」が生じます。東京都の「こころの健康だより」では、怒りなどの感情が連鎖する事を指摘しています。利用者(クライエント)の怒りなどがスタッフに流し込まれ、スタッフは利用者と同じ感情を体験します。そうして、怒りなどが利用者→スタッフ→同僚や家族へと連鎖していくのです。
共感疲労が生じていると感じる時、疲労は疲労として受け止め何か別のストレス解消法を試みつつ、その共感から生じる肯定的な人間関係の変化を見つめていきたいと思うのです。それは、スタッフの利用者に対する視点の深化であり、感情を受け止めて貰った事による利用者さんの安堵感であり、それらの相互作用としての人間関係の発展なのです。共感の疲労は、新しい関係性が生じてくる産みの苦しみなのです。
辛い感情を持ちこたえ、生き延びること
私たち介護職は仕事の性質上、怒り、無力感、絶望などの感情にさらされます。構造的に「共感疲労」を生じやすい職種なのです。もし共感疲労が生じた時に、利用者→スタッフ→利用者と返してしまったら、怒りなどが際限なく増幅され、苛立ちが憎しみに変わり、ついには虐待事件を発生させてしまうのです。
先月の研修では「メンタルヘルスとストレスチェック」を行いました。自分に生じた苛立ちをそのまま他人にぶつけていないか。そのようにならないために、自分自身にどの程度ストレスがあり、心の健康は保たれているかを確認するという主旨でした。
利用者さんの苛立ちがヘルパーさんに流し込まれた時、ヘルパーさんも苛立ちます。そのような時、苛立ちを持ちこたえ、切り替えて次に訪問する事。これが大切です。苛立ちの連鎖も小さな暴力の連鎖です。暴力の連鎖を止めるためには、自分に順番が回ってきた時に、自分のところでそれを留める事です。憎しみには、憎しみを返さない。怒りには怒りを返さない。苛立ちには苛立ちを返さない。なかなか難しい事なのかもしれませんが、辛い気持ちになったら「君たちに憎しみという贈り物はあげない」という言葉を思い出して、(君には苛立ちをあげないよ)と心の中でつぶやいて頂きたいと思います。そしてその努力は、きっと新しい何かを産むのです。


紙ふうせんだより 10月号 (2016/02/08)

皆様、いつもありがとうございます。
最近、何人かの利用者さんから、最近の状況が「昔の日本と似てきた」「怖い」という声を聞きます。戦前の何が今と似ているのか、考えずにはいられません。人生の最晩年の方々の想いを引き受け、社会や次世代へと受け渡していく使命が介護職にはあります。その想いに介護職として寄り添い理解する為にも、あの時代について考えてみたいと思います。

あの時代、国民の何奪われたのか
あの時代の日本は全体主義だった。個人の幸福追求よりも全体の利益追求が優先される。それを盾に、我こそは全体の利益を代表するものだと騙り“利権”を貪る者は、戦争を取
り返しのつかない方向に導いていった。個人の幸福を追求するように見られた一般人は、非国民として非難され警察に逮捕される事もあった。そんな事になれば“村八分”
で生きていけない。同調圧力が強く働き、場の論理を優先する日本人は、自然と自己規制を始めた。「進め一億火の玉だ」というスローガンが作られ歌にもなった。国民生活の目的
は戦争勝利となり、全精力が傾けられた。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」“一億総動員”の価値観で育てられた若者は、全体に忠誠を尽くす生き方しか知らなかった。最も崇高な死は全体に命を捧げる事であって、その全体の質がどのようなものかは、疑って見る尺度は持っていなかった。全体の利益を代表するように騙っている者たちにとって、からっぽの頭の国民は都合が良かった。国民が目覚めないようにする為には、日本は「神の国」であり続ける必要があり大本営発表ではウソの戦勝報告を垂れ流し続けた。そのウソも隠せなくなってくると、特攻作戦を同調圧力によって強要し、“聖戦”で戦死したものは靖国神社で“軍神”に成ると強調した。その為、南方戦線では餓死や病死も多かったが全て戦死とされた。“一億玉砕”すれば“神風”が吹き、国民が死んでも大日本帝国は戦争に勝てると叫ばれた。若い男たちはお国の為に命を捧げる“戦死”を目的に戦地に赴いた。「国破れて山河在り」とは杜甫の漢詩だが、権力者は庶民の“国=郷土(山河)”意識と“国=統治機構”を意図的にすり替えた。
「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」
「わたしの頭はからっぽで わたしの心はかたくなで」
若い女たちも勤労動員という強制労働で兵器などの生産に励んだ。疑問を持つ事は許されず汗と油にまみれながら、空襲にあって死ぬものもいた。
茨木のり子さんは、19歳で敗戦を経験した。戦争体験は青春時代の一時期だけだったが、その影響は生涯続いた。「わたしが一番きれいだったとき」とは、単純に身体的なきれいさだけでは無いだろう。こころの純粋無垢さも表している。そのような時に軍国主義が刷り込まれた。「おしゃれ」も美しいものや綺麗なものを楽しむ心と言える。頭は空っぽになり心は頑なになった。その戦争で奪われたものは、自己選択・自己決定・自分らしさなど、一人の人間としての“尊厳”だったのだ。

わたしが一番きれいだったとき
茨木 のり子(1958年)

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

“尊厳”はどこにあるのか
茨木のり子さんは、敗戦の街を怒りに震えながら歩いたのだろう。国民一人一人が自分を含め馬鹿だったのだ。好んで聴いた「ジャズ」は敵国アメリカの音楽。しかも奴隷として連行されてきた黒人の“魂の解放”の音楽だ。二度と「ふしあわせ」「とんちんかん」「さびしかった」思いをしない為に、自分自身の尊厳は自分で守らなければならないと強く誓った。その決意の一つが「長生き」にあった。その“尊厳”について自身を厳しく戒めている詩「自分の感受性くらい」がある。そこからは「腕をまくり」、「のし歩いた」時の気持ちが伺われる。介護の現場でも“尊厳を守る”とよく言いうが、“守る”主語は誰だろう。真の尊厳は、生命の存在そのものに基づくものと考えれば、誰かに与えられものではなく一人一人の心に元からあるものだ。自分の尊厳を自分で守る事が自立であり、それを支える事が自立支援だ。介護職は上の者が下の者を守るというような上下関係を作ってはならない。
翻って私達は自身の尊厳を自分で守れているだろうか。強者に媚びを売ったり、お金に頭を下げたり、心にも無い事を言ったり、社会に過剰適応して、自身の尊厳を自分から捨ててはいないだろうか。「尊厳」とは自らの存在に関わるものであり、生死に関わるような厳しさがあるのではないだろうか。

自分の感受性くらい
茨木 のり子(1975年)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

同調圧力が強まりつつある社会
近年、高校生・大学生の間で“便所飯”という言葉があります。若者の間で働いている同調圧力は、“友達がいないのは悪い事”“友達と一緒でなければならない”というようなものであり、“友達のいないヤツ”と思われたくない為に、一人で食事をしている所を見られないように、一人の時は、便所の個室の中に隠れて食事をするのだそうです。同調圧力の強まりは、子供や若者の心に対人恐怖症的な影を落としているのです。
メディア論についての書籍『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』では、現在の大手メディアが権力に対して「質問しない」、国民に対しては「見せない」「懲罰機関化」していると警鐘を鳴らしています。その根底には、権力や国民からの「抗議を恐れる優等生が垂れ流す報道と、一般市民の善意による共同正犯」の関係が「過剰なまでの自主規制」を生じさせているとしています。そのような風潮が強まってきたのは、地下鉄サリン事件以後だと森達也は述べています。何か事件が起こると、権力やそれを監視するべきメディアや一般市民が同一化して、一斉にバッシングを始める空気があります。
これらの“同調圧力”の本質は、「みんなと一緒でなければならない」という意識です。そしてこれは、自分自身の真の“自立”を考えた時、真っ先に疑問を持ち、ぶつからなければならないものなのです。すると同調圧力が強まりつつある今という時代は、社会全体が“自立”から遠ざかりつつあるという事になるのではないでしょうか。
戦前の何が今と似ているのか、一つはかつてない程に“同調圧力”が社会全体を覆ってきており、民主主義の危機的状況になってきているのではないかという事です。民主主義とは一人一人の国民が自発的・自律的に自分自身で判断し意見を述べるところこそが要諦です。最近某国会議員が、ツイッターで「戦争に行きたくない」という「若者」は「自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだ」と、民主主義の根幹である基本的人権や言論の自由に圧力をかけるような主張をしました。政治の現場は、このような発言がこぼれ落ちるような、危うい“空気”が流れているようです。
介護の理念と同調意識
民主主義と介護の理念は、実は根底を共有しています。それは、どんな人もそれぞれ“平等”の権利を有しているという信念です。認知症者でも障害者でも、健常者と同じようにその“基本的人権”は保障されなければならない。誰かの人権や尊厳が侵害される事は、“全ての人の人権や尊厳の平等性”を侵す事であり、それは自分自身への人権侵害でもあるのです。
介護の現場でも同調圧力は作用しています。施設介護での複数犯による虐待の背景には、その人間関係内での同調圧力が必ずありますし、単独犯でも周囲からブレーキがかからなかったのは、「事を荒立てたくない」という同調意識でしょう。また在宅の家族介護でも、世間様向けの顔を作る為に、内心は嫌だけど一生懸命介護をしているというような場合、家族による隠れた虐待を生じやすい状況となります。ここで作用している力は、“世間様”という顔の無い同調圧力です。
周囲と同調しようという意識は、必ずしも悪いものではありません。適度な調和の範囲内では、「和」という日本人の美意識そのものとなります。しかし、同調意識が圧力にまで高まると、それは日本人の「病理」となります。介護は基本的人権に関わる仕事である為、その現場で、同調意識がどのように作用しているのか、注意深く見ていく必要があります。

『トランスパーソナル心理学入門』諸富祥彦(講談社現代新書)
「“自分”を実感する事ができない、“自分”が何をしたいのか、何を感じているのかわからない、と多くの人は言います。それは何かと言えば、一つにはやはり、周りに合わせ過ぎるからです。私たち日本人には昔から、“まわりの目” “世間の目”を過剰に気にするところがあります。よく言われる事ですが、“人さまからどう思われるか”という意識、それが日本人にとって、欧米の罪に代わる恥の意識となり、私たちにとって最大の規範となってきたのです。」

介護の現場を良くする為、そしてその先に
同調意識は、主体性の無い仲間意識のようなものでもあり、悪く作用すれば「仲間はずれ」や「差別」を簡単に生じさせます。悪い組織の典型は、真に利用者さんにとって良い介護は何だろうと模索する職員が「めんどくさい事をする迷惑なヤツ」として足を引っ張られ、全体の質が、志の低い人基準に引き下げられていきます。そして介護職は、相変わらず離職率の高い職業です。実は、この話は前回の紙ふうせんだよりと繋がっているのです。前回、「積極的に主観的判断を積み上げていく事が重要です。それが介護職員の真の主体性です。」と書きましたが、介護現場を良くしていく最大の鍵は、この主体性の発揮にあると私は考えます。
このように見ていくと、歴史的過去の日本の課題は、現代でも同じように日本人が考えなければならない課題である事が理解されます。介護の現場を良くしていく事は、日本の社会を良くしていく事でもあるのです。
誰しも幸せに生きたいと願っています。しかし周囲との関わりに悩み「自分とは一体なんだろう」と、自己存在の手ごたえを探す不安と苦悩に苛まれる時がある。あの時代は、個人が呑み込まれ色を付けられ消されてしまい「自分とは何だろう」という疑問すら持てなかった。自分らしく生きる“自立”は多くの人々の想いだ。しかし、自分らしさが周囲と対立してしまう孤立も悲しい。自他共に自分らしく繋がっていくにはどうしたら良いだろう。個人や組織や国家や民族といった狭い枠を越えて、地球民族や人間や生命、自然や宇宙といった深いところを基盤として繋がり、自他が調和していく在り方を志していきたい。

★お願い★
風邪をひきやすい季節になってきました。利用者さんに風邪をうつしてしまっては、元も子もありません。ウガイ手洗い等をお願いします。訪問時は細心の配慮をお願いします。インフルエンザ予防接種を受けて下さい。摂取したら領収書を事務所まで持参して下さい。1000円の助成を行っています。


紙ふうせんだより 9月号 (2016/02/08)

皆様、いつもありがとうございます。日が暮れるのもずいぶんと早くなってきました。
仕事が終わってスーパーで買い物をすると、大きな月が自転車を追いかけてきて…ついゆっくりとペダルを漕いでいませんでしたか? 9月27日は中秋の名月でした。

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月
読み人知らず
この句は「毎月毎月、月を見る事は多いけど、見る価値のある月は、この月の月です」という意味です。さらに一つの句の中に「月」を8つも出す事によって旧暦の八月(中秋)も暗示して中秋の名月も称え、とても洒落ています。
多くの人に見られている多くの月があって、客観的にそれを考えると自分が眺めている空の月こそ特別な月などとは決して言えません。しかし主観的に「この月が良い!」と言う事によって、読み手の月を見ている高揚感が伝わってきて、とても印象的です。
月天子   宮澤賢治

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射していゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

以前客観的な「月」と主観的な「月」も取り上げましたが、宮澤賢治の未発表原稿の中に「月天子」という詩があります。
賢治は科学知識も豊富で“客観的”に月を理解していますが、一方で月を「月天子」として、“主観的”には“仏様”のように尊んでいます。
「人」に対してはどうでしょうか。

もしそれ人とは人のからだのことであるとさういふならば
誤りであるやうにさりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに

賢治にとって人とは「身体」でも「身体と心」
でも「心」でも無いのです。では、賢治は人に対
してどのように理解していたのか。岩石の塊であ
る月を“仏様”のように尊ぶ賢治は、人に対して
も同様であったと伺われます。客観的な科学的事
実は、人を“仏様”のように主観的に敬う事に、
何の障害にもならなかったのです。
客観的事実と主観的意味はまったくの別物で、
一つの事象に対して2つの見方があり、それらは
両立するのです。

客観的な情報が大切な時
さて、介護現場で情報の客観性が求められるのは、利用者さんの体調や病状を正確に把握し、人に伝えたりする時です。この場合の客観とは“事実”に基づく見方となります。
例えば、「○○さんが風邪をひいています」と、ヘルパーさんから連絡があったとします。
これは、客観的でしょうか、主観的でしょうか。実はこの連絡だけでは必要な情報が欠けていて、事実(=客観)かどうかは解りません。それは、“誰が風邪と判断したのか?”という情報が欠けているのです。もし、医者に風邪だと言われた場合は、「風邪をひいています」という情報は客観的事実だと言え、その場合は「医者にかかって風邪だと診断されたと家族が言っています。咳が少し出ています」が、客観的な一番“正確”な言い方です。しかし、ヘルパーさんが、咳き込んでいる本人を見て「あぁ、風邪だろうな」と判断して伝えている場合は、それはヘルパーさんの主観的判断という事になります。もし、ヘルパーさんの言葉を根拠に「軽い風邪だから大丈夫」と関係者が思っている間に症状が進行し、実は「誤嚥性肺炎」だったとあっては、悔やまれる失敗になります。
利用者さんの体調や病状など正確さが求められる場合は、情報をキャッチし発信する時、「何の根拠に基づいてそれを誰が確認し、誰の判断で」という確認が重要です。「ご家族が風邪だと言っています」というのも、情報の精度としては甘いです。ご家族の自己判断なのか、医者の診察を受けたのか等は、必須です。というのも、ご家族が「大丈夫、いつもの事だから」と言っていても様子がおかしいので、強く医者への受診を勧めたところ、実は「骨折だった」「硬膜下血腫だった」「正常圧水頭症」だったというケースがこれまでにもあるのです。正確さを求められる情報を自分が発信する場合は、その情報の確認と伝達内容が、客観的事実であるか、主観的判断は含まれていないかを意識して欲しいと思います。
介護現場で主観的な見方が重要な場合
さて、言葉による意思表示が難しい利用者さんが「楽しんでいる様子でした」と伝達する場合、これは「楽しんでいました」と断定していないところは客観的な装いをしていると言えます。しかし、この言葉には「楽しんでいる様に(私からは)見えた」という主観的な判断が隠れています。本人の自己申告が無い場合、内容としては完全に主観的なものなのです。
このような情報をヘルパーさんに尋ねると、自信のないサービスに限って「わかりません」という言葉が返ってくる事が多いように思われます。また、ヘルパーさんによっては単純に主観的な情報は良くないと勘違いしている方もあるようです。しかし介護現場こそ主観的な見方を、胸をはって述べて頂きたいと思うのです。
というのも、先ほどの宮澤賢治の例にあるように、ものごとの“意味”や“価値”に関わる事は、究極的には客観的というものは無いからです。一つ考えてみてください。「客観的に“幸せ”と判断できる基準や、人生はあるだろうか?」と。私達は多くの方の人生を垣間見ていますが、幸せそうな家族にも苦悩はあり、苦悩に沈んでいる人にも幸せを感じられる心や場面や環境があるという事を知っています。要は、どこに焦点をあてて注視するのか、という問題なのです。価値観に関わる時、真実の客観は存在しません。そして介護は、価値観の問われる仕事であるため、主観的にどう判断するかが重要なのです。

主観的に判断する時、自覚して欲しい事
「楽しんでいる様子でした」という主観的判断の内容を詳らかにするならば、次のようになるでしょう。『“私が”「楽しんでいる」と感じた(=それは、私自身が楽しかったから)。その自分自身の気持ちをベースにして見た時、利用者さんは「楽しんでいる様に見えた」』と。
この時の“私が”という気持ちを自覚する事は、積極的に相手の気持ちを“想像”する事と同じです。それは相手に気持ちとして寄り添って行く事になります。そのような態度が無いかぎり、意思表示が難しい利用者さんと関わる事は困難と言えるでしょう。もし、「利用者さんが本当に楽しいかどうかは、どうせ解らないから考えても無駄」という事ならば、仕事としてのやりがいは失われ、最悪の場合は思考停止となって虐待につながるかもしれません。また、『私自身が楽しかった』けど「本当に利用者さんも同じ気持ち?」という事も、何度も検証して欲しいのです。子供同士のイジメの言い訳によくあるような「自分は楽しかったので相手も楽しんでいると思いました」というような自分本位の感情を防ぐためです。
虐待を防止し介護の価値を高めていくためには、積極的に主観的判断を積み上げていく事が重要です。それが介護職員の真の主体性です。利用者さんのどんな仕草を見て、自分自身のどんな感情をベースにどのように主観的に判断したのかを自覚して下さい。そしてその内容を客観的な言葉で周囲にも積極的に言いましょう。他人に言って意見をもらう事によって、自分の判断や感性や磨がかれます。虐待等をしてしまう人の傾向性として見られる「組織の中で自分の意見を表明できない」「主体性が無い」等は、決して偶然では無いのです。
主観的判断の先の主体性 私はどのように行動するのか
ところで宮澤賢治は、法華経や日蓮を熱烈に信仰していた事はよく知られています。賢治が影響を受けたであろう日蓮の言葉に「浄土と云い穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」があります。「極楽浄土のような環境も、地獄(穢土)のような環境も、環境である事に違いは無い。環境と人間の相互関係の中で、どこに焦点をあてて注視するかという主観的な判断と態度が、実は環境に影響を及ぼし環境の違いを作り出している。では浄土と穢土の差は一体何で生じるのか、全体の良し悪しは一人一人の心の善悪によるのだが、特にその人自身の環境から幸・不幸をどのように受け取るかは、その人自身の心のあり方で決まってくる」という意味です。ことわざに「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とありますが、日蓮の主張も「その人(主体)とその人の環境(客体)は切り離せない」とうものです。もし本当に、自分自身の環境を作るのは自分自身であるならば、それは自分自身の意思を信じる究極の主体性ではないでしょうか。介護職の一般論で言えば、「待遇が悪いからやる気がでない」「職場が悪いから良いサービスが出来ない」というような主体性なき態度では、ますます環境を悪化させてしまい、決して良い介護はできないでしょう。
主観的判断の先には、では、私はどのように行動するのかが問われてきます。宮澤賢治の手帳にある「雨ニモマケズ」には、“弱者”に対する深い慈しみと共に賢治自身も同じ“弱者”として、救済の為に行動せんとする強い意思が感じられます。賢治にとっては、弱者こそが“仏様”であったのかもしれません。私自身も、認知症やその他どんな病気や障害の方に対しても、一人一人を唯一無二の存在として尊び敬う行動できるようになりたいと思います。

【硬膜下血腫】
頭がい骨の内側にある硬膜と脳を包んでいるクモ膜の間にある静脈から、少しづつ出血して血腫になったものです。
原因は、転倒により頭を打った事が多く、初期は自覚症状がまったくありません。「頭を打ったけど、骨折も無かった。いつもの生活に戻れた」と本人や家族が胸をなでおろしている間にも、じわりじわりと硬膜の下から出血し、血腫が脳を圧迫してしまうのです。
血腫が脳に障害を与えるほど大きくなった時に、脳梗塞の片麻痺のような自覚症状が現れます。片側がしびれる、力が入らない、めまいか気持ちが悪いなどで、転倒を繰り返す場合があります。
硬膜下血腫の危険を予測して、頭を打ったあと3ヶ月くらいは、慎重な経過観察が必要です。
もし、硬膜下血腫ができたとしても、血腫が周辺組織に自然に吸収されてそのまま治る場合もあります。もし消えない場合は手術で取り除きますが、頭がい骨に小さな穴を開けるだけなので、大変な手術にはなりません。
ただし、硬膜下の出血は慢性化する事があり、硬膜下血腫の再発率は10パーセントとされています。

【正常圧水頭症】
「最近認知症が進んだ」「加齢の為か急に足腰が弱った」「尿失禁するようになった」という、ありがちな症状が実は正常圧水頭症である場合があります。
脳というのは、クモ膜という水風船の中に浮いていて、衝撃や振動から守られています。クモ膜内を満たす水(脳脊髄液)が、何らかの理由で循環不全になり過剰にクモ膜内に水が溜まり、軟膜に包まれている脳がその水に圧迫されて、障害をきたすものです。(脳圧は微妙にしか高まらないため“正常圧”と呼ばれます)症状としては、脳梗塞のような神経症状が多彩に両側に現れる事ですが、特徴的なのは、認知症状・歩行障害・尿失禁です。
町医者に診せたら「認知症」と言われた、というようにアルツハイマーやパーキンソンとの誤診も多く、実は、大きな病院で調べたら正常圧水頭症だったという事があります。正常圧水頭症と診断されたら、むしろ喜ぶべきかもしれません。正常圧水頭症は、脳脊髄液の量を減らしてやる事によって、治癒する可能性もあるのからです。手術によって、歩けなくなった方がピンシャン歩けるようになったり、認知症状がすっかりと無くなる場合があります。(※改善が見られない場合もある)
ただ、正常圧水頭症である期間が長い場合は、足腰に力が入らない事からくる筋力の低下や、脳そのものへのダメージの蓄積も心配です。正常圧水頭症を疑う場合は、その後の回復の事も考えて早めの検査が必要です。

【大腿骨頸部骨折】
高齢になって骨粗鬆症になると、ちょっとした転倒でも骨折してしまう事があります。
骨折部位でやっかいなのは、大腿骨頸部や大腿骨転子部です。これらは脚の付け根の股関節にあり、ふとももの骨(大腿骨)を骨盤とつなぐ役目を持っていますが、ここを骨折すると歩けなくなります。最悪の場合は、寝たきりになってしまいます。
ちなみに医学的には“ひび”が入っている状態も骨折と言います。ひびが入っている状態で、痛みは多少あるものの我慢して歩いていた方がだんだん歩けなくなってきた場合には、患部が悪化して痛みが増し、骨折側の足に体重が乗せられなくなって歩けないと訴えます。
認知症があって、自分の体を正確に認識したり人に伝えられないような方で、普段から膝や腰の痛みを訴えながらようやく歩行をしているような方は、大腿骨頸部骨折が、それとは気が付きにくい場合がありますので、要注意です。


紙ふうせんだより 8月号 (2016/02/08)

いつもありがとうございます。急に涼しくなってきたので、体調を崩さぬように、時々はぬるめの風呂に長く入って体を休めて下さい。また、冷たいものを多く摂っていた胃腸は疲れています。暖かいものも摂るようにしていきましょう。利用者さんも体調を崩しやすい時期です。注意深く見守って頂ければと思います。
さて、前回の紙ふうせんだよりでは、「サービス提供責任者から見たヘルパーさん」を書きました。サービス提供責任者について言及しなければ片手落ちですよね。という事で…
サービス提供責任者の業務内容について
サービス提供責任者は忙しい。これは自画自賛でもなければ身内びいきでもありません。
とある介護系のブログにも、サービス提供責任者の業務内容を以下のように書いていました。引用しますね。(佐々木はよく引用をしますが、それは我説ではないという意味での客観性の担保として引用しています。その分、自己主張が強いと自覚しているんですけどね。でも、紙ふうせんだよりを読んで下さっている方の中には、もっと佐々木を主張して欲しい!!という方もおりました。)「サービス提供責任者 」 の業務内容は 訪問介護事業経営そのもの
・人材確保
・利用者確保営業
・訪問介護計画作成
・稼働予定作成
・サービスの実施
・請求業務
・研修指導業務
・労務管理
これらは 障害者・高齢者福祉サービスには普遍である。
ある機関が纏められた「これからのサービス提供責任者に求められる能力は何か?」 には
①自立支援の理念の理解
②利用者の24時間の日常生活状況を把握する調査能力
③利用者の心身の状況から介護ニーズを発見する能力
④短時間のサービスを実行するための介護計画
(サービスの目標設定と手順の作成)立案能力
⑤要介護者の自立を妨げない介護技術の習得
⑥ヘルパーのシフトと巡回型ケアローテーション作成能力
⑦自らの経験・知識を他のスタッフに伝達する指導能力
⑧利用者やスタッフの心を惹きつける明るい態度
とある。
一読して、こんなにやってるの?できるの?という疑問が湧いてきます。さらにお休みのヘルパーさんのサービス代行も重要な業務です。このブログには元ネタがあって実はジャパンケアの資料なんです。このブログを書いた方も、サービス提供責任者の業務負担の多さと望まれる能力の高さをなげきつつ、これでは現場と向き合う時間も無く、離職り構造的な悪循環を生じさせるという旨を述べていました。

構造的な問題や矛盾にさらされて虚しくなる時
介護業界には構造的な問題などの矛盾が多くあります。3Kや低賃金だなどと言われていますが、大きな問題から挙げてみます。政府は社会保障費を毎年3,000億~5,000億円カットし、アベノミクス第二の矢である“機動的な財政出動”を行うとしています。2015年度の社会保障予算削減分は3900億円。一方で、今年の5/5に米国防総省はオスプレイ17機と関連装備を日本に売却する方針を決めました。交換部品込みで1機あたり212億円で、合計3604億円。(米国政府の1機あたりの購入価格は50~60億円と言われており、日本政府の購入価格はあまりにも高いという声があります)このような数字を見せられると、“社会保障の財源が無い”とか“2025年に向けて社会保障費を抑制しなければならない!”とか “社会保障費の充実に消費税導入が必要だ”との政府の主張は、悲しく感じます。
このような矛盾を見せられると、大抵の人は虚しくなるでしょう。これらをさらに掘り下げると腹が立つのでもうやめますが、一つ言える事は介護の仕事を今続けている人は、さまざまな矛盾にさらされても虚しさを乗り越え続けてこられた方だとういう事です。“勇者”と言っても言い過ぎではないでしょう。
大切なのは、どうやったら虚しさを乗り越えて行けるのか、という事なのです。その為の力として必要な事を2つ挙げます。一つは「信頼関係」です。もう一つは「理想」です。
信頼関係が意欲を生む
虚しさを感じる場面はさまざまあります。一生懸命ケアしていた方が突然家族都合で入所してしまったり亡くなったり、自分なりに良かれと思って一生懸命やった事が裏目に出たり評価されなかったり、事業所の方針と自分自身のやりたい介護が違ったりなどは、皆さんも一つくらいは心当たりがあると思います。虚しさとは、物事の価値や意味を見失った時に湧き出る感情ではないでしょうか。「いったい何の意味があるのだろう。やってらんない」という気持ちです。このような時のサービス提供責任者の関わりはとても重要です。ヘルパーさんの悩みに耳を傾けながら、“意味を見いだせない虚しさ”に焦点をあて、ヘルパーさんが気付いていない“意味”を一緒に探していくのです。
例えば、理不尽に見える家族と関わらなければならない意味、それは「家族はどんな気持ちだろう?」とか、「その関係を通して私の人生の学びになる事は?」という問いの答えを探す作業です。この時に、サービス提供責任者は、ヘルパーさんが意味を見つけ出して成長していける事を信じなければならないですし、完全に悪いだけの家族はいないという事も信じるのです。そのような受け入れる姿勢が根底にあってこそ信頼関係が醸成されます。信頼関係とは、相手の個性や自分に合わないところを許容しつつ言うべき事は言い、お互いの存在そのものを肯定し合える関係です。信頼関係を支えに人は生きる意味を見出していきます。
そして、信頼関係の反対は孤独です。信頼関係はコミュニケーションの質も大切ですが、量も大切です。ヘルパーさんが孤独にならないように、サービス提供責任者さんには、煩わしくならないように気を配りながら、きめ細かくヘルパーさんと連絡を取り合って欲しいと思っています。理想としては最低でも週1回くらいはきちんと話ができたらと思っていますが、なかなか忙しくてできないのが現実です。

生きた「理念」を持つ
意味を見出す方向性を指し示すものが「理念」です。例えば虐待事例を見て、ほっておく事はできないという人間的な感情と共に、「虐待はいけない事だ」という理念の確認があるからこそ、何とかしようという行動が生じてきます。理念は、虐待という虚しい状況に立ち向かう意味の裏付になるのです。
ところで「ほっておく事はできないという人間的な感情」と書きました。この感情の“持ち方”を人に教える事は大変難しい事です。しかし、「理念」は人に教える事も学ぶ事もできます。だから、理念を学び合っていく事が大切です。その理念の学び方も、良し悪しがあります。悪い学び方は、例えば、理念を皆で唱和し、ただ暗記するだけのようなやり方です。自分の頭では考えない人になります。そうではなくて、理念の学びが「人間的な感情」を醸成するように生きているものにならなければなりません。その為には、理念を“題材”として自らが、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかを、自らに問い続けなければなりません。問いを深めていく人の周囲の人は、自然と問いを投げかけられる事になります。サービス提供責任者さん自身が(ヘルパーさんに問うだけではなく)、常に「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかを、自らに問い続けて欲しいと思います。
サービス提供責任者に望む事
今回は、サービス提供責任者について書いてみました。自分の事を棚上げしながら書いているので恐縮です。ヘルパーの皆さんはどのように思いますか。こんな事ではなくもっと具体的に「こうして欲しい」という事があると思います。それらは、日常でのヘルパーさんとのコミュニケーションに譲りたいと思います。きっとサービス提供責任者さんはしっかりと聞いてくれると思うので、皆さんの「サービス提供責任者に望む事」を言って下さいね。よろしくお願いいたします。そしていずれは「管理者」について、自分自身について課している事も書かなければならないと思っています。最後に「意味」に関する事を、紙ふうせんだよりの26年7月号の内容を再録します。
介護者に問いかけられているもの
私たちは、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)という“生活の質”が、どうやったら向上できるかという問いをもって利用者さんと向き合います。その時、老いと向き合っている利用者さんの方は、自身の「“人生の質”とは何だったのか」という問いの前に立っています。
人生には、“意図せぬ意図”ですら微塵も見当たらない病気や事故や事件などから、絶望的な状況に立たされる事があります。ナチスの強制収容所に収容されながら生き延びたオーストリアの心理学者V・E・フランクル(代表作は収容所体験を綴った『夜と霧』)は、著書『それでも人生にイエスと言う』(春秋社刊)で、以下のように語っています。
「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない。答えを出さなければならない存在なのです。」

私たちは、ご利用者さんの前に立った時、「この人は、どうしてこのようになってしまったんだろう」という問いを抱く時があります。しかし、問われているのは私たち自身ではないかと思うのです。
「私はこのように生きた。これが私の人生だ…(私を見てあなたはどうのように生きる?)」という無言の問いかけを利用者さんは発しているのです。その問いに一生かけて答えていく事が、本当の意味で“命”と向き合うという事ではないでしょうか。

ひきつづき熱中症にはご注意ください!!

【熱中症のメカニズム】
人間の体の中では、いつも熱が作られています(産熱)。そして体の体温を一定に保つ働きが人間の体にはあります。気候条件や運動量増加により、体内の熱量が増えたにもかかわらず、放熱とのバランスが崩れてしまったときに熱中症は起こります。
体の熱量が増えると、体の表面(皮膚の下)の血流量は増加します。体内の熱を体の外に逃がしやすくする為です。その時、血液が全身に行き渡るために、体内の血液が一時的に不足して、血圧が下がってしまう事があります。すると、脳に十分な血液が送られなくなり、めまいや立ちくらみや、意識を失ってしまう事があります。これを「熱失神」と言います。お風呂の“のぼせ”と同じ原理です。体を冷ます対応が必要です。
体温が上昇した時には体は汗をかきます。その蒸発作用によって、体は放熱する事ができます。この時、発汗量が多いにもかかわらず、水分補給が足りないと、体は脱水状態になります。脱水状態が長く続くと、頭がボーっとして全身がだるくなって、水分や食事を摂ろうというやる気さえ無くなったり、頭が痛くなったり、気持ち悪くなって嘔吐してしまう事もあります。これを「熱疲労」と言います。このような時は、体への吸収の速いスポーツドリンクなどが有効ですが、水分摂取が困難な様子であれば、病院へ搬送し点滴をしなければなりません。独居の方は救急車要請の場面です。
さらにこれらの症状が進むと、熱の影響が脳に出てきます。意識をうしなって倒れてしまい大変危険な状態です。これを「熱射病」と言います。
また、汗の中にはナトリウムなどの塩分が含まれていますが、多量の発汗の後に、塩分を補給しないと体の中の塩分量が不足してしまいます。塩分は筋肉の動きを調整する役割も持っているので、塩分が不足をすると、手足がつったり、筋肉が痙攣をおこしてしまうことがあります。これを「熱けいれん」といいます。運動等で多量の発汗があった時にしっかりと水分を摂っていても、それがお茶や水である場合などに起こります。
「熱中症」は、脱水状態により血がドロドロになるために、血栓ができやすくなります。心筋梗塞や脳梗塞への注意も必要です。
ご利用者さんが体調不良で身体に熱感がある場合、熱中症かもしれないと、意識的に疑って下さい。


紙ふうせんたより 7月号 (2016/02/08)

 

皆様、いつもありがとうございます。暑くなりましたね!!移動時・休憩時の水分補給は欠かさないようにして下さい。利用者さんにも水分補給の必要性の声かけを宜しくお願いします。健康管理的な意味以上に、気遣う言葉はお互いの気持ちを柔らかくします。そこに、ヘルパーさんの真心が見えた時は、利用者さんは本当に喜んで下さいます。そのような些細な事に目を向けてこそ、人は変わっていくのです。
さて、前回の紙ふうせんだよりでは、「ケアマネから見た訪問介護」を瀬口さんに書いて頂きました。最前線としての重要な意味をヘルパーさんは持っています。今回はサービス提供責任者視点でヘルパーさんについて書いてみたいと思います。
サービス提供責任者から見たヘルパーさん
ヘルパーさんに利用者さんをお願いする時には、お互いの相性をまず考えます。相性とは、例えば利用者さんの生活に対する考え方が、こだわりや硬さがあると感じられる場合は、対応するヘルパーさんも、筋道立てて依頼された事を依頼された通りにしっかりやれる方が適任だと考えます。利用者さんが、やる事さえしっかりやってくれれば良い、というような方の場合も、余計なおせっかいをせずに手を抜く事もないような“仕事”意識の高い方を考えます。
逆に、利用者さんが介護の枠組み以前に、ヘルパーさんとの人間的な関わりを求めているような場合には、少々脱線しても柔軟な対応ができるヘルパーさんを考えます。また、事業所の想定した相性が必ずしも最善の答えではありませんから、良い意味で意外な結果がでる事(実際そのような事は多くあります)を楽しみにしています。その時、最も重要視している事は、その出会いから生じる、ヘルパーさん・利用者さん双方の「変化(成長)の可能性」です。この時、ヘルパーさんに求めているのは介護職としての完璧さではありません。むしろ膠着した状況を破るような個性の力を求めています。
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“内的な人間関係”と“外的な人間関係”
老いや死の受容には葛藤があります。一つは、過去や未来の自分を考えた時に起こる現在の自分との葛藤や、自分自身の中にある様々な気持ちのせめぎ合いというような、“内的な人間関係”の葛藤です。そしてもう一つは、家族などの周囲の人との“外的な人間関係”の葛藤です。葛藤は、気持ちや考えのどうどう廻りとして現れます。「これからどのように生活したらよいのだろう」という不安が、出口を求めて行ったり来たりします。
そのような時、利用者さんと異なる視点を持った人が、利用者さんの主体性を尊重しながら生活に寄り添っていくという事は、利用者さんの気持ちや考えに新しい風を吹き込み、不安にへこたれそうな気持ちの支えとなり、心の中の霧が晴れるという事があります。
ここで言う“内的な人間関係”とは、「自分関係」とも言えます。自分関係は、その中のどの気持ちも“自分”であるため、両方の気持ちに耳を傾けようとすると膠着状態が生じます。
板挟みに耐えられなくなって、片方の気持ちを立てて他は切り捨てるというような態度を取ると、本当のところは両方とも“真”であるため、無視された気持ちは無意識に潜り込み、表看板の上っ面の自分を毀損しようとします。それを他人から見た時、“感情にムラがある”とか“表裏がある”とか、“一貫性がない”などと評価されて付き合いにくいと思われてしまうのです。残念な事に、内的葛藤を切り捨てたつもりになっている本人は、意図的に自分の表のみに焦点を合わせているため、自分の裏腹さが相手に透けて見られてしまっている事に気が付きません。このため、外的な人間関係もこじれていきます。
このように自分関係は外的な人間関係に影響を及ぼすのですが、もちろん外的な人間関係も内的な人間関係に影響を及ぼします。他人を自分の心に入り込ませないようにガードするような孤独感を抱えた頑なな利用者さんが、ヘルパーさんの真心を感じてヘルパーさんを受け入れる気持ちになった時、自分の中で切り捨てていた、自分や他人へのいたわりや信頼の気持ちも同時に息を吹き返すという事もあるのです。それが“合わせ鏡”の相互関係なのです。相互関係の及ぼす
心への作用は、立場の上下などの表面的な人間関係などとは無関係に作用します。その相互作用は、上っ面の自分を取り繕えない“認知症”の方のほうがより繊細に感じています。
新しい出会いは変化の始まり

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訪問介護は出会いの場です。さまざまな内面を持つヘルパーさんと利用者さんが出会い、それぞれの個性を発揮した時に思ってもみなかった“化学変化”が生じて、利用者さんやヘルパーさん共々に生活や人生観の新たな展望が得られるとすれば、それはとても幸せな出会いです。幸せな出会いとはそこから肯定的な“変化”が始まるという事です。
ある方が介護認定を受け介護サービスが始まるという事は、生活の枠組みが“変化”するという事です。しかし、枠組みの変化に利用者さんの心がついていかない時、利用者さんの葛藤は高まり、変化への評価は望まぬ否定的なものになります。利用者さんの心の変化と同じ歩調で生活の枠組みが変化していけば、拒否感はそれほど強まらないでしょう。しかし、実際は生活の変化に心が追い付かない事が多いようです。
ケアプランの実施も生活の枠組みの変化です。その変化は具体的に生活の困難さを解決するという意味でとても大切ですが、老いの受容という意味では「心の変化」が最も大切なのです。心の変化は、人と人の触れ合いによって行われます。どんなに科学技術が発展しても機械に介護はできない理由がそこにあります。介護の根本課題は、物理的困難さの除去のみならず、老いや死の受容といった心の成長過程を支え見守る事に他なりません。身近に関わる人の温かさが伝わって「生きててよかったな」と感じて頂く事が、変化の始まりです。そこに個性を持ったヘルパーさんが、ヘルパーであると同時に“人”として関わっていく重要性があります。そして、老いや死の受容は単にマイナス面をあきらめて受け入れるというような消極的なものではなく、老いてこそ輝く自分自身を発見するというような、新たな価値を見出す肯定的・積極的なものであって欲しいと願っています。
個性をより良く発揮する事が、変化を肯定的なものにする
利用者さんの個性を尊重し、介護がお仕着せにならないようにしなければならないのは大原則ですが、それを行っていくヘルパーさんも同時に個性をより良く発揮していく事ができれば、“化学変化”は肯定的に促進されます。その為には、ヘルパーさんには利用者さんの気持ちをしっかりと受け止めて頂きたいと思います。同時に、サービス提供責任者としては利用者さんや家族、ヘルパーさんそれぞれの“当事者”の声をしっかりと聴いていきたいと思っています。特にヘルパーさんには、一人一人の利用者さんに対する疑問や不安、提案などを率直に話して頂ければと思っています。
そして注意しなければならないのは、ヘルパーさんの「個性」を強調すると、ヘルパーさん独自のやり方を利用者さんに押し付けて、それで良しとしてしまうヘルパーさんもいるかもしれませんが、それは誤りです。利用者さんの個性も尊重されより良く発揮できるようにならなければ、介護の価値は半減します。人間らしい偽らない自然体の心の表出は、頑なな心の武装解除を促します。ヘルパーさんの個性の発揮はそこを目的とするのです。ヘルパーさんのやり方の押し付けで利用者さんが窮屈になってしまうような事は、慎まなければなりません。個性の発揮とワガママは、意識して一線を画す必要があります。
その為にはヘルパーさんは、ヘルパーとしての技術などを高めて頂く必要がありますし、同時に、“人”としての人間性を高めて頂きたいと思っています。自分の心の裏側にも意識を払い自分自身を理解しようと努め、自分が相手に与える相互作用も自覚し、相手の為に自分を働かせる事を目指すような、高められた人間性の発露こそが、真の個性の発揮なのです。一人の人間の持つ心の奥深さは、いくら汲んでも汲みつくせない泉のようなものです。だからこそ、どんな時どんな年齢でも人間性を成長させて
行ける変化の可能性があるのです。自戒をしつつ希望を持ってここは書いています。
この訪問介護の仕事は、人間性を高められる仕事です。相互作用に着目すれば、相手にとって良い事は自分にとっても良い事です。ヘルパーさん一人一人がこの仕事を通して成長していく事は、利用者さんにとっても最大の価値になりますし、サービス提供責任者としても大きな喜びとなるところです。ヘルパーの皆さんの成長はサービス提供責任者のやりがいにも大きく関わってくるのです。人に成長しろと言っておいて、自らがそれを怠るわけにはいきません。それは、要介護者と支援者の関係も同じです。「先ず隗(かい)より始めよ」の故事どうり、サービス提供責任者自身が成長していきたいと思っています。
もとより、人の身体や心の変化の持つ意味は、最初から「善悪」に色分けされてはいません。色を付けるのは自分の“眼鏡”です。人と人との相互作用を謙虚に感じとり、相手と自分自身を信じていく事ができれば、どんな出来事からも肯定的な意味を汲めるようになると思うのです。今後とも、利用者さん・ヘルパーさん・ケアマネージャーさんとしっかりと連携を取っていきたいと思います。
【訪問介護の研修会について】
今まで、ほぼ毎月研修会を行ってきました。その内容を振り返ってみます。(囲み)
実は、同じ内容は2度と行わないでここまでやってきました。意識していた事はなるべく皆さんが主体的に自分の話ができるようにする事。状況を考えてタイムリーなテーマを選ぶ。新しい知識や幅広い分野から資料を用意する事。単なる理屈やマニュアル的にならないようにする事。「詩」なども資料として使い感性に訴える。「汝自身を知れ」「己を知れば百戦殆からず」として、研修を通して自己覚知を目指す。
マニュアル的な発想が良くない事は三好春樹氏も「痴呆論」で、バリテーションなどの外来のケア論を形式的に導入しても、その理念の確認がなされなければ意味が無いという旨の持論を展開していますが、そのような意味では、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのか、その意味を考えるような「理念」を常に基盤にする事、なども心掛けてきました。
特に面白かったのは、精神分析理論などをもとに自己分析をした回(エゴグラム・エニアグラム等)です。皆さんから「納得了解した“自分”」「自分の知らない“自分”」が出て話は盛り上がり、自分で自分をどう見ているのか、他人からはどう見られているのか、などを話し合いました。自己分析は今後もやってみたいと思います。
今後も皆さんにふるって参加をお願いしたいのですが、悩みの種は、参加者が固定化されてしまっている事です。「あんまり参加してないわ」という方は、是非参加をお願いします。
そして、あんまり参加されない方にお願いがあるのですが、もっと多様性に満ちた研修にしていくためにも、どんな研修を望んでいるかをお聞かせ下さい。今後の改革としては、①階層別・グループ別研修を行う。②研修参加手当の見直しなど、研修の達成・修了度が給与に反映される仕組みを作る(その代り、一部研修を義務化するなど)が考えられます。研修の目的は、学びよって今まで“介護”を振り返り、明日からの、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかに活かしていく事にあります。その時に一番重要なのは、同じヘルパーさん同士なので悩みなどを話し合い、相互作用的に自分自身を客観視し、自分自身の感情から距離を取って考えてみる事によって、精神的にリフレッシュする事です。気軽におしゃべりにくるぐらいの気持ちで参加して下さい。


紙ふうせんだより5月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます。

強い日差しを浴びて、草木が一番成長する季節です。空地はいつの間にか夏草に変り、土も乾きぎみです。草木は青空に両手を拡げて水も欲しているようです。皆さんも水分補給はマメに行って下さいね。

さて、草木はどうやって成長するのでしょうか。光や水や土など適度な環境が整えば、誰からも教わる事なくひとりでに育っていきます。そのような力が初めから植物の種子には備わっているのです。このような成長の季節に私たちも一歩づつ成長していきたいと思います。

 

“生活のしづらさ”を支える

今年の4月から「生活困窮者自立支援制度」が始まりました。今までの福祉制度は対象者を高齢・障害・児童などの縦割りで支援していましたが、そのような垣根を越えて横断的に、「現在は生活保護を受給していないが、生活保護に至るおそれがある人で、自立が見込まれる人」を対象とし、生活の困窮や社会的な孤立から脱却し自立した生活を目指そうというものです。対象者の「生活保護に至るおそれがある人」というところには、給付を抑制したいという国の痛ましい下心が透けて見えるようですが、ともかく次のようなケースが例示されています。

5絵

・高齢で体の弱った親と二人暮らしを続けるうちに、地

 域から孤立してしまった人

・家族の介護のため、時間に余裕はあるが収入の低い仕

 事に移った人

・離職後、求職の努力を重ねたが再就職できず、自信を

 失ってひきこもってしまった人

・いじめなどのために学校を中退し引きこもりを続ける

 うち、社会に出るのが怖くなってしまった人

 

このように支援対象はとても幅広く、3月の研修会で内閣府の資料などを使って取り上げた、対人コミュニケーションに関わる多様な能力のバランスのとれた発達を欠いた“発達障害”の方もここに含まれてくるでしょう。IQなどの知能は普通であっても、物事の段取り構築や、自己感情表現や相手の表情を読んだり、抽象的な言葉の感覚的理解などが苦手な“発達障害”の方は、学校や職場で孤立したりイジメなどを受けて、自己卑下や自信喪失などの感情を生じやすくなります。それは“生きづらさ”となり、就職しても長続きせず“ひきこもり”になるなどし、生活は困窮していきます。2007年にNNNドキュメンタリーが“ネットカフェ難民”を取り上げ流行語となりましたが、生活困窮の多くのケースは、その背景に“生きづらさ”を抱えています。最近、母子家庭の増加とその貧困率の高さが問題視されていますが、一人親になるきっかけにはDVや児童虐待などもあるでしょう。そのような被虐待経験も、情緒の未発達や、自尊感情の破壊、他者への信頼感の喪失などを生じ、“生きづらさ”となります。そして、その“生きづらさ”の解決を障害や心の傷のという“個人の病理や人生の克服”という次元で考えるのではなく、“生活のしづらさ”に置き換え、環境や生活スタイルを整えることに焦点をあてていきます。なぜかというと、“個人の病理や人生の克服”にしか解決策がないのであれば、利用者は自分ではどうにもならない大きな壁にぶつかったような気がして、立ちすくんでしまうからです。また、支援者も“問題のある人”というようにレッテル貼りをしてしまい、利用者をレッテルの中に閉じ込めてしまう事が多いからです。

“生きづらさ”というものは、例えば「自分はダメ人間だけど頑張りたい。頑張りたいけどダメ人間だ」というような、本人にとってはどうしようもないくらいに“どうどう巡り”してしまう思考回路としても現れてきます。そのような時、膠着した思考回路の枠組みをずらして、“生活のしづらさ”として具体的に生活支援の提案をしていきます。「ダメと感じるのは生活の○○で困っているからですよね。では、○○に対してこんな取組をしてみるのはいかがでしょうか」というように、支援者側もレッテル張りの枠組みから抜け出せる提案を考えなければなりません。そのために求められるものは支援者自身の視点の切り替えと、支援の枠組みの変化なのです。

 

医療モデルから生活モデル(生活者支援)への転換

 

従来の福祉では、利用者の課題を、疾病や障害を中心に理解してきました。そのため、支援の中心は疾病や障害をいかに治療・改善するのかが課題となり、その方法として投薬やリハビリ、健康管理等の医療的アプローチが優先される事になります。すると支援過程の主体や責任者は治療や健康管理をする側となり、もし利用者が支援を拒むならば、専門家の教育や訓練に従わない“ワガママ”な利用者という事になっていました。利用者の反発は、自分自身こそが人生や生活の主役であるはずなのに、その主体性を奪われた怒りです。しかしその反発を受けた“専門家”を称する支援者は、言う事を聞かせようとますます指導的・管理的になっていきます。その悪循環の結果は、支援関係の破たんです。支援者が支配者として君臨し、NOと言えない利用者は自分の殻に閉じこもり意欲を低下させていくか、支援者がワガママに振り回される事に疲れ果てて降りてしまうか、のどちらかです。そのような福祉の文化を「オールドカルチャー」と呼んで克服していこうという潮流が今あります。 一方の「ニューカルチャー」での支援者の立場は、“専門家”という権力を行使して援助をスムーズにするのではなく、支援者自身も生活者として“対等な一対一の視点を持ち、“共に歩む・支えて手”でなければならないとされています。問題解決型の方法論ではなく、もし“生活のしづらさ”がなくなったらどんな事がしたい?と、思い描く生活への目標を話し合いながら、具体的に生活環境の改善を目指します。それは、本人の主体性を促した上での取り組みとなり、本人の自己決定を支援していくものになります。 進行性の癌の方を例にしてみましょう。医療モデルでは、ガンの治癒を第一の目標とします。抗がん剤の投与などの辛い治療により、患者の多くは食欲不振になるなどし、日常の生活もままならなくなります。医療という専門家の視点からすれば、延命こそが価値の第一番になるので、治療による患者の苦しみや生活破壊は、深く顧みられなくなります。それに対して生活モデルの視点では、本人がどのような“生活”を送りたいか、という想いを明確にする事から始め、その為には何に困っているのかを明らかにし、そこにどのような治療が要・不要なのかという事も含めて一緒に考え、それらを自己決定できるように促していきます。そして、ゆくゆくはどんな場所でどのように締めくくりたいかという事にまで、本人が心を定めて不安を乗り越えて、周囲に自分の気持ちを伝えられるようにしていく事が大切だと考えられています。生活モデルの視点は、常に主役は本人であって支援者ではない事が強調されます。そして、本人が主役であるために最も大切なのは、本人による本人のための「自己決定」なのです。

 

「自己決定」を支援する

 先の「生活困窮者自立支援制度」の国研修の資料によると、「健康な『自己決定』を成立させる要素」として、以下の5項目を挙げています。これらが“できなくなった”時には、 「健康な」自己決定がさまたげられ“生活のしづらさ”が生じてくるとしています。

(平成26年度自立相談支援事業従事者養成研修 ・相談員研修「自己決定の支援とは何か ~判断能力が不十分な人への関わりを中心に~」より)

 

・率直に話し、かたよりなく聴いて理解する 6絵

・見通しを立てて、段取りを組む

・優先順位を決める

・実行に移し、最後までやりとげる

・適切にふり返り、記憶に残しておく

このように見ていくと認知症の方は、自己決定を“健康”に行う事が困難になってくる事はすぐに了解できます。しかしだからといって、自己決定ができないわけでも、自己決定が必要ないわけでもありません。むしろ、支障を来しているがゆえにその支障となっているところを支援する。絡み合った困難さを一つ一つ解きほぐしながら一緒に考えていく、というプロセスこそが大切なのです。「健康な『自己決定』を成立させる要素」は、アセスメントを行いそこから抽出された課題を本人と一緒に確認しケアプランを作るというような、PDCAサイクル(Plan計画→ Do実行→ Check評価→ Act改善)を回せと言われているケアマネジメントのプロセスとそのまま重なります。まさにケアマネジメント過程は自己決定の支援過程でもあるのです。そして、話し合った事を本人が忘れてしまったとしても、自分の事を一緒に考えてくれる信頼できる人間関係があると感じるか、自分の知らないところで自分の事が勝手に決まってくという疎外感を得るかは、その後のその人自身の在り方に大きな違いとなって現れてくるのです。

 

自己決定はその人固有のもの

 

ケアマネジメントについて書くと、ヘルパーさんは“関係ない”と思われるかもしれませんが、そんな事はありません。自己決定の重要性は自分自身の問題でもあるのです。例えばヘルパーさんが、この仕事を「自分自身が希望して、やりたいから、好きだから」やっている人と、「他に仕事がなくて、仕方がなくて」やっている人とでは、ヘルパーとしての相手の方との関わり合いにも大きな差が出てくるように思われます。前者は健康な自己決定をしていますが、後者は社会的・経済的な圧力の下に“不健康な”自己決定をさせられていると言えます。そして、“不健康な”自己決定をしてしまった人に限って相手に対しても“不健康な”自己決定を強いるような合わせ鏡の関係になってしまいがちである事を感じます。そして、相手を批評という天秤に掛けてしまう時、実は自分の秤こそが歪んでいるかもしれないのです。前出の資料には「相談員自身が自己理解をしていなければ、相談者の自己決定を混乱させてしまう」とあります。また、自己決定は「誰も代われないその人固有のもの、その人の人生そのものであると理解する」とあります。

「彼らと一緒に悩む、迷う、つまずく、謝る、喜ぶ →彼らが『生きていく』ことに寄り添っていく」(同資料)これは、誰かの伴走者になる事の重たくて必要不可欠な態度を示しています。私たちは、一週間の内の何時間かは誰かの人生の伴走者になるのです。そしてそこから得た想いは、自己理解という形で合わせ鏡のように結局は自分自身に帰ってくるのではないでしょうか。懸命に生きている方と関わるなかで自分自身を振り返ると、他人に対してと同じように自分で自分にレッテル張りをしていた事に気付かされます。そのレッテルをはぎ取った時、自分にとって不本意だった状況も、実は自分自身が無意識に望んでそのような状況を作り、自己変革を求めて知らず知らずに飛び込んでいた、とさえ思えてくるのです。

私は、自己決定をする力はどんな人であっても、認知症や知的障害や精神疾患があっても、種子のようにその人の中に在り続けるものだと信じています。支援者は、その種が芽を出すように環境を整える事が役割なのです。なぜならば、私自身“不健康”な状況もあったけれど、結局自分は自己決定してきたし、今後も自己決定していきたいと望むからです。それが掛け替えのない自分自身の人生に他ならないと感じるからです。


紙ふうせんだより4月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます。これから暑くなってきますね

ゴールンウィークに向かって気温が上昇していく季節です。季節の変化に追い付けない利用者さんは、水分が足りなかったり厚着のままでいて、“脱水症状”や“熱中症”という事もあり得ます。これからの季節は、利用者さんが「なんか調子悪い」「ぼんやりしていて、いまいち受け答えがはっきりしない」という時は、それらも可能性の一つとして考えておいて下さい、利用者さんからおかしな発言が見られる時、認知症の進行だけではなく、“脱水”や“こもり熱”“低栄養”なども疑いの中に入れておいて下さい。

 

それ以外の可能性としては、本当に緊急事態になりますが“脳卒中”です。脳血管障害は、主に「脳出血」か「脳梗塞」になります。これらは大きな病変が発生する前に、「かくれ脳出血」や「かくれ脳梗塞」などの予兆がみられる場合があります。倒れてしまう前に「四肢のどこかに力が入らなくなったり痺れが現れた」などの場合が多く、利用者さんは「歩けない」「立てない」と訴えます。普段から脊椎圧迫骨折などがあり歩行困難な方は、その症状と見誤る事があり注意が必要です。脳血管障害に特徴的なのは、痺れや力が入らないなどに『左右差』(片麻痺)がある事です。脊椎の神経障害でも左右差が出る事がありますが部分に限られており、脳血管障害の場合は障害が片側全体におよぶところが特徴的です。両手をバンザイしてみると片方の腕が上がりにくい。手や足をつねったりくすぐってみると片方が感じにくい。温度を感じる事も片側が鈍くなります。また、うつらうつら寝てばかりになる事もあります。これらのサインが急に現れた場合には脳を疑い、基本的には救急車要請です。

 

最近の利用者さんでこのような状態が見られたのである大学病院に救急搬送をしてもらったところ、しっかりとした検査をしてもらえずその日のうちに帰され(脊椎に病気がある方でした)、後日別の病院で精密検査をしてもらうと、やはり脳梗塞が見つかったとういケースがありました。救急搬送の場合は、私たちは診断はできませんが、こちらの疑念をしっかりと伝えていきたいと思います。

 

いずれにしても、普段の利用者さんの日常生活のイメージを持っている事が大切です。私たちは限られた時間しか訪問しませんが、それ以外の時間で利用者さんがどのような生活をしているのかという事に、想像力をしっかりと働かせるのです。それは、現実には「見ていない」「知らない」事ですが、『見えない事』を想像し、“理解”する事が良いサービスにつながるのです。この見えない事を見ようとする事は、介護の仕事の本質に深く関わる事なので、掘り下げて書いてみたいと思います。

 

見えないものを見ようとし、見えるようにする事

映画監督の黒澤明は、自伝『蝦蟇の油』でモーパッサンの「誰にも見えないところまで見ろ、そして誰にも見えるようになるまで見ろ」という言葉を引いて、目に見えないものを、見えるようにしていく事が映画監督の仕事だと語っています。黒澤明は映画『夢』で、富士山が噴火し浜岡原発が被災し放射能をまき散らし、その放射能には色が付いて「見えてしまう」という恐怖を描いています。目に見えない恐怖(原子力発電所と共に生活する恐怖など)を、まさに「見える」ようにしたのがこの作品です。

 私たちの介護の仕事は、特にケアマネージャーさんは利用者さんの「表現できていない」「言葉にならない」気持ちをケアプランという形で“見える化”し関係者で共有すると共に、利用者さん自身の自己覚知を促し、生活に対して新たな目標などを持って臨めるようにしていくケアマネジメントが重要です。

 

このように考えていくと、どんな物事でもその本質はなかなか見えないもの、隠されたものであって、見えないものだからこそ見ていこうという姿勢が大切であると言えるでしょう。また、本当に大切な気持ちはなかなか表現できないもので、言いやすい耳障りの良い事を言って自分の本心を誤魔化したり、目の前の人に無意識的に合わせたりするのが、多くの人の取り得る態度だと言えるでしょう。こんな複雑な裏腹さをもって表現される人の心は、恋愛を例にすると了解しやすいのではないでしょうか。

 

見えぬものでもあるんだよ

 

金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」と いうものがあります。この詩には「目には見えないけど本当は存在するものがいっぱいあるんだよ」という他者との共生感覚のような愛情が、ふるえるような言葉で紡がれています。金子みすずの言う「見えぬけれどもあるんだよ / 見えぬものでもあるんだよ」というようなものごとは、何が考えられるでしょうか。

 

           星とたんぽぽ

                                           金子みすず

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

   見えぬけれどもあるんだよ、

   見えぬものでもあるんだよ。

 

ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきにだァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

 

それらの一つに人の心があります。例えば恋愛の場面では、一番気になるのは相手が自分に対して好意を持っているかどうかでしょう。しかし自分の気持ちでいっぱいいっぱいになると、相手の気持ちは全く見えなくなります。見えないからといって、相手に心が無いかといえばそんな事はありません。相手には相手独自の気持ちや考えがあります。それを、どうせ考えても解らないから、見えないからと言った理由で、自分の気持ちを押しつければ、稀に成功するかもしれませんが、たいていは失敗します。そして成功に見えた関係も長続きはしないでしょう。人の気持ちを考えない傾向が、だんだん顕著になってくると相手が離れていくからです。こうして、その人はだんだん孤独になっていきます。

 

目に見えないものをおろそかにする気持ちと「孤独感」の関係

 

私たちが介護をする方のなかにも、強い孤独を抱えておられる方が沢山います。それは、親しい人が亡くなったなどのさまざまな理由があるでしょう。一概に論ずる事はできませんが、先の恋愛の例で言うと、もしかしたら孤独だからこそ、自分の気持ちを相手に押し付けてしまったと言えるかもしれません。そうすると、悲しいことに孤独がさらに孤独を強めてしまう負のスパイラルに陥っているのかもしれません。そのような方は時々見受けられ、介護現場で “手を焼かせる”方になっているように思われます。それは、支援の在り方の至らなさもありますが、心からの忠告も耳に入らず、自分の孤独さのみに気を奪われ、周囲で大勢の人が支えてやろうと一所懸命になっているのに、煩わしいと感じてはねのけたりするような方などです。

 

そのような方は、周囲の人は優しくしてくれているのに、その優しさでは自分の孤独感は埋まらないというようなアマノジャクな態度を見せる事になります。周囲の優しさに気が付かないから孤独に陥っているとも言えます。このような方には心を開いて頂いて、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」の歌詞にもありますが「人生捨てたもんじゃないよね」という事を、介護者としては解って頂きたいと思うのです。困った事にこのような方は、自分自身でも自分がどうしたいか解らなくて、周囲の人を振り回す事が多々あります。

 

人の優しさは明確な形で目に見えるものではありません。むしろ自身の心で感じていく性質のものです。だからこそ、見えないものを見ようとする気持ちが必要なのではないでしょうか。目に見えないものをどうやって見て、どのように感じていくかは、一朝一夕には上手くいかない積み重ねのようなところがあります。

 

例えば、掃除の仕事の時に、「どうせ利用者さんは見えないから」「見ていないから」「指示がないから」と、当初のサービス計画よりも質を下げて(さぼって)支援をしたとします。このような時、利用者さんからクレームが有るとか無いとかは本質的な問題ではありません。利用者さんは、内心では「あそこの掃除もお願いしていたんだけど、いつの間にかやってくれなくなった…でも、いろんな方がいるから口に出して指摘するのはやめよう。そのうち気が付いてくれればいいんだけれど…」と思っているかもしれません。このような時、二重の意味で、目に見えないものを意図的に無視している事になります。一つは利用者さんの気持ち、そして何よりも重要なのは、自分自身の良心です。仕事をしっかりとやって利用者さんに気持ち良くなって頂こうという自分自身の優しさを、自分で無い事にしてしまっているのです。このような態度を「裏表がある」と言います。「人間には裏があって当然」と開きなおってしまったら、困るのは自分自身です。目に見えないものは無いものとしているうちに、他人の心に不感症になり、その優しさを感じられずに孤独感を抱いてしまったり、無視し続けたがために自分自身の本当の気持ちが解らなくなってしまうのではないでしょうか。

 

誰かの孤独感を感じた時、自分自身はどう振る舞うのか

 

「孤独感」をこのような構図だけで説明するのは実は乱暴な事です。その背景には生い立ちや時代背景や、現在の人間関係やどうにもならなかった悔しさなどもあるでしょう。ただ、こうやって裏表のある態度と孤独感の関連性を明らかにすると、誰しもがドキッとするのではないでしょうか。それは、全く裏の無い人は居ないからです。だからこそ利用者さんが抱いている孤独感とどう向き合っていくかは大きな課題なのです。利用者さんの孤独感は「私は関係ない」というものではなく、私の孤独感の問題でもあると捉える必要があるのではないでしょうか。そのような気持ちになった時、利用者さんとヘルパーさんとの間で目に見えない信頼関係が生まれます。そして、その孤独感について一緒に考えていき、ヘルパーの気持ちも素直に利用者さんに述べるというような壁の無い態度が、利用者さんの孤独感を解きほぐしていく可能性があると言えるのではないでしょうか。

 

本来、人間関係を成り立たせている関係性は、目に見える存在としては無いものです。その目に見えないものに対して、存在を信じる心になれば優しさを感じ、疑う気持ちになれば孤独感を生じるのでしょう。介護の仕事の本命を、三大介護(排泄・入浴・食事)ではなく人の心やスピリチュアル・ケアと捉えれば、私たちの仕事は、目に見えないものの存在や価値を信じていく事に他なりません。私たちは単なる掃除屋や入浴屋ではありません。生活援助や身体介護を機会として、手の温もりや声の響きを通して自分の心を相手に伝え、人の心の畑を耕し、心の豊かさを開拓する仕事なのです。私たちがこの仕事のやりがいを感じる時は、必ず、お互いの気持ちが通じ合ったと感じる時ではないでしょうか。通じ合ったその“感じ”に疑問を挟む必要はありません。自信をもってそこは素直に信じていきましょう。

 

利用者さんがいつの間にか明るくなり元気になったという時には、必ずヘルパーさんや家族の目に見えない努力があるという事を私は信じています。そして、そのような皆様方を待っている利用者さんが沢山いるという事は、私たちの心にとっても、豊かな実りとなり得るとても幸せな事ではないでしょうか。


紙ふうせんだより3月号 (2015/07/31)

皆様、いつもありがとうございます。桜が咲きましたね!

 

私にとって4月の思い出は、なんと言っても子供のころの進級・クラス替え、卒業式・入学式などの新しい始まりに心を躍らせた思い出です。その高ぶった感情が咲き誇る桜と結びついて、桜の花はエネルギーの塊が光を放つようなイメージで心に刻まれています。皆さんはいかがでしょうか。日本人がお花見好きなのは、単に花より団子だけではなく、桜の木でお酒の力を借りつつ、子供の頃の純粋な気持ちを思い出すからではないでしょうか。

 

子供の心の純粋さ

 

打算や世間体などから離れたところで、誰かに絵

 とってではなく自分にとって、良い悪いや好き嫌いなどを、自己抑制なく感じられる心には、命の純粋さがあります。一方で、それを“ワガママ”と言う声もあるでしょう。“成長”とは、自分を抑えて周りに合わせられる事だと言うのです。しかし、皆の為と称してして自らの命の深みからの声を聴かず、自分や仲間への利益誘導や保身に明け暮れ、人の心や命を平気で踏みにじれる“強さ”を持つ事が“大人”への成長だとしたら、どんなにか残酷な事がその人の心の中で行われてきたのだろうかと恐ろしくなります。

河合隼雄『子どもの宇宙』岩波新書より引用します。

 

この宇宙の中に子どもたちがいる。これはだれでも知っている。しかし、ひとりひとりの子どもの中に宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さを持って存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは、小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を湾曲してしまったり、回復困難なほどに破壊しりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。私はふと、大人になるということは、子どもたちの持つこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去っていく過程なのかとさえ思う。それでは、あまりにもつまらないのではなかろうか。

子供や老人の中の宇宙

2絵

 

「老人と子どもは不思議な親近性を持っている。子どもはあちらの世界から来たばかりだし、老人はもうすぐあちらに行くことになっている。両者ともあちらの世界に近い点が共通なのである。青年や壮年がこちらの世界のことで忙しくしているとき、老人と子どもは不思議な親近性によって結ばれ」ていると河合隼雄は述べています。そして、老人や子供の本質の一つを“魂を導く者”と指摘しています。老人や子供がなぜ魂の導者となり得るのか、それは“大人”と異なり社会的規範などに縛られる事なく、魂の側から自然体でこの世を見ているからと言えるでしょう。しかし、老人や子供の声が聞こえない“大人”は、「善意」のつもりでとんでもない事をしている恐れがあるのです。

「介護」や「支援」の両面性

 

最初の引用文の『子ども』を『高齢者』や『認知症高齢者』または『知的障害者』と読み替えたらいかがでしょうか。また『「教育」や「指導」』を『「支援」や「介護」』と読み替えてみましょう。すると私たちの行っている「善意」を自己検証せずに安易に他者に適用する事はできなくなってきます。

私たちの行っている「介護」は生活に働きかける具体的な力を持っています。孤独さに心を閉ざしていた方が「介護」という関わりで、心を開いていくという事もあるように、実に強い作用があります。しかし強い作用というものは、常に薬と毒の両方の可能性を考えておかなくてはなりません。もし医師が処方する薬の副作用を知らなければ事故になります。人の心と関わる仕事をするものは、本人の主体性のない現状変更は本人の力を奪い、時として現状破壊につながる危険性も自覚しておく必要があるでしょう。

 

社会的規範の両面性

 

私たちが社会的生活を送る上で、「○○しなければならない」というような社会的規範は実に多くあります。それらは、多数の他者によるこの社会を成りたたせる為には必要不可欠ですが、それらが余りにも多く重くのしかかると、社会は窮屈になります。社会全体の許容量が少なくなり多様性は損なわれ、皆がイライラし始め、枠に入りきらない人を意識的・無意識的に排除し始めます。そのような時、排除された者や脱落したと感じる者が、うつ病や引き籠りなどという静かな抵抗を試みる事もあるでしょう。

排除の論理が働く時、排除する側には、「自分は排除される側に回りたくない」という強迫観念めいたものが現れます。すっかり定着したかのような“勝ち組”“負け組”という言葉もそうでしょう。最近では、中高生の間でも“スクールカースト”などという言葉がささやかれ、自分が“下位”にランクされないように“下位”のクラスメートとの付き合いは避け、“上位”のクラスメートとのみ付き合っているように表面上は見せかけるという“処世術”もあるようです。残念ながら、“大人”の世界の論理がだんだんと子供の世界を侵食しはじめ、子供が本当に子供らしく生きられる期間が、極端に短くなってしまっているようなのです。

 

導者の役割

 

言うまでもなく誰の心の中にも“宇宙”は存在しています。しかし、現実の生活や生産活動がネオンのように輝くと、それは夜の星の光のように見えにくくなってしまいます。そのような時、改めて“宇宙”の存在を気づかせてくれるのが、子供や老人なのです。そしてそれはある種の反抗として現れます。私たちが“介護”している方たちも、時々私たちの“介護”に“反抗”します。それは、不確実な言動で周囲を右往左往させたり、認知症の方の行動・心理症状(昔は問題行動や周辺症状と呼ばれていた)だったりします。しかしそれらは、“大人”の合理性や一方的な論理を押し付けないで欲しいという悲鳴だったり、“介護”を見て“人生や魂”を見ないような、「木を見て森を見ない」態度を改めさせるべく生じていると考えてはいかがでしょうか。“導者”は道化師(ピエロ)のように振る舞いながら、“大人”が目に見えないものを軽んじるようになった時、そんな事あってたまるか!と、私たちに迫ってくるのです。それは人間存在の重みの叫びであり、命の深みへの気付きを導くのです。

河合隼雄は、戦時中を舞台にする児童文学を例に導者について次のように言っています。

 「方向性が明確に定まっているところでは、指導者や教師が活躍する。彼らは何が「正しい」かについて確信を持っており、同じことを繰り返し言っておればよい。そして、その正しい方針に従わぬものは悪として裁断すればいいのである。しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるものだろうか。人間の魂はそれに対して、強く「否(ノー)」と叫ぶだろう。(略)導者は社会的規範や、指導者のことばにまどわされることなく、魂の呼びかけに応じていく。そこでは、言葉よりも行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。」(同書)

 

価値観の逆転

魂の導者は、既存の価値観の見直しを促し根源的な問いを発します。それは露骨な言い方をすれば、介護を受けなければ生活できないような者は哀れな存在なのか否か、というものであり、それに答える私たちが明確な答えを見出さないかぎり、介護する側と介護を受ける側に作られてしまった序列を逆転させるのです。私たちは、人生や魂の学びの為に、導者に頭を垂れ謙虚に教えを乞う立場なのです。

このように考えると既存の価値観の多くが揺らいできます。例えば、還暦を迎えた老人に赤いちゃんちゃんこ着て頂く風習があります。これは、還暦を迎えた大人が赤子のように無力な存在になるという意味ではなく、社会的役割から徐々に解放され、社会や生活の維持などの視点から人生を見つめるのではなく、子供のような純粋性を持って、魂の側から人生を眺め直す時が訪れたと理解すれば、意義深いものになるのではないでしょうか。年を重ねる事は悪い事ではないのです。


紙ふうせんだより6月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます

梅雨です。自転車のスリップ(マンホール、横断歩道、歩道の段差)、傘さし運転による出会い頭の事故には、くれぐれもご注意ください。レインコートなど事前の準備と、余裕を持った移動をお願いいたします。

さて、正月から数えてもう一年の折り返し地点です。「一年の計は元旦にあり」と言いますが、ここらでもう一度自分のやりたい事や目標を振り返ってみるのも良いでしょう。

私の本当に“やりたい事”は何だろう?

就職活動など学生や若い人は、度々「私の本当に“やりたい事”は何だろう?」と自問自答をします。それは「どんな職業に就きたいか」として具体化され、明確になれば行動に結びつきます。しかし、なかなか明確にならない方もいます。明確化されないのは、自分自身の掘り下げ不足や視野の拡がり方などの問題もあるでしょう。また、マニュアル的な“目標は具体的なほど実現する”などの考え方に偏りすぎると、一面性の弊害が出てくる場合もあります。職業というのは器であって、本質的には「そこに何を入れるのか」という“想い”が重要なのです。問われているのは、「どんな」ではなく「どのように」という事なのです。

サッカーをやりたい、映画をやりたい、起業をしたい、ビジネスパーソンとしてバリバリと仕事をしたい等という事が見えているということは、幸せな事です。それを目指していけば良い。しかしそこに、自分の何を入れていくのかという事が無ければ、例えばサッカー哲学や、どのような映画で人間の何を謳い上げるのか、誰の為に何の為にという信念がなければ、一流になるなど程遠く生き残る事さえ危ういと思われます。介護の仕事も、誰の為に何の為にという信念に裏打されていなければ、皆さんのように長く続ける事はできなかったと言えるでしょう。

一方で、つきたい職業ややりたい事が分らないという事も、決して寂しいわけでも劣っているわけでもありません。「どのようにありたいか」という人間性を追求してゆく信念があれば、器の具体性が無くても、可能性はいつどんな時でも拡がっていると言えるでしょう。もし、中身ではなく器にしか価値がないのであれば、

え 仕事を引退した隠居には、価値が無いという事になってしまいます。そうでは無い事を私たちは介護を通して知っています。

また別の例えをすれば、「どのようにありたいか」は、人生の土台であり、その上に「やりたい事」が乗っているとも言えましょう。6月18日の研修では土台としての「パーソンセンタードケア」があり、それを具体的に表現する技術としての「ユマニチュード」について学びました。このような、重なりあっている構造に理解があれば「私の本当にやりたい事は何だろう?」というように、自分自身の方向性について取り組んでいる事は、若年者も高齢者も年齢に関係なく、実は同じであるという事が了解されます。要介護高齢者には、職業などのやりたい事やれる事はもう無いかもしれません。しかし、人生の総まとめという場面において、より直接的に「どのような人生、生き方でありたいか」という課題を、まさに体現しなければならない段階に入っているのです。

やりたい事とやるべき事

 ミャンマーの非暴力民主化運動の指導者、アウンサンスーチーさん(独立を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘、1991年ノーベル平和賞受賞)は、インタビューで「研究者になりたかった」と語り「政治家になった事を後悔していないか?」との問いに「人生にとって、やりたい事よりもやるべき事をやらなければならない時があるのです」と答えています。スーチーさんは、軍事独裁政権の圧政を許してはおけないという人間としての信念に基づいて行動を起こしました。それは、狭い意味で自分を“犠牲にして”というようなものではなく、より自分自身を高め信念に生きるという意味で、自分の為でもあり皆の為でもあったのです。そして「やるべき事をやらなければならない時」も、年齢に関係なく現れます。例えば“神風”に散った青年たちも、やりたくて“特攻”したのではなく、郷土の人々の平和な暮らしの為、それを“やるべき事”として飛び立ったのです。祖国がいずれ平和になるようにと祈り、願いを後世の人々に託したのです。『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)に収められている学徒出陣した上原良司の遺書にもそれを伺う事ができます。

いずれにしろ、自分の人生の終わりを見通すようになると、やるべき事の比重が大きくなってくると思われます。それを具体化すれば、後進を育てるという事が中心になってくるのではないでしょうか。その「育てる」という事を本当に行おうとすれば、それは相手を自分のカラーに染め上げるというようなエゴの拡大ではなく、相手の内発性や主体性を信じ託して、その人が自分の中に秘めている宝石に気が付き、自分らしく輝いていけるようにしてく事となるのではないでしょうか。私の行った雑な介護にもかかわらず、私の頭のてっぺんから爪先まで全身を包み込むように暖かく眺め、「ありがとう、また来てね」とおっしゃって下さる方の眼の中に、そして時に厳しい眼の中に、その「託す」ような育つのを見守る気持ちを見る事があります。この時、お世話をしているのは私達ではなく、実は立場は逆で、自分はお世話をされているのだと痛感させられるのです。(それに気が付かずに「この利用者は何も文句を言わないから楽だ」と思ってしまう浅ましい自分がいる事もありますが…)

このように介護の世界では、主体と客体の逆転が常に生じます。その逆転の作用こそが、利用者の意欲を高め介護職の自分自身を癒すという働きを生じさせるのではないでしょうか。

 

足下を掘れ、そこに泉あり

 自分はどうするべきか考えあぐねている方に、「足下を掘れ、そこに泉あり」とのニーチェの言葉を贈ります。足下とは、自分の置かれている状況や環境、自分に起こった事、自分が起こした事、自己の内面、今の仕事など人によって捉え方は様々できます。掘るとは、それらに真剣に向き合い誠実に我が身を振り返る事です。今ある関係性や出来事に着目し、そこから意味を汲み上げる作業です。そのように、他人の足元や他の場所ではなく自分自身の足元を掘り下げる事こそが、自分自身にとっての本当の“宝”となるのではないでしょうか。

 
 (資料)1945年5月11日 22歳で沖縄県嘉手納沖で戦死した、上原良司の遺書(下線は佐々木)「所感」栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。 思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、 これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。 人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、 底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。 我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。 ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、 今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。 自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。 現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。 ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。 何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

 
【解説】上原は権力主義全体主義の国家は「必ずや最後には敗れる」と日本の敗戦を予見している。その「自己の信念の正しかった事」を「祖国にとって恐るべき事」ではあるが「吾人にとっては嬉しい」と述べている。あえて毒杯を呑んだソクラテスにも似た心境だろう。「大帝国たらしめん」とは皮肉と偽装だろう。一貫して“日本”との文言を使い、一度も“大日本帝国”とは言わない上原の愛する祖国は「日本」なのだ。「真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかった」と、日本の取るべき別の道があった事を示唆しつつ、権力主義全体主義の支配者たちが偽りの愛国者である事を見抜いている。「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです」と後進の日本人に願いを託し、自己の信念は国家権力と戦う「過激」なものとし、「彼の後姿は淋しい」と権力主義全体主義に呑み込まれ“大日本帝国”に殉じるように見える淋しさを記しつつも、実は「愛する日本を」後世の「国民の方々にお願い」し、誤りに気付かせる為に死して国を諌める信念に忠実である自己を「心中満足で一杯です」としている。上原の心は真に自由だったのだろう。なお、上原は出撃前の昭和20年4月、最後の別れのため帰郷した夜、家族や近所の人々に対して「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため、戦死しても天国へ行くから、靖国神社には行かないよ」と語ったという。その魂も真に自由であった。今の日本人は上原の願いどおり「世界どこにおいても肩で風を切って歩く」事ができる。世界中で平和主義の「日本」が認知され、武力によって国際紛争を解決しないという主張が、不安定な世界情勢の中で信頼に値するからだ。東南アジア(ミャンマーやタイなど)や西アジア(イスラム圏)の人々は、日本に対して親愛と尊敬を示す方が多いと言われている。権力主義全体主義の人はそれをもって「日本は、太平洋戦争によって欧米の植民地支配から解放した英雄だからだ」と言うが根本的に誤りである。日本が尊敬されるのは、植民地支配からの独立のきっかけを作ったという事もないわけではないが、その後の日本が真摯に反省し偉大な理想を掲げ憲法9条を抱き、敗戦の焼野原から立ち上がり、ベトナム戦争などにも参加せずODAなど平和外交に努め、戦後70年にわたる不戦・非暴力を築いてきた、その歴史の転換にこそある。今再び権力主義全体主義が、権力者のエゴを国家にまで拡大しようとその暴力を増しているこの状況に、私は上原ら先人に対して申し訳ないと思う。今、戦後を生きる日本人の覚悟が再び問われている。
 


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