【紙ふうせんブログ】

令和5年

紙ふうせんだより 4月号 (2023/05/17)

私を決めつけないでください

皆様、いつもありがとうこさいます。4月2日は世界自閉症啓発デー(※ 1)です。「自閉症」という言葉が医学に登場するのは、児童精神科医のカナー(※ 2)による論文「情緒的接触の自閉的障害」( 1943 )や小児科医のアスペルガーによる「幼児期の自閉性精神病質」( 1944)などが始まりです。残念なことにカナーの仮説や考察は誤りであったため、自閉症に対して誤った認識が広まってしまいました。障害や病気に対する「誤解」によって当事者に対す態度が偏見を帯びてしまい、当事者が傷つけられたり苦労することは度あることです。




※ 1カタール王国王妃の提案により2007年12月18の国連総会で決議

※ 2レオ・カナー( 1894-1981 )自閉症を「早期発症型(陰性症状)の統合失調症」ではないかとし「親の養育態度」のにも言及




障害や病気への誤解から生じる 「レッテル」

日本での自閉症についての初の実態調杳は、1967年に文部省によって行われました。このときに自閉症は「情緒障害」に分類されたため自閉症は因性と考えられてしまい、その「誤解」から当事者は長年苦しむことになってしまいました。「自閉」という言葉も良くはありませんでした。「自分の殻に閉じこもっている」という語感から本人のメンタルが問題とされたり、「人間嫌い」や「親の愛情不足ではないか」と言われてしまったのです。

世界自閉症啓発デーの国連決議文には、「生後3年間のうちに発現する自閉症は、脳の機能に影響を及ほす神経障害に起因し、一生続く発達障害であり、その影響は主として、性別、人種または社会経済的地位を問わず、多くの国々の子どもに及び」とあります。そしてその持徴を「社会的相互作用における機能的障害」「コミュニケーション上の問題」としています。

このように現在では脳神経が原因とされている自閉症ですが、「社会的相互作用」に言及をしているところは重要です。障害の要因を個人にのみに押し付けるのではなく、「コミュニケーション上の問題」などとして社会との関わりで起こっている「障害」は、社会の側の無理解・無関心な態度が変ることによっても改善することを示しているのです。

「誤解」が当事者を苦しめるケースは、例えは「らい予防法」による患者の強制隔離もその一つです。他には何があるでしよう。厚労省のサイトには「依存症は、アルコールや薬物の摂取やギャンプル等の行為を繰り返しているうちにそれをコントロールする脳の機能が弱まってしまう『病気』です。決して、意志が弱いからという理由で依存症になるわけではありません」とあります。「意思が弱い」との批難によって、依存症者はかえって適切な治療から遠さかってきました。

私たらも「誤解」をしていないか自己点検するべきですが、介護職の誤解の第一は、やはり「認知症」ではないでしようか。「認知症」という名の病気は厳密には存在しません。認知機能に障害をきたした症状のある状態像をまとめて「認知症」と呼んでいるにもかかわらず、簡単に「認知症」のレッテルを貼り、「認知症」=「×× という機能障害が起きる」という単純な図式的理解をしたら誤りなのです。「機能障害」の国際的な定義には「機能障害はその基礎となっている病理と同じではなく、その病理の表現である」との文言があり、「機能障害は病気の診断とは異なる」と注意を促しています。

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「レッテル」 を貼られた者の苦痛

自分の望まぬケアや入所などが説明不足のまま半強制的に行われたとします。それが自分の身に起こったらどんな気持ちになるか、想像してみましよう。

何やら陰でコソコソ話が進んでいるようです。今まで信じてきた人に裏切られている気持ちです。そういった事が積み重なれは、何かをきっかけに怒りを爆発させてしまうこともあるでしよう。認知症たから「全部忘れる」と思っている態度が納得のいかなさに輪をかけます。抗議の意思表明として怒ってみせても、それも「認知症の症状」にされてしまいます。理解力や記憶力が怪しくなってきたから不安でたまらなく、たからこそ解るように何度でも説明して欲しいのに、惨めな気持ちにもなっていきます。誰も「私」をきちんと見てくれません。そこには「認知症の病人」がいるだけです。私の尊厳はどこにいったのでしよう。最後の抵抗として諦めの気持らと共に、私は感情や考えを表明することをやめ、押し黙ることにしました—

このように「押し黙ってしまった」と考えられるケースには、有名な実話があります。イキリスの者人病棟で重い認知症とされていた老婦人が亡くなり、持ち物から看護師に宛てたメッセージ(※ 3)がでてきました。そこには、「何が見えるの、看護婦さん。あなたには何が見えるの」あなたが見ているのは”認知症のおはあさん”なのでしようけれど「でも目を開けてこらんなさい。看護婦さん、あなたは私を見ていないのですよ。」と綴られていたのです。




※ 3「私は三年間老人だった」パット・ムーア( 1988)や「穏やかに死ぬということ」若林和美( 1997 )などで紹介されている




誰が 「障害」 を作り出しているのか

ある青年の詩を紹介します。「僕は僕に『瞳害』があると思っていなかった/僕はほくが生きにくい世の中に『障害』があると思っていた。/でも人は僕のことを『障害』のある人と言う/僕は僕自身だけど/『障害』ではない」(「僕と言う人間」松下大介)

重度の自閉症当事者の東田直樹さんの手記(※ 4)にも次のようにあります。「自分が瞳害をもっていることを、僕は小さい頃は分かりませんでした。どうして障害者だと気づいたのでしょう。それは、僕たらは普通と違う所があってそれが困る、とみんなが言ったからです。」

私たち人間は、どうしても物事にレッテルを貼って「ラベリング」をしてしまいます。これは認識プロセスの効率化のために仕方のないことですが、「偏見」の一つだと自覚しておいた方が良いでしよう。社会学者ハワード・べッカーは、「社会集団は、これを犯せは逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みたすのである」(ラベリング理論)としています(※ 5)。「障害」の発生もまた社会が生み出している「逸脱」であり、「社会病理(※ 6)」と言える面があるのです。

自閉症は症例の積み重ねによって、症状の有無ではなく「どのくらいあるのか」という「自閉スペクトラム」という概念に変ってきました。虹の色は「7色」と決めつけるのは誤りであって、実態は徐々に変化するスペクトラム(連続体)であるという考えです。近年増加していると言われている「発達障害」もその延長としても捉えることができます。そうであれは「なせ増加しているのか」ということを問わなけれはなりません。許容されるラベルが付与されれは許容され、無けれは許容されない現代社会の窮屈さが、「ラベル」を増やしてはいないでしようか。誰にとっても生きやすいことと、自分の生きやすさは対立しないはすなのに、弱い者がさらに弱い者を叩く世の中になってはいないでしようか。




※ 4「自閉症のぼくが飛び跳ねる理由」(2007)

※ 5「アウトサイダーズ」( 1963)社会の側が特定の行為を逸脱と判定し、その行為をする者を「逸脱者」とみなすことで、逸脱者が生みだされると考える。

※ 6「個人や集団や地域社会の生活機能障害にかかわる現象のこと」で「広く集合的な社会現象としてみた場合、個体原因ばかりでなく、社会にその発生の根が求められる」ものや「社会に発生する病的な状態」をいう。




 

紙面研修

誰が 「認知症状」 を作り出しているのか




看護婦さん

あなたはいったい、何を見ているの?

あなたが私を見るとき、あなたは頭を働かせているかしら?

気難しい年老いたおはあさん

それほど賢くなくとりえがあるわけでもない。

老眼で食べるものをぼたぼたこぼしあなたが大声で

「もっと、きれいに食べなさい」といってもできないしあなたのすることにも気づかずに

靴や靴下を失くしてしまうのはいつものこと。

食事も、入浴も

私が好きか嫌いかは関係なく

あなたの意のままに長い一日を過ごしている。

あなたはそんなふうに

私のことを考えているのではないですか?

私をそんなふうに見ているのではないですか?

そうだとしたら、

あなたは私を見ていません。

もっとよく目を開いて、看護婦さん。

ここに黙ってすわり

あなたの言いつけどおりに

あなたの意のままに食べている私が誰か、教えてあげましよう。

10歳のとき、両親や兄弟姉妹に愛情をいつはいに注がれながら暮らしている少女です。

16歳、愛する人とめぐりあえることを夢みています。

20歳になって花嫁となり、私の心は踊っています。

25歳、安らぎと楽しい家庭を必要とする赤ちゃんが生まれました。

30歳、子どもたちは日々成長していきますが、しつかりとした絆で結ばれています。

40歳、子どもたちは大きくなり巣立って行きます。

しかし、夫が傍らにいるので悲しくはありません。

50歳、小さな赤ん坊が私の膝の上で遊んでいます。

夫と私は子どもたちと過ごした日々を味わっています。

そして、夫の死。

希望のない日々が続きます。

将来のことを考えると恐ろしさで震えおののきます。

私の子どもたちは、自分のことで忙しく

私はたったひとりで過ぎ去った日々や

愛に包まれていたときのことを思い起こしています。

今はもう年をとりました。

自然は過酷です。

老いたものは役たたずと嘲笑い、からかっているようです。

からだはぼろぼろになり栄光も気力もなく以前のあたたかい心は

まるで石のようになってしまいました。

でもね、看護婦さん

この老いた屍の奥にもまだ小さな少女がすんでいるのです。

この打ちひしがれる私の心もときめくことがあるのです。

楽しかったこと、悲しかったことを思い起こし・愛することのできる人生を生きているのです。

人生はほんとうに短い。

ほんとうに早く過ぎ去ります。

そして今、私は永遠に続くものはない

という、ありのままの真実を受け入れています。

ですから、看護婦さん

もっとよく目を開いて私のことをよく見てください。

気難しい年老いたおばあさんではなく

もっとよく心を寄せて・・・      この私を見てください




認知症状があって画像所見で脳の委縮がみられれば「認知症」と診断されます。だから一応認知症の原因は脳神経の変質ということになるのでしよう。しかし、脳に委縮が無くても認知症状が現れる方や、脳に委縮が見られるものの認知症状が無い方がいます。

やはり、認知機能に障害がみられると診断されても、それは「病気の診断とは異なる」ということなのです。だから、「認知症だから必ずxxになる」という理解は誤りであり、メンタルの持ちようや、周囲の人の理解や声掛け、環境の工夫、社会の価値観や文化など様々な社会的相互作用によって認知症状の発現や進行は、変ってくるのです。

決めつけてはいけません。

たとえば朝耕暮耘のような自然の流れにそった規則正しくゆとりと張り合いのある生活であれば、「ボケ」ても大きな問題は起きにくいと思われます。「ボケ」という言葉の意味は、形象や主張の輪郭や中心がぼやけて曖昧になることです。「ボケ味」という写真用語がありますが、画面構成に程よいポケを作ることで、画面に緩急や深みが生まれて全体はより美しくなります。

「ボケ」の良さを肯定するならば、年寄りの居る光景はもっと美しく豊かになるのではないでしようか。私たちは、あまりにも「ボケ」を恐れすぎています。その高まった不安が相互作用して認知症状を悪化させ B P S D (行動・心理症状)を引き起こすのです。BPSDは、本人中心のケアを実践し本人が穏やかに暮らしていけるように、心身と環境を整えれば発現しません。

BPSDは不適切な介入やケアによって生じる「逸脱」とも言えるのです。

考えてみよう

自分が「老婦人」の立場になったら、何を感じるだろうか。どうしようとするだろうか。


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