【紙ふうせんブログ】
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紙ふうせんだより

紙ふうせんだより 4月号 (2017/09/20)

皆様、いつもありがとうございます。桜が散ったら急に暑くなってきましたね。まずはヘルパーさん自身の脱水に気を付けて下さい。体が暑さや日差しに慣れていませんので、自分自身の体調に注意を払って下さい。

また、利用者さんの脱水も要注意です。まだ分厚い冬用の布団のままで寝ている方はいませんか。寝ている間も汗をかきます。起床時の一杯の水分補給を声掛けてください。また、寝具の入れ替えを促す事も必要です。寝具の入れ替えや衣替えを頼まれた時は、通常のサービス内でうまく時間等をやりくりして実施できない場合(ケアプランに合わない等)は、事務所までご相談下さい。

 

訪問介護とは何か、施設介護との違いから考える。

 さて、新年度になりました。あらためて「訪問介護とは何か」施設介護との比較を通して考えてみたいと思います。私たちの仕事を、他との比較で外から眺める事は、私たちの仕事の社会的な意義の確認にもなりますし、自身がその仕事を行う意味を深め、より良いサービスへの意識付けにもなると思います。まずは、訪問介護と施設介護の違いを全体的なフレーム(枠組み)から考えてみましょう。

 

 

 定型的な関係と1対1の関係

施設介護では、生活が施設に限定されるため、支援内容も定型的になってしまいがちです。もし、人間関係も“職員対利用者”というように定型化されてしまったら、介護職個人のフレームを超えようとする発想や努力は、煙たがられる要因ともなりかねません。結果として横並び的な支援となり、介護職員があたかも自分を“歯車”のように感じてしまうかもしれません。そうなってしまったら、利用者さんもそこで生活する事が窮屈になってくる事でしょう。“チームケア”の名のもとに個別的な心の交流が遠慮されるようになってしまいます。

訪問介護にもケアプラン(居宅サービス計画)というフレームがありますが、介護現場は地域の中のその人の自宅です。ケアプランにはその人の個性や住環境等を基にしたニーズや目標が主題として書かれ、必要なサービス内容と事業者がそれに対応し、週間プランが組まれています。ヘルパーさんは買い物や掃除、散歩や入浴などの支援のために決められた曜日の決あめられた時間に利用者宅に訪問します。支援内容は日常生活に密着し、困り事であるがゆえに利用者さんはヘルパーさんの訪問を心待ちにする方が多くいらっしゃいます。一方で、困り事であるがゆえに、その苛立ちをヘルパーさんにぶつける方もいます。いずれにしても、ヘルパーさんは利用者さんの心に密着する立場となるのです。

このような訪問介護の環境では、必然的に利用者さんとヘルパーさんの1対1の関係が問われてきます。個別的な心の交流が、どのように行われているのか・いないのか、といったところが、利用者さんの「心待ち」もしくは「苛立ち」に関わってきます。

 

 

訪問介護における人間関係の特徴

人間関係には、定型的な関係を保っておいた方が良い場面があります。例えば、儀礼的な近所の付き合いの場合は、お互いに腹の探り合いになるのは嫌なので、表面的に無難なキャラクターを演じ、距離を置いて適当に相手に合わせる事によって、人間関係に波風を立てないようにし、お互いに疲れないようにします。もっとも、人間関係作りの習性や好みも人それぞれで、誰に対しても自分をさらけ出して個別的な関係を作りたがる人もいます。

利用者さんの置かれた状況に当てはめて考えて見ますと、利用者さんは自分が好むと好まざると、半ば強制的に自身の生活を開示させられています。いわば、ヘルパーさんは自分の内界に侵入してくる異物です。その異物への拒否感や疲労感を和らげようと、利用者さんはヘルパーさんを馴染みものにしようとして、ヘルパーさんとの個別的な交流を求めてくる方が多くなります。その求め方も人それぞれで、例えばプレゼントをあげてみたり、ネガティブな話で自分への歓心を引こうとしたり、ケアプランに無いサービスを要求しフレームを超えたな関係を築こうとします。一般的には個人的な人間関係は良くないとされていますが、このような構造から訪問介護では、必然的に個別的な心の交流が必要となってくるのです。

 

 

訪問介護における理想的な“チームケア”

ケアプランには表現できないさまざまな想いや願いを、利用者さんは持っています。自宅だからこそ自分らしく生きられるし、自分らしく生きたいのです。そのような気持ちを受け止める最前線にいるのがヘルパーさんです。利用者さんの内面に気づき、介護のフレームを拡げていけるような、現場のヘルパーさんの発想や提案がとても大切になってきます。そのため、訪問介護の現場でより良い介護を目指すには、絶対にボトムアップの組織でなければならないのです。そして、現場のヘルパーさんの声がケアプランに活かされるかどうか、その連携をサービス提供責任者が担うのですが、この連携がチームケアの生命線となります。また、現場介護職の悩みを解決しなければ、利用者さんへの良い支援できません。そのような意味で、サービス提供責任者はヘルパーさんを支援する責任を持っています。

主役は、生活者としての尊厳を持った利用者さん自身です。ケアマネージャーはケアの全体の枠組みを構築し、法的なもの含めその根拠をケアプランに示します。サービス提供責任者はケアプランの理念と現実のケアの間に立ち調整をします。ヘルパーさんはケアプレイヤーの主体者として、一般的な礼儀は守りつつも自然体でさりげなく利用者さんの生活に入っていく事が理想です。異物感の無い自然体の関係では、利用者さんも肩の力を抜いて、生活のみならず心をも開いて下さいます。そして、利用者さんがその個性をさらけ出した時、それに本当に向き合おうとしたら、返答するのは手順書ではなく関わる人の個性です。(ただし、利用者さんの心の準備の整わないのに個性をぶつけていくと圧力となる恐れもあります。)

個別的な心の交流が始まると、介護という困難を伴う人生の一場面を共有する、人生のパートナーのような共感が利用者さんとヘルパーさんの間に生じてきます。困難を共有した関係は、とても深い絆で結ばれるものです。1対1の心の交流こそが人の根源的な関係だからでしょうか、それはどこか懐かしい感じがするものです。利用者さんは皆いつか旅立っていきます。しかしいつになっても、その時の顔の表情や感じを思いだす事ができます。

 

 

【紙面研修】

お互いにとって好ましい心の交流について

訪問介護での必然的な1対1の関係は、訪問介護のやりがいでもあるし、大変さにもなってきます。ここでは、その個別的な心の交流の良し悪しを、“交流するエネルギー”(量・方向・質)として考えてみましょう。ことによっては、これが利用者さんの「心待ち」や「苛立ち」を左右するのです

例えば、「利用者さんはヘルパーさんとたくさん話をした方が良い」という前提があったとします。この前提は決して間違いではないのですが、中には「話すのがめんどくさい」とか「静かにそっとしておいて欲しい」という時もあるでしょう。このような場面でヘルパーさんの注目点が「前提」にのみ向けられていたら、利用者さんを“活性化させなきゃ”とヘルパーさんばかりが話をする事になってしまいがちです。

この時のエネルギーの流れは、ヘルパーから利用者さんに向かう量が“圧倒的”に多くなります。このようなアンバランスは、利用者さんを疲れさせてしまいます。似たような例を挙げてみましょう。

 ・娘の母(利用者)に対する要求(〇〇しなさい)が多く、娘が来ると黙ってしまう母

  ・私が興味ないのに、一方的にずっと政治の話をしてくるうっとうしい夫

これらが一概に全て悪いという訳ではありません。凸凹コンビで安定している関係もあります。ただ、他人同士の関係を外側から見ると難なく理解できる事が、自分を含めた関係となると、自分の欲求が勝ってしまい“一方通行”になってしまう事があります。それに気が付かない時は、何かストレスが自分の中にあるのかもしれません。先ほどの「うっとうしい夫」は、実は会社で冷遇されており、妻にも相談できず孤独の内に耐えている…という風に。

 エネルギーの方向や量が逆(利用者 > ヘルパー)の場合もあります。利用者さんが「ヘルパーさんといろいろ話をしたいのに、ヘルパーさんが黙っている」「本音を知りたくて働きかけをしているのに、本音が見えない」というような場合も、利用者さんは満たされません。好ましい関係の為にはお互いにとって、バランスの良いエネルギー量の交流が大切です。なおエネルギーが相手に全く流れない“交流ゼロ”は“無視・無関心”ですから、関係としては終わっています。例えば「小さい子供が親に完全無視されるよりは怒られるほうがまだマシ」という事からもその最悪さは理解できると思います。では、量の次にエネルギーの質(内容)に注目してみましょう。

 ・会社の愚痴ばかり言う夫

 愚痴ってる方はすっきりして、良い心の交流ができたと満足しているかもしれません。妻が「あんた、愚痴ばっかり言ってつまんないよ」と言い返してエネルギーの逆流ができればまだ救いがありますが、逆流ができない場合は、そのまま関係が終わってしまいかねません。エネルギー量の高い側がその関係に対して主導的になりがちですから、高い側から相手に流れていくものの質を検討する必要があります。介護という支援関係があるので、たいていヘルパーさん側が利用者さんよりも高エネルギーです。ですから文脈にもよりますが、ヘルパーさんの愚痴などを利用者さんに聞かせるのはあまり好ましいものではありません。(ヘルパーさんからの流入に対して拒否感があり、一方的に話したり高圧的になる利用者さんもいますが…それは支援の枠組みが合わなかったり、心の置きどころが不安定な方などの場合もあるでしょう)

 

*****【自己点検のポイント】*****

・利用者さんから自分にエネルギーが流れてくるのを感じている?(感じられなければ自分からの量が過大で重いか、過少で利用者さんが冷めている?)

・自分から利用者さんに流れていくエネルギーは好ましい質か?

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紙ふうせんだより 8月号 (2017/09/19)

1945年8月6日 広島

この日の体験として、ある利用者さんが次のようにおっしゃっていました。

「広島一中の生徒だったが、この日、勤労動員で市内の建物疎開に駆り出される事になっていた。しかし、物理の先生が『疎開跡は無防備で空襲があったら危ない』と勤労動員に反対して作業に行かなくて済んだ。そのおかげで我々の学校の2学年だけ原爆から助かった。他の学年や他の学校は、皆市内に動員されていたので殆ど死んでしまった。第一県女は、爆心地近くで作業していたため全滅してしまった。今は石碑が立っている」

この話を伺って、何か記録等があるのではと探したところ、一中生の手記を見つけました。

 

今田耕二さん(広島一中) (朝日新聞 広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ)

当時広島市内にある公私立中学校・女学校・商業学校・工業学校・造船工業学校など各中等学校の事情は、高学年生徒はすべて工場に動員され、学校に残留しているのは二年生以下の低学年で、授業と勤労奉仕の二本立ての生活を送っていた。(略)

 昭和十九年十一月十八日、政府は広島市の建物疎開を指示した。建物疎開の目的は、鉄道線路の空襲からの保護や消防道路を確保することにあった。

 当時、空襲は日増しに激しさを加え、七月までに広島県下では呉・福山を中心に四十回にも及ぶ空襲があった。にも拘わらず広島市だけは小規模な攻撃に止まり、いずれ大々的な空襲があるものと予想され、早く云えば、その際の市中の被害を最小限度に食い止める為、市民を強制的に疎開させ居住家屋を取り壊していたのである。(略)

疎開家屋の解体作業は、軍からもっと急げとの要請で、各種職場からも労力を提供せねばならなくなった。(略)ここは二年生が行けという事だったと聞いている。場所は土橋(どばし)(爆心地より八百メートル)、日取りは八月六日だということ。これは命令であるにも拘わらず我々の引率教官の戸田五郎先生は、八月五日の日曜日(日曜でも私たちは工場で働いていたのだ)に、「明日六日は自宅修練とする」と告げられた。早く言えば、休みである。一方、三年生の引率教官前田先生は命令に従った。この二人の先生の対応の違いが二年生と三年生の運命の明暗を定めるところとなった。(略)以下、先生の手記を借りる。(略)

「彼の私に対する説得が始められた。—–対話は朝方の討論の蒸し返しとなった。—–

『君は非国民だっ!』と顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。—–もはや討議は終わった。私はもう何も言うことはなかった。然し何か云わねばならないような気持に駆り立てられた。

 そして、『明日にでも辞表を出します』と心にもないことを云って仕舞った」

  「私は門を出ると気を引き締めるために深呼吸をした。—–二人は一言も言葉を交わさなかった。

   そして橋の袂で彼は西へ、私は北へ別れて行った」

戸田先生は、このように後味の悪い思いをしながら、前田先生と別れた。

 戸田先生が、命令を敢然と拒否する姿勢を貫いたことには背景がある。いずれ広島に大空襲必至を予想した先生は、対空無防備の建物疎開跡で、もし白昼空襲があったら、百六十人の生徒を自分一人で守りきれないという責任感と管理の限界を懸念しておられたのだ。

 

 

生き残ったものの苦しみ

被災直後から生き残りの人々は、凄惨極まる状況の中で、救護活動や遺体処理を開始します。がむしゃらに体を動かす心の中で自問自答が始まります。「なぜ自分は生き残ったのだろう」「私も死ねたら良かったのに」「死んでいった者に申し訳ない…」等。東日本大震災でも言われていますが、多数の死者の中で生き残ったものは自責の念にかられ、後を追いたい気持ちと戦いながら自分の生き残った意味を求め、苦しみを抱え込むのです。

 

今田耕二さん

兄弟とおぼしき幼児が手をつないだままの黒焦げ死体二体。(紙屋町東角にて) 防火用水にわれがちに頭から突っ込んでいる状態の死体の群。(どこもかしこも随所に、以下同じ) 黒焦げで顔や衣服のわからぬ死体はザラ。死体の大きさ、残ったモンペの切れ端、残った髪の長さから、かろうじて女学生とわかる。死臭は地に満ち、炭化した焼死体、腹が破れて内臓が飛び出した無惨な遺骸、黒焦げ肉片のついた骨などが累々。(略)軍の救護隊に徴用されることになった。(略)炎天下を毎日の軍用トラックに乗って兵隊と市中を廻り、負傷者の収容搬送をするのが仕事である。(略)真夏の太陽に照りつけられた死体にたかるハエと、湧きだしてくるウジと、死臭の凄まじさは何とも表現のすべを知らない。作業中に、よく多くの大人の男女から私の帽子(もちろん戦闘帽である)の校章と「広島一中学徒隊」の認識票をのぞき込まれ、取りすがるように、「うちの息子は一中の何年誰それです、うちの息子を知りませんか」と尋ねられた。なかには、いらだちの余り、「あんたは、なんで助かったんですか、あん時(原爆投下時)どうしとったんですか」と険しい顔でなじるように問われたこともしばしばあった。これには答えるのがつらかった。(略)

 救護の次は広島航空で空き地に穴を掘り、焼け残りの木を集めて火をつけて、露天で死体を焼いた。(略)終わり頃に兵隊から、「何体焼いたか」と聞かれ、約六十体と返事したことを未だに覚えている。

 

葉佐井博巳さん(広島一中) (広島平和文化センター 被爆体験記 死に損なった学年)

被爆当時、私は広島市内にある中学校の2年生でした。多くの犠牲者を出した市内中学校の中で唯一被爆から逃れて、ほぼ全員が生き残る運命となった学年です。(略)生き残った我々は、犠牲となった生徒達に対し申し訳ないとの気持ちからか、原爆のことをお互いあまり語らないできました。(略)

午後になると、トラックに乗せられた負傷者が次々と運ばれてきました。火傷のため皮膚が溶けて痛々しい姿をみて、思わず支えるのを躊躇したのを覚えています。手を離すと彼の皮膚が私の手に着いてきました。

火傷をした人に水を飲ますと死ぬると教えられ、水を欲しがる彼らに、飲ますことも出来なかったことが悔やまれます。彼らは翌朝には殆どの人が息を引き取っていました。(略)

家にいた母と4才の妹は、たまたま家の中にいて熱線から免れ、無事で再会出来ましたが、周囲の状況から、素直には喜べませんでした。直前まで妹と一緒に遊んでいた近所の5才の子は、屋外にいたため即死しました。この女の子には中学生の兄が2人いましたが、下の兄は建物疎開に行き行方不明のままです。上の兄は帰ってはきましたが、全身火傷で、苦しみました。その彼が2日目には軍歌「海ゆかば、水漬く屍、山ゆかば…」と歌い死んでいきました。天皇陛下の為ならこの身はどうなっても悔いません、と言う歌です。その最後を見た私は「これぞ男子の手本である、私もこのようにして死にたい」、と覚悟を新たにしました。これが戦争です。

終戦を迎えて国民に対し、「1人になるまで戦え」といった日本軍は、10日後に降伏しました。何故もっと早く戦争を止めなかったのでしょうか。

その後の日本は戦争を放棄し、争いのない平和な世界を目指すことを始めました。ひたすら戦争に勝つことを信じて死んだ彼らに、今の日本の姿をひと目見せてあげたかったです。

 

原邦彦さん(広島一中) (「ゆうかりの友」はしがき)

生き残った生徒達は、亡くなられた生徒のご遺族にお会いするのがつらくて、常に避ける様にしていたのですが、その生徒達の中からも数年後には死者が出たのです。

被爆して5年後には、生き残りの中から、楠木哲君が出血の止まらない病気のため亡くなり9年6ヶ月後には、広島大学卒業目前にして三谷浩正君が肉腫で亡くなったのです。そして昭和42年2月には、中島清秀君が、妻君と二人の愛児を残して、白血病のため、同級生の医師、寄田亨君にみとられて亡くなりました。

 

 

サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)

これらの事実の重さには“奇跡の生還”などと軽薄には言えません。サバイバーズ・ギルトとは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら助かった人が、周りの人々が亡くなったのに、「自分は生き残ってしまった」としばしば感じる罪悪感のことです。そしてそれは、災害等に限らず近親者の死に直面した時にも起こり得るといいます。

戦争体験者が過酷な記憶を胸に秘めながら生活しているその隣で、私たちも日常を平穏無事に過ごしています。しかし、少し前の歴史に起こった事、世の中のどこかで起こっている事、地球の裏側で起こっている事などを、私たちが何かのきっかけで本当に知ってしまったら、私たちも実は、生きているものは皆「サバイバーズ」なんだと自覚されるでしょう。この自覚は、時に苦しみを伴うがゆえに、私たちはそれらを引き起こす事象を正視しないよう無意識に努め、日常を過ごしています。それはそれで一応良しとしましょう。

 

 

宮澤賢治に見られる、生き残った者の苦しみ

宮澤賢治は、詩『永訣の朝』に見られるように妹トシの看取りに際して、サバイバーズ・ギルトを体験したと思われます。その「生き残った者の苦しみ」の果てに書かれた遺稿の童話『銀河鉄道の夜』には、「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」という、主人公ジョバンニの決意が描かれています。“一緒に進んで行こう”と呼びかけた相手は、今まさに死んでいこうとする親友のカムパネルラでした。

『銀河鉄道の夜』 宮澤賢治

ジョバンニはああと深く息しました。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。

 

この「生き残った者の苦しみ」は、「生きる苦しみ」と同質のものでしょう。賢治の答えは、“苦しみ”を恐れ消滅させようとする事ではなくて、苦しみを携えながら苦しみと共に“一緒に進んで行こう”というものでした。それは、生きているものは全て、実は“死を携えながら生きている” という、命の本当の姿を正視するという事でもあったでしょう。

ジョバンニの言う「ほんとうのさいわい」が“命の本当の姿を正視する”という事であるならば、私たちの介護仕事での経験は「ほんとうのさいわいをさがしに行く」ものではないかと思えてなりません。

 

 

命を正視する仕事

平成29年3月末の被爆者手帳の所持者は全国で16万4621人。毎年9000人を超す方々が亡くなっています(最大は37万2264人/昭和55年)。「ヒバクシャ」という言葉は、2017年7月7日に国連で加盟193カ国中122カ国の賛成で採択された「核兵器禁止条約」に、「ヒバクシャにもたらされた苦痛に留意」として前文に盛り込まれました(日本は反対し採決をボイコット)。この条約は「核兵器の開発・実験・製造・備蓄・移譲・使用及び威嚇」を禁止し、核兵器の存在そのものを違法とするもので、被爆当事者からは「大きな喜びだ」「感無量だ」との声が上がっています。当事者がその時どんな体験をし、どんな気持ちであったかを理解していこうとする事が、歴史を正視するという事にほかなりません。

私たちの介護の仕事は、命を正視する仕事です。8月という日本の節目の月は、戦争を生き残った方や亡くなった方の気持ちに、想いを馳せてみたいと思います。

 

 

広島市ホームページより(抜粋)

月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。

深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。 原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。

 

長崎市平和学習資料「平和ナガサキ」より(抜粋)    (※投下は8月9日午前11時02分)

当時の長崎市の人口はおよそ24万人でしたが、原子爆弾による被害は、次のように推定されています。

死者 7万3884人 負傷者 7万4909人(昭和20年12月末までの推定)

爆心地の近くては、熱線のすさまじいエネルキーによって燃えるものすべてが火をふきました。溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが、その激しさを物語っています。

また、熱線のわずか数秒間の高熱が、人々の皮膚にも浴びせられました。熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらしました。重傷になると、表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出しました。爆心地から1 .2km以内では、熱線だけても致命的で、爆心地付近ではあまリの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発したと考えられています。

 

 

◆サバイバーズ・ギルトへの対応 (YOMIURI ONLINE

(世界保健機関「心理的応急処置」より抜粋)

 ▽ 体験したことを話すように無理強いせず、沈黙を受け入れる。

 ▽ 話を聞いていることが伝わるようにうなずいたり、相づちを打つ。

 ▽ できない約束やうわべだけの気休めを言わない。

 ▽ 気持ちを落ち着かせる手助けをし、一人にしない。

 





 

 

 


紙ふうせんだより 7月号 (2017/09/19)

皆様、いつもありがとうございます。暑さが本番です。脱水・熱中症にはくれぐれもご注意下さい。7月は先祖供養のイベントのお盆でした。お盆は旧暦の7月15日に行われていたもので、地方では旧暦にならって8月15日に行うところが多いようです。


いずれご先祖様になる その「死」は誰のもの?

日本の農村を取材した外国のドキュメンタリーを見て、印象的な場面がありました。おばあさんが「いずれご先祖様になる」と穏やかにその希望を語っていた言葉の英訳は、“私は神様になる”でした。ご先祖様の訳語が欧米には無いんですね。日本人にとっても“ご先祖様”は人によって感じ方が異なるものですが、このような方にとって「死」は、ご先祖様になる事によって、子孫から大切にされ子孫を温かく見守る存在となる事なのです。一方、欧米にはキリスト教文化があり「死」は天国への旅立ちです。しかし洋の東西問わず「死」が恐れられているような状況について、アメリカのホスピスで音楽療法士をしている佐藤由美子さんは、『死と向き合ったとき人間が最も恐れるものは、「死」そのものではなく、死に至るまでの「過程」である場合が多いのだ。』として、誰に「尊厳」あるのかを問うています。

 

死に逝く人は「死」を恐れない? 彼らが本当に恐れていること       佐藤由美子

末期の病気の人たちにとって、死は必ずしも避けたいことではなく、待ち望んでいる変化(transition)となることもある。しかし、日本国内では、望まない延命治療を施されている末期の患者さんが驚くほど多い。胃ろうや過激な点滴などのさまざまな延命治療は、彼らが苦しむ時間を引き延ばしているに過ぎない。終末期の問題を語るとき、欧米人と日本人は死生観が違う、という点が必ずと言っていいほど話題になる。欧米人はクリスチャンで天国を信じているから、死に対する考えが違うのだ、と。

でもそれは、あくまでも表面的なことだ。死生観がどうであれ、大切な人を失うということは、人生において最もつらいことであり、喪失(グリーフ)による苦悩は人類共通である。

違いはむしろ、誰に尊厳があるかという点だ。欧米の医療では、何よりも患者さん本人の尊厳を重んじる。たとえ家族がそれを望んだとしても、末期の患者さんの命を、彼らが望まないかたちの延命治療で引き延ばすことは、非人道的・非倫理的である、と考えるのだ。

愛する人に「1日でも長く生きて欲しい」と思う気持ちは自然なことだが、「もう逝っていいよ」と言って見送ってあげること。これも遺される家族にできる最期の愛情の表現ではないだろうか。

 

 

死に至るまでの過程 「クオリティ・オブ・デス」を考える

死にゆく「過程」での悩みについて、順天堂大学で「がん哲学外来」を開設している樋野興夫さんは、それを「後悔」としています。「死」を意識した事によって『それまで見ないふりをしてきた問題が顕在化する』するというのです。そして、『「病気になんかなって、自分の人生は一体何だったのだ」と後悔している人たち』の中にある比較してしまう心の癖に焦点をあて、『自分の人生に意味が見出せないのは、いつも他人と比べているから』であり、『自分を認めることが、人生を肯定して後悔を残さないための第一歩』だとし、『死とはどういうものなのか、自分がどう死んでいきたいのかが決まっていれば、いざというときに慌てずにすみます。』と、自身の「クオリティ・オブ・デス」について考える事を勧めています。

 

人はなぜ、死が迫ると過去を悔やんでしまうのか       樋野興夫(PRESIDENT Online

死を意識した人たちの悩みは、病気によってもたらされたものばかりではありません。どちらかといえば、それまで見ないふりをしてきた問題が顕在化すると思ったほうがいいでしょう。死を意識すると、自然と感情の襞が繊細になり、いろいろなことが目に付くようになるのです。

がんになったある男性は、妻ときちんとコミュニケーションをとってこなかったことを後悔していました。病気になって仕事を休むと、家にずっといることになります。そんなとき、夫婦関係がうまくいっていないと、30分同じ空間にいるだけでも苦痛に感じるのです。(略)

世代や性別に関係なく、自分には生きがいがない、居場所がないと感じている人が非常に多いのです。ですが、そう感じている人が怠惰で自堕落な人生を送ってきたかといえば、そうではありません。一生懸命働いて、家庭でも自分の義務を果たしてきた人がほとんどです。それなのに自分の人生に意味が見出せないのは、いつも他人と比べているからです。

人間は、価値を確認するために何かと比較する癖がついています。ですが、人生においてそれは意味のないことです。どんな人生にも意味があるし、等しく素晴らしい。誰にでも、天から定められた使命や役割があります。それが世界中から認められるような偉業だとは限りません。誰かの父として、母としての役割もあるでしょう。つまり、「社長」「役員」などの肩書を取り払って、自分を認めることが、人生を肯定して後悔を残さないための第一歩なのです。

 

 

比較しない事 命のありのままを肯定する事

「比較しない事」の大切さは、子育てや教育や障害者支援でも言われています。比較された側が委縮してかえって可能性を狭めてしまう事があるからです。障害のある子どもの親には、障害を克服したいという切実な願いがあるがゆえに、他の子と比べてしまう事もあるでしょう。そんな“焦り”を防ぐために障害者支援では、障害はその子の「個性」と言ったりしています。「個性」とはその人自身「個」が持つ性分です。その人自身を尊重するという事は、「障害」はその人自身の一部としてきちんと向き合う必要があり、「障害」そのものをネガティブに考えたり、「障害」持つことを理由に、何かを排除しようとしてはならないのです。

さて、先ほどの文の「障害」を「老・病・死」と置き換えてみましょう。すると、過度な延命治療は「死」を排除しようとするものであり、病気による後悔は、「病気」を否定しようとするあまり、病気の「自身」を否定してしまっている事だと理解されてくると思います。

 

 

与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました

小林麻央さんは、癌に侵されるなかで、『病のイメージをもたれること』を『怖れ』るあまり『周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。』と述べています。そして、自分の理想の生き方『理想の母親像』が全く出来なくなった事に苦しみました。それは過去の自分と病を持った自分を比較し、現在の自分に『「失格」の烙印』を押し、自分を苦しめてしまう事でした。

しかし、『なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。だって、人生は一度きりだから。』と、病状を公開します。それは麻央さん自身が、自身の尊厳を取り戻した瞬間でした。

麻央さんの中で灯った尊厳の光は、多くの人をこれからも励まし続けることでしょう。

 

**小林麻央さんがBBCに寄稿した文(抜粋)**

「がんの陰に隠れないで!」

私は気がつきました。

元の自分に戻りたいと思っていながら、

私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とは

かけ離れた自分になってしまっていたことに。

何かの罰で病気になったわけでもないのに、

私は自分自身を責め、それまでと同じように

生活できないことに、「失格」の烙印を押し、

苦しみの陰に隠れ続けていたのです。

(略)

自分の心身を苦しめたまでの

こだわりは

失ってみると、

それほどの犠牲をはたく意味のある

こだわり(理想)ではなかったことに

気付きました。

そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、

私を妻として、母として、以前と同じく、

認め、信じ、愛してくれていました。

 

 

【紙面研修】

介護保険どうやって使うの?と相談されたら…

【介護保険を利用したいけど、どうしたら良いの?】

介護保険の利用対象者は、65歳以上の高齢者(第1号被保険者)か、40歳から64歳の16の特定疾病のある方(第2号被保険者)が対象となっています。介護保険を利用開始するためには、介護認定を受けなければいけません。介護認定とは、介護の“必要度”の目安となる「要介護度」を決定する事です。「要介護度」とは、軽い方から順に「要支援1・2」と「要介護1~5」の七段階あります。介護認定を受けるためには、区市町村に申請して「認定調査」を受ける必要があります。「認定調査」では、認定調査員よりさまざまな質問があり、日常生活や心身状況を確認します。そのデータをもとに、コンピューター判定と審査会(人による判定)があり、介護度が決定します。介護度が決定すると「介護保険被保険者証」が郵送されてきます。また、介護保険が使える「認定有効期間」は「認定調査」を申請した日にさかのぼりますので、初めて介護保険を使う時は、認定調査を申請した日より“暫定”でサービスを利用できる場合があります。

【どこに相談すればいいの?】

介護保険の申請は区市町村に行いますので、世田谷区でも相談に乗ってくれますが、そもそも“介護を受けたい”という方やその配偶者にとって申請等は大変なものです。ですから各地域に行政の出先機関として「地域包括支援センター」(区内27か所)があります。地域包括支援センターに相談すると、介護保険のサービス利用のレールを敷いてくれます

【地域包括支援センターに相談した後はどうなるの?】

その地域包括支援センターがそのまま担当する場合と、居宅介護支援事業所(民間企業)の“ケアマネージャー”を紹介される場合があります。ここで言う「担当」とは「ケアプラン」を作成する事です。ケアプランの作成は、地域包括支援センターが「要支援」を担当する役割分担になっていますので、ケアマネージャーが紹介された場合は「要介護」の可能性もあります。いずれにしても、担当になった方が介護保険の申請等を代行してくれます。

なお、地域包括支援センターはその地域の介護問題を包括的に対応する機関で、さまざまな業務を行っています。また、最初から居宅介護支援事業所に直接相談しても構いません。

【ケアプランって何?】

ケアプランとは、介護保険サービスを利用するための計画書で、正式には「居宅介護支援計画書」と言います。これは、公的サービスである介護保険を利用する法的根拠となります。ですから、ケアプランに記載の無いサービスは受ける事ができません。また、ケアプランを作成するケアマネージャー(正式には、介護支援専門員)が、介護の上で一番の相談相手となります。「不安なこと」や「どんな生活をしたいか」「これからどうしたいか」などのイメージをケアマネージャーにしっかりと伝える事によって、サービス事業者の選定も含め、自分に合ったケアプランを具体的に作成してもらう事ができます。自分の想いを伝える事が、サービス利用者の1番の仕事とお考え下さい。

【ケアマネージャーとの関係は?】

担当のケアマネージャーが自分に合わなかった場合は、ケアマネージャーを替える事ができます。介護保険制度の利用は全て、事業者とサービス利用者の契約に基づく合意が基礎となりますから、不必要なサービスも断る事ができますし、自分で事業者を選ぶ事もできます。ただ、ご一考いただきたいのは、人間関係はお互い様ですから、ケアマネージャーが自分の意向を聞いてくれないと感じる場合、ケアマネージャー側も“利用者さんが介護保険制度や介護生活に必要な注意等から外れようとして困っている”という場合もあります。


紙ふうせんだより 6月号 (2017/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。梅雨ですね。食品を出しっぱなしにしている利用者さんはいませんか? 食中毒のへの注意喚起をお願いします。また、雨天時の転倒には注意して下さい。交差点前では自転車は減速。段差の乗り越えは無理しない。階段等でのながら歩きはしない。事故にはくれぐれもご注意下さい。

 

その方を形作った体験を聞きたい


利用者さんの昔話を聞く事が、仕事のやりがいになっているというヘルパーさんは、とても多いと思います。できれば、その人の人生の原体験に迫るような話も聞きたいですよね。私は次のように話の導入をします。

「○○さん、生まれは何年ですか?」

「そうすると終戦時は□歳くらいですね」

「すると△△を体験している世代ですよね?」

この△△がポイントです。利用者さんの世代が共有しているような歴史的な出来事を、名前だけでも知っていれば話題のきっかけができます。自分自身の切実な体験を人に話をした時に、「ふーん…」という薄い反応しか返ってこなかったら、利用者さんは辛くなります。だから利用者さんは、話をして良い相手かを見ています。△△をヘルパーさんが知っていれば、利用者さんは安心して話す事ができます。もちろん、自分自身の青少年期の話をしたくない利用者さんもいます。その時代が、日本国民に(周辺諸国民にも)大日本帝国政府が、塗炭の苦しみを強いた時代だったからです。△△の話題を利用者さんに振っても反応が薄ければ、この話題は終わりです。多くの方の共通項の一つの△△に、「学徒動員」があります。

 

 

利用者さんの生きた時代背景を知る

利用者さんの戦争体験を伺うと、従軍した経験はほとんど聞かれなくなってきました。その世代の多くが鬼籍に入ってしまったのです。今聞くことができる話は、学徒動員の話が主です。第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に学徒勤労動員されました。

 

【ある利用者さんの話①】

私はね、学徒動員で無線を作ってたんですよ。それである意味、東條首相に命を救われましてね。大学生も徴兵されるようになった時(1943年10月)、理系の学生は兵器開発のために徴兵猶予されてね。それで、戦争に勝つために無線の誘導装置を開発していた。当時、B29は無線誘導で夜間でも視界が無くても日本を爆撃できた。一方で日本の飛行機は、経験の未熟なやっと操縦ができるくらいの若者が乗って、有視界飛行で島伝いに南の島の米軍基地を目指した。でも、途中で迷ってしまって、燃料切れでほとんどが海に落ちてしまった。ようやくたどり着いて爆弾を1個落としても帰りの燃料が無い特攻作戦。それを、奴さんたちチューインガム噛みながら、ブルドーザーで滑走路を数時間で直してしまうんだよ。日本じゃ“もっこ”かついで数日かかるのにね。これじゃあ勝つわけないよ。

【ある利用者さんの話②】

学徒動員されて立川の工場で飛行機を作っていた。米軍の爆撃があってその度に防空壕に入った。一度外で作業していた時に、突然飛行機がやってきて機銃掃射を受けた。走って2メートルくらいの川に飛び込んで頭まで潜って命は助かったけど、逃げ遅れた友人は死んでしまった。トラックの荷台に乗せられて移動している時に、被弾した飛行機から落下傘で米兵が降りてきたのを見た事がある。人が集まって来て寄ってたかってその米兵をなぶり殺しにしてしまった。惨いものだった。

 

 

前へ倣え!なおれ!右向け右!

学徒動員は1938年から部分的に始まっていますが、1943年6月に「学徒戦時動員体制確立要綱」が東條内閣によって閣議決定されてから、学徒動員は通年行われる“強制労働”と化していきます。閣議決定で興味深いのは、「教育錬成の一環」として“労働”が“教育”とされた事でしょう。教育勅語によって定められた教育の目的は子供自身の未来のためではなく、国難があれば国家に命をささげる「臣民」の育成にありました。だから学校教育は軍隊を模しており、命令に絶対服従の人間を育てる“強制”が“教育”で、軍事教練も“義務教育”でした。「愛国心」も当然義務、「学徒尽忠の至誠を傾け」に少しでも意見を言えば治安を乱そうとしている“疑い”で事情聴取の名目で連行しリンチを加え、拷問による自白強要・殺人もありました。これらは普遍的な人権意識からは「人権侵害」です。しかし当時の政府には大日本帝国憲法や法令という錦の御旗がありましたので、何の痛痒もなく「法令に基づいて粛々と進めており、そのような指摘は全く当たらない」等と言うことができました。

 

「学徒戦時動員体制確立要綱」  昭和18年6月25日 閣議決定

第一 方針

大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環として学徒の戦時動員体制を確立し、学徒をして有事即応の態勢たらしむると共に、之が勤労動員を強化して学徒尽忠の至誠を傾け、其の総力を戦力増強に結集せしめんとす。        (カタカナをひらがな表記とし、適宜句読点を加えた)

 

 

利用者さんの生きた歴史を継承する

利用者さんの話をうかがう時、なんとなく聞いている時もあるでしょう。しかし、その時代背景を少しでも知っていると、一人の人間や社会がたどってきた道筋を立体的に見る事ができます。そこから、そこにある因果関係の連鎖に気が付く事を、大げさに言えば「歴史に学ぶ」と言えるのではないでしょうか。「歴史に学ぶ」本質は、「失敗に学ぶ事」とよく言われています。個人も社会も自己批判的に振り返った時、失敗の無い事などありません。歴史に親しむ事は、同じ過ちを繰り返す前に立ち止まって考える力となります。

 介護をしていくなかで、私自身も多くの「恥ずかしい失敗」や「悔やまれる失敗」をしてきました。その失敗によって私が形作られていると言っても過言ではありません。あの時は「自分が絶対に正しい」と思った事でも、経験の蓄積や視野の拡がりによって「実は失敗だった」と考えが変わる事もあります。大切なのは、失敗の無い事ではなく、失敗から何を学ぶのかという事です。利用者さんとの関わり合いで上手くいかなった時、その方を取り巻く環境や歴史的背景、そして自身の置かれている環境や自分の心の歴史など、出来るだけ多くを立体的に見ようとすると、進むべき方向性が見えてくるのではないかと思います。そのような学びの営みは、利用者さんの生きた歴史を、自らの血肉として継承する事となるでしょう。これこそが、介護の仕事の本当のやりがいとなるのではないでしょうか。

 

★震災に備える★

【震災時に使える簡易トイレの作り方】

震災時は断水となるのでトイレを流す事ができなくなります。

便器に2重にビニール袋を設置し、中に吸収材を入れる


◎吸収剤について

震災時の非常用トイレ用として、紙オムツ素材の袋状のもの、粉状、タブレット状のものなど多数商品がありますが、機能性とコストでは大人用紙オムツ(テープ式)か、夜間用の大きい尿取りパット(小さめの尿取りパットを重ねても良い)が一番手軽で安くて確実

考え方はポータブルトイレと同じですね。介護職の経験が活きてきます。袋を二重にするのは、中のビニール袋の外側を濡らさないようにするためです。吸収剤は、何も用意していないような時は、新聞紙を拡げて入れ、つぎに細かくちぎった新聞紙を入れておきます。催したあとは、あれば消臭剤(ファブリーズ等)を吹きかけましょう。(お風呂に水を溜めておけば、その水で水洗トイレを流す事ができます。)

 

【震災時に力を発揮する介護職】

いま、震災時に行政で一番の課題として考えられているのは、災害弱者に対してどのように支援するかという事です。つまり私たちが関わっている要支援・要介護の方々です。私たちはその方々の身体的な問題や、日常生活の課題を良く知っています。例えば、週に2回の買い物で1週間の食糧を確保しているような方には、どのような買い置きが必要かなどを知っています。その延長線上で発想を膨らませていけば良いのです。ガスも電気も使えなくなるので、LEDの懐中電灯が複数個とカセットコンロとボンベ、飲料水の買い置き、常温保存の利くレトルト食品などは、必須です。利用者さんに声掛けし、それらを少しずつ日常の買い物付け加えていく事ができれば良いでしょう。

あとは、震災の初動?としては、家具の転倒に巻き込まれない事です。

 

【世田谷区の家具転倒防止器具の取付け支援

高齢者・障害者等の住宅の家具について、地震時の転倒を防ぐため区では家具転倒防止器具の取付を支援しています。申請後、区が委託する器具取付事業者が見積調査に伺い、後日器具を持参して取付けます。取付費用の2万円までは、世田谷区より助成。2万円を超える部分を器具取付事業者に直接支払います。



 



 



 

 

 

 

 


紙ふうせんだより 3月号 (2017/04/14)

 

桜が咲きました。皆様、いつもありがとうございます。生まれ出ずる力を象徴するような桜の花を見ると、何か新しい出会いがそこにあるのではないかと思え、気分も昂揚します。

出会いから生まれる奇跡

自分の人生が変わるような出会いが人には何度か訪れます。自分の生活の一部と誰かの生活の一部が重なった時、その出会いが運命的に決められた必然であったかのように突然意味を持ちます。自分の今までの歩みが、まさにその出会いに至るための唯一の細い道のりとして選びとられた軌跡のように感じられ、紡がれた糸のように誰かの糸と交錯していくのです。

1887年3月3日、一つの奇跡的な出会いがありました。“三重苦”(見えない・聞こえない・しゃべれない)として知られるヘレン・ケラーはこのとき7歳、アニー・サリヴァン先生は21才。この出会いは、障害者を孤独の中に閉じ込めていた偏見を打ち破り、それぞれが自分の道を自分で選び歩む旅路の出発点でもありました。この日の事をヘレンは終生「わたしの魂の誕生日」と呼んでいます。

この3月3日は、二人の出会いのきっかけを作り、良き友人として二人を生涯支え続けた“電話の父”と呼ばれるアレグサンダー・グレアム・ベルの誕生日でもあります。ベルは電話の発明だけが取り上げられる事を嫌っていました。ベルは「聴覚障害者の教師」を一生の仕事として誇りを持っていたのです。(聴覚障害者のコミュニケーション方法の研究から音の性質について理解し電話の着想を得ていたベルは1876年3日10日に電話による史上初の通話を行った。)そして、

ヘレン、アニー、ベルの出会いは、障害者教育の可能性を切り開いて切り拓いていくのです

皆さんは海で濃い霧に閉ざされたことがおありでしようか。白い闇にとじこめられ、方角も港がどこにあるのかもわからない船が鉛の重りを海に投げては深さを測り、手探りで進んでいく、あの時の不安な気持ちをご存じでしょうか。

先生の教育が始まる前の私は、まるでそのようなものでした。私には、羅針盤、深さを測る鉛もなく、どこに港があるかもわかりようかありません。ただ、「光を、光をください。と、声にならない叫びをさけび続けていたのでした。しかし、その時すでに、光は私の上に注がれていたのです。私は、近づく足音を感じました。母だと思って、手をさしのべました。誰かがその手を取り、抱き上げ、胸の中に、強く抱きしめてくれました。その方こそ、わたしの心の目をひらくために、わたしを愛するためにきてくださった先生だったのです

(「ヘレン=ケラー自伝」)

人間が人間らしく生きていくには、人とのふれあい、コミュニケーションがなくてはなりません。音のない闇の中でもがいていたヘレンを、知性と人間愛にみちた世界に引きだしたのはアニー・サリヴァンでした。そして、アニーが無限の忍耐を必要とするこの仕事をなし遂げた陰には、ベルのはげましと信頼がありました。ベルは終生、障害者と健常者のあいだにバリアがあってはならない、と主張していましたが、バリアフリーの生き方を身をもってつらぬいたのがヘレンでした。〈奇蹟の人〉と珍しがられながらも、世間の弱者蔑視の壁にたびたび行く手をさえぎられるヘレンを、ベルは折にふれてはげましました。「できると思うことは、どんなことでもできるものだ。きみから勇気をもらう人が大勢いる。それを忘れちゃいけない」

この三人は運命的な出会いをはたし、支えあい、 触発しあって生き、それぞれの仕事によって人間のコミュニケーションの可能生を大きく広げ、さらにバリアのない、だれもがより人間らしく生きる社会の実現を後世に託して去っていきました。 (「ヘレン・ケラーを支えた電話の父・ベル博士」片山しのぶ訳)

ノーマライゼーションの先駆者として

1950年代のデンマークで生まれた「ノーマライゼーション」という理念は、障害者と高齢者・健常者が分け隔てなく同じように社会参加していこうというものです。

その理念の誕生よりも50年以上も前、多くの人の疑問の声を振り払ってヘレンとアニーはラドクリフ大学(ハーバード大学の女子部)への進学を決意、ヘレンは見事に点字での入試に合格。ラドクリフ大学は当時ヘレンの入学を快く思っていませんでした。講義ではアニーが付き添い教授の話を指文字でヘレンに伝え、毎夜ヘレンは記憶をたどって内容を点字タイプライターでまとめました。視覚障害者のアニーは弱視の悪化に苦しみながらも、毎日の課題の本をヘレンに夜通し指文字で読んで聞かせ、教科書の点字訳もアニーやヘレンの友人たちが引き受けました。二人の命を削るような努力があってヘレンは優等賞で卒業。証書授与式で檀上に上がった二人には万雷の拍手が鳴りやみませんでした。アニーの献身をたたえ「大学はサリバン先生にも学位をあげるのが当然ではないか」との声もあがりました。

卒業が間近に迫っていた頃、ベルはヘレンに語っています。「いいかい、ヘレン。自分を一つの型にはめてしまってはいけないんだよ。本を書くのもいいだろう。演説してまわるのもいいだろう。何かを研究するのもいいと思う。できるだけ多くの仕事をすれば、それだけ、世の中にいる目の見えない人や、耳の聞こえない人を助けることになるのだよ。」

聴覚や視覚に障害をもつ人が健常者と同じ公立学校に通学できる事を理想とし、実際に私立学校を設立するなどの活動をしていたベルにとって、ヘレンの大学入学と卒業はその理想の証明と勝利であり、大きな喜びと勇気となりました。

ノーマライゼーションは誰のため

ノーマライゼーションは障害者のためのものではありません。多様性あふれる豊かな社会で生きたいという全ての人のためであり、自分の多様な可能性を拡げていく上で何よりも自分自身のためなのです。ベルがヘレンに「きみから勇気をもらう人が大勢いる」と言ったように、私たちもたくさんの利用者さんと出会い、元気や勇気をたくさん貰っています。同じように介護は利用者さんのためだけのものではなく、私たち自身のためではないでしょうか。

4月からは新年度です。単に仕事として介護をするだけでなく、「自分の人生をどのように自分は生きるのか」という自分自身への問いかけや、この仕事と自分の関わり等を考えながら、春という出会いの季節に新しい出発をしていきたいと思います

ヘレン・ケラーの言葉

ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。あきらめずにいれば、あなたが望む、どんなことだってできるものです。第六感は誰にもあります。それは心の感覚で、見る、聴く、感じることがいっぺんにできるのです。ベストを尽くしてみると、あなたの人生にも他人の人生にも思いがけない奇跡が起こるかもしれません。世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。


紙ふうせんだより 2月号 (2017/04/14)

皆様、いつもありがとうございます。今年は大雪が無くホッとしています。南風が吹く日は自転車を飛ばすと暑いくらいで、桜の開花が待ち遠しいですね。くれぐれも油断なく体調や自転車移動にご注意下さい。

変化を受け入れなければならない時

花芽の殻が割れ落ちて花が咲き、やがてその花も落ちると今度は新緑がでてきます。わずかばかりの間に桜は変身を遂げていきます。そのドラマをつぶさに見ると、次の衣をまとうために、古い衣を脱ぎ捨てていくのです。脱ぎ捨てる事は、痛みでしょうか。花芽の殻や、花にとって散っていく事は痛みかもしれません。しかし、生命の全体としての桜の木を見ると、それは痛みではなくなります。それは、誰でもなのです。

3.11の痛み

昨年の1月下旬、「呼び覚まされる霊性の震災学 3.11生と死のはざまで」(新曜社)という本が話題を呼びました。第一章は「死者たちが通う街 タクシードライバーの幽霊現象」。東北学院大学の金菱ゼミの学生が、被災者等から聞いた事を論文としてまとめています。

また、NHKスペシャルでは2013年夏に「亡き人との“再会”~被災地三度目の夏に~」を放映。『被災地では今、「故人と夢で再会した」「気配を感じた」など「死者との対話」体験を語る人が後を絶たない。残された者の悲しみの深さの現れであるとともに、その体験が、その後の生き方にまで影響を与える事実が分かってきた。最新医学でも、これらの体験は、大切な「回復プロセス」だと分析され、被災地では実態調査も始まった。』という番組です。

オカルト的な“幽霊”という言葉に、唐突さと戸惑いを感じる方も多いでしょう。金菱ゼミの工藤優花さんは、聞き取りを重ねる中で、次のように怒られた事もあるそうです。

「きみは大事な人を亡くしたことがあるかい? 人は亡くなると、眠っているように見えるんだ。あのとき、こうすれば良かったと後悔する。亡くなっても、会いに来てくれたら嬉しいんじゃないかな」「私が『幽霊』というと、そんな風に言うなと怒る方がいました。きっと、『幽霊』という言葉に興味本位だと思われる響きがあったからでしょう。怪奇現象とか、心霊写真とか恐怖を楽しむような言葉だと思われてしまった。『亡くなられた方』とか『(亡くなった方の)魂』というと、お話してもらえました」(工藤優花さんへのインタビュー記事/BuzzFeed)

私がここで“幽霊”の話を持ち出したのは、もちろん興味本位ではありません。それが、受け入れがたい痛みの大切な「受容のプロセス」だと考えるからです。

「巡回してたら、真冬の格好の女の子を見つけてね」。13年の8月くらいの深夜、タクシー回送中に手を挙げている人を発見し、タクシーを歩道につけると、小さな小学生くらいの女の子が季節外れのコート、帽子、マフラー、ブーツなどを着て立っていた。

時間も深夜だったので、とても不審に思い、「お嬢さん、お母さんとお父さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と女の子は返答をしてきたとのこと。迷子なのだと思い、家まで送ってあげようと家の場所を尋ねると、答えてきたのでその付近まで乗せていくと、「おじちゃんありがとう」と言ってタクシーを降りたと持ったら、その瞬間に姿を消した。

確かに会話をし、女の子が降りるときも手を取ってあげて触れたのに、突如消えるようにスーっと姿を消した。                      (新曜社「呼び覚まされる霊性の震災学」より)

受容のプロセス、痛みの昇華

私たちが介護する方々も、心の痛みを抱えている方は多くいます痛みの受容が行われる時、痛みに囚われて身動きができなかったり自分を見失っている状況から抜け出ようと、心は記憶の再評価を試みます。「××だったけど、本当は〇〇ではなかったか…」というように、心は過去から新しい意味を汲む事によって、未来へとつながる自分の“物語”を紡ぐのです。心は“物語”を紡ぐ事によって痛みの意味を見出し、昇華した痛みは心の発展に寄与するのです。そのような“物語”の一つとして、被災地の“幽霊話”は心理的な意味があるのです。その“幽霊”が実在するかしないか、“科学的”な客観性や立証性などの議論は、受容のプロセスにとって、あまり意味がありません。大切な事は、そのことが当事者にとってリアルに感じられ、心が変容していく事です

「被災地の人は恐怖、不安、悲しみ、帰ってきて欲しいという気持ちなど色々な感情をもっている。心の中で処理しきれない非常に多くの感情が霊の投影という形で現れたと考えることができます」「(被災後の)色々な感情は溜め込んでいられなく、表現していかないといけない。現実に適応していくために、前に進むために必要だから、起きていることでしょう」

(心理カウンセラー池田宏治氏へのインタビュー記事/AFP)

例えば、最愛の夫を亡くした妻の話。自暴自棄に陥り、死にたいと思う毎日。車で自損の重傷事故を起こしたりもした。ある時、夫の霊に会う。見守られている感覚が芽生え、お父ちゃんと一緒に生きようと思い直した。私はとても感動した。他にも犠牲者の霊の存在を感じ、生きる勇気をもらう話が多かった」

(ジャーナリスト奥野修司氏へのインタビュー記事/河北新報)

物語を生きる

私たちが介護する方々も自分の“物語”を持って生きています。その“物語”は、理想的なものではないかもしれません。物語られるものごとは、(関わる側がストレスの溜まってしまう例としては)“被害妄想”や“アルコール依存”だったり、“過去の恨み節”など、さまざまな“事件”であったりします。また、話の中には多分に事実誤認や誇大表現を含んでいます。

しかし、だからと言って誰が正しくて誰が間違っているとか、その“物語”が無意味なものであるとは、誰にも言えないのです。私たちの人生全体を眺めて、人生の目的を「自己実現」や「本当の自分を見出していく」事と仮定した時、それが、自分を取り戻し自分らしく死んでいくために、「前に進むために、必要だから起きている事」では無いと、誰が断言できるでしょうか。

それらの“物語”に付き合っていく事は、当事者のヘルパーさんにとって、時にストレスとなるでしょう。そのストレスは、事務所での懇談等で軽口でも叩いて吐き出してください。そして実際の現場での応答では、状況の発展のために多様性が必要ですが、心は「受容」の一言に尽きます。その受容の大変さが、本人自身が持つ痛みの受容の大変さでもあるのです。私たちの受容が、利用者さんの痛みの受容となり、そして自己受容から自己変容へと変わっていくのです。桜の花が散るのは淋しいけれど、それは自然の摂理です。同じように癒えぬ苦しみは無いという事も自然の摂理なのです。痛みに苦しんでいる本人が今は信じようとしなくても、私たちは「冬は必ず春となる」と訴え続けたいと思います。それこそが、受容するという事なのだと思います。


紙ふうせんだより 1月号 (2017/04/14)

皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。年末年始から救急搬送が相次ぎ、せわしない年越しとなってしまいました。ヘルパーの皆様は体調を崩されていませんか? 疲れをしっかりとって、体調を維持されてください。

新年を迎える事は目標を立てて決意を新たにする良い機会ですね。しかし年を重ねるごとにタイムリミットが迫ってくるのも現実で、「来年の正月は生きていないよ」などと言われる利用者さんもいます。時間の流れは全てに対して等しく、その寿命の長短の多少はある程度あるにせよ、全てを死へと向かわせます。その流れのあまりの速さに驚いた言葉が「光陰矢の如し」です。

過ぎ行く瞬間をどうやって充実させていくか

「光陰矢の如し」の「光」は太陽「陰」は月を意味し、「光陰」と重ねる事で歳月や時間の積み重ねを表し、月日の過ぎるのは矢が飛んで行くように速いと譬えています。事務所にいるサービス提供責任者は、私含めこれを毎月実感し嘆いています。毎月10日までの国保連請求業務が、「この前終わったばかになのに、もう翌月!?」と嘆きながら日々を過ごしています。これを12回繰り返すと1年です。サービス提供責任者に限らず「速いわね~」と年末には多くの方が挨拶したかと思います。

「光陰矢の如し」は時間の速さを嘆くばかりの言葉ではありません。日々を無為に送ってはならないという戒めと共に、その過ぎ行く瞬間瞬間をどうやって充実させていくか、という問いが含まれています。この問いは、すぐに介護の仕事と結びつきます。

マンネリになりがちな訪問サービス、型どおりの内容と会話をして毎回終わっているうちに、気が付けばタイムリミットが迫っているかもしれません。私自身の反省を込めて書きますが、自分自身をときどき振り返る事が大切でしょう。もっと良いやり方はないか、もっと良い声掛けはどうしたら良いか…。利用者さんや周囲から「教わる」だけではなく、積極的に自分から働きかけ「学ぶ」のです。そこから学ぶべき事は何か、結局は、学ぶべき事は多く尽きないとなってくるでしょう。その学びの積み重ねも、学びを感じている瞬間の実感も、どちらも充実した生につながるのではないでしょうか。

人生は学ぶにあり

死の瞬間に自らの人生で得たかった事を振り返ってみる空想を私はしてみます。得たかったものを“愛情”などの精神的なもの入れて考えると、“愛情を学ぶ”というような言い回しもできるわけで、「学ぶ」という言葉に私の中では集約されていきます。もし私が死ぬ時、金や名誉は手にしていても充実を感じられる学びがなかったら、命や人生について何かしらの学びや考えを得ないでいたら、「私の得たかったものはこれじゃない」と感じると思うのです。だから「人生は学ぶにあり」と言えるのではないかと思います。では、どうやって「学ぶ」事ができるのか考えてみましょう。

多くを問う者は多くを学ぶ

確かに「少年老い易く学成り難し」と言うように、学校に通って勉強する事は老いては難しいかもしれません。しかし、学ぶ事はできるはずです。寝たきりになっても、ヘルパーさんとの交流の中で、ヘルパーさんがどんな気持ちかを考えてみたり、どうやったら自分の気持ちをヘルパーさんに伝えられるか、などを考えていく事は学びとなっていくでしょう。また、自分の今までの在り方を振り返っていく事も自身に対する学びとなっていくでしょう。このような事は、論理的な思考のみが可能とするものではなく、感じていく力も大切になっていきますから、認知症の方も学んでいけると私は考えたいと思います。学んだ事を言葉や論理として記憶できなくても、感情としての心の働きの積み重ねはあるのですから。

さて、「多くを問う者は多くを学ぶ」とはイギリスのことわざです。「どうしたら」とか「なぜ」など、問う事こそが学びの原動力です。では、どうしたら良い「問い」の視点を持つ事ができるのでしょうか。「問い」には良い悪いがあるのです。例を示してみます。

A 今までに対する非難を込めて、「なぜ、あの人は優しくないんだろう」

B これからの変化を期待して、「どうやったら、あの人は優しい気持ちになるだろう」

“あの人”にとって、どちらの問いかけが良いか悪いかは何とも言えませんが、この「問い」を発する人にとってどちらがより「学び」となるかは、Bと言えるでしょう。それは、Bの問いには将来の展望があり、そこには自身の態度への問いも含まれているからです。追うべきは自身の頭の上の蠅であり、常に「将来を指向した問い」を持つ事が大切なのです。

人生の本舞台は常に将来に有り

大正デモクラシーの核心である普選(フセン=普通選挙)運動を指導し“憲政の神様”と称賛された政治家・尾崎行雄は1919年(大正8)、第一次世界大戦直後の欧米を視察し悲惨な戦禍を目の当たりにして、国益があるならば戦争も辞さない国家主義的なところを持っていた自身を改めて、平和主義を唱え始めます。61歳の大転換です。不戦(フセン=戦争反対)を唱えたため命を狙われる事が幾度もありました。

「人生の本舞台は常に将来に有り」との言葉は、75歳の時に病床にあった尾崎行雄に、天啓のように浮かんだといいます。その後、軍部政治や近衛内閣の大政翼賛会、東条内閣などを、「万機公論ニ決スベシ」という明治憲法の理念をも守らない憲法違反の独裁政治であると痛烈に批判。尾崎行雄の信念は「世人の幸福を増す言行はみな善事 減らす言行はみな悪事」という判断基準でした。戦後、1945年12月には「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出。世界憲法を創り国際紛争を国際裁判で解決する事を提案しています。また、「新憲法こそは、日本の前途をてらす光明である。新日本を祝福する天来の福音である」「こんな高い代償をはらった憲法はあるまい。ただでもらったなどと思ったら、ばちがあたる」と述べています。94歳まで衆議院議員を務めており、この時「人生の本舞台は常に将来に有り」と揮毫。96歳(1954)で没。常により良い「世人の幸福」を問い続けた生涯でした。

94歳で「人生の本舞台は常に将来に有り」と言えるのです。「昨日までは人生の序幕で、今日以後がその本舞台だ」との意味です。この言葉は、私たちにとっても、励みと勇気になりませんか。今年もより良い一年として参りましょう。


紙ふうせんだより 12月号 (2017/04/14)

皆様、いつもありがとうございます。風邪はひかれていませんか? 疲れは溜まってはいませんか? 皆様のおかげで今年1年を乗り越える事ができました。皆様のご尽力あってこその紙ふうせんであり、利用者さんの生活です。感謝してもしきれない恩があり、ささやかな形でしか報いる事はできませんが、もっと良いことが何かあるでしょう。昔の人は「陰徳あれば陽報あり」と言って、天の照覧があると考えました。私も皆様への感謝と今後の健康を、澄んだ夜空の星を見上げながら祈ります。

未知なるもの、その多様性

さて、私たちはこの宇宙の事をどれくらい解っているでしょうか。実のところ、宇宙で私たち人間が理解している物質やエネルギーは宇宙全体の4%でしかなく、宇宙は私たちの知らない物質やエネルギー(ダークマターが22% ダークエネルギーが74% ダークは“未知の”という意味)によって成り立っていると言われています。さまざまな観測結果や物理学の計算からそのような事が推測されるのです。

同じような事が生物学でも言われています。最新の研究では地球上には870万種以上の生物が存在すると考えられていますが(1億種以上という説もある)、その中で、陸生生物の約86%、海生生物の約91%が未知の未発見の生物種となります。(現在1年間に4万種以上の生物が人為的な環境破壊により絶滅しているとされており、これを譬えて、「宇宙船地球号は、1時間に4~5個の部品を落としながら飛んでいる」と言う人もいます)

前回の紙ふうせんだよりでは「汝自身を知れ」という事が一つのキーワードでしたが、私たちは、この世界の事も宇宙の事も実はまだよく解っていないのです。私たちの生は、膨大な未知なるものを基盤として成り立っているのです。そして、その未知なるものは、私たちの知っている世界が多様性に満ちているように、想像もつかないような豊かな“多様性”が隠されているのです。

多様性の尊重と受容

福祉の世界で“多様性の尊重と受容”が叫ばれて久しいですが、その考えは今、多方面に広がり、自然科学や人文科学やビジネスの世界にまで及んでいます。それは、現代文明が画一性を推し進めた結果として、差別や格差や環境破壊を生じてきた事(過度なグローバリゼーションの推進による地域紛争の拡大等)への反省からなのかもしれません。

例えば北欧の家具・雑貨の直販メーカーのIKEAでは、イケア・ジャパン社内に「ダイバーシティ&インクルージョン」という部門を2002年に新設し、「100人いれば100通りある個性や才能。この多様性(ダイバーシティ)を互いに尊敬し認め合い、インクルージョン(受容)していくことで、国や文化の違いを越えたビジネスに活かしていく。」(月刊事業構想)という理念を掲げています。イケア・ジャパンは2014年の経産省の「ダイバーシティ経営企業100選」にも選ばれています。

また考古学や民族学の分野でも、“単一稲作民族”と考えられてきた日本の歴史観は誤りで、日本は“多様な文化”から成り立っている事が発掘や調査などから明らかにされてきており、その多様性から成り立っている事実の価値を再認識しようとの訴えが出てきています。

「われわれ日本人は、何よりも多様な価値軸をもつユニークな文化を有するという認識を十分に抱くことが必要です。その上で多文化・多文明の時代の到来したいまこそ、われわれの文化が、本来その中に内包してきた協調と調和の精神の必要性を世界に向けて発言し、その方向に向かって行動すべきではないでしょうか。」と、元国立民族学博物館の佐々木高明は『日本文化の多様性 稲作以前を再考する』(小学館)で述べています。

これらが志向している“多様性”の何が尊重されなければならないのか。それは私たち自身が、未知なものも含め多様なものの上に成り立っているという事実であり、私たちの依って立つ基盤(=多様性)を大切するという事は、何よりも私たち自身を大切にする事に他ならず、自他を区別なく尊重する事が自身の為でもある、という自他を包摂する考えです。

生物学者の岩槻邦男は『生命系 生物多様性の新しい考え』(岩波書店)の中で、「個は全体のうちにあって、全体を構成する要素となる。全体が生きなければ個の生存はない。同時に、個々の要素が生きなければ、全体の生存は成り立たない。君という個人の幸せは、君一人で完結するものではない」と述べています。

では、受容とは何でしょうか。それは、未知なるものとしての“他”であり、未知なるものを排除せずに受け入れ、「知ろうと努力をしていく事」ではないでしょうか。そして、その未知なるものの身近な最たるものこそ、“自身”に他ならないのです。私たちは介護を通して他者を知っていきます。他者との接触によって自身の心はリトマス試験紙ように反応しますが、それによって自分自身を知れるのです。鏡が無ければ自分の姿は解りませんが、利用者さんが鏡となってくれるのです。それは介護の仕事の大きな価値となっています。

未知なるもの、「可能性」への挑戦

一人の人間の“意識”は、膨大な人類史的な“無意識”を基層として成り立っていると言われています。分析心理学者のユングは、自分自身に内在する無意識という未知なる可能性に挑戦し自分自身の中にある多様性を開花させ結実させる努力(「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」)を「自己実現の過程」と呼んでいます。また、未知なるものへの挑戦に必要な態度とは、「実は、自分は未だによく解っていない」という「未知」の多さを自覚し、ないがしろにしないで謙虚に知っていこうとする、自分自身に対しても開かれた、自己受容の態度でしょう。未知なるものへの挑戦は、それが他者や環境に向かっていても自身に向かっていても、結局は自他どちらの為でもあるのです。だからこそ、他に対する自身の態度を自覚していかなければなりません。

今これから先の一分一秒も「未知なるもの」です。環境の変化も既に出会っている他者も、これから出会う他者も自分自身も、全て「未知なるもの」です。私たちはとても多くの未知なるものに囲まれた、豊かな多様性の中に生きているのです。その多様性が一人ひとりの可能性となり、豊かな人間性の輪が拡がっていくように念願し、新しい年に向かって挑戦していきたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いします。

 


紙ふうせんだより 11月号 (2017/04/14)

皆様、いつもありがとうございます。11月だというのに雪が降り、大した積雪こそなかったものの濡れや冷えや自転車移動が大変でしたね。これから寒さは厳しくなってきますので、体調維持のためにも、濡れや冷えの対策を怠らないようにしてください。腹巻1枚追加だけでも、風邪や腰痛予防になります。また、早め早めの行動と早めの就寝を心がけてください。自転車操作はくれぐれもご注意ください。大雪の際の電車・バス移動は、申請して頂ければ実費会社負担となります。ただ、大雪の際は公共交通機関もあてになりませんので、ご苦労をおかけしますが、徒歩移動となるかもしれません。掃除などの不急のサービスは利用者さんにキャンセルをお願いするなどしますので、大量の積雪が予想される場合(地表付近の気温が0度を下回る時が危険ですので1月2月頃が要注意)は、申し出て下さい。

良い介護としての“自立支援”を考える

11月11日は、「介護の日」でした。「いい日、いい日、毎日、あったか介護ありがとう」をキャッチフレーズに、“介護について理解と認識を深め、介護従事者、介護サービス利用者及び介護家族を支援するとともに、利用者・家族・介護従事者、それらを取り巻く地域社会における支え合いや交流の促進を目的として、平成20年に制定されました。

さて、介護保険法の第1条1項には、「この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり(中略)これらの者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう(中略)国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け(後略)」とあります。このように介護保険法の考える良い介護とは「有する能力に応じ自立した日常生活を営むこと」として、“自立支援”である事が明確に示されています。

そこで、そもそもその人にとっての“自立”とは、一体何なのかを考えていかなければなりません。身体状況や生活環境に千差万別のある利用者さん一人ひとりにとって、何をもって自立と考えるのか。例えば、手足が全く動かなくて、日常生活全般に介助を要する身体障害のあるような利方でも、ヘルパーさんを上手に使いながら自分の生き方を追求し、日々“やりたい事”の実現を目指している方もいます。このような方に対して、介助を利用しているから“自立”していないとは言えません。自立とは、身体的な側面と精神的な側面の両方を含む言葉であり、生き方という面では“精神的自立”がより重要になってくるでしょう。

私たち介護職の仕事に置き換えて考えてみれば、リーダー等の指示がなければ判断が一切できないような思考停止状態があるとすれば、それは精神的自立ができていないという事になり、仕事ではいつも不安や責任転嫁がつきまとうかもしれません。このように考えると、要介護や障害の有無は関係なく、全ての人にとって“自立”への課題があると考えられます。リハビリによる回復が見込めないような方でも、その方の自分らしい生き方(死に方)ができるように、精神的な側面を支えていく事も自立支援となるのではないでしょうか。それは、その方が自分自身を知っていく“自己覚知”への過程を支援する事となるしょう。

“自立”の根本は、自分自身を知ろうとする事

利用者さんにリハビリを勧めてともうまくいかない時があります。本人が主体的に取り組まないと効果は上がらないからだ。自立支援には、利用者さんが自分自身や現状をどのように理解しておりどのような気持ちであるかを考えた支援が不可欠です。その気持ちの両側面を試みに下図に示してみた。ポジティブな気持ちが前面に表れている時、それ以外の気持ちは陰に隠れているが無くなってしまうわけではない。周囲の関わりや何かをきっかけに陰と陽は容易に入れ替わるし状態像も相前後するから、自分でも自分の気持ちが解らなくなるその時、自分自身の事をできるだけ知ろうとし自分なりに理解し、できる限り主体的に生きようとする肯定的な気持ちに対して、そのような状況に自らが陥るのは状況や環境のせいだとし、自分自身の気持ちからも逃げてしまうような拒否的な態度が一方にはあります。解ろうとしないのは誰かではなく自分なのです。感情の力は自分らしさと取り戻そうと、自らに働きかけます。自暴自棄も自分を虐める事によって自らを(自分自身の大切さを)知ろうとするギリギリの試みなのかもしれません。自分らしさの根本は自分自身を知る事であり、自立はそこから始まります。そして自立した生があるならば、自らの死を知り周囲の人と心を分かち合い、自ら落ち着いて赴くような“自立した死”もあるのではないでしょうか

汝自身を知れ

元高校教師の利用者さんと散歩をした時に、国士舘の学生が歩いていたので「先生の時に学生達に伝えたかった事は何ですか? いろいろな思いがありましたか? 一つのテーマがありましたか?」と伺ったところ、「一つだったね。“汝自身を知れ”という事を伝えたかった。生きる事の基本だからね」とおっしゃっていました。「長く生きて来られたと思いますが、自分では自身の事を知り尽くす事はできましたか?」と伺うと、「全然解らないよ」と微笑されていました。だからこそ少しでも知ろうとする努力が人生にとって大切なのです。この会話の翌日、この方は急逝されました。“死”は、ある意味で自分自身を知る事が出来る人生の最大のチャンスです。好奇心と希望を持って臨まれたのであろう事を信じ、ご冥福を祈ります。

 


紙ふうせんだより 10月号 (2017/04/14)

皆様、いつもありがとうございます。ようやくの秋晴れにヘルパーの皆様は、自転車で気持ちの良い風に吹かれているでしょうか。「学問や芸術の秋」と呼ばれていますが、学究の奥にどんな真理があるのか、美しさの秘密とその本質とは何か、などを“自らに問う”思索にふさわしい季節が“秋”なのでしょう。では“自問”を始めてみましょう。

風に吹かれて

『風に吹かれて』 訳詞:忌野清志郎どれだけ遠くまで歩けば、大人になれるの?どれだけ金を払えば、満足できるの?どれだけミサイルが飛んだら、戦争が終るの?その答えは風の中さ 風が知っているだけさいつまで追っかけられたら静かに眠れるの?どれだけテレビが唄えば、自由になれるの?どれだけニュースを見てたら、平和な日がくるの?その答えは風の中さ 風が知っているだけさ

どれだけ強くなれたら、安心できるの?どれだけ嘘をついたら、信用できるの?いつまで傷つけあったら、仲良できるの?その答えは風の中さ 風が知っているだけさ

したがって、どれだけ風が吹いたら、解決できるの?どれだけ人が死んだら、悲しくなくなるの?どれだけ子供がうえたら、何かが出来るの?その答えは風の中さ 風が知っているだけさ
ボブ・ディランの代表作『風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)』(1963)は誰でも一度は聞いた事があるでしょう。淡々とした歌声にのせられたその問いは、「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」「一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのか」「人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか」などです。ボブ・ディランはその答えを「ただ答えは風の中で吹かれているということだ。」「しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。」と述べている。The answer is blowin’ in the wind.(答えは風の中で吹かれている)の訳はさまざまな見解があり、「その答えは 風に吹かれて 誰にもわからない」と訳している人もいる。

風の象徴性

古来から「風」は“眼に見えないもの”を象徴している。古代インドや仏教では、世界の諸要素の働きを「地水火風空」(ちすいかふうくう)の五大(ごだい)で表しているが、「風」の働きは成長・拡大・自由など。“五大”を身体の諸機能にあてはめると風は“息=呼吸”であり、日本では「息を引き取る」は死を意味する。風を描いた映画監督として知られている宮崎駿の『風の谷のナウシカ』では、風の谷の村が破滅的な死に襲われようとしている時、「風が止まった」とあり、主人公の死によって村人が救われ、主人公に奇跡が起きて「風が戻ってきた」となる。このように風は“眼に見えないもの”としての“命”そのものも意味する。するとボブ・ディランの問いの答えは、「一人一人の命の中にある」という意味に解する事もできる。しかし「誰も拾って読もうとしない」のだ。答えは“そこ”にあるもかかわらず。『風に吹かれて』が透明な悲しみをまとっているのはそのためかもしれない。

白い美しい蝶

命あるものは全て微生物から人類に至るまでみな、成長・拡大・自由を指向している。細胞の増殖は目に見える変化ではあるが、心の営みは他人からは眼に見えない。風のように“感じる”くらいが精いっぱいだ。見えないものから目を背けてしまうと、外見の見栄えばかりを気にして中身が失われてしまう。人は見かけによらぬものだ。心の中の風に気が付いているだろうか。

『僕はまるでちがって』という黒田三郎の詩がある。外見の「僕」は「昨日と同じ」でしょぼくれてはいるが、心の中には「僕のなかを明日の方へとぶ 白い美しい蝶がいるのだ」という、秘密を打ち明けるような詩だ。私の中には風に舞う白い蝶はいるだろうかと自問しよう。それを明日の方へと飛ばそうと努力する。その営みは他人からは秘密である。本当の成長も本当の美しさも眼には映らないのだから。

僕はまるでちがって』 黒田三郎

 

僕はまるでちがってしまったのだなるほど僕は昨日と同じネクタイをして昨日と同じように貧乏で昨日と同じように何も取柄がない

それでも僕はまるでちがってしまったのだなるほど僕は昨日と同じ服を着て昨日と同じように飲んだくれで昨日と同じように不器用にこの世に生きている

それでも僕はまるでちがってしまったのだ

ああ

薄笑いやニヤニヤ笑い口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで僕はじっと眼をつぶる

すると

僕のなかを明日の方へとぶ白い美しい蝶がいるのだ

 

   美しき秘密

美しき秘密はそっとビンに入れ時々フタをあけては覗く

この短歌の作者はどんな人でしょうか。若い女性が淡い恋心をそっと胸にしまっている様な初々しさがあります。この方は実は大正13年生まれの要支援の利用者さんなのですが、歌集の刊行は平成8年なので、若いとは言えない頃に詠んだ歌かもしれません。しかし実際今のこの方も美しいのです。好奇心に満ちている様子が気品として感じられる方です。きっと心の中には白い美しい蝶がいるのでしょう。蝶が心の中で小さな風を起こしている事が元気の秘訣かもしれません。私が美しいという事は、私だけが知っている私だけのないしょで良いのです。私の秘密を他人に宣伝する必要も他人と比較する必要もありません。

私たちは介護を通して多くの高齢者に会います。その多くの方が肌はしわしわで、髪は白くなっています。テレビの化粧品やシャンプーのCMが喧伝するような美しさはどこにもありません。だからといってそのような外見に惑わされて、その方の持つ本当の美しさに気が付かないのであれば、眼がショボショボしているのは利用者さんではなく自分自身であり、それはとても損です。「自分磨き」とはテレビのCMが言うようなお肌や毛髪の問題だけではないでしょう。私は、眼の前の利用者さんの心の中の白い蝶に気が付きたいし、それができれば、自分の心の中にも白い蝶が羽ばたくでしょう。風は利用さんからもいつも吹いてきています。その風に身をさらしていこうと思います。もう一つこの方の歌を紹介します。

人は死に空も風も死なしめて男はどうして戦争がしたい

「風を入れる」とは変化させること。変化は常に問いかけから始まります。心の中に風を入れていきましょう。『風の歌を聴け』とは村上春樹の小説のタイトルですが、自分は風の歌を聴いているのか、自問していきたいと思います。

 

 

 


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