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研修報告

認知症介護実践リポート (2014/12/19)

“自立”した生活とは何か“尊厳ある生活”とは何か

紙ふうせん訪問介護事業所  佐々木 伸孝                実習施設:まささんの家

1:問題意識としての、介護や認知症に対する“負”の印象

報道等を見ると介護“負担”という文脈で介護が語られる事が多い。負担を強調しすぎると「介護は出来ればしたくない」もしする事になってしまったらそれは「貧乏くじを引いてしまった」というような事になりかねない。そのような意識が根底にあると、優しくいたわる態度をとりつつも、心の底では「手がかかるようになって大変だ。困ったもんだ」と家族は思う。認知症ともなれば「どうして解らないの?」「なんでそんなになっちゃったの?」と本人を責める事もあるだろう。いくら言葉は優しくても詰め寄るような口調となり、本人は敏感に受け止める。介護を受けたくないと思い、自分で自分の事をやろうと試みる。これが介護者にとって“問題行動”と映り、事態はエスカレートする。

介護に対する受け止め方は人さまざまであるし、認知症の行動・心理症状の解決の糸口はいろいろとあるだろう。だが、掘り下げていくと根底の課題として、介護が必要な状態や認知症を、どのように評価し人生の中に位置づけるのかという事になってくる。もし“負”の側面のみのしか目を向けられなかったとしたら、介護する事もされる事も苦痛と感じるのではないだろうか。苦痛は逃げ出したい気持ちを生む。そこからは創造的な取り組みは生まれない。これは家族に限らず介護職も同じだ。逃げ出さずに踏みとどまったとしても、「家族だから、仕事だから(仕方がない)」という気持ちになるだろう。

 

2:“負”という認識をどう転換させるかというテーマを自らに課す必要性。

例えば、末期ガンの患者の看取りを行うとしよう。もし支援する側が、ガンや死について「苦痛」という認識しか持っていなければ、本人がガンや死を受け入れていく支えとなれるだろうか。私達がより良い認知症介護を真に志す時、「認知症だからどうせ解らない」「認知症だから何をやっても無駄」という“あきらめ”の認識を生じさせる、根底にある“負”の価値観そのものを、私自身が問い直さなければならないのではないだろうか。

 

3:認知症体験の疑問。認知症の状態は、常に“苦痛”に満ちているのだろうか? 

認知症であっても感じる心や楽しむ心が残されているのならば、“苦痛”は環境からの影響を強く受けているからである。主体的に環境を選択や変更ができない方にとっては環境を整えれば、心地よさや安らぎを感じる事もできるはずだ。その仮定のもと他施設実習の認知症体験を試みた。利用者になりきるために条件として、①言語的思考を停止させる。観察される周囲の状況に対して思考的に反応しない。(例えば時計を見て、「時計だ」「10時だ」ではなく、何か(丸いものが)“ある”とする)②先入観や反射的反応を極力排除し、一切の判断を停止させる。とした。もちろん自分からは環境や他者に働きかけないようにする。

認知症の中核症状は、記憶障害や見当識障害、理解や判断の障害などがあげられる。眼の前に見える物が何か解らなくなり(記憶の不鮮明さ)、時間や空間認識などの感覚も弱くなり、また合理的な推論や将来の予測などが立てられなくなり(理解・判断の困難さ)、日常のさまざまな生活動作が記憶や判断の問題から実行できなくなる(実行機能障害)となっていく。これらの困難などから、状況に対して不適応を起こし、行動・心理症状が発生すると考えられる。①と②の条件設定は、記憶や思考や判断の障害をわずかながらでも再現できないかとの試みである。

開始初期段階では、言語的思考による認識からなかなか離脱できず、そこにおられる方を観察し、手本とした。どこか1点をなんとなく見たり、眼を閉じて静かに内面に入る(そのように見えた)、時々周囲を見回し興味がわいたらそれを見る…。かすかに揺れている線(天井からぶら下がった電燈)が揺れている揺れている。壁でもひらひらと赤と白が揺れている(やっこ凧)。それらがささやき合うように何かを取り交わしているようにも、てんでばらばらに動いているようにも見える。ずっと見ていたあと目を閉じる。あの揺れが私の目に焼きついており、私の体も静かに揺れているようだ。ゆったりとした時間に我が身をゆだね埋もれた時、私の感覚に不思議な変化が現れた。ああそうだ、私は揺れているのだ。さまざまな存在と交感しながら、昔から…そして今も、これからずっと先も、みんな一様に揺れているのだ。時の流れから解放され、“今”という時が際立ち、心に沁み込み満ちてゆく。

この時の気持ちを言い表すのに最適と思われる表現、児童文学の詩を2編を引用する。

ひかる

わたしは だんだん    わからないことが多くなる

わからないことばかりになり   さらに わからなくなり      ついに  ひかるとは これか と      はじめてのように 知る

花は    こんなに ひかるのか と     思う

みえる

ナスもトマトも机もペンも       みな元気でやっているような    朝がある      風景が透きとおり

ナスやトマトや机やペンが       見えすぎる朝である      みえすぎて          驚いてとびのく朝である

ものたちはおそらく太古から  わたしは ひょっとして今まで  目を閉じつつけていたのではなかろうか    と思われる朝である

私の隣に座っていた方は、時々テーブルクロスをなでで、しわの感触を確かめていた。それに飽きると目を閉じ、手を重ね合わせて親指で皮膚をさすって(楽しんで?)いた。周囲が騒がしくなってくると、不安そうな表情を浮かべ騒がしさの元をさぐろうとする。ようやく今初めて気が付いたかのように「キッチンて書いてあるわね」とほほ笑んだ。食後、自分の食器を手でこすり、なでながら、食器について何かを感じようとされていた。

この日は、私は末期ガンの独居宅に訪問し泊りでのサービスを行った明けだった(この方は明けの昼に入院しその夜永眠された)。 私のこの感覚変化は疲れからなのかもしれない…。この日、私はまるで初めての食事のように、ゆっくりと噛んで食べる事ができた。口のなかでころころと転がりながら喉に落ちていくこの甘いものは……(お米!!)という具合に。

私の認知症体験が、的を得ているものかどうかは疑問が出るところだろう。だが、認知症の方にとっての「安らぎ」や「充実感」などについて、介護者側のイメージが豊かにならないかぎり、それらを提供するための支援は困難となるだろう。「みえる」の詩にあるように、存在の根源に触れるような感触を得た時は、同時にこの瞬間の自分自身が、太古からの永遠性の中に位置づけられるような、深い体験と成り得るのではないだろうか。まささんの家では、水に手を合わせ祈りながら飲まれる方がいた。その方なども、私達の理解の範疇を越えた深い体験を伴いながら豊かな瞬間瞬間の今を生きている、と信じるならば、言語的思考の束縛から解放される認知症も、決して悪くないと言っても良いのではなかろうか。本当に豊かな生活や心とは何かと考えた時、私は問い直す。本当に私が自分自身であるようなありのままの時を生きた事があるだろうか?

 

4:不安を生じさせない介護、不安を乗り越えていく介護を目指して。

自分だけの時間がある事は、自分らしく過ごす為にはとても大切な事と思われる。まささんの家で、食後に居室で窓の外をずっと眺めておられる方に、「外を見ているんですか?」とあえて聞いてみた。その方は、「そのとうり!」と強い口調で不快な顔をされた。私は気がついていた。手を合わせながら外を見ていたのだ。その方の大切な時間を邪魔してしまった。不要な声かけは不安を呼ぶ。いきなり声をかけられて、その合理的な解釈ができなければ、意味不明な横やりでしかない。自分にとっての嫌な状況や会話を拒否できる事は、精神が健全な証でもある。

得体の知れないものが自分を脅かしている感覚、「これからどうなるの?」「これからどうしたらよいの?」など、将来を伴った漠然とした否定的な感情が不安と言えるだろう。その不安は介護する側が気付かずに作り出している場合も多い。逆に、自分は今何をしても良く自由であるという感覚があり、“何もしないでぼんやりしている”という事を含めて自発性が保証され、自分自身を生きている実感があれば、心は地に足の着いたものとなる。

まささんの家では、全てが利用者の個別のペースで良いとと感じさせるような、介護者側の都合を感じさせない工夫が随所にあった。無駄な声かけも、指示的な張り紙も、全体主義的な号令も、働いている者のせわしさ(働いていない者への無言の圧力)も、無かった。例えてみれば、子供の頃の自宅で、忙しくする母の存在を背中に感じつつも、そこには無頓着でいられる事ができて、やりたいように好きなように遊んだり寝たりしながらも、それが許され見守られている雰囲気だった。それは、施設であっても、誰にも干渉されないで自身の心を自分で確認できる空間や時間が継続可能であるという事であった。

何かを一緒にみんなで行う事は楽しい。連帯感も生まれ、共感すれば泣き笑いも増える。しかし、これは“みんなでいっしょに行う事が、自分はできている”という実感が伴っている方のみの喜びである。例えば、学校の運動会でみんなが盛り上がっている時に、自分だけ盛り上がれないと思う子はいないだろうか。運動音痴でコンプレックスを持っていたり、いじめを受けクラスの輪に入れない子は、みんなが盛り上がれば盛り上がるほど疎外感が生じいたたまれなくなる。福祉業界で生活弱者の「社会参加」が叫ばれているが、参加への取り組みが一方通行であれば、かえって疎外感をあおる事にもなる。なおさら共同生活の場においては、“参加”と同等に“孤独”(安らかに一人で過ごせる時間)も保障される必要があるのではないだろうか。介護が必要な方々は能力差も相当あり一様な対応はできない。個別対応は自立支援の大切な方法であるし、個別性を発揮できることが自分らしさでもある。

 

5:自立、尊厳、その先へ

全ての生命の中に生老病死が備わっているのだから、“認知症である自分を肯定できる” という事が尊厳を守るという事ではないだろうか。ところで、“守る”主語は誰だろう。介護者か本人か。真の尊厳は、生命の存在そのものに本来備わっているものと考えれば、誰かに与えられものではなく、一人一人の心に元からあるものだ。尊厳は自分で守るもの、自分の尊厳を自分で守る事が自立であり、介護者はそれを支えるのだ。介護者は、上の立場の者が下の者に対して施すような“守る”というニュアンスを絶対に抱いてはならない。

翻って私達は自身の尊厳を自分で守れているだろうか。強者に媚びを売ったり、お金に頭を下げたり、心にも無い事を言ったり、自分の言葉を他人の言葉にすり替えたり、社会に過剰に適応しようとして、自身の尊厳を自分から捨ててはいないだろうか。「尊厳」という言葉が峻厳さを持つのは、それが「死守」とでもいうような存亡をかけるような戦いを常に要求してくるものだからだ。

茨木のり子(1926-2006)の詩が私の胸に刺さる。『自分の感受性くらい』花神社 1977

自分の感受性くらい

ぱさぱさにかわいていく心を   ひとのせいにはするな   みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを   友人のせいにはするな   しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを   近親のせいにはするな   何もかもへたくそだったのはわたくし

初心消えかかるのを   暮らしのせいにはするな   そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を   時代のせいにはするな   わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい   自分で守れ   ばかものよ

介護職としても、3Kだとの他者からの評価に甘んじ、くさくさして尊厳を放棄してはいないか。借り物のモノサシで自分を測ってはいないか。疲れはててこんなもんだと志を低くしてはいないか。自らの尊厳を守れていないものが、どうして他者の尊厳に気が付き、それを支える事ができよう。私達は、自身の尊厳を守ろうとして、必死に叫んだり物を投げたりしている方々から、尊厳を守るとはどうゆう事なのかを学ばなくてはならない。それらは自立への道であるし、尊厳を守る戦いなのだ。私達はその戦いを支援する。そしてまた、他者を支える事によって自らも支えられるのだ。そこで得た力は、自身の尊厳を発掘する力となるだろう。“負”の価値は同時に“正”の価値でもありうると、家族や地域や社会が気付いていけるように支えていく事が、生命に肉薄する仕事をしている誇り高き介護職の使命だ。

最後に中沢新一(1950-)の『リアルであること』メタローグ1994 から引用する。

「人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命とのリアルな接触という事だ」

私には、認知症のあなたが私をそこに連れていってくれるように思えてならない。


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