【紙ふうせんブログ】

令和4年

紙ふうせんだより 12月号 (2023/01/17)

人は一人では生きてはいない

皆様、いつもありがとうございます。コロナ禍はいっこうに収まらず、皆様には負担やストレスを強いた一年だったと思います。申し訳なく思っていますが、一方でその大変さが一人ひとりのたくましくしさを育み、それぞれの人生にとっての良い学びともなっていくようにと願っています。

一年間本当にありがとうございました。年末年始に稼働して下さるヘルパーさんは、本当にありがとうございます。皆様、良いお年をお迎え下さい。

 

人生の価値を決める自身の「態度」

「良いお年を」との挨拶を交わす時、私は本当に「良い」とは何だろう、と考えることがあります。悪い事が起こらないこと? 良い事が多いこと? しかし、悪い事は良く変わるきっかけかもしれないし、良い事に浮かれていれば慢心に足を掬われることもあるかと考えると、良し悪しを一方的に決めつけてしまうことはできません。

例えば、「喜怒哀楽」の「怒哀」を悪い事として感じない様にしてしまえば、人ではなくロボットになってしまいますし、「生老病死」の「老病死」の否定は、人間存在自体への否定になってしまいます。介護の仕事を通じて見えてくることは、手放しで納得できる「老病死」を送っている人などほとんど居ないという事実です(※1)。

そうであれば、悪い事は少ないに越したことはないのですが、生老病死の中にあるトラブルに泣いたり怒ったりしながら生きることが“人生”なのだと観念し、人生の良し悪しはその間に起こる「出来事」の量や内容に本質があるのではなく、出来事に対する自身の「態度(※2)」にこそあるのだと腹をくくらなければなりません。人生の価値の決定権が「出来事」にあるのであれば人生は運任せであり、結果的に「老病死」を恨むことになってしまいます。「出来事」に右往左往するところから主体性を取り戻して自分の人生を生きるためには、出来事に対する自分自身の「態度」にこそ注意を払うべきなのです。

※1 だからと言って納得のいかないケアを利用者さんに強いて良いとは限らない。

※2 V・E・フランクルが重視した人間が最後まで実現しうる人生の価値としての「態度価値」と通ずる。(紙ふうせん便り:令和3年6月号参照)

 

「いいことはおかげさま」

 書家であり詩人の相田みつをさんの言葉に『いいことはおかげさま 悪いことは身から出た錆(さび)』というものがあります。「良い事」が起こった時に、自分の運や力を誇示する「俺様」態度では、「良い事」が終われば取り巻きは離れ自信は吹き飛んでしまいます。自分の存在は、自分ひとりで成り立ってはいないのですから、良い事だからこそ誰かの「お蔭様」という気持ちが大切なのです。

では、悪い事はどうでしょう。そもそも、そういった事はあることだと受け入れる態度でいれば、その中にある良い意味にも気が付いていきます。悪い事を「誰かのせい」にせず、自分の今までの態度を見直す契機とすると良いでしょう。これが心の錆落としです。

そして「自分のせい」にし過ぎてしまうことも決して良くはありません。自分ではどうにもならない運不運や自分の失敗に悲嘆に暮れるのではなく、自分も他人も責めるのではなく、これからをどのようにしていくのかを態度で示していくことが大切です。誰のせいにもしない「お互い様」であれば、自分も他人も切り捨てないで済むのです。

 

 人は繋がりの中で生きている

  『日本人は「人に迷惑をかけちゃダメ!」と子どもに教えることが多い。

それに対してインドでは「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうです。

【迷惑をかけながらでしか生きられない】

そう思うと周りの全てのモノに感謝できそうな気がする。』

 

この言葉はTwitterで注目を集めた投稿です。ここにも「困った時はお互い様」の考えが根底にあります。日本には「情(なさ)けは人の為ならず」ということわざがあります。他人に情をかけるのは「自分の為」でもあるという意味です。一見、自分の利を捨てて他人に尽くすような「利他」の行動も本当は「利己」の行動となるという考えです。

ここには、自他の利害関係が対立している様な偏頗(へんぱ)な捉え方から離れ、本当の人間関係は「互恵(ごけい)的」なものであることに気が付きなさい、という意味が込められています。誰かに迷惑をかけたと思ったら、その分誰か困った人の支えに自分がなればいいし、迷惑をかけられたと思ってもその分だけ自分は「徳」を積ませてもらったのだから、またいずれ誰かに徳を還元すればよい。そんな考えを自分の芯にしていけば、人の顔色を伺って「敵だ味方だ」「損だ徳だ」と右顧左眄(※3)する必要はなく、人と人の確かな繋がりが感じられる人間関係となっていくのです。

人間存在の本質を教えられるということ

2008年に発売されたCDの曲「手紙 ~親愛なる子供たちへ~(※4)」が、一時話題となりました。歌詞には次のようにあります。

『年老いた私がある日 今までの私と違っていたとしても どうかそのままの私のことを理解して欲しい / 私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい / あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は いつも同じでも私の心を平和にしてくれた』

ここには、子供の成長と老いていく自分を重ね合わせながら、大人になった子供に何かを教え遺して去っていこうとする親の気持ちが語られています。人間は、「生まれ育っていく」事にも「老いて死んでいく」事にも、人の手を借りなければならない存在なのです。この曲の歌詞は、もともとは作者不明のポルトガル語のメールだったそうです。

英語には「お互い様」を含意することわざに、「片手(一人)では手を洗えない」One hand washes the other.というものがあります。人は一人では手を洗えません。私たちの介護は、利用者さんにとっての「もう一つの手」となります。そうして差し出される手は、あたかも自分の手と手を洗うような無理のない振る舞いとなることが自然体です。

そもそも人間存在の本質として困った時に助け合うことは自然なことで、良い事をしてやろうと気負うことも申し訳ないと身を縮める必要もありません。二つの手が重なる時、どちらの手が「やって「あげて」「貰ってる」のかを区別する必要もありません。「人は一人では生きることができない」という人間の本質を教えられることは、最大の幸せでもあるはずです。

 

※3【うこさべん】右を見たり左を見たりしてためらい迷うこと

※4レーベル:タクミノート(テイチクエンタテインメント)、原作詞:不詳、訳詞:角 智織、補足詞・作曲・歌:樋口了一 2009年度日本レコード大賞優秀作品賞

 

紙面研修

人生の最晩年の意味について考えるために


「手紙
~親愛なる子供たちへ~」

 

年老いた私がある日 今までの私と違っていたとしても

どうかそのままの私のことを理解して欲しい

 

私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても

あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

 

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても

その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

 

あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は

いつも同じでも私の心を平和にしてくれた

 

悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように

見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい

 

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり

お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい

 

あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて

いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

 

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の

準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい

 

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない

足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら

 

あなたがか弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように

よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい

 

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい

あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど

 

私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい

きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです

 

あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように

私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

 

あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと

あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

私の子供たちへ 愛する子供たちへ

 

【態度価値】

フランクルによれば人間が実現できる価値は創造価値、体験価値、態度価値の3つに分類される。

 

創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値である。仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。

 

体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。

 

態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。

フランクルはアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験した。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視するのである。(Wikipedia)
 
考えてみよう

この詩の「私」が示すことができている「態度価値」はあるだろうか?

あるとしたら、それは何だろう。

食べ物をこぼし、同じ話を何度も何度も繰り返し、下着を濡らしてしまったり

お風呂に入るのをいやがる人から、私たちが学べることはなんだろう。

「旅立」が「祝福」となるためには、何が必要だろう。
 


紙ふうせんだより 11月号 (2022/12/20)

より良く生きるための「理想」と「他者」

今年も残すところあとひと月となりました。皆様、本当にありがとうございました。「終わりよければ全て良し」とするために、一年を振り返りつつやり残したことやこれから生じるであろう課題を見直して、取り組みの端緒を年内にも開いていければと願っています。

「現実」を「想い」の方へと手繰り寄せていくために

振返ってみると濃密な一年でした。私としましては令和3年度介護保険制度改正を会社として実態を伴うものとすべく業務継続計画など様々な作成に携わりました。就業規則の大幅改訂では、虐待やハラスメントや差別を「人権」という大きな軸で包括的に示すことによって、全ての人に「他人事」ではなく「自分事」として考えて貰いたいという想いがありました。壁となったのは、「どうせ文章を作り込んだところで、“建前と本音”が異なるように計画と現実は異なってくるのだから、テキトーにやっておけばよい」という声が自分の中からも聞こえてくることです。

しかしそれで本当に良いのでしょうか。理想が無ければ計画は最初から形だけであり実効性のある有意義な行動は生じてはきません。杜撰な計画でも意味のある成果が組織に生じているのなら、それは中の誰かが人知れず個人的な努力をしているからです。介護現場には、そのような心労を厭わずに利用者さんに寄り添って下さっているヘルパーさんが多くいます。それに応える為にも精一杯の努力をすることが私の務めです。

介護の在り方や介護業界や社会をもっと良くしたいという理想を描いても、その実現には何十年もかかるかもしれません。それでも理想を語る必要があるのは、より良い方向に向かっていくためには、人や社会には「理想」が必要だからです。理想はたいていぼんやりとした想いから始まって、無理にでも言葉を紡ぎだしていかない限り形は見えてきません。そして、明確に文章化されて共有されたものは「理念」となります。そこに具体的な取り組み内容が加われば「計画」へと発展します。

理想から理念へ、さらには計画へと押し進めていくためには、言語化と共感、共有と実行が必要です。これは全ての組織に言えることです。人類文明というマクロなものからケアチームというミクロなものまで、さらには自分自身の身心の中の「認知・想像・解釈・再認識・行動化」などの意思決定プロセスも同様です。

「想い」を形に変えていく

 

理想がなければ人は、日々をただ生きるだけとなります。昨日から今日、今日から明日への変化は、歳月を重ねただけということになってしまいます。しかし実際は、人は無為に見えるような間にも何かを学んでいくことができています。全ての人は、自覚の差はあるにせよ「より良く生きたい」という想いを持っているからです。

その本能のような原初的な理想を自覚し、他者にも同じような理想があることを知って、本当は「何が良いのか」と問い直しをした時、人は主観を脇に置いて「理想」の視点から自身を見つめ直します。そうやって見えてきた「想い」に形を与えていった時、人は良い方向へと大きく変わっていくのです。

 

「自己」の可能性を拡げる「他者」

一方で、「どうせ俺はダメだ」との諦めに沈むセルフネグレクトの方もいます。「より良く生きよう」という気持ちはなぜ失われてしまったのでしょう。「より良く」という対象に「自分」しか入っていない状態が長く続けば自分しか見なくなり、諦めてしまうことも簡単になります。命の危険から逃げる時に、背中に子供をおんぶしているのといないのとでは、生存への執念は異なってきます。おぶさるものは子供である必要は無く、社会的な責任や責任感を持っていることも同様です。どうやら社会的な動物である人類は、「他者」との関わりによって、「自己」のポテンシャルが最大化されるようになっているようなのです。

遺伝子の一部をホモ・サピエンスに残しながら絶滅してしまった別種の人類に、ネアンデルタール人がいます。なぜ絶滅したのか。諸説ありますが、ホモ・サピエンスが使用する石器をより良く工夫させていくことに対して、ネアンデルタール人はほとんど石器を進化させていませんでした。強靭な身体を持っていた為か、ネアンデルタール人は小集団で生活しており、他者や社会の拡がりがホモ・サピエンスよりも狭かったと考えられるのです。

もし自分が何かを諦めそうになった時、自分の心を励ますためには、内側に向かっていく自分の気持ちを外に向けてくれる「他者」が必要です。まずは自分が何かをすることによって「笑顔」になる誰かの顔を思い浮かべること。しかしその顔は、必ずしも具体的である必要はありません。具体的な対象にしか興味がなければ「自分の仲間の幸福の為には、知らない人を犠牲にしても構わない」という“自己中心”になるからです。

「誰かの為に」ということの本当の意味は、未だ知らない他者によって自分は支えられているということを知っていくことであり、「他者の大切さ(※1)」とは見ず知らずの人を考慮に入れ考慮対象を拡げていくと共に、既に知っている仲間のような人でさえも本当は依然として「他者」であり、浅い考慮を改めて深い理解に至ろうとすることの大切さなのです。

このような「他者性」の拡がりを持っている人は、“信じていた人”との食い違いがあっても全否定に傾かずに、問題を冷静に考えられます。自己に対する他者の意味の本質はその「予測不可能性」にあり、それは良く変わる「可能性」でもあります。可能性を否定してしまう時、人は孤独になるのです。

私たちが利用者宅に赴く時、孤独な人が「反発」をするということがあります。自分が予測可能な世界に閉じこもろうとしている時に邪魔をする「他者」が現れたから、「毅然とした自己」を他者に見せつけようとして気持ちを奮い起こしているのです。そうしながらも訪問を受け入れていった時、その人の心の中には新たな可能性という「他者」が生じてきています。奮い起きた「他者」は、もう一度生きてみようという気持ちを起させるのです。

 

※1 他者を追究することは、一方で確立した自己意識を常に脅かされることであるが、その脅威が私を変化させ他者もまた私によって変化を受ける。(略)寿命の延長が、私たちに変化というタームを取り込む哲学の必要性を促している(略)。他者理論の要請は、長い人生を送るなかで変化する私自身を理解する必要性からも生まれている

「21 世紀の展望と他者論」関未玲
 

人権という「理想」

より良く生きる為には、人は自分と同じように「他者」をも守らなければなりません。「他者と自己」の中に共通して存在する「守るべきもの」とは何でしょう。

歴史的な積み重ねの中から言語化してそれを原理として示したものが「人権」です。1948年の「世界人権宣言(※2)」の採択を記念して、毎年12月10日は「国際人権Day」となっています。戦争への誘惑は常に人権の軽視と共にあるのですから、人権を守ることを世界の共通認識としていくことによっても、平和な世界という「理想」に現実を近づけていくことができるのです。

※2 「私には、人間の至上の価値に関するコンセンサスが生まれた、まさに歴史上の一大事に参加しているというはっきりとした認識がありました。その価値は、世俗的な権力者の決定ではなく、人間の存在という事実それ自体に由来するものであり…」起草小委員会のメンバーを務めていたエルナン・サンタクルス(チリ)の言葉。50カ国を超える国が原案の策定に参加した。

 

 
紙面研修
世界人権宣言
 
世界人権宣言は,基本的人権尊重の原則を定めたものであり,初めて人権保障の目標や基準を国際的にうたった画期的なものです。(法務省HPより)

20世紀には,世界を巻き込んだ大戦が二度も起こり,特に第二次世界大戦中においては,特定の人種の迫害,大量虐殺など,人権侵害,人権抑圧が横行しました。このような経験から,人権問題は国際社会全体にかかわる問題であり,人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になってきました。

そこで,昭和23年(1948年)12月10日,国連第3回総会(パリ)において,「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として,「世界人権宣言」が採択されました。

世界人権宣言は,基本的人権尊重の原則を定めたものであり,それ自体が法的拘束力を持つものではありませんが,初めて人権の保障を国際的にうたった画期的なものです。

この宣言は,すべての人々が持っている市民的,政治的,経済的,社会的,文化的分野にわたる多くの権利を内容とし,前文と30の条文からなっており,世界各国の憲法や法律に取り入れられるとともに,様々な国際会議の決議にも用いられ,世界各国に強い影響を及ぼしています。
 

 

【世界人権宣言】外務省仮訳文

前文(要点の抜粋)

・人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である。

・人権の無視及び軽侮が人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした。

・言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言された。

・人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要である。

第一条 

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条 

1すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

2さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条 

すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

第四条 

何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

第五条 

何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

第六条 

すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。

第七条 

すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。

第八条 

すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。

第九条 

何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、又は追放されることはない。

第十条 

すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。

第十一条 

1犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。

2何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。

第十二条 

何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。

第十三条 

1すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。

2すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。

第十四条 

1すべて人は、迫害を免れるため、他国に避難することを求め、かつ、避難する権利を有する。

2この権利は、もっぱら非政治犯罪又は国際連合の目的及び原則に反する行為を原因とする訴追の場合には、援用することはできない。

第十五条 

1すべて人は、国籍をもつ権利を有する。

2何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。

第十六条 

1成年の男女は、人種、国籍又は宗教によるいかなる制限をも受けることなく、婚姻し、かつ家庭をつくる権利を有する。成年の男女は、婚姻中及びその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する。

2婚姻は、両当事者の自由かつ完全な合意によってのみ成立する。

3家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する。

第十七条 

1すべて人は、単独で又は他の者と共同して財産を所有する権利を有する。2何人も、ほしいままに自己の財産を奪われることはない。

第十八条 

すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

第十九条 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

第二十条 

1すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。

2何人も、結社に属することを強制されない。

第二十一条 

1すべて人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、自国の政治に参与する権利を有する。

2すべて人は、自国においてひとしく公務につく権利を有する。

3人民の意思は、統治の権力の基礎とならなければならない。この意思は、定期のかつ真正な選挙によって表明されなければならない。この選挙は、平等の普通選挙によるものでなければならず、また、秘密投票又はこれと同等の自由が保障される投票手続によって行われなければならない。

第二十二条 

すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。

第二十三条 

1すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する。

2すべて人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する。

3勤労する者は、すべて、自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する公正かつ有利な報酬を受け、かつ、必要な場合には、他の社会的保護手段によって補充を受けることができる。

4すべて人は、自己の利益を保護するために労働組合を組織し、及びこれに参加する権利を有する。

第二十四条 

すべて人は、労働時間の合理的な制限及び定期的な有給休暇を含む休息及び余暇をもつ権利を有する。

第二十五条 

1すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。

2母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

第二十六条 

1すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。

2教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。3親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。

第二十七条 1すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。

2すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。

第二十八条 

すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する。※

第二十九条 

1すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。

2すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。

3これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。

第三十条 

この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

 

※「この宣言が口先だけで終わらないような世界を作ろうとする権利もまた、わたしたちのものです」

詩人の谷川俊太郎による世界人権宣言の訳文の第28条には、このように書かれています。

(※谷川俊太郎の訳文はアムネスティーインターナショナルのHPに記載されています)

 
考えてみよう

世界人権宣言の理想を理想で終わらせないためには、自分には何ができるだろう
 

 


紙ふうせんだより 10月号 (2022/11/21)

荒海の航海者たち

皆様、いつもありがとうございます。急激に寒くなってしまいました。体調を崩してはいないでしょうか。10月4日から10日は、国連が定めた「世界宇宙週間(※1)」ということです。せっかくの秋の夜長ですから、想像の翼をもっと遠くへと飛翔させてみたいものです。

※1 米ソ冷戦激化の中、人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを1957年10月4日にソ連が成功させたことに由来

 

どうやってこれからを生きるか

「2040年までに人類が火星を歩けるようにするのがわれわれの計画だ」米航空宇宙局(NASA)のネルソン局長は2023年度の予算要求に際してそう語っています。一方、中国運搬ロケット技術研究院の王院長は、中国政府が2033年にも「有人火星探査」を計画していると発表しています。人類の到達目標が先へ先へと進んでいくことに夢を感じながら10年後を想像すると、人類を火星に行かせられる時代にありながら、きっと私たちは利用者一人をデイサービスに行かせることにも四苦八苦していることでしょう。

科学技術の進歩は巨大ロケットの制御を可能にはしましたが、一人の人間を「思うがまま」に制御することは出来ないのです。また、「人間誘導装置」のようなものは発明されてはならないのです。一人の人間の「心の中の自由」や「独立性」を考えると、10年後も私たちが利用者さん対応で四苦八苦していることは、とても良いことなのだと考えられます。願わくばその四苦八苦が、介護側の要求を利用者さんに「どうやって呑み込ませるか」といった対立的な押し付けの構図ではなく、「これからを生きる楽しみを一緒に見つけよう」というような、利用者さんの気持ちを明るく元気にさせるようなものでありたいと思います。

 

人類史から利用者さんの嘆きを考える

「これからの楽しみ」について利用者さんと一緒に考えようとすると「こんなに長生きするとは思わなかった」という嘆息を聞くことがあります。その利用者さんが特別にネガティブだからでしょうか。そんなことはありませんから、この嘆きは個人を取り巻く社会構造の問題であることが伺えます。

医学の進歩は人々に長命の約束をしましたが、延長された時間を「どのように過ごしていくか」ということについては、回答を示してはいないのです。「長生きもあんまり良いもんじゃないね」という「生きづらさ」の表明は、この社会が窮屈で利用者さんの肩身を狭くしていることを示しています。医学の進歩による超高齢化社会に対して、人々の倫理観や人生観の成熟、社会保障制度の発展等が追いついていないのです。

古代の人類が農耕を開始すると、集住や余剰生産物の蓄積といった社会構造の変化が生じましたが、他所を襲って蓄えを奪う「戦争」が起こるようになりました。中世の封建制は更なる増産を可能にはしましたが、戦争は絶えず農奴は不自由な生活を強いられました。産業革命という生産技術の革新は、膨大な富を生じさせながらも人間の欲望と貧富の差を更に拡大させていきます。科学や技術の進歩やそこから生じる経済規模の拡大や社会構造の変化に対して、人類の倫理観の発展が常に遅れをとることは、人類史を見ても明らかなのです。

 

人間は後悔しないと反省できないのか?

欲望を剥き出しにした国家間の競争が第二次世界大戦となり8500万人もの人命を奪った後、1948年に「世界人権宣言」が国連で採択されました。二度の大戦の惨禍の反省を人類史に刻み、万人が、国家から独立した「人権」を生まれながらにして持っているということを世界の共通認識にしていこうという宣言です。

多くの人命が失われてからでないと、私たち人間は学ぶことができないのでしょうか。科学の粋を集めた原子爆弾が1発で何十万もの人間を殺傷できることを実地に証明してみせた時、原爆開発の提唱者の一人であるアインシュタイン博士は、その提言を「大きな誤り」として後悔したといいます(※2)。しかし米ソは核軍拡競争に突入していきます。核戦争が現実の脅威となり、1984年に放映開始のTVアニメ「北斗の拳」は、毎週木曜19時のお茶の間に「199X年、世界は核の炎に包まれた!」と告げ、食料や水を奪い合って暴力が支配するようになった終末後の世界を描いていました。

1986年に世界が保有する核弾頭数は、ついに7万374発(※3)となります。地球そのものを何回も木っ端みじんにできるような破壊力の総量、その“狂気”に米ソが我に返って「核戦争に勝者はありえず、核戦争は決して戦ってはならない(※4)」と反省し、1987年に核軍縮(※5)が開始されます。2022年、現在の世界の核弾頭保有数は1万2705発です。

 

※2 ナチスが核爆弾を開発し実際に使用するのではないかという恐れから、複数の科学者と連名でフランクリン・ルーズベルトに宛てた書簡から原爆開発計画が開始された。

※3 最大規模の核弾頭は1発で広島・長崎の原爆を合わせた威力の1500倍

※4 1983年レーガン米大統領来日時の国会演説「貴重な現代文明を維持するには政策はたったひとつしかないと私は確信している」に続く言葉

※5 1985年にソ連書記長となったゴルバチョフは核軍縮に積極的で翌年に米ソ首脳会談、1987年に中距離核戦略全廃条約調印

 

人類文明の最先端の孤独

私たちが作り出した複雑な社会システムは、「一度方向づけられると大きな問題が無い限り立ち止まることができない」自動機械のようなものなのでしょうか。私たち一人ひとりは、社会の荒波に呑み込まれ木っ端のように流されて、自分一人の心の安定を守ることがやっとの存在なのでしょうか。そうはなりたくありませんし、そうならない方法もきっとあるはずです。

命や人生に対して確実な視点から俯瞰することができれば、人類の諸問題に対して解決の糸口が見えてくるかもしれません。全ての人間に確実に言えるのは「やがて老い確実に死ぬ」未来です。死者の視点、命を大切にする視点、死に臨む人の視点を持って、自分自身や社会の在り様を再検討すること。それができれば後悔に沈む前に改めることができるのではないでしょうか。死に近接した視点を持ち得ることは介護職員の特権です。その意味では私たちは、利用者さんと共に人類文明が抱える問題の最先端にいるのかもしれません。

宇宙の旅の最先端にある人工天体はボイジャー1号(※6)です。この旅人は、2012年には太陽風の到達する限界のヘリオポーズを突破して太陽系を完全に離脱しています。現在地は地球から235億キロメートル。ボイジャー1号は、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像を収録した金のレコードを人類の代表として搭載し、茫洋(ぼうよう)たる星間空間の中にありながら今も観測結果を地球へと送信し続けています。私たちもまた、介護現場で見聞きし感じたこと、そこから考えたことを、後の人類文明が良きものとなるように発信していきたいと思います。

 

 ※6 Voyagerは航海者、冒険者、旅人の意。1977年打ち上げ、木星と土星を探査し太陽系外に向かう
 


紙ふうせんだより 9月号 (2022/10/21)

「希望」を語ることの大切さ

皆様、いつもありがとうございます。台風が秋の空気を連れてきました。雨の中を訪問して下さったヘルパーの皆様、お疲れ様でした。近年なんだか雨の降り方が変ってきています。まるでスコールのような土砂降り。海水や大気などの地球規模の温度上昇が、海からの蒸発量や大気に含むことができる水分量を増やしてしまい、今までより大規模な雨雲を発生させるようになってきたからです。雨は「しとしと」とかせいぜい「ザーザー」と降るものと思っていましたが、爆撃のように降る雨。雨を肯定的に捉えたことわざに「雨降って地固まる」とありますが、こんな極端な雨では「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し(※1)」です。

※1 論語の「過猶不及」が原典

「不安」に呑み込まれてしまうと状況は悪化する

「たとえば食物の要は身体を養うに在りといえども、これを過食すればかえってその栄養を害するがごとし」 これは福沢諭吉の「学問のすゝめ」にでてくる「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の説明です。行き過ぎたことは足りないことと同じで、道理には適(かな)いません。このことわざは、物事には中庸(ちゅうよう)(ほどほど)があるということを示しています。介護でも時々これは「過ぎたるは…」ではないかな? と感じるプランが見られます。そうなってしまう理由の第一をあげるなら「不安」ではないでしょうか。

利用者本人が不安な気持ちでいっぱいでサービスを望む場合は、本人が支援に依存してしまい自立から遠ざかってしまったり、より不安が強化されてしまわないように注意が必要です。しかし、不安に寄り添いながら本人が自分でできることを「再発見」していくような支援を行っていけば、不安はヘルパーを待つ楽しみに変わり、サービス利用は「依存」ではなく「生きがい」となっていくでしょう。

問題は、利用者さんの生活状況に不安を感じた家族やケアマネジャーが、利用者を説得してサービスの導入や増回を求めた場合です。支援内容を工夫して自立支援につながっていけば、拒否的な感情もやがては楽しみや安心に変っていくでしょう。しかし、本人の望まぬタイミングに本人の望まぬ内容で、複数の人に繰り返し訪問されたら利用者さんはどう感じるでしょう。

「何で来るの!?要らないって言っているのに!」と言われてしまったらどのように理由を説明するでしょうか。「ご家族から頼まれているんですよ」と言えば利用者さんの「自己決定権」の没収宣言となりますし、「○○さんの生活で××ができていないから必要なんですよ」と言ってしまえば利用者さんへのダメ出しとなってしまいます。ご本人の気持ちを解きほぐすには、「あなたに会いたくて(お話したくて)来た」という“気持ち”を伝える必要がありますが、それには訪問してから終始一貫して利用者さんのペースに合わせなければならず、なかなか難しいものです。

やむを得ない状況もありますが、支援の枠組み自体が利用者さん自身を「否定」する構造になってしまっていないか、点検が必要です。自らが「否定」される関係が続けば、利用者さんの身心はおかしくなっていきます。「介護」という行為は「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」であることを自覚しなければなりません。

 

予言の自己成就

「角を矯(た)めて牛を殺す(※2)」ということわざがあります。曲がった牛の角を無理に矯正しようとして、肝心の牛を殺してしまう。小さな欠点を直そうとして全体を台無しにしてしまうことの譬えです。利用者さんの生活を正そうとしてあれこれやっているうちに、利用者さんをより悪い状態にしてしまったら、全く意味の無いことです。

例えば、自分が人や物事に対して、「ダメなところをちゃんとしないともっとダメになるぞ」と言い聞かせ続けて、本当に「ダメになる」ということがあります。無根拠な思い込みであっても、そうなりそうだと思って行動することによって、本当に実現させてしまうこと。これを社会心理学では「予言の自己成就(※3)」と言います。

このプロセスを大まかに言えば次のようになるでしょう。まず始めに、思い込みや不安などの強い感情的な動機があります。そのような時、人は自分の感情の不確かさ(不確かなものは人にとって「不安」)を確かなものにしようとして、自分の思い込みに合致する情報ばかりに注目してしまいます。これを「確証バイアス(※4)」と言います。

ダメだと思ったら、ダメなところばかりが目につき、良いところが見えなくなってしまいます。何とか「良くしよう」と思って実施することは「ほどほどさ」を欠いていますが、ダメだと決めつけている自分に気が付いていないので、極端な対応になっていることにも気が付きません。そうして「やり過ぎて」しまった結果、本当にダメになってしまうのです。

※2 同様の意味の英語のことわざに「ネズミを追い出そうとして家を焼くな」がある。

※3「自己成就予言」とも言う。ロバート・A・マートン(米国)が提唱

※4 認知バイアスの一種で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。

 

生きることを「あきらめさせない」ために

紛争地から命がけで逃れてきた難民の子供達が「あきらめ症候群(※5)」になってしまうことがあります。絶望的な状況を乗り越えて命は助かっても、自由が制限され将来の展望が全く見えない収容先での生活に希望が絶望へと変わってしまったのか、子供達は次第に周囲に無反応になり食べなくなります。身体を動かそうとせず寝たきりとなり経管栄養に繋がれます。意識レベルが低下し呼びかけに反応しなくなります。それでも身体機能には異常がみつからないのです。根本的な治療は「将来の希望を示すこと」や「安心感」だと言われています。

利用者さんを元気にさせる「本当に必要なケア」とは何でしょう。利用者さんは自然現象として低下曲線をたどるがことが自明であるため、私たちの介護業界は、利用者さんの状態を人為的に低下させてしまうことに鈍感になっています。確証バイアスによって支援者側は「言ったとおりに悪くなった。だから、悪化を見越したあのやり方で良かった」というような考えになってしまい、自己批判的検証が難しくなるからです。人為的な悪化を防ぐためには、ケアの方向性について複数の意見を交えて、あらかじめ原理原則に基づいて理性的に検討しておかなければなりません。

原則に立ち戻る「問い」をいくつか挙げてみましょう。

  • その判断は「不安」に基づいていないか、それは「誰の」不安か?
  • 利用者の「弱み」を基に判断していないか?
  • 利用者の「強み」を知っているか?
  • 利用者の「強み」に基づいて判断しているか?
  • 利用者の希望を聞いているか?
  • そのケア内容は利用者の望んでいる内容か?
  • そのケアの内容は利用者の自尊心を回復させるか、傷付けてしまうか?
「生きる意欲」とは何でしょう。「生きていても良い」と思うこと。「もうちょっと生きていたい」と思えること。どんなケアでも利用者さんの生きる意欲となるように、生きる「意味」や「希望」をお互いに語りながら、ケアを楽しめる工夫をしていきたいと思います。

※5  2000年代初頭からスウェーデンに亡命した難民の子供に度々見られ、生存放棄症候群とも言う。ホロコーストでも同様の症状が確認されている。

「次第に周囲に無反応になり、食事せず体も動かさず、ほとんど植物状態のようになる。医師らは、難民申請が通らなかったり収容が長期化したりして、生きる希望が失われたことが原因だと見ている。」(Buzz Feed Newsより抜粋)

 


紙ふうせんだより 8月号 (2022/09/20)

過ぎ去っても、去らないもの

酷いと言えばあまりに酷い炎天の昼も、夕方に吹く風には涼しさ忍び込みつつあるのですから、辛い季節もやがては過ぎ去っていくものです。まずはこの夏を乗り切れそうなことを皆様に感謝です。人生の喜びも悲しみもいつかは過ぎ去っていくものです。過ぎ去っていくものを、忌避したり無理に押し留めようとしたりすると、苦しみが生じてきます。自然の理(ことわり)として去来する物事をありのまま認めること。介護や福祉ではこれを「受容」と呼びます。よく使う言葉ですが「あたりまえ」のように簡単に済むことではないのです。

「大人になる」とは何だろう

大人になった私たちは、大人である自分をあたりまえのように感じていますが、そこに至る道は容易ならざるものだったことは、子供心を忘れない人は覚えています。人は子供としての心の在り様を一度は完成させています。自分の身体を自由に操作でき、自分の感情を自覚できて人に伝えることができます。子供ならではの限界は「いつか大人になれば越えられる」と、無条件に自分と周囲の人を信じています。自他の境界が曖昧な「子供ならではの自由闊達さや自己効力感」と呼んでも良いかもしれません。

やがて思春期(※1)になると、心を追い越して急激に体が変化していきます。心身は不安定となり、自分の考えや行動だけではどうにもならない物事に苛立ったり、裏腹な“大人”の身勝手さに怒ったりします。自分と違う考えや感情を抱いている他者に戸惑い、他者との間に壁を作ったりもします。それでもいつかは外側の世界に目を向けていくのです。これは「子供としての自分の死」の受容です。

子供ならではの自由な心は、他人とは異なる心の中を持っている自分を自覚して自意識に揺れるようになってからは、「内心の自由」として自覚されます。外向けの顔として仲間に同調しながら、「心の中」では悪態をついたりします。そうやって内面と外面の使い分けを自分に対して許容していきます。しかしその許容が、大人になってからも他者に適用されないでいると“子供じみた”身勝手さとなります。例えばそれは、裏腹の無い“真実の愛”を相手に求めながら、そのじつ相手を疑っている自分が居るなどです。

大人になるとは、「内心の自由」の自他の相互性を理解した上で、他者や社会に対しての自分の「自由」の責任を自覚することです。そして他者の「内心の自由」を許容していくことは、他者受容となります。外面の世界は自分の考えや行動だけでは自由にならないと判った上で、だからこそ自分や他者の「内心の自由」を大切にしながら、他者とは異なる自分の気持ちや考えを自他に対して調和的に表出していった時、それは、この社会で生きる自分自身の自己受容となります。

本当の自由な心とは、自分の心も他人の心も縛りつけようとはしないものです。そのような理性的で調和的な「自由な心」の獲得は、子供心の自由さの再生でもあります。子供時代は去ったとしても、子供心は、本当は心の中に生きています。「子供の頃の自由な心を忘れないでいてこそ、人は真に自由な大人になれる」とも言えるのではないでしょうか。

※1 昔は思春期は20歳までと考えられていたが、最近の英国の研究では身体的変化も含めて24歳まで続くとされた。思春期は世界的にどんどん後ろにずれており、現代の日本ではアニメ作品は40代くらいまでをメインターゲットとしており、高校生の主人公に大人が感情移入をしていることなどから、それぐらいまで後期思春期が延長しているとも言われている。

 

「受容」の過程で起こること

「老い」は自分の心身機能の変化や体調、友人やパートナーの死、人間関係の変化などによって現れてきます。自身の内と外とをそれなりに調和的に生きてきたのに、気が付けば不協和音は響いてきます。その変化は受け入れ難いものです。キューブラ―・ロス(※2)は、深い悲しみの過程は「否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容」といような様々な状態を揺れ動きながら進んでいくことを示しました。ロスはこれを「死の受容」への5段階として論じましたが、障害や老いの受容も同様な揺れを体験します。訪問介護という仕事で利用者さんの自宅にお邪魔するということは、受容の過程で揺れ動く内面に関わっていくことを意味します。

セルフネグレクトの方は、自分の現状を否認し自分自身に怒っています。自分を罰しているような面もあります。介護拒否の方への訪問は、自傷行為のような痛みと関わっていくことになりますから覚悟が必要です。ようやくヘルパーさんを受け入れたとしてもヘルパーの粗探しをしてしまうのは、怒りがヘルパーに向かうからです。しかし何に対してどのように怒ったとしても、本人はむなしさを感じていることでしょう。取引の段階は、特別な治療法があれば回復するのではないか? もっと良いヘルパーなら生活は良くなるのではないか? などと色々あがいてみます。それでも進行方向は不可逆的なものだと知って、深い気持ちの落ち込みを体験します。そしていつか不満をぶつけてばかりいた家族やヘルパーさんを頼りにしている自分に気が付きます。そうやって他者を認めていく時、自分の中にある多様な自分も受け入れられるようになっていくのです。

支援者を拒否したり認めたりする感情の揺れは、利用者さんの内面の葛藤の「外在化(※3)」です。不調和な利用者さんの感情を支援者が受けとめて落ち着いた態度を示していくと、利用者さんは外在化した安定感を自分の内面に取り入れて、受け入れ難い自分と自分自身との関係として「内在化(※3)」させていくことができます。しかし皆が拒否を真に受けて訪問をやめてしまうと、利用者さんの「自分と他人」の関係は安定せず、したがって「自分と自分」の関係も安定させることができなくなってしまうのです。

これは、子供が自分の負の側面をも親に認めさせようとして、手を焼くようなことをやらかしてしまう「自我の確立」の過程にも似ています。利用者さんから支援者に向けられるいわれなき感情や要求の高さは、利用者さん自身の「自己受容」への希求の表れでもあります。「自分と他人」や「自分と自分」の関係は円環的なものですから、自己受容は他者受容に、他者受容は自己受容となるのです。

※2 エリザベス・キューブラー=ロス(1926-2004)米国で看取りの研究を行う。主著「死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話」

※3 心理学用語。人は内面の葛藤を外面の態度で表したり(外在化)、外部の事象を自分の心の中のように感じたり(内在化)する。

 

失ったようで、失われないもの

「人間は生まれたときには自由である。しかるに人間はいたる所で鉄鎖に繋がれている(※4)」

これは人間の解放を目指したルソーの言葉です。ルソーは社会制度や権力関係を鉄鎖としましたが、鎖は人の心の中にもあります。病や老いや体の不自由さに心が囚われてしまったら苦しみとなります。しかし人は、外面的な不自由さを自覚してこそ「内面の自由」の大切さを知り、自身の根底からの解放を希求します。心身が不調和となっても生きている限り決して失われないものは何でしょう。

それは「命」です。命あるかぎり「真の心の自由」はそこにあるはずです。死への長い旅路を歩む中で、それをお互いに忘れずに思い出すこと。これが、あたりまえのように言われる「尊厳を守る」ということの核心なのです。

 

※4 ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)主にフランスで活躍した政治哲学者。この言葉は「社会契約論」の冒頭。


紙ふうせんだより 7月号 (2022/08/23)

同じ痛みを持つ者として

皆様、いつもありがとうございます。戻り梅雨に猛暑と天候の変化に体調も乱れてしまいますね。気象の変化による酷い体調悪化を「気象病」と言うそうです。「雨が降ると古傷が痛む」と言われる方もおられます。気圧が下がる時に慢性痛が酷くなるものは「天気痛」や「低気圧不調」と呼ばれます。気圧低下によって血管が拡張し神経を圧迫することで頭痛になったり体内の水分バランスが乱れたり、三半規管(内耳)がストレスを感じて交感神経が緊張するなどして体調不良になるそうです。不調のある方は、ご自愛下さい。

「痛み」とは何か

注射器の針、顔をしかめる子供。逃げ腰になってよじった身体を看護師がおさえます。二の腕に針先が触れおもむろに入っていくと、ぎゅっと閉ざした瞳から涙が溢れ出します。痛みへの恐怖感が極まって遂に子供は泣きだしてしまいます……。このような動画を見ると、自分も何だか痛みを感じませんか。人は、他人の痛みに共感する心のメカニズムを持っています。このような「共感性」は、他者を助ける動機となります。

「痛み」とは何でしょう。感覚器官が捉えた刺激は電気信号となって、大脳皮質の「体性感覚野」に伝わります。すると、記憶や感情や思考に関わる大脳の他の部分も反応します。「身体的な痛み」を体性感覚野が受け取ると同時に、不安や恐怖などに関わる「大脳辺縁系」や、判断や意思決定に関わる「前頭前野」が活性化します。この脳の活動が「情動的な痛み」です。注射をされて泣く子供と泣かない子供がいるのは、痛みへの恐怖や執着などの情動的な反応が異なってくるからです。

この「情動的な痛み」とされる脳の活動は、実際の痛みが自分にあるときにも活性化しますが、他者が痛みを感じる姿を見ている時にも同様に活性化します。また、鎮痛剤の効き目に関する実験では、鎮痛剤を投与すると「身体的な痛み」も和らぎますが、「共感の痛み」の感じ方も低下することが明らかとなっています。人は、身体的な痛みも心の痛みも他人の痛みも、同じ「痛み」として感じているのです。

私たちが介護している方々にも、身体機能に問題が無くても苦しみを訴えたり、実際に何らかの症状が身体に生じている方がいます。また、訴えの言葉の中に見られる出来事が本当の事ではないも関わらず本当の事のように訴えて、実際に苦痛を感じておられる方もおられます。身体と心は密接に連動している(心身相関)ことは良く知られてはいますが、私たちは、身体に問題が無い痛みの訴えを「本当の痛み」では無いとして軽く見積もって良いのでしょうか。

そうではありません。その痛みは体験者にとっては「本当」なのです。国際疼痛(とうつう)学会では、「痛み」を「組織の実質的あるいは潜在的な障害に関連する、またはこのような障害と関連した言語を用いて述べられる不快な感覚・情動体験である」と定義しています。言い換えれば、原因不明でも身体に不快な反応として現れるもの、不快な体験として語られる感情の動きは、全て「痛み」なのです。

自らの存在の意味を問う「スピリチュアルペイン」

緩和ケアの提唱者のシシリー・ソンダース(※1)は、「痛み」を身体の問題に還元するのではなく、社会関係や価値観や個人史などその人の存在の全体から生じてくるものとして、トータルペイン(全人的な痛み)という捉え方を提唱しました。人の「痛み」は、身体的苦痛・心理的苦痛・社会的苦痛・スピリチュアルペイン(魂の苦痛)といった多様な側面(※2)を持ち、多層性を持って現れるのです。

「ある人が『痛い!』と訴えたら、医療者はその原因はともかくとして、その個人の情動体験としての“痛み”をそのまま受け止めることから、適切な痛みへの対処が始まることをしっかり認識すべきです」とは、緩和ケア科の関根龍一医師の言葉です。スピリチュアルペインとは個人の人生に関わる苦しみです。痛みに耐えながら生きているという自分に「意味を求めるけれども見いだせない」という苦痛なのです。

※1 シシリー・ソンダース(1918-2005)英国、近代ホスピス運動の創始者。ソーシャルワーカーとして勤務した病院で末期ガン男性と恋に落ち看取る。33歳になって医学校に入学し38歳で医師免許取得。死んでいく人が本人の人生に価値を見出すことが「死にゆく人の尊厳」であるとして、全人的なトータルなケアを目指して、緩和ケアを実践した。

※2古代の臨床心理学とも言える仏教と通底する考え。仏教では、生の苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみという「四苦」と、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)、求めて得られない苦しみ(求不得苦)、身体相関や認知のプロセスから生じる苦しみ(五陰盛苦)を併せて「四苦八苦」とした。

そこに居続けることが、スピリチュアルな支えとなる

正解のない問いに耐えかねて“病気”を“治療”しようとする医療モデルに支援者が逃げ込んでしまうと、利用者の“痛み”は様々な訴えに変化し、コロコロと変わる訴えに支援者が苛(いら)立つこともあるでしょう。「どうしてそんなに痛がっているの?本当に痛いの?」「あんなに説明をしたのに、どうしてわからないの?」と言い放ってしまう時、支援者は「支える」ということに挫(くじ)け「共感」を手放しそうになっています。

「支える」とは、「その人の杖になる」ということです。「杖」が重みに負けてグラグラしていたら「杖」にはなりません。「あっちだ、こっちだ」などと利用者を引っ張っていくことも「杖」は行いません。スピリチュアルペインは、「あっちに行けば解決する」などといった単純なものではないからです。

支援者に必要なことは「何も答えられなくても、そこに留まる覚悟」です。答えを見出すのは支援者ではなくその人自身であり、「杖」の役割は、人生の終わりに向かってその人が自分の足で歩いて行けるようにそばに居続けることです。シシリー・ソンダースはスピリチュアルケアについて「答えにくい質問をいくつも抱えた患者と家族のそばに、何も答えられないままとどまっている人々は、そばにいることによって患者と家族が求めているスピリチュアルな救いを提供している自分に気づくことになろう」と述べています。

「痛み」を抱えながら生きることの意味

人間の本質を表す言葉に「生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)」があります。「生」は「生まれる苦しみや生きる苦しみ」のことです。続く「老病死」もどんなに健康な若者でも潜在的な「苦痛」を生まれながら持っているということを示しています。自身の「生老病死」の自覚は、相手の痛みを理解する「共感性」の原動力となります。「共感性」には、相手の心に同期して同じ感情を抱く「直感的な側面」と自分の「痛み」を相手と重ね合わせて、経験から相手の気持ちを想像する「認知的な側面」があります。

目の前の人を「自分と同じ痛みを持つ者」として感じ想像すること。「同じ痛みを持つ者が、同じ痛みを持つ者を支える」ということが、人が人を支えることの本質です。あなたは私であり、私はあなたです。私の痛みはあなたの痛みであり、私があなたのそばにとどまりながら、そっとあなたの痛みを抱きしめようとする時、同時に私はあなたから抱きしめられているのです。「痛み」には人と人を寄り添わせる力があります。あなたや私の「痛み」には、きっとかけがえのない意味があるのです。

 

紙面研修

「痛み」と共に生きる

身体的な「痛み」というものは、怪我をした時などに身体に無理をさせない防御反応として、さらには、次の失敗を回避するために強い情動の反応として記憶する面がある。情動が主体の痛みはどうだろう。「悩ましくて頭が痛い」「痛恨のミス」などの言葉もある。心が痛むことは確かに「心もとない」ものではある。不安が強いあまりに「嫌だ」という感情が主体化すると、心の痛みは「苦しみ」としてラベリングされる。過ちを繰り返さぬよう、体罰という「痛み」をもって体に覚え込ませるやり方や厳しい叱責なども「苦しみ」のラベリングを強化する。「心の痛み」は、それを「嫌なこと」として拒否的に構えてしまうと苦しみの情動が再現されて、「苦痛」として認識されてしまうのだ。

農業指導の実践者であり詩人の宮沢賢治は、その類まれなる共感性によって心に多くの痛みを抱えながら生きた人である。賢治は「心の痛み」を「苦痛」にしてしまうのではなく、「けれどもここはこれでいいのだ」と避けがたいものとして「悲しみ」として純粋に受け入れた。「生老病死」からは逃れられない人間の運命を悲しんだのだ。賢治の悲痛な悟りはやがて透明な言葉となって人の心を潤す詩となった。賢治は、偉ぶって自分をガードしてみせるよりも、相手よりも低い位置に我が身を置き、「共感の痛み」を引き受けようとした。人々の悲しみに寄り添い一緒に悲しみを慈しむ「慈悲」の生き方を選んだのだ。




もうけっしてさびしくはない

なんべんさびしくないと云ったとこで

またさびしくなるのはきまっている

けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軌道をすすむ 

宮澤賢治 (「小岩井農場」より)




「雨ニモマケズ」

       宮澤賢治

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしはなりたい




【考えてみよう】

賢治はどうして木偶(でく)の坊(ぼう)(役立たず)と

呼ばれる事を良しとしたのだろう。

 

参考資料

『スピリチュアルペイン』に向き合う覚悟とは(日本終末期ケア協会)

孤独、寂しさ、落ち着きのなさ、不安などの精神的苦痛は、あくまでも「症状」であり、取り除くべく環境を調整することが必要です。環境が変わって眠れないのであれば、眠前に足浴をしたり、安心するように訪室をこまめにしたり、時には薬剤治療も併用したりして、つらさの緩和をしていく必要があるでしょう。

しかし、スピリチュアルペインは意味や価値の喪失であり、完全に取り除くことはできません。いくらベテランの医療者でも、その人が抱えている意味や価値の喪失の特効薬などは持ち合わせていないでしょう。それでも、「何とかしてあげたい」と多くの医療者は解決する方法を考えます。

大切なことは、その見えない意味や価値を一緒に考えていくこと、見放さずに傍にいること、一人ではないとメッセージを伝え続けることで「共にある」という道のりを歩んでいくこと。これこそがスピリチュアルケアなのです。スピリチュアルケアをしようとする医療者にとって必要なことは、「解決」ではなく「覚悟」です。「共にある」ことは何もできない自分と向き合うことでもあります。そんな何もできない自分でも、一緒に苦しみを見つめ続けようとする「覚悟」なのです。


紙ふうせんだより 6月号 (2022/07/22)

他者との相互作用によって見いだされる自己

皆様、いつもありがとうございます。灰色の雲の下で緑が雫に濡れています。緑陰に小さな灯火のように涼し気に咲いている白い花はドクダミです。ある方は「ぽっとん便所の裏に生えていたから、ドクダミは“便所草”のイメージしか無い」と言われ、ドクダミに悪い印象をお持ちの様子でした。花屋の店先のような色鮮やかさは無いけれど、ドクダミにはドクダミの美しさがあります。それを見落としてしまうのは残念です。考え方や価値観が柔軟性を失うと、物事を見る目は自分の偏見ままに留まってしまいます。

 

自己像が硬直化してしまうと、自己は危機にさらされる

良くも悪くも「私は〇〇な人間」と単一的に捉えてしまうのは硬直化した考え方です。考え方や価値観が硬直化してしまうと、「好き」ではなく「嫌い」が先鋭化していきます。嫌なものを避けようとするのが生存本能だからです。そして、どこに行っても何をしても嫌なものばかりが目に付くようになってしまったら、かえって自己の生存の危機となります。辛くてしょうがなくなる訳ですから、ますます嫌なものを避けようとします。そうして、かえって嫌なものが目についてしまうという悪循環(※1)です。

アレも嫌いコレも嫌いとやってると、「好き」の幅は縮小し、「嫌い」の幅がひろがってしまいます。また、そんな自分に悩み「自分のココが嫌い」「ココも良くない」とダメなところを数え上げて(※2)悩みに沈み込んでしまえば憂鬱になりますし、かえって失敗もあるでしょう。失敗から「自分はダメなんだ」と決めつけてしまえば鬱病になってしまいますから、決めつけないことが肝心です。

 

※1 森田療法ではこのような悪循環を「とらわれ」と呼ぶ

※2 認知行動療法で「反すう」と呼ぶ
 

自己は、多面的な自己像を持つ

自分とは何でしょう。循環する構造に着目してみましょう。

調子のよい時は好循環が起きていて、調子の悪い時は悪循環が起きていると捉えるのです。問題は循環にあるのですから、調子が悪い時は、とりあえず循環していそうな言動を一部でも「変えてみる」のです(※3)。実際にそれで悪循環が止まったりするのですから、自己の中に何らかの本質的な問題があると捉えて苦しむよりは、解決のハードルはぐっと下がってきます。いっそのこと単一的で固定的な自己などなく、良くも悪くも自己像は「循環によって立ち現れる」ものとして捉えてみましょう。

「杉浦の自己モデル(※4)」では、「自己とは認識された自己であり、さまざまな行動(他者とのコミュニケーションも行動のひとつである)とその結果のフィードバックの記憶が循環的に軌跡の重なりを形作ることによって、その輪郭が自己として認識される(※5)」としています。「認識される自己は、唯一のものではなく、さまざまな分野、さまざまな他者との関係において複数認識することができる(※5)。私たちは時と場合に応じてさまざまに異なる自己を認識し、それに基づいて自己呈示を行っている」と考えるのです。

ならば、好ましい自己像が周囲の人との相互作用によって多く自己呈示できるになっていけば、「朱(しゅ)に交われば赤くなる」とのことわざの通りに、自己も徐々に変わっていくと思われるのです。

 

※3 認知行動療法の考え方

※4外界・他者との相互作用の記憶が循環的に重なることによって輪郭が浮かび上がり、それが自己として認識される

※5杉浦健(近畿大学教職教育学部教授)「循環によって立ち現れる多面的自己から考えるセルフコントロール」より

 

支援者との関係性から見いだされる自己像

周囲との人間関係によって立ち現れる多面的な自己像は、実際に介護現場でも多く目撃します。要介護高齢期は、アイデンティティの揺らぎもあり、認知症があればなおさら適応行動や記憶が不確かになりますから、循環によって立ち現れる自己像も周囲の人間関係に依存的になります。

例えば、支援者が生活上の不安を事細かに聞いて「それは怖いね。不安だね」と不安に強く共感を示していくことによって不安な気持ちが循環して増幅し、その支援者との関係において利用者さんに「怖がりな自己像」が現れ、利用者さんはその支援者に以前よりも増して不安を訴えるようになった、というようなことはあります(※6)。ところがその利用者さんも別の支援者との関係では、「大丈夫、大丈夫、大したことない」と小さな失敗も支援者が冗談を交えて笑い飛ばしてくれてお互いに笑いあっていたところから、その支援者との関係においては「おおらかな自己像」が現れたりもします。

このようなことが実際にあるわけですから、支援者側の考え方や価値観は柔軟でなければなりません。「自分はたくさん質問して聞き込んだから、アセスメントに間違いはない」などといった気負いがあったりすると、その支援者自身からは見えていない利用者さんの別の側面を見落としてしまったりするのです。実はその利用者さんは質問攻めに嫌気がさして自分の気持ちを打ち明けなかった、ということもよくある話です。

私たちとの関係性によって、利用者さんの自己像はさまざまな姿をとります。例えば、自立支援ということで、レジでの清算に戸惑う利用者さんを(さりげないフォローを入れずに)ただ見守るだけを繰り返していところ、利用者さんに「何もできなくなった自己像」が現れることはあります。また、「自分はもうダメだな~」と言われる利用者さんに「そんな風に考えたらダメですよ」と繰り返し訴えていたら、ますます「ダメな自己像」が強調されたりもするのです。

 

自己像が大きく揺らぐとき

古い自己像を合わない服のように既に脱ぎ捨ててしまったにもかかわらず、新しい自己像が未だに見いだせないような時、私たちの内面は大きく揺らぎ不安にさらされます。自意識の芽生えに揺れる思春期や大人へと変わっていく青年期など、ライフステージの変化に伴って、それは起こります。

家では素直な子が悪友と戯れて万引きしたりするなど、一面しか見ていない人からすれば、信じられないような多面性が現れるのです。時には、自己を「変えてみたい」と変化を無意識的に強く希求するところから、既存の規範を犯すようなこともやってのけます。ギリシャ神話ではプロメテウスが天の火を盗み人間に与えて文明の火となり、創世記ではアダムとイブが知恵の実を盗み食いして人間は楽園から巣立ちますが、人類の黎明を描く神話(※7)にもそのような規範の逸脱が描かれています。

自己像が大きく揺らぐ時、それは利用者さんにもありますが、大きな「やらかし」は起こります。それを新しい自己像へ飛躍の試みであると肯定的に捉えれば、慌てることはありません。利用者さんが起こしてしまったボヤや転倒や迷子といった事件も、自己統合の過程に必要なこととして起きていると周囲が受け止めれば、利用者さん自身も新たな自己像を見出すきっかけとなるでしょう。

ともあれ、鏡に向かって敬い頭を下げる時、鏡に浮かぶ像もこちらを敬い頭を下げます。このような円環的因果律による循環は、自他の関係の基本であると思われます。

 
※6「不安にならなくていいよ」「不安なことは考えない方がいいよ」との声かけは、時にかえって不安に注視させてしまう。この囚われを「皮肉なリバウンド効果」と呼ぶ。囚われてしまっている自己が唯一の自己ではないということを知れば、囚われからの脱出の一歩となる

※7ユング心理学では神話や童話は人間の心理的構造のメタファーになっていると考える
 

 

紙面研修

熱中症を防ぐ

(空欄の穴埋めをしてみよう)

【身体に熱がこもるとどうなるのか】

人間の体の中では、いつも熱が作られています(産熱)。そして体の体温を一定に保つ働きが人間の体にはあります。気候条件や運動量増加により、体内の熱量が増えたにもかかわらず、放熱とのバランスが崩れてしまったときに熱中症は起こります。

体の熱量が増えると、体の表面(皮膚の下)の ① は拡張し血流量は増加します。体内の熱を体の外に逃がしやすくする為です。その時、血液が全身に行き渡るために体内の血液が一時的に不足して ②  が下がってしまう事があります。すると ③ に十分な血液が送られなくなります。 ③ への血液供給が少ないと、脳は酸欠を起してしまい、めまいや立ちくらみや、意識を失ってしまう事があります。これを「熱失神」と言います。お風呂の“のぼせ”と同じ原理です。なお、高齢者がお風呂で亡くなってしまう原因は入浴中の急な血圧低下によって失神し溺れてしまうからだと言われています。

体を冷やすためには、太い動脈が体表近くにあるところ(首、わきの下、太もも等)に、保冷剤や濡れタオルなどを当てるクーリングを行います。

 

 

【脱水になるとどうなるのか】

体温が上昇した時には体は汗をかきます。汗の ④ によって、体は放熱する事ができます。この時、発汗量が多いにもかかわらず、水分補給が足りないと、体は脱水状態になります。脱水状態が長く続くと、頭がボーっとして全身がだるくなって、水分や食事を摂ろうという“やる気”さえ無くなったりします。

「だるい」「なんとなく手足がツル、痺れるような感じがする」さらには「頭が痛い」「吐き気がする」「めまいがする」ということも起こります。「熱疲労」とも言われます。

これらの症状の怖いところは「ぼんやりとしてしまって、判断が鈍る」事です。例えば、炎天下にちょっと外出して帰宅したけれども、だるくってコップ1杯の麦茶を飲んで寝てしまった。その後、目が覚めても疲れが抜けず夕食を抜いてしまった…。単なる“疲れ”であれば、1食抜いても寝て休めば治ります。しかしこの“疲れ”が脱水に起因するものであれば、寝ている間にも症状は進行します。そして、食事から補給される水分量は多いわけですから脱水の悪化は避けられません。翌朝、脱水状態で一晩過ごしてしまったために脳梗塞を起してしまった!となったら大変です。

そのようになる前に、頭がぼんやりとして身体の危険信号に注意を払えなくなってしまう前に、日頃の意識的な水分補給が大切です。体への吸収の速いポカリスエットなどのスポーツドリンクなどが有効ですが、高齢者などで水分摂取が困難な様子であれば、病院へ搬送し点滴をしなければなりません。独居の方は救急車要請を検討する場面です。

脱水症状の本当に怖いところは、それが心筋梗塞や脳梗塞の原因になる事です。体温が上がると、身体は「放熱」の為に血管を拡張させます。その結果、血圧が下がって血液を送り出す力が弱まります。そのような時に脱水が加われば、脱水症状でドロドロになった血液は「血栓」ができやすくなります。血栓が心臓に詰まれば ⑤ 、脳に詰まれば ⑥ です。どちらも対処が遅れれば命に係わります。

 

【運動中の若者が倒れる「熱射病」】

 運動中に疲労はつきものですし、喉も乾きます。だからと言って身体のサインを無視し続けると、熱の影響が脳に出てしまいます。これを「熱射病」と言います。そうなると自分では判断できませんし、意識が遠のいて倒れてしまいます。運動部の練習などで炎天下にトレーニングしていたらぐったりしていたので、木陰で寝かせていたらそのまま亡くなってしまったというニュースがあるように、大変危険な状態です。また、汗の中にはナトリウムなどの塩分(電解質)が含まれていますが、大量の発汗の後に、塩分を補給しないと体の中の塩分量が不足してしまいます。電解質は筋肉の動きを調整する役割も持っているので、塩分が不足をすると手足がつったり、筋肉が ⑦ をおこしてしまうことがあります。これを「熱けいれん」といいます。

 

(回答) ①血管 ②血圧 ③脳 ④蒸発・気化 ⑤心筋梗塞 ⑥脳梗塞 ⑦けいれん

 

【下記の状態が見られた場合は要注意】

 ◾元気がない ◾食欲が無い ◾便秘が続いている  ◾尿の色が濃く量や回数が減った

◾居眠りをしていることが多くなった ◾手足が冷たい ◾指の先が青白く冷たい ◾首筋がべたべたする ◾皮膚やわきの下が乾燥している ◾口の中が乾いている ◾皮膚に張りが感じられない

 ◾微熱が続いている ◾血圧が低い ◾脈が速い(120回/1分) ◾体温が37℃以上ある

◾爪を押して離した時、赤みが戻るまで3秒以上かかる ◾手の甲をつまむと形が残る(富士山)

◾吐き気がする ◾頭痛がする ◾しびれや痙攣がある ◾受け答えの反応が弱い ◾めまいがする

 ◾夜間や日中の室温が高い ◾下痢や嘔吐、大量の汗をかくなどを繰り返している(脱水リスク)

 

 

 


紙ふうせんだより 5月号 (2022/06/17)

あなたも家族も助ける為に

本来はすがすがしい晴天の続く5月ですが、今年は梅雨の走りのようなじめじめとした日が多かったですね。「走り梅雨」とも呼ぶそうです。雨の日の自転車走行にはご注意下さい。

交通事故というものは自宅近くで起こることが多いと言われています。「安心感」が気の緩みとなって事故に繋がるのです。もちろん皆様は十分に注意されていることと思います。うるさいようですが、くれぐれもご注意下さいませ。

「決めつけ」が人を苦しめる

「うるさい」という言葉、漢字ではなぜか「五月蠅い」と書きます。何でも旧暦の5月、つまり梅雨ごろに蠅(はえ)が群れて発生し、その羽音がうるさいことから「五月蠅」との漢字をあてるようになったとのことです。「うるさく言われているうちが花」とはよく言いますね。これは注意する側の視点から「うるさい」ことを肯定的に捉えています。期待や関心が無かったらうるさく言わない、という意味です。うるさく言えるのは、そこに言えるだけの肯定的な結びつきがあることを前提としているがゆえに、相手に対して否定的なことが言えるのです。

でも、そのうるさい内容が「決めつけ」であったら言われる側はたまりません。注意をした側も、労多くして関係を壊してしまったら何の為に今まで言ってきたのか、ということになってしまいます。皆さんも自分の昔のことを振返ってみましょう。「親は私のことを何でも決めつける!」と思っていませんでしたか。しかし子供の側にも「親なのに何で私の事を解ってくれないの!」という期待の裏返しの否定的な決めつけがあります。親の立場からは、「自分自身の気持ちや考えがあるなら、はっきり言ってくれれば良いのに」という言い分があります。しかし子供は、思わずついた溜息に「ウチの子は全く…」(手がかかる、愚図なんだから)といった否定的なメッセージ(二重拘束(ダブルバインド))を読み取っているのです。

「決めつけ」の悪循環を変える為には

お互いに相手を“悪者”として決めつけをしていたら、「鶏が先か、卵が先か」と同じで相互作用によって噛み合わない関係をさらに強化してしまう悪循環となります。自分の見解が「決めつけ」と受け取られてしまうのは、自分にとっては当たり前すぎる思考の「枠組み」があって、当たり前すぎるから気が付かずにその「枠組み」の中に相手を押し込もうとしてしまっているからです。だから、自分の中にそのような固定的な思考の枠組みが無いかを点検し、物事の見方を変えてみる必要があります。これをリフレーミング(再枠付け)と言います。

「○○すべき」「○○しなければならない」という思考パターンが強い方は要注意です。何も親子関係に限った話ではなく、介護関係でも同様です。先の段落の「子」を「利用者」に、「親」を「ケアマネ」や「利用者家族」と読み替えても意味が通じますよね。訪問介護でよく耳にする利用者さんの不満の第一位は、上から目線を含めて「決めつけられて嫌だ」というものです(※1)。「決めつけ」が人を苦しめているのです。

 

※1 こんなことを書くと利用者の不満第一位は「ヘルパーさんがやってくれないこと」だとケアマネさんから叱られそうですが、それぞれの立場としてそれは当然であるし、生活に不具合を抱えて潜在的に不満のある利用者さんにとってはヘルパーさんへの期待値が高く、その反動としての「期待の裏返し」としても説明ができる。しかし、ヘルパーも自戒が必要である。
 

“治らなかった終わり”という観念を生じさせる「治療モデル」

決めつけた態度は、経験に対する自負があるベテランほどとってしまいがちですが、古い介護観の根底ある「治療モデル」が構造的な悪影響を及ぼしています。

治療モデルでは、要介護という現象を病気やケガや健康状態により生じた個人の身心の医学的な問題として捉えるため、治療やリハビリによって回復を目指すことが優先されます。そのため、利用者は医師などの専門家の指示に従わねばならず、ケアマネージャーなどはその専門性から利用者を“指導”することが務めであると考えます。利用者や利用者家族の生活上の困難さは、結局は利用者(の病気等)が原因であるとして、構造的に利用者を責めてしまいます。

“指示の入らない”利用者がいた場合、そこに見られる“反発”を加齢に伴う性格変化や理解力の低下、精神状態の不安定さなどとして捉え、それを病気か病気に近い状態と判断し、その状態や病勢は不可逆的に進行すると予測します。そして、根本的に解決するためには原因を排除するしか無く、健常者と病人・障害者の生活を分離して利用者には遅かれ早かれそれ相応の施設に入って頂くしかない、と考えます。これは、生きる意欲を奪う介護観です。そんな介護観に利用者さんが反発しても“認知が入ってるから…”として“専門家”は、そこに在る心の声をスルーしてしまい、利用者さんと家族を精神的に追い込んでいくのです。

一方の「生活モデル」では、「生活の困難(障害)」の原因は、障害や病気ではなく「生活環境や支援体制の不備」の問題であると捉えます。専門家の役割はそれらを整備することであり、生活の主役は利用者であることを共に確認します。利用者さんに反発があるならば、利用者さんに疎外感を与えてしまった関係性や専門家の説明不足などとして捉えます。支援は、相談や提案という形で利用者の気持ちに寄り添いながら利用者の身心の安定(=生活の安定)に努めます。生活モデルの人間観は、人間を健常者と病人・障害者として分別するのではなく、全ての人間は生老病死を抱えながら生きているのであるから、専門家も同じ痛みを持つ人間として共感し、生きる希望を利用者さんや家族と一緒に考えていくのです。

相手を責めない態度で、部分ではなく全体を視る

「治療モデル」は究極の原因からドミノ倒しのように問題が生じている(直線的因果律)と考えるため、必然的に“悪者”を作ってしまいます。一方、“悪者”を作らない考え方もあります。「家族療法(※2)」は、問題を“家族システムの不調”にあると考えるのです。

例えば、認知症利用者とその家族の不安は相互作用によって「利用者の不安→変な行動→家族の不安→利用者の不安→」と不安は連鎖(円環的因果律)していきますが、「変な行動」に意味やメッセージがあるのではないかと検討してみたりして、部分ではなく全体を、要素だけでなくその繋がりや関係性を重視し、関係性の調整に努めるのです。家族療法では家族の成員全体を支援する視点を持ち、家族を集めた面談が大切であると考えています。

「『(※3)あなたを助けるために、あなたの家族と会いたい』と告げること、それ自体が効果的な介入になっていることは、家族療法の奇跡とも言われている。開放的でかつ相手を責めない態度で、家族の一員の痛みや障害を調べ、修正するために、できるかぎり家族を集めることは、驚くほど有益である」とは、家族療法の実践者の指摘です。サービス担当者会議や訪問介護の現場を、利用者さんとその家族の心を癒していく絶好の機会としていきましょう。

※2 ダブルバインド、直線的・円環的因果律、相互作用、リフレーミングは家族療法の用語。家族療法では、家族システムの中に支援者が加わることによって関係性の調整を促進します。

※3システム心理研究所HP「心理療法とシステム論」

 

紙面研修

医療モデルと生活モデル

治療モデルは、あるがままの「その人」と向き合わないで、その人を利用者・患者・病人・障害者といった枠組みに押し込んでしまいます。治療モデルは「障害」の原因を「個人」の心身機能に求めますから「個人モデル」とも言われます。

対して、生活モデルは、「障害」の原因を社会機能に求めます(個人に原因を求めないところは家族療法も同様)から、「社会モデル」とも言われます。どんな人でも地域で普通に暮らせることが、本来の「普通」と呼ぶべき社会の在り方であるという「ノーマライゼーション」の考え方が根底にあります。

ノーマライゼーションは1950年代に提唱されるようになりましたが、それ以前の考え方は「障害者」を社会の中にある異物(障害)と捉えて社会から排除し施設に収容するものでした。しかしこれは人道的に誤った考えです。「障害」は社会の側にあるのです。社会にある障害を取り除いていくことをバリアフリーと言います。バリアとなっているものは交通障壁のみならず、偏見や差別、営利企業の態度や脆弱な社会保障制度なども含まれます。

 



 

 



 
【考えてみよう】

医療の視点に偏り過ぎて生活や人生の視点に欠けている支援や、特定の個人に原因を負わせ過ぎている支援や、“専門家”が上から目線となっているような支援はないだろうか。
 

 

 

 


紙ふうせんだより 4月号 (2022/05/19)

悲しみを繰り返さないために

雨の後の桜並木の下はまるで雪が白く積もったようでした。花弁を散らした桜の木は萼片(がくへん)や花柄(かへい)の赤色が際立ち、やがて新芽の緑色に入れ替わっていきます。桜の木は駆け足で表情を変え、空の色は夏の気配です。皆様いつもありがとうございます。これからの季節は水分補給をお願いします。東京でこれですから、沖縄などはもう夏になっているのでしょうか。

悲しみのリフレイン

東欧諸国がドミノ倒しのように民主化していったのは、昭和から平成に変わった1989年です。同年11月2日、ついに「ベルリンの壁」が民衆の手によって壊され、東西冷戦の事実上の終結を世界に印象付けました。翌月には「ヤルタからマルタへ」との見出しが新聞に躍りました。クリミア半島のヤルタで米英ソの首脳が行った会談(1945年2月)による戦後体制の取り決め、いわゆる「ヤルタ体制」が終わりを告げ、ソ連のゴルバチョフと米国のジョージ・ブッシュの両大統領が地中海のマルタ島で会談を行い東西冷戦の終結を宣言したのです。これで世界は平和になる――誰もがそう感じていました。しかし、幸せな空気は束の間でした。1990年8月、石油をめぐる対立から突如、戦車350両、兵員10万のイラク軍機甲師団が国境を越えて隣国のクウェートへの侵攻を開始したのです。

歌手の森山良子さんはこの湾岸戦争を受けて、20年間封印してきた「さとうきび畑」を再び歌う決心をしたと明かしています。広いさとうきび畑を風が通り抜ける「ざわわ」という擬音語が66回もリフレインするこの曲に込められている思いは、「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦への悲しみです。しかし、「戦争を知らない自分はその千分の一もうかがい知ることはできません」「とても私の手に負える歌ではない」と、森山さんは1969年のレコーディング以来この曲から遠ざかってしまっていました。1969年は、泥沼化したベトナム戦争の終結を模索するニクソン大統領が、日米会談で沖縄返還(※1)を約束した年でもあります。

 

※1明仁皇太子は返還後の沖縄を初訪問(1975)し『払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこの地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』と述べ『人知らぬ魂 戦ねらぬ世 肝に願て』(人知れず亡くなった魂に戦争のない世を心から願って)と琉歌を捧げられた。以来沖縄訪問は11回を数える

民間人を巻き込んだ大規模地上戦

沖縄戦は、1945年3月26日の慶良間諸島への米軍上陸と本島への空襲や猛烈な艦砲射撃に始まり、米軍の4月1日の沖縄本島上陸により民間人を巻き込んだ大規模な地上戦が3ヶ月間続きました。死者数は双方合わせて20万人を超え、使用された砲弾は20万トン以上、今でも2千トン近くの不発弾が地中や海に眠っていると言われています。

「鉄の暴風と形容された沖縄戦は、敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たち、毒薬を注射されて死んでいった子どもたち、日本軍によってスパイ視され殺された人、自らの手で家族を死に追いやった人、異郷の地で命を落とした人、そしてマラリアや飢えで死んだ人等、沖縄戦はまさに地獄絵さながらでありました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。4人に1人が亡くなったことになります。(沖縄市HP)」


戦争を知らない世代が学ぶべきこと


沖縄戦は、私たちが今介護をしているような世代の方々が実際の戦闘に参加しています。時間稼ぎのために沖縄を「本土防衛の捨て石」とする方針が取られ、軍部は中等学校以上の生徒の多数を戦場へと動員しました。13歳以上の320名の女子生徒によって結成されたひめゆり学徒隊は、傷病兵の看護にあたりながら軍と共に行動し攻撃や自決に巻き込まれて172名が戦死しています。学校ぐるみで編成が行われた14歳から16歳の男子生徒による鉄血勤皇隊は、陣地構築や伝令や特攻の任務を与えられました。特攻は爆薬を詰めた木箱を背負ってキャタピラの切断を狙って戦車に轢かれるもので、1780人中890人が戦死しています。

陸軍中野学校の工作員は沖縄戦を前に沖縄に教員として赴任し、生徒による後方攪乱の為の秘密部隊(護郷(ごきょう)隊)を組織しました。集合に遅れた為に見せしめに銃殺された生徒もいたといい、少年達は組織的戦闘の終了した6月22日以降もゲリラ戦を続け、約千名の隊員のうち160名以上が戦死したことが判っています。また、沖縄には1万人以上の朝鮮人が陣地構築などの土木作業の為に連れてこられており、多くの方が亡くなっています。

何のためにこんな重い歴史の話をするのか、と思う方もおられるでしょう。戦争は決して美談ではなく多くの悲惨が伴うことを知らなければなりません。今太閤(いまたいこう)やコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた戦後最大級の政治家田中角栄(元上等兵)は「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と、日本について危惧していました。

 

終わらない戦争をいつか終わらせるために

2012年に戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)についての初めての大規模調査がありました。沖縄県内のデイサービス利用者から無作為に選んだ359人(平均年齢82歳)に面接し、そのうち約4割にあたる141人に沖縄戦によるPTSDが見られるという結果が示されたのです。症状の特徴の一つは「過覚醒型不眠」で夜中に断続的に目が覚めるものの抑うつ傾向は少なく、夜中に「わーっ」と叫んで飛び起きることなどもあり、ナチスによるホロコーストの生存者にも同様の症状が見られました。

調査した精神科の蟻塚(ありつか)医師によると『「沖縄戦(※2)の時、どこにいましたか?」と聞くと「米軍の爆撃によって目の前で肉親を殺された」「日本軍にガマから追い出された」「艦砲射撃の中で死体の山の中をひたすら逃げた」などという戦場体験が次々と語られ(略)同時に患者さんたちには、「運転していていまどこかわからなくなる」とか「戦場の場面がフラッシュバックしてくる」「日の丸を見ると体が戦慄する」「死体の匂いがする」など、トラウマ性の解離、パニック発作、身体化障害など一連のトラウマ反応(外傷性精神障害)が見られた』ということです。悲惨な戦争体験は、うつ病・統合失調症・てんかん・DV・アルコール依存・自殺・幼児虐待・離婚などのその後の発現にも根深く関わっており、個人の中では戦争は終わってはいないのです。

1972年5月15日、沖縄の施政権は米国から日本に戻されましたが、今でも在日米軍基地の74%が沖縄にあります。戦争による傷は簡単に癒えるものではありません。戦争の惨禍(さんか)を語り継ぎ、武力による威嚇を拒否し武力の行使を否定することで、戦争を二度と起こさせないように働きかけ続けることが、その痛みに報いることではないかと思うのです。

 

※2「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2015年8月号 蟻塚医師によると「本土防衛の捨て石」の遠因は日本による沖縄侵略(1879琉球処分)にあり、以降内地では琉球(沖縄)人は二等国民として「差別」されてきたことにあるという
 

 


紙ふうせんだより 3月号 (2022/04/22)

人生を語るも気づけば春の夢

「春眠暁を覚えず」とは、「春の夜はまことに眠り心地がいいので、朝が来たことにも気付かず、つい寝過ごしてしまう」という意味ですが、孟(もう)浩然(こうねん)の「春暁」(しゅんぎょう)の「春眠不覚暁   処処聞啼鳥」からきています。いいですね。うとうとと夢み心地のなかに、ウグイスなどの春の鳥の鳴き声が聴こえてきて「あぁ朝かな」と思いますが、気持ち良いからまだ寝てよう、という感じ。でも、今日も仕事です。皆様、いつもありがとうございます。

春の夜の夢

「春夢(しゅんむ)」という言葉もあります。「春の夜の夢」の心地よさを惜しんでいるのか、「人生のはかないさま」を譬(たと)える言葉です。「はかない」とは「人べん」に「夢」と書いて「儚(はかな)い」と書きます。睡眠中の「夢」は起きると忘れてしまうので頼りないように思われがちですが、実際には人生の羅針盤として頼りになることもあります。

ある利用者さんが「夢」の話をして下さいました。「人が集まって何かやってるなと思ったら、自分の葬式だった」と言われるのです。人垣の向こうに花の山がしつらえてあって、祭壇かな、とよくよく眺めたら遺影があって…「自分だ…」え、死んだのか? あぁ、やるべきことが色々あったのに遅きに失したか!と言うようなショックがあっただろうことは想像に難くありません。

夢は、一般的には春の暁の浅い眠りのような半覚醒状態で見ると言われています。いわば意識と無意識の中間領域なのですが、意識化されていない未整理状態の心理的課題は、無意識の領域に集積されていると考えられています。夢をありありと覚えていたのは、それが現在の意識の在り様に対して何らかの意味をもっていたからです。意識化されている世界観に何かが欠けていて、必要に迫られて無意識が夢という通路から意識へと働きかけてくるのです。

ユング(※1)が創始した分析心理学では、夢を分析するなどして無意識が意識へと働きかけてくる意味を理解することによって、新しい自己像を見出すことができると考えています。私は、利用者さんが「もうすぐ自分は死ぬんだ」という絶望感に囚われないようにと願い、ユング的な夢の解釈をお伝えしました。

「『死と再生』はセットになっています。神話や物語や芸術作品では、再生が表現されるその前段に必ず死が語られます。その構図と同じように、夢の中の死のイメージはある段階や状況の終了を意味し、再生としてその次のライフステージへと進まねばならないことを告げているのではないでしょうか。問題は次の段階にどのように入っていくかです。人生の最終ステージは今まで得てきた社会的地位などが役に立たなくなる段階でもあり、その段階に無自覚に踏み込んでしまったら、『人生で得てきたものは無意味だった』と大きな喪失感を生じさせてしまいます。しかし自覚的に入って行くならば深い人生回顧となり、今まで気が付かなかった人生の側面に気づかされ、新しい自分の発見になると思うのです。」

 

※1ジークムント・フロイトは「夢は抑圧された願望の偽装した充足である」としたが、カール・グスタフ・ユングはフロイトが性愛理論に偏りすぎていると主張し、夢は無意識や集合的無意識からの意識に向けてのメッセージであるとした。
「生かされ生きている」 命の本質に気が付く

多くの人が勘違いをしています。人生の成熟した期間が長く続いたばかりに、自分のことは自分で全てまかなえていると勘違いして、まかなえていることが「自立」であり、それが自分であると誤解してしまっているのです。しかし私たちは、誰一人として一人では命を継ぐことさえままならない存在です。

食べているお米は誰が栽培したものでしょう。誰が運んだものでしょう。土と水と太陽に育まれなければ稲は枯れてしまいます。着ている服は誰が作ったのでしょう。どこかの国の労働者がミシンをかけています。生地が化繊なら何億年も前の生物が石油となって、木綿なら綿花の、絹ならお蚕様の働きがあります。大地が無ければ人は立っていられません。自分がなぜ立っていられるのか、その支えについて知ることが本当の「自立」ではないでしょうか。

人間は、一人では生まれてくることも死んでいくこともままならない存在です。人生の最終ステージの課題は、「生かされ生きている」自分を身をもって体験することによって、「生かされ生きている」命の本質に気が付くことではないでしょうか。そう考えると、人の世話になることにも深い意味があるのです。周囲に迷惑をかけるから「死んだほうがまし」と言われる方は多くおられます。それは、これからを「新しい視点を持って生き直してみたい」という再生への渇望の表れでもあるのです。

自己統合の過程に必要なこと

死について語ると「縁起が悪い」と反応する人がいます。これは「縁起」という言葉の誤用です。「縁起」とは元来、漢訳された仏教用語で、すべてのものは「縁によって起こる」ものであるから、「ものごとの関係性(縁起)について知ることが、より深い人生理解になる」というような意味なのです。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものなのですから、自身の存在を「独立自存」のように見なしてしまうことは、自己への執着となり他からの支えを見えなくさせて、孤立感の原因ともなるのです。

生命とは、それそのものが自律的に機能し、代謝をしながら恒常性を維持し自己増殖をしていくものですが、その自立した存在は外部環境との縁という“他立”によって支えられているのです。生の根幹に関わる回答は、時に逆説的な構造(※2)で示されることがあります。「自立とは他立を自覚することによって成り立つ」とか「生まれ変わるためには(象徴的な)死を体験しなければならない」などです。

※2 沖永宜司は、禅問答の構造は「問いかけに答えるのではなく、この問いを問いたらしめているものの方へと気づいて行くこと」という面があることを指摘している(禅言語の逆説構造)。

私たちは介護の支援過程で利用者さんが事故を起こしたり急に症状が悪化するような場面に多く遭遇します。それを不安に感じる人は「もう在宅は無理ではないか」と性急な判断をしてしまいがちですが、本当にそうでしょうか。そのような課題は新しい自己像を得るために必要なこととして起きている「自己統合への過程である」と捉え直してみることも大切です。多様な視点を持っていれば、利用者さんの自己実現を介護によって阻害してしまい、かえって状態を悪化させてしまうような悲劇も避けられるはずです。

死の夢を見たその利用者さんは、後に新しい夢を見ることができました。「歯医者に行って歯の手術をされて、もうやめてくれというような状況だったけど、何とか無事に終わることができた」と言うのです。歯は生存に欠かせないもので生命力の象徴と言われています。また、歯が抜けて治ることは、乳歯が永久歯に生え変わるように「再生」を意味します。利用者さんが得ることができた新しい人生を、心豊かに過ごされるように願っています。

 

紙面研修

「ハラスメント」とは

「ハラスメント」という言葉は、一般的には「嫌がらせ」と言う意味で用いられています。「嫌がらせ」とは、他者(特定、不特定多数を問わず)に対して、不愉快な気持ちにさせることや、実質的な損害を与えるなど、不快感を与える行為の総称です。

「嫌がらせ」は英語にはHarassment(ハラスメント)と訳され、英語の意味は「苦しめること」「悩ませること」「迷惑」等となりますが、日本語と異なるニュアンスがあります。日本語の「嫌がらせ」という言葉には、行為者の「悪意」が感じられますが、「ハラスメント」の場合は行為者の悪意は問いません。悪意が無くても相手が嫌がる事は「ハラスメント」です。

「ハラスメント」は人権侵害

【人事用語労務辞典】

ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。

近年、職場における「ハラスメント」が急増し、人事管理上、深刻な問題となっています。

「ハラスメント」の無自覚性

近年、「モラルハラスメント(モラハラ)」や「マタニティハラスメント(マタハラ)」「スモークハラスメント」などハラスメントに関する言葉が増えてきました。「モラハラ夫」などという言葉も登場し、夫の無自覚な妻への依存や攻撃なども離婚の原因となっているようです。「ハラスメント」の行為者は、その言動に無自覚なことが多いために、各自が自己点検をしていく必要があります。

 
私たち皆が、ハラスメントの「加害者」にも「被害者」にも成り得る

【パワーハラスメント】

力関係の差(立場など)のあるところで必要以上の叱責や無理な要求など

    考えられる例)上司→部下(経営者→従業員、管理者→従業員)

           ケアマネージャー→訪問介護のスタッフ

           ケアマネージャー→サービス事業所

           サービス提供責任者→訪問介護員

【介護ハラスメント】

利用者や利用者家族からの必要以上の叱責や無理な要求など

考えられる例)利用者等→ケアマネージャー

利用者等→訪問介護のスタッフ

【介護虐待】

利用者さんにパワハラを行ったら心理的虐待、セクハラを行ったら性的虐待となります。

考えられる例)ケアマネージャー→利用者等

訪問介護のスタッフ→利用者

【セクシャルハラスメント】

性的な言動等で人を不快にさせたり環境を悪くするなど

    例)性的な部分を強調したポスターの掲示

    ※男性から女性へと行われることが多いが、稀に女性から男性もある

【その他のハラスメント】

  例えば、お笑い芸人がよくやる「いじり」という行為も、相手が返答に窮するようなやり方や不快に感じている場合は、ハラスメントとなります。

考えられる例)同僚→同僚(部下→上司 もあり得る)

 
現在、紙ふうせんではハラスメントや虐待対応を盛り込んだ「就業規則」への改定作業を行っています


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