【紙ふうせんブログ】

令和6年

紙ふうせんだより 6月号 (2024/07/17)

身体が含み持つ「他者性」の大切さ

皆様、いつもありがとうございます。気象庁の発表によりますと、昨年の春から続いていたエルニーニョ現象が終息したとみられ、ラニーニャ現象が発生する可能性が高いとのことです。そうなると太平洋高気圧が優勢になるので猛暑になります。今の内から暑さに身体を慣らしておきながら、夏バテを感じたら十分な栄養補給と休息が必要です。また、多量の発汗によって水溶性のビタミン(B群やC)やミネラル(ナトリウムやカリウムなど)が失われると、身体ばかりではなく鬱やイライラなど心にも悪影響があると言われています。

この身体は誰のもの?

身体が極度に疲れると自分の身体ではないと感じてしまうことがあります。身体には、「自分のものでありながら、自分のものではない」という両義性があります。「この身体を取り替えたい」というようなことを述べる利用者さんは時々おられますが、元気な時には身体を平気で酷使しながら、身体に不調をきたしてしまうと自分の身体を嫌ってしまうのです。身体の視点からは酷い扱いです。

ここには、身体は自分の所有物であるから自分の好き勝手にして良いし、思い通りにならなかったら腹が立つ、というような「身体=私のもの」という観念があります。自己所有の観念は、所有者の「精神」が上で操作され使役される「身体」が下という支配関係となります。これが身体の軽視へとつながるのです。

この観念の傲慢さは、身体を「子供」に置き換えれば理解できるでしょう。虐待親は短絡的な自己所有の観念を「我が子」にまで延長し、子供を思い通りにしようとします。思慮の浅さを防ぐために昔の人は工夫をしてきました。ある利用者さんは「お前の持っているものは、本当はお前だけのものではない。皆ために使え」と親に教えられたと言っていました。

「頂いたもの」「預かったもの」という意識は大切です。人は、「他者」への責任を感じてこそ物事を尊重できるのです。

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身体を置き去りにすることの危うさ

身体には、「それが私であり、かつ私ならざるものである(※1)」他に、もう一つの両義性があります。それは「身体は、私と他者を絶対的に隔てるものでありながら、身体を介してこそ私と他者はつながりうる(※1)」ということです。身体があってこそ私たちは自身を感じ他者を感じることができるのです。

このような身体性に対して軽視や欠如があったらどのような弊害があるでしょう。AI研究では、身体を持たないAIは真に人間と同じ知性を持つことは出来ないと言われています。身体性の無いAIは人を傷つけることを恐れません。シンギュラリティ(※2)が問題を孕(はら)むとすれば、身体性を持たない知性は身体的存在に害を及ぼす可能性があると言えるのです。

近年は、子供のSNS依存(※3)が社会問題になりつつあります。SNS依存は相対的に身体を伴うリアルな接触を減少させており、他者への攻撃性に対する「抑制」が育まれない懸念があります。身体性を置き去りにした精神はバランスを欠き暴力性を隠し持ちます。一方で、精神性の無い身体は暴力性を誇示しますから、身体も精神も人間には大切なのです。

 




※1「心理臨床関係における新たな身体論へ」大山泰宏 2009

※2 技術的特異点のこと。AIが自律的な自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって人間を上回る知性が誕生するという仮説

※3 養老孟子は「情報が優先する社会では、記号のほうがリアリティを持ち、身体性がないがしろにされてしまう」として、自然や身体性を置き去りにする情報依存社会を「脳化社会」と呼ぶ。




 

身体性の回復が精神を癒す

「人間は考える葦(あし)である。(※4)」

自然物として暴力に対して身体的な弱さを持つ人間は、だからこそ考えることができる存在として、「よく考えなければならない」とパスカルは訴えました。人間の精神は強力で、文明を築き、戦争で文明を破壊しながらも思想展開や技術革新を繰り返してきました。

その人間の精神が傲慢になったらどうなるでしょう。人間は今、他の生物種の生殺与奪能力まで得ています。人間が様々なものを自己所有物と考えて己の好きにし始めたら、他の生きものや身体や生命に対し、知的能力や利用価値によって優劣を決める恐ろしい社会となるでしょう。パスカルは、精神を万能とする風潮を危惧していました。

1920年にイタリアで「パパラギ」という文明批評の本が出版されました。西洋を旅行し初めて文明を見た南国の酋(しゅう)長ツイアビの演説集で、パパラギとは「空を打ち破って来た人」というサモア語で、転じて「白人」を指します。ツイアビは、「『精神』という言葉がパパラギの口にのぼるとき、彼らの目は大きく見開かれて、すわってしまう」と違和感を述べ、「考えるという重い病が、彼らを襲っている」と指摘します。

「彼らは切れ目なく考える。『日はいま、なんと美しく輝いていうことか』これはまちがいだ。大まちがいだ。馬鹿げている。なぜなら、日が照れば何も考えないのがずっといい。かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、腿(もも)も、腹も、からだ全部で光を楽しむ。皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ」と、身体で感じることの重要性を説き、精神の独断専行に警鐘を鳴らしています。




※4 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」 パスカル(1623-1662)




精神の孤独を癒す「他者」

心身医学(※5)の中核概念に「心身一如(しんしんいちにょ)(※6)」があります。心と身体は本来分離不可分であるという「禅」の言葉です。身体と心をわけてしまうのも、身体を「自分のものではない」と感じてしまうのも矛盾です。心身が調和的な時はこの矛盾を自覚することは無いでしょう。しかし、要介護ともなれば、先走る心に身体がついて行かず転倒を起こします。身体の不調がフォーカスされて、身体を自分の領域外の「他者」のように感じてしまうのです。「これは自分の身体じゃない」と自分で自己疎外を起しては、身体を呪うようにもなります。しかしこの「呪い」には、両義的には「祈り」の意味を含んでいます。こんな身体はいらない(死んでしまいたい)、しかし身体が死ぬと精神も死ぬから死ねない、という矛盾に引き裂かれながら、私たちは要介護の生活に一体何を求めているのでしょう。

人生の最晩年の「祈り」とは何でしょう。自分の人生で関わった「他者」を受け入れて「これが自分の人生だった」と納得し、きちんと(他者にも身体にも)感謝を述べて自身の旅立ちを寿(ことほ)ぎたいのです。矛盾の自覚はさらに大きな統一への入り口です。他者論の哲学では「他者」こそが自己完結を破り、自己を高みへと導くと考えます。そうであれば、「他者」のような身体を受け入れる生活にも大きな意味があるのです。

思い出してみましょう。誰かにご飯を食べさせて貰ったり身体を洗って貰ったりした記憶はいつのころでしょう。いつの間にか忘れてしまっていた他者に包まれ育まれる感覚は、人生の最晩年に再来することになります。私たち人間は、この身体の接触を介してこそ他者との繋がりを深く実感し得るのです。人生の最晩年に、生かされ生きてきた命をヘルパーとの交流に感じることができれば、人生の深い肯定と満足になるはずです。




※5 デカルトの心身二元論に発する科学は身体をモノのように扱い医療は「病気を看て人間を見ない」となったため反省から生じた医学

※6 曹洞宗の開祖の道元(1200-1253)の「正法眼蔵」には「仏法にはもとより身心一如にて、性相不二なり」とあり、元来は「身心一如」





紙面研修

他者としての「身体」

R6年3月号の紙ふうせんだよりでは、「他者論」を取り上げています。他者とは、予定調和的な自分を打ち破る「外」と感じる存在です。自己の発展は、そのような外的な存在を自身が受け入れていく過程となります。他者を他者として正しく遇していく時、他者は永遠に自分の知ることができない「外」の要素を持ち続けます。そのような他者に対して敬意を払い、理解したいと願い片想いのように接近を試みること。これが、自己の可能性を開いていく鍵と言えましょう。

下記引用の筆者の内田樹は、フランス文学を専攻してレヴィナスを研究し直接師事したこともあり、学究の傍らに合気道の道場を開設しています。身体に対する内田の考えは武道家としての実感があります。大抵の人は自分の身体を知っており自由に操作できていると勘違いしていますが、武術の達人の考えは異なります。

私たちよりはるかに身体操作能力の高い達人は、身体に命じて身体を動かす操作的な把握では後手になるので、より本質的には主体を身体に譲り、身体の動きに任せる非操作的な態度をとります。達人といえども身体は永遠に「他者」で尊重すべきあり、追求すればするほど極め尽くせない奥深さが現れるものなのです。そのように外の世界の拡がりの豊かさを知る人が、自身の中を豊かにしていくのです。




身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない  

「子どもは判ってくれない」(2003)内田樹

 (略)勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。

自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。

そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。

自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。(略)

セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。

身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体毀損を「快楽」として享受するのは脳である。

売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽(とうじん)するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。

冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。

メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。

繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。

それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。(略)

自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か (休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。

身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。

自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。

自分に敬意を払う、というのはそういうことである。(略)




感じてみよう

自分の身体を「他者」のように感じてみよう。うまく動かないことの歯がゆさや、上手く行ったときの喜びを感じてみよう。そして、身体が感じ発信してくる声に耳を傾け、身体とコミュニケーションをしてみよう。


 


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