【紙ふうせんブログ】

令和4年

紙ふうせんだより 4月号 (2022/05/19)

悲しみを繰り返さないために

雨の後の桜並木の下はまるで雪が白く積もったようでした。花弁を散らした桜の木は萼片(がくへん)や花柄(かへい)の赤色が際立ち、やがて新芽の緑色に入れ替わっていきます。桜の木は駆け足で表情を変え、空の色は夏の気配です。皆様いつもありがとうございます。これからの季節は水分補給をお願いします。東京でこれですから、沖縄などはもう夏になっているのでしょうか。

悲しみのリフレイン

東欧諸国がドミノ倒しのように民主化していったのは、昭和から平成に変わった1989年です。同年11月2日、ついに「ベルリンの壁」が民衆の手によって壊され、東西冷戦の事実上の終結を世界に印象付けました。翌月には「ヤルタからマルタへ」との見出しが新聞に躍りました。クリミア半島のヤルタで米英ソの首脳が行った会談(1945年2月)による戦後体制の取り決め、いわゆる「ヤルタ体制」が終わりを告げ、ソ連のゴルバチョフと米国のジョージ・ブッシュの両大統領が地中海のマルタ島で会談を行い東西冷戦の終結を宣言したのです。これで世界は平和になる――誰もがそう感じていました。しかし、幸せな空気は束の間でした。1990年8月、石油をめぐる対立から突如、戦車350両、兵員10万のイラク軍機甲師団が国境を越えて隣国のクウェートへの侵攻を開始したのです。

歌手の森山良子さんはこの湾岸戦争を受けて、20年間封印してきた「さとうきび畑」を再び歌う決心をしたと明かしています。広いさとうきび畑を風が通り抜ける「ざわわ」という擬音語が66回もリフレインするこの曲に込められている思いは、「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦への悲しみです。しかし、「戦争を知らない自分はその千分の一もうかがい知ることはできません」「とても私の手に負える歌ではない」と、森山さんは1969年のレコーディング以来この曲から遠ざかってしまっていました。1969年は、泥沼化したベトナム戦争の終結を模索するニクソン大統領が、日米会談で沖縄返還(※1)を約束した年でもあります。

 

※1明仁皇太子は返還後の沖縄を初訪問(1975)し『払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこの地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』と述べ『人知らぬ魂 戦ねらぬ世 肝に願て』(人知れず亡くなった魂に戦争のない世を心から願って)と琉歌を捧げられた。以来沖縄訪問は11回を数える

民間人を巻き込んだ大規模地上戦

沖縄戦は、1945年3月26日の慶良間諸島への米軍上陸と本島への空襲や猛烈な艦砲射撃に始まり、米軍の4月1日の沖縄本島上陸により民間人を巻き込んだ大規模な地上戦が3ヶ月間続きました。死者数は双方合わせて20万人を超え、使用された砲弾は20万トン以上、今でも2千トン近くの不発弾が地中や海に眠っていると言われています。

「鉄の暴風と形容された沖縄戦は、敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たち、毒薬を注射されて死んでいった子どもたち、日本軍によってスパイ視され殺された人、自らの手で家族を死に追いやった人、異郷の地で命を落とした人、そしてマラリアや飢えで死んだ人等、沖縄戦はまさに地獄絵さながらでありました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。4人に1人が亡くなったことになります。(沖縄市HP)」


戦争を知らない世代が学ぶべきこと


沖縄戦は、私たちが今介護をしているような世代の方々が実際の戦闘に参加しています。時間稼ぎのために沖縄を「本土防衛の捨て石」とする方針が取られ、軍部は中等学校以上の生徒の多数を戦場へと動員しました。13歳以上の320名の女子生徒によって結成されたひめゆり学徒隊は、傷病兵の看護にあたりながら軍と共に行動し攻撃や自決に巻き込まれて172名が戦死しています。学校ぐるみで編成が行われた14歳から16歳の男子生徒による鉄血勤皇隊は、陣地構築や伝令や特攻の任務を与えられました。特攻は爆薬を詰めた木箱を背負ってキャタピラの切断を狙って戦車に轢かれるもので、1780人中890人が戦死しています。

陸軍中野学校の工作員は沖縄戦を前に沖縄に教員として赴任し、生徒による後方攪乱の為の秘密部隊(護郷(ごきょう)隊)を組織しました。集合に遅れた為に見せしめに銃殺された生徒もいたといい、少年達は組織的戦闘の終了した6月22日以降もゲリラ戦を続け、約千名の隊員のうち160名以上が戦死したことが判っています。また、沖縄には1万人以上の朝鮮人が陣地構築などの土木作業の為に連れてこられており、多くの方が亡くなっています。

何のためにこんな重い歴史の話をするのか、と思う方もおられるでしょう。戦争は決して美談ではなく多くの悲惨が伴うことを知らなければなりません。今太閤(いまたいこう)やコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた戦後最大級の政治家田中角栄(元上等兵)は「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と、日本について危惧していました。

 

終わらない戦争をいつか終わらせるために

2012年に戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)についての初めての大規模調査がありました。沖縄県内のデイサービス利用者から無作為に選んだ359人(平均年齢82歳)に面接し、そのうち約4割にあたる141人に沖縄戦によるPTSDが見られるという結果が示されたのです。症状の特徴の一つは「過覚醒型不眠」で夜中に断続的に目が覚めるものの抑うつ傾向は少なく、夜中に「わーっ」と叫んで飛び起きることなどもあり、ナチスによるホロコーストの生存者にも同様の症状が見られました。

調査した精神科の蟻塚(ありつか)医師によると『「沖縄戦(※2)の時、どこにいましたか?」と聞くと「米軍の爆撃によって目の前で肉親を殺された」「日本軍にガマから追い出された」「艦砲射撃の中で死体の山の中をひたすら逃げた」などという戦場体験が次々と語られ(略)同時に患者さんたちには、「運転していていまどこかわからなくなる」とか「戦場の場面がフラッシュバックしてくる」「日の丸を見ると体が戦慄する」「死体の匂いがする」など、トラウマ性の解離、パニック発作、身体化障害など一連のトラウマ反応(外傷性精神障害)が見られた』ということです。悲惨な戦争体験は、うつ病・統合失調症・てんかん・DV・アルコール依存・自殺・幼児虐待・離婚などのその後の発現にも根深く関わっており、個人の中では戦争は終わってはいないのです。

1972年5月15日、沖縄の施政権は米国から日本に戻されましたが、今でも在日米軍基地の74%が沖縄にあります。戦争による傷は簡単に癒えるものではありません。戦争の惨禍(さんか)を語り継ぎ、武力による威嚇を拒否し武力の行使を否定することで、戦争を二度と起こさせないように働きかけ続けることが、その痛みに報いることではないかと思うのです。

 

※2「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2015年8月号 蟻塚医師によると「本土防衛の捨て石」の遠因は日本による沖縄侵略(1879琉球処分)にあり、以降内地では琉球(沖縄)人は二等国民として「差別」されてきたことにあるという
 

 


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