【紙ふうせんブログ】

平成29年

紙ふうせんだより 8月号 (2017/09/19)

1945年8月6日 広島

この日の体験として、ある利用者さんが次のようにおっしゃっていました。

「広島一中の生徒だったが、この日、勤労動員で市内の建物疎開に駆り出される事になっていた。しかし、物理の先生が『疎開跡は無防備で空襲があったら危ない』と勤労動員に反対して作業に行かなくて済んだ。そのおかげで我々の学校の2学年だけ原爆から助かった。他の学年や他の学校は、皆市内に動員されていたので殆ど死んでしまった。第一県女は、爆心地近くで作業していたため全滅してしまった。今は石碑が立っている」

この話を伺って、何か記録等があるのではと探したところ、一中生の手記を見つけました。

 

今田耕二さん(広島一中) (朝日新聞 広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ)

当時広島市内にある公私立中学校・女学校・商業学校・工業学校・造船工業学校など各中等学校の事情は、高学年生徒はすべて工場に動員され、学校に残留しているのは二年生以下の低学年で、授業と勤労奉仕の二本立ての生活を送っていた。(略)

 昭和十九年十一月十八日、政府は広島市の建物疎開を指示した。建物疎開の目的は、鉄道線路の空襲からの保護や消防道路を確保することにあった。

 当時、空襲は日増しに激しさを加え、七月までに広島県下では呉・福山を中心に四十回にも及ぶ空襲があった。にも拘わらず広島市だけは小規模な攻撃に止まり、いずれ大々的な空襲があるものと予想され、早く云えば、その際の市中の被害を最小限度に食い止める為、市民を強制的に疎開させ居住家屋を取り壊していたのである。(略)

疎開家屋の解体作業は、軍からもっと急げとの要請で、各種職場からも労力を提供せねばならなくなった。(略)ここは二年生が行けという事だったと聞いている。場所は土橋(どばし)(爆心地より八百メートル)、日取りは八月六日だということ。これは命令であるにも拘わらず我々の引率教官の戸田五郎先生は、八月五日の日曜日(日曜でも私たちは工場で働いていたのだ)に、「明日六日は自宅修練とする」と告げられた。早く言えば、休みである。一方、三年生の引率教官前田先生は命令に従った。この二人の先生の対応の違いが二年生と三年生の運命の明暗を定めるところとなった。(略)以下、先生の手記を借りる。(略)

「彼の私に対する説得が始められた。—–対話は朝方の討論の蒸し返しとなった。—–

『君は非国民だっ!』と顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。—–もはや討議は終わった。私はもう何も言うことはなかった。然し何か云わねばならないような気持に駆り立てられた。

 そして、『明日にでも辞表を出します』と心にもないことを云って仕舞った」

  「私は門を出ると気を引き締めるために深呼吸をした。—–二人は一言も言葉を交わさなかった。

   そして橋の袂で彼は西へ、私は北へ別れて行った」

戸田先生は、このように後味の悪い思いをしながら、前田先生と別れた。

 戸田先生が、命令を敢然と拒否する姿勢を貫いたことには背景がある。いずれ広島に大空襲必至を予想した先生は、対空無防備の建物疎開跡で、もし白昼空襲があったら、百六十人の生徒を自分一人で守りきれないという責任感と管理の限界を懸念しておられたのだ。

 

 

生き残ったものの苦しみ

被災直後から生き残りの人々は、凄惨極まる状況の中で、救護活動や遺体処理を開始します。がむしゃらに体を動かす心の中で自問自答が始まります。「なぜ自分は生き残ったのだろう」「私も死ねたら良かったのに」「死んでいった者に申し訳ない…」等。東日本大震災でも言われていますが、多数の死者の中で生き残ったものは自責の念にかられ、後を追いたい気持ちと戦いながら自分の生き残った意味を求め、苦しみを抱え込むのです。

 

今田耕二さん

兄弟とおぼしき幼児が手をつないだままの黒焦げ死体二体。(紙屋町東角にて) 防火用水にわれがちに頭から突っ込んでいる状態の死体の群。(どこもかしこも随所に、以下同じ) 黒焦げで顔や衣服のわからぬ死体はザラ。死体の大きさ、残ったモンペの切れ端、残った髪の長さから、かろうじて女学生とわかる。死臭は地に満ち、炭化した焼死体、腹が破れて内臓が飛び出した無惨な遺骸、黒焦げ肉片のついた骨などが累々。(略)軍の救護隊に徴用されることになった。(略)炎天下を毎日の軍用トラックに乗って兵隊と市中を廻り、負傷者の収容搬送をするのが仕事である。(略)真夏の太陽に照りつけられた死体にたかるハエと、湧きだしてくるウジと、死臭の凄まじさは何とも表現のすべを知らない。作業中に、よく多くの大人の男女から私の帽子(もちろん戦闘帽である)の校章と「広島一中学徒隊」の認識票をのぞき込まれ、取りすがるように、「うちの息子は一中の何年誰それです、うちの息子を知りませんか」と尋ねられた。なかには、いらだちの余り、「あんたは、なんで助かったんですか、あん時(原爆投下時)どうしとったんですか」と険しい顔でなじるように問われたこともしばしばあった。これには答えるのがつらかった。(略)

 救護の次は広島航空で空き地に穴を掘り、焼け残りの木を集めて火をつけて、露天で死体を焼いた。(略)終わり頃に兵隊から、「何体焼いたか」と聞かれ、約六十体と返事したことを未だに覚えている。

 

葉佐井博巳さん(広島一中) (広島平和文化センター 被爆体験記 死に損なった学年)

被爆当時、私は広島市内にある中学校の2年生でした。多くの犠牲者を出した市内中学校の中で唯一被爆から逃れて、ほぼ全員が生き残る運命となった学年です。(略)生き残った我々は、犠牲となった生徒達に対し申し訳ないとの気持ちからか、原爆のことをお互いあまり語らないできました。(略)

午後になると、トラックに乗せられた負傷者が次々と運ばれてきました。火傷のため皮膚が溶けて痛々しい姿をみて、思わず支えるのを躊躇したのを覚えています。手を離すと彼の皮膚が私の手に着いてきました。

火傷をした人に水を飲ますと死ぬると教えられ、水を欲しがる彼らに、飲ますことも出来なかったことが悔やまれます。彼らは翌朝には殆どの人が息を引き取っていました。(略)

家にいた母と4才の妹は、たまたま家の中にいて熱線から免れ、無事で再会出来ましたが、周囲の状況から、素直には喜べませんでした。直前まで妹と一緒に遊んでいた近所の5才の子は、屋外にいたため即死しました。この女の子には中学生の兄が2人いましたが、下の兄は建物疎開に行き行方不明のままです。上の兄は帰ってはきましたが、全身火傷で、苦しみました。その彼が2日目には軍歌「海ゆかば、水漬く屍、山ゆかば…」と歌い死んでいきました。天皇陛下の為ならこの身はどうなっても悔いません、と言う歌です。その最後を見た私は「これぞ男子の手本である、私もこのようにして死にたい」、と覚悟を新たにしました。これが戦争です。

終戦を迎えて国民に対し、「1人になるまで戦え」といった日本軍は、10日後に降伏しました。何故もっと早く戦争を止めなかったのでしょうか。

その後の日本は戦争を放棄し、争いのない平和な世界を目指すことを始めました。ひたすら戦争に勝つことを信じて死んだ彼らに、今の日本の姿をひと目見せてあげたかったです。

 

原邦彦さん(広島一中) (「ゆうかりの友」はしがき)

生き残った生徒達は、亡くなられた生徒のご遺族にお会いするのがつらくて、常に避ける様にしていたのですが、その生徒達の中からも数年後には死者が出たのです。

被爆して5年後には、生き残りの中から、楠木哲君が出血の止まらない病気のため亡くなり9年6ヶ月後には、広島大学卒業目前にして三谷浩正君が肉腫で亡くなったのです。そして昭和42年2月には、中島清秀君が、妻君と二人の愛児を残して、白血病のため、同級生の医師、寄田亨君にみとられて亡くなりました。

 

 

サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)

これらの事実の重さには“奇跡の生還”などと軽薄には言えません。サバイバーズ・ギルトとは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら助かった人が、周りの人々が亡くなったのに、「自分は生き残ってしまった」としばしば感じる罪悪感のことです。そしてそれは、災害等に限らず近親者の死に直面した時にも起こり得るといいます。

戦争体験者が過酷な記憶を胸に秘めながら生活しているその隣で、私たちも日常を平穏無事に過ごしています。しかし、少し前の歴史に起こった事、世の中のどこかで起こっている事、地球の裏側で起こっている事などを、私たちが何かのきっかけで本当に知ってしまったら、私たちも実は、生きているものは皆「サバイバーズ」なんだと自覚されるでしょう。この自覚は、時に苦しみを伴うがゆえに、私たちはそれらを引き起こす事象を正視しないよう無意識に努め、日常を過ごしています。それはそれで一応良しとしましょう。

 

 

宮澤賢治に見られる、生き残った者の苦しみ

宮澤賢治は、詩『永訣の朝』に見られるように妹トシの看取りに際して、サバイバーズ・ギルトを体験したと思われます。その「生き残った者の苦しみ」の果てに書かれた遺稿の童話『銀河鉄道の夜』には、「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」という、主人公ジョバンニの決意が描かれています。“一緒に進んで行こう”と呼びかけた相手は、今まさに死んでいこうとする親友のカムパネルラでした。

『銀河鉄道の夜』 宮澤賢治

ジョバンニはああと深く息しました。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。

 

この「生き残った者の苦しみ」は、「生きる苦しみ」と同質のものでしょう。賢治の答えは、“苦しみ”を恐れ消滅させようとする事ではなくて、苦しみを携えながら苦しみと共に“一緒に進んで行こう”というものでした。それは、生きているものは全て、実は“死を携えながら生きている” という、命の本当の姿を正視するという事でもあったでしょう。

ジョバンニの言う「ほんとうのさいわい」が“命の本当の姿を正視する”という事であるならば、私たちの介護仕事での経験は「ほんとうのさいわいをさがしに行く」ものではないかと思えてなりません。

 

 

命を正視する仕事

平成29年3月末の被爆者手帳の所持者は全国で16万4621人。毎年9000人を超す方々が亡くなっています(最大は37万2264人/昭和55年)。「ヒバクシャ」という言葉は、2017年7月7日に国連で加盟193カ国中122カ国の賛成で採択された「核兵器禁止条約」に、「ヒバクシャにもたらされた苦痛に留意」として前文に盛り込まれました(日本は反対し採決をボイコット)。この条約は「核兵器の開発・実験・製造・備蓄・移譲・使用及び威嚇」を禁止し、核兵器の存在そのものを違法とするもので、被爆当事者からは「大きな喜びだ」「感無量だ」との声が上がっています。当事者がその時どんな体験をし、どんな気持ちであったかを理解していこうとする事が、歴史を正視するという事にほかなりません。

私たちの介護の仕事は、命を正視する仕事です。8月という日本の節目の月は、戦争を生き残った方や亡くなった方の気持ちに、想いを馳せてみたいと思います。

 

 

広島市ホームページより(抜粋)

月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。

深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。 原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。

 

長崎市平和学習資料「平和ナガサキ」より(抜粋)    (※投下は8月9日午前11時02分)

当時の長崎市の人口はおよそ24万人でしたが、原子爆弾による被害は、次のように推定されています。

死者 7万3884人 負傷者 7万4909人(昭和20年12月末までの推定)

爆心地の近くては、熱線のすさまじいエネルキーによって燃えるものすべてが火をふきました。溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが、その激しさを物語っています。

また、熱線のわずか数秒間の高熱が、人々の皮膚にも浴びせられました。熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらしました。重傷になると、表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出しました。爆心地から1 .2km以内では、熱線だけても致命的で、爆心地付近ではあまリの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発したと考えられています。

 

 

◆サバイバーズ・ギルトへの対応 (YOMIURI ONLINE

(世界保健機関「心理的応急処置」より抜粋)

 ▽ 体験したことを話すように無理強いせず、沈黙を受け入れる。

 ▽ 話を聞いていることが伝わるようにうなずいたり、相づちを打つ。

 ▽ できない約束やうわべだけの気休めを言わない。

 ▽ 気持ちを落ち着かせる手助けをし、一人にしない。

 





 

 

 


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