【紙ふうせんブログ】

令和6年

紙ふうせんだより 6月号 (2024/07/17)

身体が含み持つ「他者性」の大切さ

皆様、いつもありがとうございます。気象庁の発表によりますと、昨年の春から続いていたエルニーニョ現象が終息したとみられ、ラニーニャ現象が発生する可能性が高いとのことです。そうなると太平洋高気圧が優勢になるので猛暑になります。今の内から暑さに身体を慣らしておきながら、夏バテを感じたら十分な栄養補給と休息が必要です。また、多量の発汗によって水溶性のビタミン(B群やC)やミネラル(ナトリウムやカリウムなど)が失われると、身体ばかりではなく鬱やイライラなど心にも悪影響があると言われています。

この身体は誰のもの?

身体が極度に疲れると自分の身体ではないと感じてしまうことがあります。身体には、「自分のものでありながら、自分のものではない」という両義性があります。「この身体を取り替えたい」というようなことを述べる利用者さんは時々おられますが、元気な時には身体を平気で酷使しながら、身体に不調をきたしてしまうと自分の身体を嫌ってしまうのです。身体の視点からは酷い扱いです。

ここには、身体は自分の所有物であるから自分の好き勝手にして良いし、思い通りにならなかったら腹が立つ、というような「身体=私のもの」という観念があります。自己所有の観念は、所有者の「精神」が上で操作され使役される「身体」が下という支配関係となります。これが身体の軽視へとつながるのです。

この観念の傲慢さは、身体を「子供」に置き換えれば理解できるでしょう。虐待親は短絡的な自己所有の観念を「我が子」にまで延長し、子供を思い通りにしようとします。思慮の浅さを防ぐために昔の人は工夫をしてきました。ある利用者さんは「お前の持っているものは、本当はお前だけのものではない。皆ために使え」と親に教えられたと言っていました。

「頂いたもの」「預かったもの」という意識は大切です。人は、「他者」への責任を感じてこそ物事を尊重できるのです。

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身体を置き去りにすることの危うさ

身体には、「それが私であり、かつ私ならざるものである(※1)」他に、もう一つの両義性があります。それは「身体は、私と他者を絶対的に隔てるものでありながら、身体を介してこそ私と他者はつながりうる(※1)」ということです。身体があってこそ私たちは自身を感じ他者を感じることができるのです。

このような身体性に対して軽視や欠如があったらどのような弊害があるでしょう。AI研究では、身体を持たないAIは真に人間と同じ知性を持つことは出来ないと言われています。身体性の無いAIは人を傷つけることを恐れません。シンギュラリティ(※2)が問題を孕(はら)むとすれば、身体性を持たない知性は身体的存在に害を及ぼす可能性があると言えるのです。

近年は、子供のSNS依存(※3)が社会問題になりつつあります。SNS依存は相対的に身体を伴うリアルな接触を減少させており、他者への攻撃性に対する「抑制」が育まれない懸念があります。身体性を置き去りにした精神はバランスを欠き暴力性を隠し持ちます。一方で、精神性の無い身体は暴力性を誇示しますから、身体も精神も人間には大切なのです。

 




※1「心理臨床関係における新たな身体論へ」大山泰宏 2009

※2 技術的特異点のこと。AIが自律的な自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって人間を上回る知性が誕生するという仮説

※3 養老孟子は「情報が優先する社会では、記号のほうがリアリティを持ち、身体性がないがしろにされてしまう」として、自然や身体性を置き去りにする情報依存社会を「脳化社会」と呼ぶ。




 

身体性の回復が精神を癒す

「人間は考える葦(あし)である。(※4)」

自然物として暴力に対して身体的な弱さを持つ人間は、だからこそ考えることができる存在として、「よく考えなければならない」とパスカルは訴えました。人間の精神は強力で、文明を築き、戦争で文明を破壊しながらも思想展開や技術革新を繰り返してきました。

その人間の精神が傲慢になったらどうなるでしょう。人間は今、他の生物種の生殺与奪能力まで得ています。人間が様々なものを自己所有物と考えて己の好きにし始めたら、他の生きものや身体や生命に対し、知的能力や利用価値によって優劣を決める恐ろしい社会となるでしょう。パスカルは、精神を万能とする風潮を危惧していました。

1920年にイタリアで「パパラギ」という文明批評の本が出版されました。西洋を旅行し初めて文明を見た南国の酋(しゅう)長ツイアビの演説集で、パパラギとは「空を打ち破って来た人」というサモア語で、転じて「白人」を指します。ツイアビは、「『精神』という言葉がパパラギの口にのぼるとき、彼らの目は大きく見開かれて、すわってしまう」と違和感を述べ、「考えるという重い病が、彼らを襲っている」と指摘します。

「彼らは切れ目なく考える。『日はいま、なんと美しく輝いていうことか』これはまちがいだ。大まちがいだ。馬鹿げている。なぜなら、日が照れば何も考えないのがずっといい。かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、腿(もも)も、腹も、からだ全部で光を楽しむ。皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ」と、身体で感じることの重要性を説き、精神の独断専行に警鐘を鳴らしています。




※4 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」 パスカル(1623-1662)




精神の孤独を癒す「他者」

心身医学(※5)の中核概念に「心身一如(しんしんいちにょ)(※6)」があります。心と身体は本来分離不可分であるという「禅」の言葉です。身体と心をわけてしまうのも、身体を「自分のものではない」と感じてしまうのも矛盾です。心身が調和的な時はこの矛盾を自覚することは無いでしょう。しかし、要介護ともなれば、先走る心に身体がついて行かず転倒を起こします。身体の不調がフォーカスされて、身体を自分の領域外の「他者」のように感じてしまうのです。「これは自分の身体じゃない」と自分で自己疎外を起しては、身体を呪うようにもなります。しかしこの「呪い」には、両義的には「祈り」の意味を含んでいます。こんな身体はいらない(死んでしまいたい)、しかし身体が死ぬと精神も死ぬから死ねない、という矛盾に引き裂かれながら、私たちは要介護の生活に一体何を求めているのでしょう。

人生の最晩年の「祈り」とは何でしょう。自分の人生で関わった「他者」を受け入れて「これが自分の人生だった」と納得し、きちんと(他者にも身体にも)感謝を述べて自身の旅立ちを寿(ことほ)ぎたいのです。矛盾の自覚はさらに大きな統一への入り口です。他者論の哲学では「他者」こそが自己完結を破り、自己を高みへと導くと考えます。そうであれば、「他者」のような身体を受け入れる生活にも大きな意味があるのです。

思い出してみましょう。誰かにご飯を食べさせて貰ったり身体を洗って貰ったりした記憶はいつのころでしょう。いつの間にか忘れてしまっていた他者に包まれ育まれる感覚は、人生の最晩年に再来することになります。私たち人間は、この身体の接触を介してこそ他者との繋がりを深く実感し得るのです。人生の最晩年に、生かされ生きてきた命をヘルパーとの交流に感じることができれば、人生の深い肯定と満足になるはずです。




※5 デカルトの心身二元論に発する科学は身体をモノのように扱い医療は「病気を看て人間を見ない」となったため反省から生じた医学

※6 曹洞宗の開祖の道元(1200-1253)の「正法眼蔵」には「仏法にはもとより身心一如にて、性相不二なり」とあり、元来は「身心一如」





紙面研修

他者としての「身体」

R6年3月号の紙ふうせんだよりでは、「他者論」を取り上げています。他者とは、予定調和的な自分を打ち破る「外」と感じる存在です。自己の発展は、そのような外的な存在を自身が受け入れていく過程となります。他者を他者として正しく遇していく時、他者は永遠に自分の知ることができない「外」の要素を持ち続けます。そのような他者に対して敬意を払い、理解したいと願い片想いのように接近を試みること。これが、自己の可能性を開いていく鍵と言えましょう。

下記引用の筆者の内田樹は、フランス文学を専攻してレヴィナスを研究し直接師事したこともあり、学究の傍らに合気道の道場を開設しています。身体に対する内田の考えは武道家としての実感があります。大抵の人は自分の身体を知っており自由に操作できていると勘違いしていますが、武術の達人の考えは異なります。

私たちよりはるかに身体操作能力の高い達人は、身体に命じて身体を動かす操作的な把握では後手になるので、より本質的には主体を身体に譲り、身体の動きに任せる非操作的な態度をとります。達人といえども身体は永遠に「他者」で尊重すべきあり、追求すればするほど極め尽くせない奥深さが現れるものなのです。そのように外の世界の拡がりの豊かさを知る人が、自身の中を豊かにしていくのです。




身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない  

「子どもは判ってくれない」(2003)内田樹

 (略)勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。

自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。

そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。

自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。(略)

セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。

身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体毀損を「快楽」として享受するのは脳である。

売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽(とうじん)するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。

冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。

メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。

繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。

それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。(略)

自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か (休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。

身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。

自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。

自分に敬意を払う、というのはそういうことである。(略)




感じてみよう

自分の身体を「他者」のように感じてみよう。うまく動かないことの歯がゆさや、上手く行ったときの喜びを感じてみよう。そして、身体が感じ発信してくる声に耳を傾け、身体とコミュニケーションをしてみよう。


 


紙ふうせんだより 5月号 (2024/06/25)

衝突矛盾のあるところに…

皆様、いつもありがとうございます。すがすがしい気候もやがて移ろいゆきます。食中毒に気を配るべき雨の季節がそろそろやってきます。

梅雨の別名に「五月雨」があります。なぜ五月かと言えば、旧暦の5月が新暦の6月から7月ころに該当するからです。従って、「五月晴れ」とは本来は梅雨の晴れ間を指す言葉でした。しかし、天気予報などの放送用語では、新暦の5月のさわやかな晴天を指して使われることもあります。なんだか矛盾していますね。

自分の中にある「矛盾」を認めること

 「どんな盾も突き通す矛(ほこ)」と「どんな矛も防ぐ盾(たて)」を武器商人が売っていて驚いた。中国の故事(韓非子)に有名なこの「矛盾(むじゅん)」という言葉は、「二つ以上の事柄が一致しない状態、または、一つの事柄が自身の内部で一貫性を欠く状態を指す言葉」(実用日本語表現辞典)と解説されています。私たちが接する利用者さんも一方には是と言い他方には非とする矛盾した自己表現をされる方が多くいます。訪問しては振り回されて「困った方だ」と断じたくもなりますが、“断罪”は早計です。そもそも人間の存在は矛盾を内包しているものだからです。

生物は生存競争の過程で個体の死を獲得しましたが、個体の意識は死を拒みます。最大の矛盾は生死です。社会的な動物である人間は社会と個の関係が重要ですが、個の視点のみの利益追求が過剰になると個人が生きにくい社会となってしまいます。ミクロ視点での個々の合理性が全体となった時、マクロ的な観点からは非合理になっていることがあります。世界的な環境問題もその一つです。これは経済用語の「合成の誤謬(ごびゅう)」です。

矛盾の対立軸を個人の中にも見てみましょう。宿題をしなければ追い詰められることが解っているのにゲームが止められないという葛藤は、現在と未来の視点からの矛盾です。アイドルの“推し活”が冷めてしまった時など、アイテムを大量購入しため込んだ自分が馬鹿らしく感じます。かといって、捨ててしまうことは過去の自分を否定してしまうようで簡単にはできません。人間とは「今ここにいる自分」に限定されない、今の自分とは異なる視点を持つことができる存在なのです。位相(いそう)(※1)の異なる視点の同時所有、これが矛盾を感じさせる基本構造です。




※1 氷・水・水蒸気は位相の異なる同じ物質。自分の中に状況や場面関係性によって多様な自分が現れるとも言える




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人は、今の自分とは異なる視点を考えられる

私たちは自分を社会や他者や異なる時間軸の自分の視点から見つめなおすことができます。今は是の気分でも明日には非になっている自分を想像することもできます。矛盾に葛藤するということは、現在が視野狭窄(きょうさく)の危機にあるか、今まで以上の視野の拡がりを獲得する契機が訪れているか、恐らくはそのどちらでもあります。葛藤は「必要なこと」として起きているのです。

矛盾に自覚的になり対立項の双方と向き合い、他者や今の時間軸ではない自分と、今の自分とを対置させながら本当の最適解とは何かを模索すること。矛盾に対して開かれた態度で止揚(しよう)(※2)を目指す時、私たちは動物的な個体としてではなく、複層的な繋がりの中での人としての自己を見出し、社会的歴史的存在としての「個人」として自立していくのです。




※2 ヘーゲル1770-1831の弁証法の言葉で、矛盾対立する二つの概念や事物をより高次の視点によって統合して調和や秩序を見出すこと




矛盾と向き合い乗り越えていくこと

介護保険制度にも矛盾があります。総則で「尊厳」と「自立した日常生活」をうたいながら、「健康で文化的な最低限度の生活」に配慮できていない制度運用や日常生活の文化的な側面を切り捨てる給付抑制が行われているからです。

もちろん制度的矛盾には、行政に対して意見を述べたり政治や選挙を通じて声を上げたりする必要があります。しかし、だからと言って矛盾の全てが制度に起因するものではありません。「絶対に事故を起こさない、絶対に安全な車」が存在しないように、完璧な制度は存在しないからです。

つまり、制度の不備をどうにもならないような「矛盾」にまで拡大させてしまっているのは「人」なのです。手間を省きたい、楽をしたい、責任を負いたくないといった個々の安易な合理性が優先された時、その集合の結果として主体者不在の硬直化した「制度中心」が生じるのです。

現在の介護保険をめぐる状況は、介護職員の私たち自身が要介護になったことを悲観しないでいられる仕組みになっているでしょうか。疑問に感じるならその自覚は良いことです。「利用者中心」という考えを知っていて、その空文化の矛盾を認識しているからです。全体の問題は合成の誤謬的な要因もあり、個々を一方的に断罪することは出来ません。

ただ、もしこの「矛盾」を乗り越えたいと本当に願うなら、矛盾から逃避したり他責的に原因を何者かに押し付けたりせずに、まずは自分自身の中にある矛盾と向き合うべきです。

哲学者の西田幾多郎(※3)は主著の「絶対矛盾的自己同一」の中で「過去と未来との矛盾的自己同一としての自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越えゆく」と述べています。

矛盾の超克は自己超越の鍵です。過去や未来を認識し作っていくのは現在の自分です。その自覚が自己や世界像を「作られたものから作るものへ(※4)」と転換していくのです。




※3 禅と近代哲学を融合した西田哲学を展開1870-194京都学派の創始者

※4 同書に75回登場する言葉。過去(作られたもの)と未来(作るもの)を矛盾的に内包する現在をどのように生きるかが自己を転換させていく




 どんな時にも、人は楽しむことや喜ぶことができる

生存者の究極の矛盾である生存否定の願望が語られる時、考えたくないことを考えてしまう辛い葛藤があります。家族や社会のことを考えたり過去の自分に捕らわれたりしているのかもしれません。未来を恐れているのかもしれません。作られた“利用者”という自己像を打ち破り、自らを「作るものへと」するために究極の自己選択を夢想しているのかもしれません。葛藤の内容を安易に決めつけてはいけません。

ただこれだけは言えます。「命は生老病死を内包している」という矛盾的自己同一的な事実と利用者さんは向き合っていて、命の意味について自己覚知したいと願っています。覚知はどのように訪れるのでしょう。それは論理的考察ではなく、自分が苦しい中にあっても自然の美しさに見とれたり、人と人とのふれあいに楽しさや喜びを感じたりできる「実感」によるのではないでしょうか。

苦境の中にも心が煌めく瞬間はあります。人は、どんな時にも楽しむことや喜ぶことができるのです。その矛盾を発見した驚きと悲哀が、人を自己統合へと歩ませるのです。どんな葛藤も最後は「受容」に至るとキューブラー・ロス(※5)は指摘しています。安心して心の多様性の現れでもある利用者さんの矛盾と向き合いましょう。

心の多様性は苦悩一色に塗り潰されません。出会いの不思議に心を満たして日々の生活に楽しみを見出し、喜びを利用者さんと共有しましょう。




※5看取り研究の先駆者1926-2004






紙面研修
 

マインドフルネス瞑想

東洋思想と西洋思想の融合

西田幾多郎は参禅による感得と仏教思想を西洋哲学の中で捉え直して論理化を試みました。「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は〈驚き〉ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と西田は述べています。西田の葬儀では、遺骸を前に座り込んだ元同級生で親友の鈴木大拙は号泣したといいます。鈴木大拙は、仏教や禅についての英文著作があり禅を欧米に紹介したことで有名です。禅の影響を受けた著名人は多く、アップルの創業者スティーブ・ジョブズも自己を高めていく生き方を求めたその一人です。スティーブ・ジョブズには有名な演説(2005)があります。

「私は毎朝、鏡の中の自分に向かって、『今日が人生最後の日だったとしたら、今日の予定をやりたいと思うだろうか』と問いかける。『ノー』の日が続いたら、何かを変えなければいけない」

ZENブームにより参禅の効果が知られるようになると、技法を整理したマインドフルネスが考案されます。基本はとてもシンプルで姿勢を正し「呼吸」に意識を向けます。抑圧や葛藤が強いとかえって気が散ってネガティブな感情が現れることもありますが、練習により静めていくことができます。集中力が高まりQOLや生産性にも良い影響があるため、Googleなどの世界的大企業で取り入れられています。

マインドフルネスとは (現代精神医学事典・弘文堂2011)

1979年にジョン・カバットジンによりマサチューセッツ大学医学部にストレス低減プログラムとして創始された瞑想とヨーガを基本とした治療法。慢性疼痛、心身症、摂食障害、不安障害、感情障害などが対象となる。ジョン・カバットジンは鈴木大拙の禅に影響を受け、仏教を宗教としてではなく人間の悩みを解決するための精神科学としてとらえ、医療に取り入れた。

その基本的考えは、煩悩からの解脱と静謐な心を求める座禅に軌を一にしている。マインドフルネスの語義は“注意を集中する”である。一瞬一瞬の呼吸や体感に意識を集中し、“ただ存在すること”を実践し、“今に生きる”ことのトレーニングを実践する。これにより自己受容、的確な判断、およびセルフコントロールが可能となる。マインドフルネスは認知行動療法に取り入れられ脚光を浴びるようになった。しかし、認知行動療法は認知の変容を目指すのに対して、マインドフルネスは認知のとらわれからの解放を誘導する。

衝突矛盾によって、さらに大きな統一に進む

「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある。たとえば、われわれの意志活動についてみるも、動機の衝突のないときには無意識である。すなわち、いわゆる客観的自然に近いのである。しかし、動機の衝突が著しくなるにしたがって意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。

(中略)衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである」と西田は「善の研究」で述べています。

マインドフルネスでは、瞑想の入り口では身体感覚の不快や自我が意識されますが、無心となり、自我の執着から離れて矛盾を止揚し自己に至る、とも言えましょう。意識的に「今この瞬間」に「判断しないあるがままの意識」を向けることで、新しい気付きが得られるのです。

 自己の心を意識して整える 認知症ケアに用いられる瞑想

 認知症の利用者さんが穏やかに過ごされている時、まるで瞑想のように見えることがあります。ですが、技法を行うのは介護者です。バリデーションでは「センタリング」といって、瞑想することで自分の中のイライラや不安などから離れ、心の静まった状態で利用者さんと向き合うことの大切さを説いています。実際のところ、自身の心が静まると自然の美しさへの感受性や他者への共感性が高まります。




実践してみよう

(導入)姿勢を正して座ります。(天井から伸びた糸に頭部が吊るされているイメージなどで)

両手を太ももの上に置いて静かに目を閉じます。(浅すぎず深すぎず自然なペースで) 大きく5回深呼吸。

〈呼吸に集中する瞑想〉

自分の意識を呼吸に集中し、鼻から入って出ていく空気の流れだけに注意を向けます。

「調身・調息・調心」を行い心身を整えていきます。雑念が生じたと気が付いたら呼吸に意識を集中するよう努めます。瞑想を5~10分程度続けます。

(終了)集中させていた意識を、少しずつ自分そのものに戻していきます。自分に意識が集中できたら、ゆっくりと目を開けて瞑想を終了します。

 

発展〈ボディスキャンによる瞑想〉

瞑想中に緊張など不快な情報を確認したら、不快な感覚を呼気と一緒に吐き出すイメージを繰り返します。

静まったら、心の落ち着いた感覚を観察します。次に、光で頭の表面や内部をくまなく照らし、確認していくイメージを持ちます。頭の次に、両目、鼻、口周り、頬、顎、首、両肩、胸、背中、腹、尻、左右の太ももからふくらはぎ、両足底と順に身体感覚を観察していきます。瞑想中に緊張など不快な情報を確認したら、不快な感覚を呼気と一緒に吐き出すイメージを繰り返す。





紙ふうせんだより 4月号 (2024/05/27)

今日までの日は今日捨てて…

皆様、いつもありがとうございます。初々しい学生や新社会人が闊歩する季節になりました。新年度です、気持ちを新たに進んでいきましょう。

「批判」は悪い事?

新人教育の現場などでは、「最近の若者は批判を悪い事と思っているのか、批判する事ができないし批判される事にも弱い」などということが聞かれます。皆がそうなっているとしたら構造的な問題です。まことしやかに語られる原因は、「今の若者世代は同調圧力が強い」とのこと。本当なら「圧力」には上の世代が作り出した「空気」もあるでしょうから、責任はオジサンにもあります。

もっとも、柳田国男が古代オリエントの研究者のセイス教授から聞いた話として、エジプトの中期王朝の一書役の手録に「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻(けいちょう)の風を悦(よろこ)び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆(なげ)かわしいことだ云々(※1)」と記されているというので、四千年前も今と同じことを言っているのです。

オジサンの若者批判は、世代刷新と文化変容に伴うありがちな構図です。オジサンが「ステレオタイプ(※2)」の反応をしているとも言えます。私はここでオジサンのぼやきを批判していますが、これはオジサンの否定ではありません。「批判」とは問題の意味や所在を明らかにすることです。




※1柳田国男(1875-1962)「木綿以前の事」

※2社会心理学のステレオタイプとは多くの人に浸透している類型化された固定観念で印刷術の鉛の原版(ステロ版)が語源




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批判的思考(クリティカルシンキング)のすすめ

「無理解」なオジサンとはどのように付き合ったら良いでしょう。戦うのか黙って丸呑みするのか極力スルーするのか。どれも良くありません。第一、オジサンは「仮想敵」ではありません。手始めに「無理解」との断罪に決めつけはないか、自分の思考態度を疑ってみましょう。その上で、疑問を感じたらきちんと聞き矛盾や誤りを見つけたら指摘をしましょう。

教育認知心理学の楠見孝は「マイサイド・バイアス(自分の信念が正しいと思ってしまうこと(※3))に陥らずに自他の思考を吟味するという、メタ的(※4)に一つ上の立場に立って考えること」が大切だと述べています。これをクリティカルシンキングと言います。もちろんオジサンの側も「最近の若者は…」と愚痴る前に、マイサイド・バイアスを疑うことが必要です。

「批判的思考のガイドライン(※5)」(Wade,1997)では、次の8項目を挙げています。

・問いをたてよ ・問題を定義せよ 

・根拠を検討せよ ・バイアスや前提を分析せよ

・感情的な推論(「私がそう感じるから真実である」)を避けよ

・過度の単純化をするな

・他の解釈を考慮せよ 

・不確実さに堪えよ

見通しが立たないことは不安です。焦りから責任を誰かに預けたくなります。解らないものを「解らない」と留保する「不確実さに堪え」なければ、人は安易な「決めつけ」を行ってしまうものです。どこからか与えられる回答に簡単に飛びついていては、物事を深く見ることはできません。感情の動揺や、結論を急ぎたい早く片付けたいという欲求から距離を置き、自分自身の「おごり」にも気を配り、自分と対象と状況の構図を俯瞰するべきなのです。




※3 バイアスとは偏見や先入観のことで、認知心理学で言う認知バイアスにはたくさんの類型があり、思考や判断に影響を与える。思考の効率化に資する面もあるが、事実誤認や思考停止を引き起こす等の悪影響もある

※4「高い次元の」等の意味で枠組みの外側に出て俯瞰するような視点のこと

※5 道田泰司「批判思考の諸概念」琉球大学教育学部紀要2001.9




ケア過程の展開に必要な最初の一歩

ケア理論でも重要視されているクリティカルシンキングは、ケア過程の展開を促進します。「常識がとらえた物事のみかけに対して、より洞察を求めるもの(※6)」であり「実践した行為を目的と照合し振り返ることで判断と知識を統合し、その場で起こっている状況を把握して、その後のケアに適用できる(※6)」からです。時には定着している常識を疑うことが大切です。

お泊りデイのフランチャイズ本部で、私が担当事業所の立ち上げ後の指導に出張した時のことです。利用者さんと昼食を共にし、生活の縮図である食事風景を観察しました。配膳時に女性の利用者さんが浮かない顔をして、自分の口元を触っています。その方の前にはペースト食が置かれました。しかしその認知症の方は、姿勢も良くムセずにお茶飲んでおり食事も問題なく自立で終了。

私は、MTGで「あの方はなぜペースト食なのですか?」と聞きました。管理者の回答は「契約の時にご主人が家でミキサーをかけていると言っていたから」というものでした。「医学的根拠は聞いていますか?お茶にとろみはついていませんよね?嚥下の問題があれば指示があるはずですが…(※7)」と問うと、ピンときた様子の介護職員がファイルを調べて根拠資料の無いことを確認しながら、「あの方、総入れ歯をよく外してしまうんです。そしてその顔が恥かしいのか、顔をよく撫でています」と発言。「皆さんが毎日ペースト食だったらどうですか?」と投げかけると、「ケアマネさんにペースト食の理由を聞いてみます!本人にも普通の方が良いか聞いてみます!」と返答。それから口数の少ないその方に説明を工夫して意向をくり返し確認します。

夕食の時間、荒く刻まれたトンカツが配膳されます。刻んであってもトンカツです。しかしその方は満面の笑みで問題なく完食なさいました。ケアマネも根拠を知らなかったことから、食が進まないことによりご主人のミキサー使用が常態化していったことが推測され、義歯安定剤を試みたのです。この後の展開は、ご主人にデイ対応での歯科受診の許可を頂くことになりました。先の職員は「義歯が合うようになれば装着していられるようになるし、顔の形も整いますよね」と、ケアの発展に意欲を見せます。

翌日のMTGで私は「お泊りデイは利用者さんのお家です。皆さんは単に預かるのではなく利用者さんの幸せの『責任』を負っていると自覚して、利用者さんの満足を第一に考えて下さい」とお願いしました。すると経営者が「私は親の介護で苦労をしたから、家族の苦労を引き受けようとこの事業を始めました。従業員には家族の意向を大切にしろと言ってきましたが、利用者さんのことも第一に考えるようにしていきます」と述べて下さいました。

 

自分や周囲の人を自由にする批判的思考

人は前提とした自分の考えを疑わないバイアス(確証バイアス)を持っています。そのためクリティカルシンキングでは、最初に思いついた考えや決定、すぐに利用できる方法や楽な決定に「固執するな(※5)」としています。より良い考えを導き出すためには、柔軟で多面的な視点に基づく論理的な推論の過程が大切です。

「固執」を手放すことが可能になれば、人の心はもっと自由になれるはずです。心構えを変えれば見方は変わります。見え方が変われば態度が変わります。すると状況も変わるのです。未来は過去の単純な延長線上にはありません。風が季節を運びます。桜が咲き散って姿を変えるように、自分自身を刷新していきましょう。

 

けふまでの 日はけふ捨てて 初桜   加賀千代女(※8)




 ※6尾形裕子「日本の看護実践におけるクリティカルシンキングの動向と今後の課題」北海道文教大学研究紀要2016

※7ムセのない不顕性誤嚥の場合は水分にとろみが必要

※8加賀千代女(1703-1775)表具師の娘で幼少より俳諧をたしなむ





※紙面研修は本月号はお休みです。


紙ふうせんだより 3月号 (2024/04/23)

「他者」と出会うことの大切さ

皆様、いつもありがとうございます。北風と太陽の綱引きのような、寒いのか暖かいのか「どっちなんだい?」という日々が続きましたが、春も本番です。気持ちを新たにして、草木が葉を伸ばすように、私たちもまた降り注ぐ光を捉えて成長していきたいと思います。

そこにある「価値」を発見すること

利用者さんが、「いつもニコニコして朗らかだねぇ。会うと元気を貰えるよ」と言って下さいました。対して私は「ありがとうございます。私の方こそ元気を貰っていますよ」とお答えしています。またあるヘルパーさんは、常日頃から「仕事が楽しいです。楽しい上に給料を貰えるのだから、本当にいい仕事です」と言って下さっています。どちらも訪問介護の実践がポジティブな相互作用となっています。喜びなどが好循環して掛け算のように増えているのです。

好循環は入口を誤れば起きません。「お金の為に働くのだから、給与額以上に労働の価値は無い」とか「この人からは得るものは無い」などと、自分中心の狭い了見で価値や利益を決めつけてしまったら、ゼロの掛け算です。原点に立ちかえり、自分とは異なる「他者」との出会いを積極的に肯定しましょう。ひとり一人の存在には掛け替えの無い価値があります。これを「尊厳」と言います。それは、他からの認識や評価の優劣や判断の有無に関わらず、それそのもの自体の絶対的な価値としてそこに存在しているものなのです。

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そこにある「光」に気が付くこと

イソップ物語には、北風と太陽が力比べをするお話があります。北風は、何でも吹き飛ばして見せると自慢気です。旅人が通りかかったので、北風は旅人の外套を吹き飛ばそうとします。しかし、風が吹くほど旅人は外套をしっかり押さえてしまうので、北風は旅人の外套を脱がせることができません。次に太陽が燦々(さんさん)と暖かな日差しを見せます。すると旅人はその暖かさに、自分から外套を脱いでしまいます。

実際に物を動かす運動の力は北風の方が優れており、太陽にはそれがありません。だから太陽は旅人が自分の力で外套を脱いでくれるように暖かい光を送り届けて、旅人の変化を待ったのです。人を変えるのは北風の説得よりも温かい態度です。これは支援者が持つべき態度ですが、違う解釈をしてみましょう。

様々な制約といった「北風」に気を取られていて、「太陽に気が付かない旅人」が私たちだったとしたらどうでしょう。利用者さんは、静かに「光」を送り届けながら旅人の変化を待っている「太陽」の位置づけです。自分なりに光っている利用者さんの人間らしい温かさに気が付いて、旅人が外套を脱ぐことができたらなら身も心も軽くなります。お互いに一皮むけるような変化が起きるかもしれません。

利用者さんを中心に回るケアへの転換は、天動説から地動説への転換とも言えるので、やはり利用者さんは「太陽」です。そうやって敬うことによって好循環も回りはじめます。そして、「光」に気が付つくということは尊厳の再発見であると同時に、利用者さんから向けられている親愛の情に気が付くことでもあります。

 

そこに「他者」がいるということ

しかし利用者さんは、親愛の情などを本当に私たちに向けているのでしょうか。このように問うと、「他人の気持ちの本当のところは解からない」という諦めに近い結論に落着させる人も多いと思います。ここで結論を断定すると、「他人が自分に対して何を考えているか、結局は解らないのだから自分はやりたいようにやるし、他人の気持ちは軽視してよい」という、他者を恐れ敬えない切断された関係に向かいます。これは、現代人の「自分を中心にすえる」思考様式の罠で、他者不在の「孤独」に陥ります。

このような限界を他者論(※1)の哲学を展開するレヴィナス(※2)は越えようとします。「自分が認識するから他者がある(※3)」のではなく、「他者が存在することによって私たちが存在する」との考え方の転換を行い、自分を起点として他者は理解不能という安易な「結論」に達するのではなく、他者を起点として自分や他人を知っていく「過程」を重視します。そして、自分中心の認識の限界を脇に置き、確かに存在する他者を最大限に尊重するのです。

レヴィナスは、他者の本質を「絶対的に他なるもの」とします。私たちは、安易な結論を求めて他人を自分の思惑や論理に回収してしまいがちです。しかし、それでもそこに予測不可能性を持ちながら「他者」は厳然と存在しています。他者から自分に向けられる眼差しや表情や言葉は「他者の表れ」であり、それに関心を払い、他者の表れ方に対して「自分の責任を負う」べきだとレヴィナスは主張します。それが、自分の殻から自分を引き出すことになり、「他者」との深い出会いとなるのです。他者は断定不能であると同時に、「私」を自己完結の孤独から救い出す「無限の可能性」を持っているのです。




※1 現代哲学での他者論は、他者は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しておりどのような言葉や理屈を述べてもそれを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できず、「他者」が現れるからこそ自己は、自己完結して停滞することなく無限に問いかけ続けることができる、としている。

※2 エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)現代哲学における「他者論」の代表的人物

※3 「我思う、故に我在り」と、あらゆる懐疑の上に疑いようのない自分が残ったことを起点とする近代哲学は、客観的に確かなものを積み上げて科学の発展には寄与したが、客観的に認識できない「他者」などについては範疇外となってしまった。




 「利用者さん中心」とはどのようなことか

 近年、他者論を土台とするケア理論も展開されるようになってきました。シュミット(※4)は「無条件の肯定的関心」が「承認」になるとして、「承認こそがパーソン・センタードという在り方の表れなのだ」としています。「承認」とは他者との出会いです。

シュミットは論考しながら、「パーソン・センタード・セラピーの展開(※5)」では「他者とは、同一化もコントロールもできない、私とは本質的に異なる存在である。それゆえ他者を知ることはできない。他者の他者性を破壊せず関係を結ぶには、ただ共感し、承認することである。また理解し得ない謎を含んだ、無限の他者こそが、自己の限界を克服する。他者に出会うには、何よりもまず、他者が真に『向こう側に立っている』と理解する必要がある。反対側に立たずして出会いはない。この隔たりが、他者を、自立的な価値ある個人として尊重する」と、まとめています。

 自己と他者の動的な関係

 利用者さんの前に立つとき、「利用者さんは、私と良い関係になりたいと願っているか?」と問うことは誤りです。「関係」の責任を利用者さんに問うのではなく、「自分が何を願って利用者さんの前に立っているか?」なのです。私たち支援者が他者のありのままの承認に努め、ありのままがどうあれ「どのようにその前に立つのか」と自らを問う時、私たちは自己自身と成り得ます。

 自分の中にある温かい気持ちを確認しながら利用者さんの前に立つこと。温かい開かれた態度で「他者の表れ」を受けとめること。それができた時、私たちは暖かい「太陽」です。その時、同時に利用者さんもまた私たちの真ん中で光り輝く「太陽」となります。この共時的な承認の応答関係の循環が、人に「生きてて良かった」と思わせるのです。




※4 ペーター・シュミット

※5 関西大学心理臨床センター紀要「対話・他者との『出会い』の哲学から考える無条件の肯定的関心」白﨑愛里





紙面研修

紙面研修

「共生社会の実現を推進する」

【認知症基本法】

 いわゆる「認知症基本法」が2024年1月1日に施行されました。これは、認知症の人が2025年には700万人(高齢者の5人に1人)に達すると予測が背景にあります。認知症とどう向き合っていくかということは、誰にとっても身近なものになりました。国や自治体や企業もこれを避けて通ることはできません。

認知症の方は“異物”として社会から排除されがちですが、それを容認すれば誰の利益にもならないどころか社会そのものが歪んでしまいます。そのようにならないために、「共生社会の実現」を目的として、社会全体に共通認識の枠組みを作る必要がでてきました。

「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」

第一条 この法律は、我が国における急速な高齢化の進展に伴い認知症である者が増加している現状等に鑑み、認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができるよう、認知症に関する施策に関し、基本理念を定め、国、地方公共団体等の責務を明らかにし、(中略)

認知症施策を総合的かつ計画的に推進し、もって認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会の実現を推進することを目的とする。

基本理念
  • ・全ての認知症の人が、基本的人権を享有する個人として、自らの意思によって日常生活及び社会生活を営むことができる。
 
  • ・国民が、共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深めることができる。
 

・認知症の人にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるものを除去することにより、全ての認知症の人が、社会の対等な構成員として、地域において安全にかつ安心して自立した日常生活を営むことができるとともに、自己に直接関係する事項に関して意見を表明する機会及び社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその個性と能力を十分に発揮することができる。

 
  • ・認知症の人の意向を十分に尊重しつつ、良質かつ適切な保健医療サービス及び福祉サービスが切れ目なく提供される。
 
  • ・認知症の人のみならず家族等に対する支援により、認知症の人及び家族等が地域において安心して日常生活を営むことができる。
 
  • ・共生社会の実現に資する研究等を推進するとともに、認知症及び軽度の認知機能の障害に係る予防、診断及び治療並びにリハビリテーション及び介護方法、認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすための社会参加の在り方及び認知症の人が他の人々と支え合いながら共生することができる社会環境の整備その他の事項に関する科学的知見に基づく研究等の成果を広く国民が享受できる環境を整備。
 
  • ・教育、地域づくり、雇用、保健、医療、福祉その他の各関連分野における総合的な取組として行われる。
《行政や立法の責務》

基本理念にのっとり、認知症施策を策定・実施する。法制上又は財政上の措置その他の措置を講じなければならない。

《国民の努め》

国民は、共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深め、共生社会の実現に寄与するよう努める。

《福祉・医療事業者の努め》

国及び地方公共団体が実施する認知症施策に協力するとともに、良質かつ適切な保健医療サービス又は福祉サービスを提供するよう努めなければならない。

《その他の事業者の責務》

日常生活及び社会生活を営む基盤となるサービスを提供する事業者は、その事業の遂行に支障のない範囲内において、認知症の人に対し必要かつ合理的な配慮をするよう努めなければならない。




「私たちのことを私たち抜きで決めないで」

ある利用者さんが「俺は禁治産者だ。人権を奪われた」と嘆いていました。事実ではないのですが、生活上の望まない制限が重なり我が身を嘆いての発言でした。「禁治産者」とは障害や病気により心神喪失の常況にある人が家族等の申立てにより「財産を治めることを禁じられた者」と家裁で認定を受けたものです。差別的なニュアンスを含んでいたこの制度は1999年の民法改正で「成年後見制度」に変わりましたが、現在も、認知症に対する社会の無理解が見られ専門職が主導する偏見もあります。

今回の基本法制定は、無理解や偏見に起因する差別を解消する意図を含み、認知機能に障害があっても「社会を構成するフルメンバーとして受け入れる」と宣言するものです。「私たちのことを私たち抜きで決めないで」とは、2006 年に国連で採択された「障害者権利条約」(日本は2013年に障害者差別解消法を制定して2014年に批准)の策定時の合言葉でしたが、参画する権利を有する「私たち」の中に、「認知症の方」も入らなければならないのです。




考えてみよう

認知症の方を社会で共生する「他者」として、「社会を構成するフルメンバー」として迎え入れる為には、社会や自分は何をどう変わるべきだろう。





紙ふうせんだより 2月号 (2024/03/19)

禍を転じて福となす

皆様、いつもありがとうございます。「立春」の前日、季節の分かれ目のこの日は「節分」です。変わり目に現れる邪気や疫鬼を払い、古い年を送りだして新たな年の春の陽気と吉福を内に迎えるこの行事の歴史は古く中国から伝来し、室町時代の記録(※1)には「散熬豆因唱鬼外福内」とあり、今と同様の掛け声をして、魔目(豆)を投げて「魔滅」を祈願していました。

「節分の夜、父が各部屋を回って、部屋の窓から外に向かって『鬼は外!』と豆をまいていた。そこかしこの家から掛け声が聞こえてきた…」、これは利用者さんの思い出です。




※1 相国寺の僧、瑞渓周鳳の文安4年12月22日(1449年1月16日)の日記




鬼は本当に「外」であるべきか

「鬼は外、福は内」の掛け声ですが、地域によっては「鬼も内」と言うところがあります。その由来は様々で、鬼を神や神の使いとして祀(まつ)っていたり、鬼が逃げないようにという配慮であったり、鬼の改心の可能性を考えたり、不動明王と鬼が重ね合わされるなどがあります。

これらは「鬼」の持っている多義性の表れと考えられます。福知山市の大原神社では、鬼(災厄)を神社の内に迎え入れるために「鬼は内」と呼びかけ、受容された鬼はお多福に変身(改心)し、「福は外」と言って恩返しに福を地域に送り出すそうです。

「鬼」という漢字は、元来「死体」を表す象形文字でした。中国では「鬼」は死者の姿形のない「霊魂そのもの」とされてきましたが、日本に伝わると姿形のない「恐るべきもの(※2)」の概念に「鬼」の漢字が当てられるようになったと考えられます。卑弥呼が用いたまじないは「鬼道」でしたし、万葉集や日本書紀では「鬼」を「カミ」と読む場合もありました。

日本では、「鬼」の言葉に様々な意味が重ねられるようになります。その本質は、病のいくつかは鬼によってもたらされる「鬼病」であると考えられたように、「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在(※3)」としてイメージされてきました。日本各地で行われる「来訪神(※4)」の行事は、ナマハゲに代表される仮面を被った異形の存在が人々を怖がらせますが、人々のもてなしによって教訓や福を残して去っていきます。




※2 折口信夫

※3 岡部隆志

※4  10件の重要無形民俗文化財の地域行事がユネスコ世界遺産に登録されている。




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「トリックスター」との関わり方

分析心理学(※5)には「トリックスター」という考えがあります。トリックスターは、破壊や反道徳ないたずらをして状況に対して否定的に働きますが、新たな価値や秩序をもたらす創造性を合わせ持っています。このような両義的な「働き」は神話や物語や人間関係や人の心の中に現れるのですが、鬼の持っている秩序を引っかき回す来訪者のイメージは、まさにトリックスターです。

民話「こぶとり爺さん」の鬼は宴を開いていて騒がしく異様で恐ろしくもありますが、陽気なお爺さんが楽しく関わったら、鬼は喜んで長年の“しこり”を取り去ってくれました。一方で自分本位の欲張り爺さんの方は、自分の利得のために利用しようと鬼を軽んじたら、鬼を怒らせて余計に損をしてしまいます。

恐れ敬うべき対象に対して忌み嫌ったり、軽んじてしまっていては禍となりますが、敬い大切に扱えば福となるのです。




※5  C・G・ユングの提唱した心理学。無意識には歴史的文化的な積み重ねにより培われた集合無意識があるとし、心に鋳型のような働きをする「原型」を重視したことから原型心理学とも呼ばれる。




意味や価値は最初からは決まっていない

中国の戦国時代、斉が燕を攻めて(紀元前314年)領地を奪うと、燕の蘇秦は斉王の元に赴いて領地返還を訴えます。そして、「昔から『禍を転じて福と為なす』という言葉があります」と述べて和平を提案しました。大昔の昔から、否定的な物事の価値的転換は、主体的な意識の持ちようで可能であると言われてきました。なぜ転換が可能となるのでしょう。

私たちの日常的な意識は、「ケンカは悪い」というように、あらかじめ物事の善悪を決めてしまっています。しかし、本当は「雨降って地固まる」との言葉のように、違う価値もそこには存在しています。物事の存在に対する意味付けは、人間による社会的な関係の中からの「後付け」なのです。

これを実存主義哲学者のサルトル(※6)は「実存は本質に先立つ」と言いました。「現実存在は、意味付け(本質)より以前から存在している」という意味です。言い換えれば、本当は多義的な意味の「重ね合わせ状態」にある存在から、人は認識の限界の中で「有用、無用」等を言い立てて、一部の意味のみを自己都合で引き出しているのです。

これは量子力学の原理と重なるイメージです。量子力学では、物質の最小単位である量子は、運動や位置や性質などの状態像が未決定の「重ね合わせ状態」で存在しているが、観測によって初めて状態像が確定するとしています。私たちが物事から受け取る価値もまた、自分自身の観測(意味付け)によって、自分にとっての価値が定まってくるのです。




※6  J.P.サルトル(1905-1980)は「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。




「価値」を発見するのは誰?

人の認識は経験によって狭められがちです。それに気が付いて、無意味に見えるようなことからも価値を発見できれば人生は充実します。例えば「病気」には利益があるでしょうか。「一病息災」との言葉は、「一つくらい病気を持っていた方が、自分の身体の声に耳を澄ませて節制や養生をするので、かえって健康な人よりも長生きする」と、病気の価値を肯定しています。

では、最悪な人物との出会いはどうでしょう。ある利用者さんが郷里の史跡の「黒塚(※7)」や土地の伝説について話して下さいました。能の演目でもある「安達原」のお話です。

諸国行脚の一行が一夜の宿を求め、老婆は断り切れず応じます。修行中の山伏(※8)に老婆は「人としてこの世に生を受けながら、こんな辛い浮き世の日々を送り、自分を苦しめている。なんと悲しいことでしょう」と身の上を嘆きます。老婆は暖を取るために薪拾いにでかけます。奥の部屋だけは覗いてはならないと言い残して。しかし山伏の連れが覗いてしまいます。部屋には人の死骸の山がありました。秘密を暴かれた怒りや悲しさで老婆は般若の相で追いかけてきます……。

昔、老婆は都で乳母をしていました。姫様の病を治したい一心で「胎児の生き胆が効く」との易者の言葉を信じて旅にでます。時がたち機会が訪れました。老婆は旅の妊婦に宿を与えて手を掛けます。しかし、殺めてしまったのは母を探す自分の娘だったのです。老婆は自分のした事の本当の意味を知って苦しみ、「鬼」になってしまったのです。

しかし、鬼婆になっても心の中には善意や愛情や人間らしい感情が同居しています。山伏の法力で鬼婆が退治される場面では惻隠(そくいん)の情が呼び覚まされます。善悪が心の中に同居する人間の業を思い知って我が事のように心を痛めた山伏は、その後の生き方を改めたことでしょう。

どんな人にも生きてきた意味があります。その意味を感じ取ったときに、そこから自分にとってのどのような価値を導き出すかは、自分自身の課題なのです。




※7 福島県二本松市には鬼婆が住んだとされる岩屋や墓が現存する。しかし埼玉県や岩手県にも同様の伝説が伝わる。

※8 東光坊祐慶(紀州の僧)
伝説は奈良時代(726)だが、同名の僧(-1163)が平安時代に実在する。





 

 


紙ふうせんだより 1月号 (2024/02/27)

竜を治める者

明けましておめでとうございます。お世話になっている皆様に感謝申し上げます。今年は辰年です。十二支の中で唯一伝説上の生きものです。時々、過去の干支の置物が飾ったままの利用者宅があります。その干支の頃までは自分でなんとかやって来られたと察するのですが、入れ替えを放擲(ほうてき)せざるを得ない「変化」がその年の間に生じてしまったのでしょう。

未知の物事を「恐れ敬う」こと

 人は、現在の安寧(あんねい)を脅かす「変化」を恐れます。しかし万物は流転します。だから人は、変化という根源的な力の発現を敬いもします。恐れるか敬うかによって、導かれる意味は両義性を持ちます。

「老い」という変化を恐れるばかりでは、それを悪化や理不尽な痛みにしてしまうでしょう。一方で、先達に対するように自らの老いを敬えば、変化を好機として良いことも見出せるはずです。かといって、「恐れるに足りず」という態度では、慢心からフレイル(※1)や転倒骨折となりかねません。古(いにしえ)より人は、自らの手に余るものや人間の思惑によって制御できないものに対しては、「正しく恐れ敬う」ことを旨(むね)としてきました。

 「老い」に直面した利用者さんは、必然的にそれぞれのやり方で老いを畏怖(いふ)するようになります。そのような時に、老いに慣れっこになっている支援者の態度が不遜(ふそん)なものとして目に映れば、ケアに拒否感を抱いてしまうことはあるでしょう。支援者がとるべき姿勢は、利用者さんと共に揺れる気持ちを共有しながら、適切に「恐れ敬う」ことを利用者さんに示していくことではないでしょうか。少しだけ「老い」について知っている私たちは、それを神聖なものに見立てて譬(たと)えるなら、利用者さんと老いの仲立ちをする「巫女(みこ)」のようなものと言えるかもしれません。

しかし、介護ニーズをネガティブ面からのみ捉えて(「老い」を恐れる家族と一緒になって)「対策」ばかりを考えていては、「不安」は決して解消されません。不安は「老いを適切に恐れ敬うこと」ができていない、その向き合い方の中から生じているからです。不安から逃げたい人に、魔法の薬を提供してみせるような「専門家」ぶった態度は、私たちを「毒薬を提供する魔女」に変えてしまうかもしれません。




※1 老年医学の概念で「虚弱」と訳される。心身が衰えた状態を指すが、適切な対応で回復する可能性を併せ持つ状態。要因に多面性があり、「心や認知機能」の虚弱、「身体」の虚弱、「社会性」の虚弱等などが相互作用して起こる。予防と早期対応が重要。




「神獣」であり「怪物」である根源的な存在の「竜」

竜もまた善悪理非(ぜんあくりひ)という両義性を持っています。古代メソポタミアの大河は、適度な氾濫なら肥沃な土地をもたらしましたが、ひとたび暴れれば人家を呑み込みます。河川の力や自然の脅威は竜の現れとされ、竜は大河を統べる王権の象徴にもなりました。しかしローマ皇帝がキリスト教を弾圧すると、竜はキリスト教から邪悪の化身とみなされるようになります。

一方、古代中国の漢の高祖劉邦(りゅうほう)には、雷と共に母親の上に竜が現れ懐妊したという出生伝説があり、日本書記では神話上の最初の天皇とされる神武の母親は海神(わだつみ)の娘であり竜の化身とされてきました。東洋では、王権と神威(しんい)が西洋のように分離されず近代文明に遅れた面もありますが、根源の多義性の表象としての「竜の両義性」は分離せず保たれていきます。

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物事の奥にある多義性を尊重する

やがて西洋では、竜を倒し姫や宝を手にする英雄譚(たん)が好まれるようになります。C・Gユングは、「神話の英雄は『目覚めた自我の典型的な姿』であり、その冒険行は『自己化の道』である」としています。冒険は困難です。近代自我が科学や人権思想を発展させ、「個人の確立」が努力の報われる社会への可能性を拓きましたが、同時に目覚めたことによって人は孤独を知りました。両義的存在の竜は「倒して終わり」にはできません。

人には意味を明らかにしたい欲求(不安)があるので、物事の表層的意味付けは時代が下るほど単純化されます。だからこそ、物事の根源的な意味の「重ね合わせ状態」を再認識し様々な物の見方をしていかなければ、生活実感は貧しくなります。心を豊かにしていく為には近代合理主義による人間の疎外(※2)を乗り越えて、多様な意味を含み持つ自己の全体性に気が付いていくことなのです。

西洋医学は、「死と生」の両義性を持つ「命」に対しても両義性を分離させ、悪と見なされる「死」の側にある「病や老い」と対決し、退治しようと試みてきました。その成果は超高齢化社会に表れています。

私たちは、病や老いから生じる苦悩を克服できたでしょうか。私たちは、「死」を恐れ、生活の中から一度はそれ追い出してみても、いつか病や老いに追いつかれ、その手に捉えられます。その時、適切に「恐れ敬う」ことをされてこなかった神が「祟(たた)り神」となるように、軽視したり目を逸(そ)らせたりしてきた者ほど「死」への想念が呪縛(じゅばく)と成り得るのです。

高度情報化により安易な正解に依存して誤答を恐れる「不安」な時代だからこそ、解ったふりをせずに「敬う」ことが一層重要になってくるのではないでしょうか。




※2 人間疎外とは、社会の巨大化や複雑化とともに、社会において人間というのは機械を構成する部品のような存在となっていき人間らしさが無くなることをいう。しかし、労働の意味を「お金の為の苦役」か「生きがい」とするかは自分次第でもある。




自分の片割れを受け入れて「均衡」をはかる

心理学者の河合隼雄は、ル=グウィンのファンタジー三部作「ゲド戦記」を解釈しながら竜について、「それは人間にとって時には、あるいは、一部は退治する必要があるが、すべてを退治すべきではないし、また、することはできないものだ」「竜は人間にとって『均衡』」をはかるべき、きわめて困難な相手なのである。西洋の物語において、竜退治の話が多かったときは、均衡よりも、『支配、統率』の価値が重く見られていたことを示す」と語っています。

若者は世に出ていくために自らを「支配、統率」する「強さ」を身につける必要があります。しかし、自分が追いやったように見える「弱さ」は、影のように静かについて回ります。いつかはその片割れの自分と自己統合を成し遂げなくてはなくてはなりません。それは、人生をかけた大仕事となります。

「ゲド戦記」は、自らの若さと傲慢と嫉妬により影を呼び出し世界の均衡を壊しかけたゲドが、「行く手にあるものよりも背後にあるもの」への恐怖から、自ら危険を求めて竜に挑み協定を結び、さらには逃げ回ってきた影に対して立ち向かい自己統合を果たしていく物語です。そして、三部目では、「大賢人」と称された後の年老いたゲドが「わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たった一つしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ」と語っています。

「敬う」とは、他人や物事に対して敬意を払い、その存在や価値を受け入れていくことです。他者や高齢者や自己や死を敬うこと、その本質は同じです。それができる者は、荒ぶる竜を平定するように心の「不安」を治め、竜や人や死の可能性を善導し、やがては「竜王」や「大賢人」と称されるようになることは、物語が述べているところです。


紙面研修

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「フレイル」について


↑画像は、都パンフレット「住み慣れた街でいつまでも-フレイル予防で健康長寿-」より

 

 

※ロコモ:ロコモティブシンドロームの略称。骨や関節、筋肉など運動器の衰えが原因で、歩行や立ち座りなどの日常生活に支障を来している状態のことをいいます。

サルコペニア:加齢に伴って筋肉量が減少する状態のことをいいます。

 

 

考えてみよう
  • フレイルは、社会的なつながりの減少などで生活範囲が狭くなることが一般的な入口とされています。どうしてこのような「社会性の虚弱」が生じるのだろう。
  • ヘルパーに「それ以上はやらなくて良い」「やったら早く帰って」と言うような「社会性の虚弱」が見られる方の生活範囲を拡げ、身体を動かしたり心や頭を使ってもらうなどして活性化して頂くためには、支援にどんな工夫が必要だろう。

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