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紙ふうせんだより 5月号 (2021/07/09)

欲に働きかける支援




ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。今年は例年より梅雨入りが早いようです。転倒や事故等には気を付けて下さい。雨天時の見通しの悪さ、歩道の段差やマンホールなど滑りやすいところでの自転車のハンドル操作や斜め侵入、ブレーキの制動力の低下など、注意箇所はたくさんあります。また、階段等でのスリップにもご注意下さい。




私の高齢者介護の源体験




時には自己開示(※)も必要と考えますので、私が最初に勤めた高齢者介護について書きます。
学校を卒業してTVドラマの制作進行をしばらくしたあと燃え尽きてしまった私は、知り合いからの偶然の電話で欠員の出た知的障害者の作業所でアルバイトをすることになりました。人生観の地殻動の始まりでしたが、




今回お伝えしたいのはその次の職場の話です。
介護保険制度が始まる前年、制度開始までの期間限定雇用で調布市総合福祉センターのリハビリデイサービスに無資格でしたが入り込みました。介護に対して特段の思い入れはないけれど、「どうせだから福祉関係の仕事をもうちょっとやってみよう」という軽いノリです。そんな私に上長だった理学療法士の田村さんは介護の本質を教えてくれました。




「佐々木くん、ここに来ている利用者さんたちが家でどのように生活しているか考えてみて。
ここで見せている姿は“外面(そとづら)”なんだよ。ここでいくら頑張っているように見えても、どれだけの人が家でもちゃんとやっているだろう。ここでは、着替えの手伝いも食事の準備も本人のADLをよく見て必要最小限にしているけど、皆家では家族にやってもらって上げ膳据え膳の生活になっているんじゃないかな。それをやってしまったら結局自分ではできなくなってしまうんだよ。ここでリハビリをいくら頑張ってみても一週間の内の僅かな時間でしかない。ここでやってることを家でもやらなければ、ここでのリハビリは意味が無いんだ。プライドがあるからここでは皆“外面”はしゃんとしているけど、家では意欲が無くボーっとしている人も多いんじゃないかな。」




そう言われて初めて私は、表現されている態度とは裏腹の“自分では自覚したくない、他人には知られたくない”気持ちについて、それが人にはあることについて考えてみたのです。ここでは偉そうにしている方が家では奥さんに怒られている。ここでは家柄の良さを自慢する方が家では相手にされていない。とても優しい瞳で立派な髭を蓄え後光がさすような穏やかさで笑うあの人の独り住まいの孤愁、笑顔の輪郭にうっすらと漂う悲しみの影について、心を働かせたのです。




「あの人はもう家でも動かないからほとんど歩けないんだ。でもそれを自分では認めたくない。本当はリハビリ効果が上らないなら支援を終了して他の方を入れなければならないんだけど、意欲が低くてもあの人がここに来ているのは他に居場所が無いからなんだよ。誰かあの人の家で関わってくれる人がいたらなぁ…。」田村さんは、叱咤激励をしてもずるずると低下してく方を見て、自分が携われる領域の限界に悔しそうに呟いていました。




(介護保険制度は、それまでの老人福祉が公費で支える「措置」のため「利用者本意」の考えが未熟だったことを背景に、財政的な限界もあり「利用者本位、予防とリハビリの重視、在宅ケアの推進、高齢者の介護責任を家族から社会へ、公助から互助(保険制度)へ」などを主題として平成12年(2000年)の4月から開始されました。)




( ※私的な情報を言語で相手にありのままに伝えること。趣味の話をすれば相手も趣味の話をしてくれるような、自己開示をされた側も同じように自己開示をしたくなる「返報性」があります。こちらの“本音の深い気持ち”を伝えることによって、「そこまで話をしてくれたのなら自分も“本音”で話そう」となり、関係性を深めることができます。)




「意欲が見えない」からといって、「意欲が無い」わけではない




意欲が見えない人への支援をどのように行なっていくかは、様々な支援関係の中でも最大の課題と言って良いでしょう。算数で表すならば、意欲ゼロにはどんな数字を掛けてもゼロになってします。だからと言って意欲ゼロは支援対象にならないかというと、そうではありません。“意欲の高い方”は多少の障害なら自力で何とかできてしまうのですから、支援が必要になるということは、何らかの要因で“意欲に陰りがある”ことが前提なのです。




ある利用者さん夫妻は、奥様が圧迫骨折になり寝たきりの生活となってしまい、ご主人は調理ができないとのことで毎日の調理の支援から始まりました。「何を作りましょうか?」と聞くと鬱状態の奥様からは答えを聞けず、ご主人に問うと「蕎麦」や「素麺」の回答です。そこで、毎日のように蕎麦や素麺を提供していたのですが、ご主人は或る日ぼやきました。「蕎麦や素麺だったら自分でも作れるんだよなぁ」と。ご主人は経験不足で「何を作りましょうか?」と聞かれても、どのように答えて良いかわからなかったのです。そして、奥様も完全に寝たきりという状態ではなかったので、車椅子で買い物同行を行いそこで購入しうたものを調理に活かすようにしました。関わり方を変えると、今まで見えてこなかったところが見えてきます。奥様に意欲が見られなかったのは、寝たきりにさせてしまっていた介護体制に問題があったのです。奥様とは、外出先では歩行練習を開始し調理も共に行うように変えていきました。すると奥様の意欲はますます向上し、家族関係も明るく変わっていったのです。ここでもわかるように、最初に見られる状態像は、その時の精神的落ち込みや負い目などで自分の希望や状態を正しく伝えることができていない場合が多いのです。




「見えないところ」は発展する「可能性」




言葉として正しく語れていない出来事の真実、外面に隠された願いや葛藤や痛み、意識下にある無意識の働きなど、私たちには見えないものがたくさんあります。認知症の方の個人史も語る言葉は風の中に消えかかっています。しかし、見えないからと言ってそれらが無いわけではないのですから、「見えないものを見ようとする努力」が大切です。そしてその人のことが見えてきたとしても、「私たちには見えてないところの方が多い」という自戒も必要であり、見えてないところが多いからこそ、それは発展する「可能性」となるのです。




ある末期ガンの方はサービスに拒否的でしたが、終活のゴミ出しはして貰おう考えたようで訪問開始となりました。ゴミ出しが終わると要望はほとんど聞かれなくなり、部屋を綺麗にすることによって明るい気持ちになって頂こうと掃除に取り掛かりました。随分昔に縁を切った子供の図工の作品に積もった埃を綺麗にしましたが、「そんなことをして何の意味があるんだ」という雰囲気です。程なくしてその方は望んで入院されサービス終了となりました。その後伝え聞いた話では、入院先で食事摂取を拒否して亡くなられたそうです。




利用者さんの「困難」に対処するところを入口として信頼関係を築き、見えなくなってしまった「可能性」を利用者さんと一緒に探すことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし簡単にはいかないのも事実です。未熟な私たちには手の届かないところに心がある方もおられます。だからこそ一度でも気持ちが通じ合った利用者さんのケアは、どんな状況になったとしても、明るい方へと発展する「可能性」に賭けていきたいと思うのです。




紙面研究




【自立支援について】
2018年に「老計10号」の改正(追加点はゴシック体)がありました。自立支援の推進は介護度悪化を防ぐ最重要の取り組みであるため、老計10号に更なる具体例が追加されたところです。在宅介護の中心課題は「自立支援」と「認知症対応」です。どちらも「身体」で算定可能です。具体例は「考え方」を示すものであり、例示以外は算定できないものではありません。考え方を学び介護に活かしていきましょう。身体介護を算定する時は「重度化防止のための見守り的援助」「自立支援」「ADL・IADL・QOL向上」「一緒に行う」「共に行う」「認知症進行防止」「BPSDへの対応」「生活歴の喚起」「思い出してもらう」などのキーワードがプラン上にあった方が良いでしょう。




1-6 自立生活支援・重度化防止のための見守り的援助(自立支援、ADL・IADL・QOL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守り等)
ベッド上からポータブルトイレ等(いす)へ利用者が移乗する際に、転倒等の防止のため付き添い、必要に応じて介助を行う。
認知症等の高齢者がリハビリパンツやパット交換を見守り・声かけを行うことにより、一人で出来るだけ交換し後始末が出来るように支援する。
認知症等の高齢者に対して、ヘルパーが声かけと誘導で食事・水分摂取を支援する。
○入浴、更衣等の見守り(必要に応じて行う介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認などを含む)
○移動時、転倒しないように側について歩く(介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る)
○ベッドの出入り時など自立を促すための声かけ(声かけや見守り中心で必要な時だけ介助)
本人が自ら適切な服薬ができるよう、服薬時において直接介助は行わずに側で見守り、服薬を促す。
○利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う掃除、整理整頓(安全確認の声かけ、疲労の確認を含む)

○ゴミの分別が分からない利用者と一緒に分別をしてゴミ出しのルールを理解してもらう又は思い出してもらうよう援助
○認知症の高齢者の方と一緒に冷蔵庫のなかの整理等を行うことにより、生活歴の喚起を促す。
○洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒予防等のための見守
り・声かけを行う。
利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行うベッドでのシーツ交換、布団カバーの交換等
利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う衣類の整理・被服の補修




【Q質問】(15.5.30事務連絡介護保険最新情報vol.151介護報酬に係るQ&A)
自立生活支援のための見守り的援助の具体的な内容について
【A回答】
身体介護として区分される「自立生活支援のための見守り的援助」とは自立支援、ADL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守りをいう。単なる見守り・声かけは含まない。
例えば、掃除,洗濯,調理などの日常生活の援助に関連する行為であっても、
・利用者と一緒に手助けしながら調理を行うとともに、安全確認の声かけや疲労の確認をする
・洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒防止予防などのための見守り・声かけを行う
・認知症高齢者の方と一緒に冷蔵庫の中の整理などを行うことにより生活歴の喚起を促す
・車イスの移動介助を行って店に行き,本人が自ら品物を選べるように援助する
という、利用者の日常生活動作能力(ADL)や意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援のためのサービス行為は身体介護に区分される。掃除,洗濯,調理をしながら単に見守り・声かけを行う場合は生活援助に区分される。
また、利用者の身体に直接接触しない、見守りや声かけ中心のサービス行為であっても、
・入浴,更衣などの見守りで、必要に応じた介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認を行う
・ベッドの出入り時など自立を促すための声かけなど、声かけや見守り中心で必要な時だけ介助を行う。
・移動時、転倒しないようにそばについて歩き、介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る
という介助サービスは自立支援、ADL向上の観点から身体介護に区分される。そうした要件に該当しない単なる見守り・声かけは訪問介護として算定できない。




 




老計10号による「身体介護」の定義
身体介護とは、




①利用者の身体に直接接触して行う介助サービス(そのために必要となる準備、後かたづけ等の一連の行為を含む)、




②利用者のADL・IADL・QOLや意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援・重度化防止のためのサービス、




③その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要となる特段の専門的配慮)




をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービスをいう。(仮に、介護等を要する状態が解消されたならば不要※となる行為であるということができる。)




※ 例えば入浴や整容などの行為そのものは、たとえ介護を要する状態等が解消されても日常生活上必要な行為であるが、要介護状態が解消された場合、これらを「介助」する行為は不要となる。同様に、「特段の専門的配慮をもって行う調理」についても、調理そのものは必要な行為であるが、この場合も要介護状態が解消されたならば、流動食等の「特段の専門的配慮」は不要となる。




専門性の高い「認知症対応」は身体介護となる




認知症状や精神症状による「BPSD(行動・心理症状)」が見られる場合は、本人の不安を和らげるために傾聴しつつ、本人の行動や感情に配慮した適切な声掛けや説明、誘導や見守りの介助が必要となります。




ヘルパーが中心的に家事動作を行う場合でも、本人が不安にならないように”一緒にやりましょう””これはどうしましょう”などと本人とかかわり、例えばゴミ出しをするにしても”捨てるものを本人に決めてもらうよう促す”必要があります。これはケアに対する「参加意識」を本人に持っていただく取り組みです。家事行為の気持ちの中心はあくまで本人なのです。




もし、”決まっていることを単純に実施すれば良い”というような実施方法であれば、本人は「勝手にやられている」といった「疎外感」を抱いてしまい、BPSDはますます悪化してしまいます。というのも、BPSDは自分の記憶が不確かになるという中核症状の上に、「自分のことが自分で分からなくなる・できなくなる」という不安と「周囲が自分の生活に、勝手に突っ込んでくる」という恐れも重なった「自己疎外の不安の表現」でもあるからです。




「自己疎外」とは、「人間の個性や人格が社会関係の中に埋没して主体性を失って結果、他人やほかの事柄に対してだけでなく、自分自身に対してさえも疎遠な感じにとらわれてしまう状態(日本語大辞典)」です。例えば帰宅願望が生じるのは「自分自身に対しても疎遠な感じ」が生じているから「自分の心が安らぐ場所を求めて」のことだと考えられます。




「疎外感」を防ぎ不安を解消し、BPSDの重症化を予防して改善していくためには、何事も本人に意見を求める態度を示し、”本人の意見や考えのもとに支援が実施されている”という実感を作り出す必要があります。もし本人が、事実関係と異なる話をしたり、適切な生活環境の整備に反する意見を述べたとしても、即座には否定せず、時間をかけて傾聴や会話を行い、望ましい方向へ本人が自ら進んでいけるようさりげなく後押しする必要があります。




このような対応は「ともに行う」支援であり、「利用者中心」であり、「本人が生活の主役であることを守る」自立支援でもあります。このような支援方法は、掃除を行うにしても”掃除さえできればよい”ような性質のものではなく、認知症対応の研修や経験を重ねて適切に行われるものですから、「その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要とされる特段の専門的配慮)をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービス」となります。




当然これらは、認知症状や精神症状、BPSDが解消されて、自分の要望を自分自身でヘルパーに適切に指示を出せる状態となれば、不要となる行為です。よって、このような専門性の高い認知症対応は身体介護であると考えられるのです。




 




『生活歴の喚起』とは
日常生活の過ごし方は、どんな事でもその方のやり方というものがあります。
利用者さんが“認知症になったから”“身体機能が衰えたから”と安易に家事等の代行をしてしまうと、とたんに今までの自分のやり方が継続できなくなり、ますます衰えてしまう事があります。そのような時、利用者本人の今までのやり方や考えに基づいて、ヘルパーが一緒に行う事を試みる事によって、本人の生活の継続性や一貫性が保たれ、本人が自信を取り戻すという事があります。
それは、本人が生活の切り盛りの主役に返り咲く事でもあります。生活の継続性や一貫性は自分らしさの重要な要素です。老いという困難を迎える時、利用者さんに「今までどのように生きてきたのか」「どうやって困難を乗り越えてきたのか」「昔の自分はどんな自分だったのか」等、『回想法』を意識した会話を心がける事も生活歴の喚起につながっていくでしょう。



 


紙ふうせんだより 4月号 (2021/05/17)

人生物語から何を読み取るか
ヘルパーさんや利用者の皆様いつもありがとうございます。空に向かってその葉を広げていく草花のように
私自身もまた伸びていきたい。若葉が光に揺れるような、そんな優しさを風に願わずにはいられません。
人生には、薫風ばかりではなく暑熱に焦がされたり暴風雪に叩かれる時があります。それでも必ず実りの季節はやってきます。

●人生の「実り」とは
人生を草木や四季になぞらえてみましたが、ここで言う「実りの季節」について、どんな印象を持つでしょう。
果実の実りと考えれば人生の最も甘美な時期を思い浮かべるかもしれません。秋の穏やかな日々のような悠々自適の晩年を思い描くかもしれません。自身にまつわる因果応報の一切を自分で引き受ける(と仮定される)「死」という人生の「収穫」を想像するかもしれません。
人は、人生に何らかの「実り」を求めています。そしてそれを手にする自分を想像するから、今の生活に意義を見出すことができます。
「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」という言葉があります。「苦しみ悩んでこそ立派な人間になれる」という意味です。

 

努力できる人は「努力は必ず報われる」と信じています。そして努力を継続できる人は、一度はくじけても今は実らなくてもいつかは「花は咲く」という願いを持ち続けます。これは、どんでん返しを期待しつつも裏切られる結末をも想定し不安に揺れながらも、難解な小説を最後の場面まで読み進めるような忍耐と同じで、人生を俯瞰する視点を生じさせます。この視点は、自分が登場する物語を見下ろす様な自制的な強さとなります。

 

人生に何らかの「実り」を求めるように、人は「物語」を生きています。この物語のテーマは「生きることの意味は何か?」というものです。
子供の頃、「将来の夢」という夢想に含まれる原初的な形態で一度はそれを考えても、そのうちに忘れてしまいます。しかし物語が終章に近づくと自己存在への根源的な問いとして再びそれは現れてきます。エピローグにあっては、問いへの答えは新しいストーリーとしては展開せず、今までの場面を回想し描かれてきた物語の中から読者自身が答えを探すことになります。今までは人生物語の書き手だった自分自身が、今度は読み手となるのです。ここで「努力は必ず報われる」という言葉の表層の超えた意味が現れます。路傍(ろぼう)の石が玉(宝石)と輝くとされるのは、材質や外的条件による結果ではなく、磨く行為そのものに輝きがあるからではないのか。

 

玉を得るから人生が報われるのではなく、生ききった自分自身の人生こそが玉ではないのか。人生の「実り」とは「人生から何を得られるか」ではなく、命そのものが既に「実り」としてあることに気が付くことではなかったか。老いや病という波乱を終章に置くことによってそんな読解ができるように、現代の人生物語は必然的に構成されているように思えてなりません。私たちは介護という関わりを通して、長い小説を最終章まで書き進めてきた利用者さんと共に、そのエピローグを一緒に読むような経験をします。そして利用者さんは、今までの場面の回想をしながらも、物語全体から何かを読み取っていることは確かなのです。

 

●肯定的な回答を支えるための支援関係
描かれた物語から何を読み取るかは、作者の手を離れ読者に委ねられます。だから「このように読むべきである」という押しつけはできません。しかし、介護者である私たちがその読解に全くの無関係かと言うと、そうではありません。既に私たちは終章からエピローグにかけての登場人物となっているのですし、私たちはエピローグを利用者さんと一緒に読むような経験をするのですから、より肯定的に物語を読み取りたいという気持ちは、私たちも同じです。「生きることの意味は何か?」との問いへの回答は本当に多数あります。いずれにしてもその中に肯定的なものが少しでも含まれていれば、それは世界に二つとない尊い答えとなります。しかし「一切が無意味」という全否定の回答は没個性(※1)となってしまうために避けたいところです。支援関係の中で肯定的な回答を得ることを支える方法は多数あります。本気で行うならそのどれもが有効なものとなるはずです。一方で肯定的な回答を潰してしまう方法が一つあります。それは利用者さんの「尊厳」を踏みにじってしまうことです。

 

●物語の「読者」である自覚
私たちは自分自身が物語の書き手であることは、設定やプロットの自由度はともかくとして一応は知っています。
しかし読み手としての力量の大切さは、どれほどの人が自覚しているでしょう。現代においては、途中で投げ出したくなるような展開を乗り越えて結末まで自分で書き切るためには、自分で書いたことの意味を自分で読み解く力が必須になってきています。そして物語の幸運な展開は書き手の力量によらず運が今も昔も大きな要因ですが、読解力を高める方法は、「自分自身を磨く努力」の他にはそう多くは見当たらないのです。
実はここに私自身が介護職員になれたという幸運を噛み締めている理由があります。人生物語の読解力を高めることの一つには多くの物語を読むことが挙げられますが、介護という場面は、利用者さんの物語が終章にさしかかり作者自らがその読み解きを行っている読書会に、介護職も参加させて貰うことになるからです。
ある利用者さんがノートに聖書の一節を書き写していました。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(中略)そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全なものとなります。」私はこれを読んで肯定的な意思を感じ、
とても幸せな気持ちになりました。深い物語は読み手を育てます。そして、良い読み手は物語を完結させんとする書き手の支えにもなります。
そしていつか一つの物語が終わっても、物語は誰かの物語へと連なっていくのです。



 

 

 

 

 

 

 

 

(※1)ユング心理学では個人が自分自身というかけがえのない個別存在となっていくことを「個性化過程」と呼びます。
一方「周りがやっているから自分もやる」等は没個性化であり、自分で自分の事が解らなくなり自己存在の否定に結びつく。

 

令和3年度介護保険改定 ②

今回の改正では、訪問介護とケアマネージャーや地域包括支援センターとの利用者さんの状況に関する連携や情報提供(訪問型サービスの提供に当たり把握した利用者の服薬状況や口腔機能等の利用者の心身の状態及び生活の状況に係る必要な情報の提供を行うこととされている)がより重要視され、具体的な事項が例示されています。それは例えば以下の様なことですが、類似のことがあったら報告をお願いします。

 

・薬が大量に余っている又は複数回分の薬を一度に服用している

・薬の服用を拒絶している

・使いきらないうちに新たに薬が処方されている

・口臭や口腔内出血がある

・体重の増減が推測される見た目の変化がある

・食事量や食事回数に変化がある

・下痢や便秘が続いている

・皮膚が乾燥していたり湿疹等がある

・リハビリテーションの提供が必要と思われる状態にあるにも関わらず提供されていない

 

もちろん報告すべき大切なことは「転倒」や「発病」など他にも沢山あるのですが、見落としがちなこととして例示があったとお考え頂き、改めてご確認ください。なお、その連携の中核的役割はサービス提供責任者が担うこととなっていますが、連携やサービス提供に関わることは多岐にわたることから(当然ですが、利用者さんの生活に必要なことや連携すべき事項の全てをケアプランや介護計画書やサービス指示の中に盛り込むことは不可能なため)次のように改めて示されましたので、ご協力をお願いいたします。

 

「重要な役割を果たすことに鑑み、その業務を画一的に捉えるのではなく、訪問型サービス事業所の状況や実施体制に応じて適切かつ柔軟に業務を実施するよう留意するとともに、常に必要な知識の修得及び能力の向上に努めなければならない。」

 

もとより社会保障としての介護サービスは、介護保険制度があるから行われているのではく、万人の基本的人権を尊重しようという現代社会が掲げ共有する理念があるからであり、一人では生活が成り立たなくなった方の生存権を保障したり、家族で介護を抱え込まなければならない状況(介護離職や家事労働者への負担の押しつけが懸念される)の解消の必要性(介護の社会化)という国が責任をもって解決すべき人権問題があるからなのです(国には基本的人権を保障し擁護する義務がある)。だから当然ですが、介護保険制度の運用方法は、利用者さんの尊厳や人権を守るために、必要があれば工夫がなされ柔軟に対応することが「適切な運用」と言えます。くれぐれも、その業務を画一的に捉えるのではなく、適切かつ柔軟に業務を実施するようにお願いいたします。

 

(参考)日本国憲法 第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

考えてみよう

・「健康で文化的」な生活とはどのように暮らせることだろう。

・介護の仕組みは利用者さんの「健康で文化的」な生活を保障できているだろうか。
 

紙面研修

「虐待」は不適切ケアの延長

ハラスメントも虐待も人権侵害です!
ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し(中略)、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。

ハラスメントとは、相手の意に反する行為によって不快な感情を抱かせることであり、「嫌がらせ」を指します。ここで重要なのは行為者がどう思っているのかは関係なく、相手が不快な感情を抱けばハラスメントになる」ということ。概念としてはシンプルで分かりやすい定義ですが、人の感情は表立って現れないこともあり、「そんなつもりではなかった」などと行為者がハラスメントをしていることを理解できていないケースも少なくありません。(引用:WEBサイト「日本の人事部」)
「虐待」判断も、「ハラスメント」の考え方と同じように、行為者の“虐待する気は無かった”の意図に関係なく、高齢者が嫌な思いをしているかどうかが大切です。

★不適切ケアはなぜ起こる? → 人権侵害に気が付いてない(「権利擁護」意識が低い)

・支援者が“善意”の押し付けに気が付いていない

・自己決定権をないがしろにする“支援者都合”の押し付け

・パナーナリズム的な介護文化(親が子どもを養育するような態度を他者に対してとることを。強い立場にある者が、弱い立場にある者の“利益のため”として、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること。これらを良しとする介護文化。)

★介護保険法も高齢者虐待防止法も、全ての人の人権を守るために作られた(皆やがて高齢者になる!)
介護保険法

第1条 この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。
・「尊厳の保持」 ⇒ 基本的人権や諸権利が守られて、「自分自身の誇り」や「人間らしく生きることできる事」が失われてはいけない。

・「自立した日常生活」 ⇒ 「自己決定権」を中核として、自分の事ができる。

ADLは自分でできなくなってきても、「自分でできている」という誇りや「自分で決められる」という主体性は失われてはいけない。

・「尊厳の保持」や「自立した日常生活」が他者によって奪われることは虐待に等しい。

・“職員都合”による一方的な命令や指示は虐待となり得る。

 

ケアマネ・ケアプランはなぜ必要??

・“職員都合”に流されやすい介護現場中心の視点や声の大きい家族視点への偏りを是正する。ケアマネは力関係の偏りを是正するため利用者の代弁者となって介護に利用者視点を導入する。

・ケアプランの作成とは、自己決定能力が衰えてきた方への「自己決定への支援」という権利擁護です。

※ただし、ケアマネに力が一極集中して介護職員や利用者に君臨するようになって“善意”のパターナリズムを発揮してしまう恐れもある。その時は介護職員が利用者の代弁をする必要がある。


紙ふうせんだより 3月号 (2021/04/26)

「聴くに値する」声とは・・・

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。桜が咲きましたね。あと何回私たちは桜を楽しむことができるでしょう。
できることなら命の終わりの時まで花鳥風月を愛でる気持ちを抱いていたい。
そう願いながらも心の余裕を無くし何かを楽しむ気持ちは失せ「人生終わりだね」と嘆くようになることは誰にでもあり得ることです。だから「そうなったらそれは意味のある展開で、その時こそ自己変革の時なのだ」と心しておきたいと思います。

「変わりたい」と心の奥底では叫んでいる状態像

「あれができない」「これができない」といった嘆きは過去の自分との比較です。
過去の栄光はもはや遠く、新たな時代や世界に突入してしまっているというのに、その中での自己像は確かな焦点を結ばず、「あれができる」「これをしよう」という
主体としての自分自身が朧に霞んでいるから意欲も失せがちになってしまう…。

このような状態像は、高齢者だけではなく若者にも見られることです。
「スチューデントアパシー」という概念が1960年代からあります。「アパシー」とは意欲低下や無気力と訳します。
大人への登竜門のように大学受験には懸命になったけど、いざ入学してみると「何を学びどのようにそれを将来に活かしていくのか」というイメージが掴めずに、
意欲が停滞してしまう大学生がいます。天真爛漫に遊んだ子供時代はもはや遠く、新たな時代を拓こうと受験勉強に努力し勝ち抜いたのも既に過去の栄光です。
にもかかわらず将来の“夢”は大学に合格しただけでは焦点を結ぶことは無く、「何の為に俺は大学に入ったのかな…」と、落ち込んでしまいます。
具体的な志を持って高校卒業と同時に職人を目指した友達が眩しく見えて、その分だけ自分の思慮が浅く見え、自分は「ただ大学に受かりさえすれば良い」と安易に考えていたんじゃないか、と過去の自分を責めてしまうのです。ざっくりと言えば青年期の心理的課題は「自己確立」で、晩年の心理的課題は「自己統合」です。
不安定な過渡期の期間にあってどちらも「自分とは何か」という「自己」を標的としています。朝日と夕陽が似た色合いなのと同じように、状態像は似てきます。
スチューデントアパシーの研究では、それを「時間感覚が乏しく、生活リズムが乱れ、生活に張りがない」「物事に興味や意欲が湧かず、生活全体が受身的となる」などとしていますが、これらは高齢者にもあります。そして、責任回避的なところや「批判が予想される状況からの選択的回避」の背景には、殻に籠りながらも無意識的には自分を責めている心理が伺えます。

臨床心理学研究の理論と実際-スチューデント・アパシー研究を例として-(1997)下山晴彦(一部抜粋)
・批判が予想される状況からの選択的回避。
・自らが陥っている困難な状況に関してその事実経過は認めても、それを自らが対処していかなければならない深刻な状況として受け止められない。
・問題解決行動を約束しておきながら、その場面になると回避行動をとり、一貫性のない行動を繰り返す。
・感情の動きが乏しく、楽しいとの感覚がない。生き生きをした実感がなく、物事に興味や意欲が湧かず、生活全体が受身的となる。(感情希薄)
・時間感覚が乏しく、生活リズムが乱れ(昼夜逆転など)、生活に張りがない(一日中ボーッとしている)。それに焦りを感じない。(時間感覚の希薄)

自分を責めてしまう硬直した考え方

自分を責めてしまう方は、ある種の“真面目さ”を持っています。“勝手気まま”に生きてきたような方は、責任を強く感じるというようなことは少ないように見えます。
社会的な役割や責任ある立場を得て自己像は安定し「中年期」が始まりますが、この時期の標的は「社会」です。意味のある仕事に取り組み子育てや後継の育成をして、社会の担い手のバトンを次世代に繋いでいきます。そして社会的な役割から降りるところから老年期が始まります。
青年期や老年期になって自責の念が湧いてくるのは、社会的なミッションが見えなかったり、その責任を果たせないと思うからなのでしょう。
苛立ってしまい責める気持ちを他人に向けてしまう人もいるでしょう。
「齢をとるとこんなになるとは思わなかった。がむしゃらに仕事をしてきた自分の思慮は浅かった」などと自分を責めてしまう利用者さんもおられますが、
真面目なのだからこそ地力は持っているはずです。自責のエネルギーを方向転換して狭い自己評価の型を壊し、型に押し込められた自己像を解放していくことが必要です。

自分の中の「支配的な考え」に疑問を持つ

さて、狭い型に自己像を押し込んでしまう「思考の型」について考えてみましょう。既成概念の中に安住して広がりを持たない思考の型を「垂直思考(※1)」といいます。
垂直思考は意見や価値の上下にこだわります。囚われすぎると視野は狭くなります。権威(法律・会社・学校・先生)や自分の考えからはみ出すことを恐れて、
物事を硬直化(マニュアル化)して理解します。自分が“理解”したことは「こんなの当たり前だよ!」と疑問無く振りかざし、それに反する考えは“誤り”と決めつけてしまいますから、自分の中に新たな考え方を導入することができません。創造的な発想が求められても一般論に終始してしまいまい、経験の範疇外の事象には対応できません。
そして、本当の意味での「自分らしさ」も、自分の中の経験則や「支配的な考え」で塗りつぶしてしまいます。同様に、他人の「その人らしさ」も軽視したり見落としてしまいます。

遂には「支配的な考え」に適合しない自己像に対しては“失格”の烙印を自分で押してしまうこともあるのです。しかしこれは“変わり時”です。
垂直思考から脱するために必要なのは「水平思考」と呼ばれています。水平の意義は、価値の上下を安易に決めつけてしまう意識から距離を置くことです。
権威をうのみにすることも、他人の意見の上に自分の考えを常に置いてしまうこともありません。様々な考えを「聴くに値する」ものとして検討してみることがモットーですから、反対意見にも、多数者の陰に隠れた少数意見にも、立場の低い者の声や声なき声にも耳を傾けようと努めます。もちろん自分の中の小さなしこりにも気を配るでしょう。

だから新たな発想が生まれてきます。
「自己」を標的とする発達課題が生じる時期は、今まで大きく聞こえてきた“自分の声”と思っていたものが実は、
関係性の中で自分に刷り込まれてきた借り物の考えではないかと疑問を抱く時期でもあります。自分の中にある支配的な思考の型を捨てて、
自分の中の自信の無い弱い声にも耳を澄ませてみましょう。大きな否定の声に隠れて小さな肯定の声も聞こえてきませんか。思考の型の創造的解体が行われるならば、
いままで気が付かなった物事の価値や側面、例えば「××が実は自分の〇〇だった」などが見出されるでしょう。そうやって自己存在に関する再評価が行われること。それが自己確立や自己統合なのです。

※1 ※ イギリスの心理学者デノボが提唱した「水平思考」と対概念となる思考方法。一般的には順序立てた論理的思考を指すが、
順序などに囚われると権威主義化し思考は硬直する。そのため「水平思考」では固定観念を取り払い自由な発想からの創造性の展開を目指す。
ランダム発想法・刺激的発想法・挑戦的発想法・概念拡散発想法・反証的発想法などがある。</font size>

 

紙面研修

「水平的思考」の発想法

エドワード・デノボの提唱する「水平思考」は問題解決のために既成の理論や概念にとらわれずアイデアを生み出す方法論です。穴掘りに例えると「垂直思考」は既に掘られている穴をさらに掘り下げることですが、「水平思考」は新しく別の穴を掘ってみることに例えられます。

ランダム発想法

一見関係なさそうな物事を結び付けて検討する。(アイデア発想法としては、辞書をランダムに引くなどして出てきた言葉と関連付けてアイデアを広げてみる)

刺激的発想法

物事のある部分を「発展させたらどうなるか?取り除いてみたら?何かと合わせたら?何かと置き換えてみたら?順番を入れ替えてみたら?」などと検討する。(アイデア発想法としては、表を作成して発想を比較して一番刺激的なものを選んでみる)

挑戦的発想法

「それはなぜ存在するのか?」「何のためにそうなっているのか?」など物事の根源を突き詰めたところを源として固定観念をひっくり返してみる。(新しい鍋のデザインの検討会で、「料理を加熱できれば、鍋の形である必要なくね?」)(介護の例:1日3回の薬がうまく飲めないんだけどどうした良い?→そもそも何の薬?3回も飲む必要ある?1回にまとめられない?)

概念拡散発想法

ある概念を他の物事に応用してみる。(介護の例:認知症進行ではなく意欲低下じゃないかな?スチューデントアパシーの状態像に似ていないかな?)

反証的発想法

提示されている考えは間違いであると仮定して、反証を試みることで打開策を検討する。(介護の例:〇〇さん歩けないんだけどどうしたら良い?→本当に歩けないの?介助方法工夫してみた?)

 

例題) 「〇〇さん、食事が全然進まないんだけど、どうしたら良い?」

「刺激的発想法」を参考に検討を深めてみよう。(「ちゃんと食べなきゃダメよ!」という垂直思考オンリーでは行き詰る場合が多々あることに気が付くことが大切です)

 

発展させてみる メニュー内容の発展や介助方法を発展させてみる→
取り除いてみる メニューの中の何か、また食事環境の何かを取り除いてみる→
やめてみる 食事の前の何かをやめてみる。食事や介助自体をやめてみる→
合わせてみる メニューの中に何か、また食事環境の何かを追加する→
置き換えてみる 食事自体を別のものと置き換えてみる→
入れ替えてみる 食事のタイミングを変えてみる→
 
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考えてみよう(担当する利用者さんを事例として)</font size>

①支援が行き詰っている人はいるだろうか?それはどのようなところだろうか。

(そこに「垂直思考」のような支援者側の発想の固さはないだろうか。)

②「水平思考」の発想法などを参考に、自由な発想で打開策を提案してみよう。)</font size>

 

介護保険改定(令和3年4月1日より) ※原則3年に1度の見直しです

【改正の要点】

1.①感染症対策の強化、自然災害時等の業務継続に向けた取り組み強化(BCP等の策定)

感染症や自然災害が発生してもサービス提供が継続できる体制を構築するため、上記について委員会等の設置や指針や計画の策定、研修や訓練等の取り組みが事業所に求められるようになりました。

2.PDCAサイクルと科学的介護の推進として、どんな利用者にどんな取り組みが効果有ったかをデータ化して、国をあげて分析しようという「科学的介護情報システム」(LIFE:ライフ)が作られました。ゆくゆくは分析結果をケアプラン作成等に活用していこうというものです。

3.高齢者虐待防止の推進介護や育児と就業の両立支援の推進(人員基準の一部緩和)。職場におけるハラスメント対策に関する事業者の責任の明確化、会議や多職種連携によるICTの活用等。

4.基本の単位が今回1単位(訪問介護 身体1 249単位→250単位)上がりました。しかし6年前の大幅マイナス改定前の2014年の水準には戻っていません。(2015年改定 身体1 255単位→245単位)

 

【訪問介護としましては、重要事項説明書と運営規定に以下の記載を行いました。】

虐待の防止 (重要事項説明書←利用者へ交付)

「高齢者の虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律(高齢者虐待防止法)」は、介護従事者の虐待行為(身体的虐待、放棄・放任、心理的虐待、性的虐待、経済的虐待)を禁止し、虐待してしまう恐れのある養護者に対しては支援をしなければならないとしています。虐待を発見した場合には、介護従事者は関係機関への連絡義務があります。

(当事業所の「高齢者虐待防止」に関する指針)

・従業者に対して人権の擁護・虐待の防止等の研修・啓発を実施します。

・従業者による利用者への虐待事例が見られた場合には、関係機関に適切に報告を行うとともに、再発の防止のための対策の検討会などを開催し、その結果について従業者に周知徹底を図ります。

・利用者の同居者や親族等から利用者への虐待が疑われるような場合には、関係機関に必要な相談を行うとともに、再発の防止に向けて介護環境の改善の検討や対応など、必要な支援や取り組みを実施します。

(職場におけるハラスメント防止) (運営規定←事業所にて閲覧可)

第12条 当事業所は、適切な指定訪問介護の提供を確保する観点から、職場において行われる性的な言動又は優越的な関係を背景とした言動であって業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの(職場におけるハラスメント)により、従業者の就業環境が害されることを防止するために必要な措置を講じる。職場におけるハラスメントとは、利用者等から訪問介護員等に対して行われるいわゆる介護ハラスメントや、上司や同僚からのパワハラ、セクハラ等がある。

(虐待の防止)

第13条 当事業所は、利用者の人権擁護・虐待の防止等のため、利用者等に対して虐待防止法について説明を行ったり、従業者に対して人権の擁護・虐待の防止等の研修や啓発を実施したり、虐待の防止のための指針等を明確化するなど、必要な措置を講じる。</font size>


紙ふうせんだより 2月号 (2021/03/16)

心の中を日々新たに!

へルパーの皆様、いつもありがとうございます。いつもヘルパーさんには感謝しています。日頃の忙しさに皆さんとゆっくり話をする時間を作れないことも多く、伝えきれていない気持ちをここで表明させて頂いているつもりです。それにしても毎回同じ書き出しですから、変えてみる必要もまた一方ではあるんだよな、と思っています。なぜかというと、変えてみることは新しい可能性の発見につながるからです。

 

変わっていく第一歩 自分の「型」と「苦手」を知る
高齢になると「新しい物事に取り組むのが苦手」になるというのはよく聞く話です。一方で、高齢になってから生活の「型」を変えて新境地(※1)を開拓する人もいますから、一概に知力や体力の年齢による衰えとは言えないところもあります。何が「苦手」意識を生じさせているのでしょう。
人には、役割分担をしながら仕事や生活するなかで出来上がった自分の「型」というものがあります。

「型」にのっとったやり方については、誰よりも経験は豊富で上手にやる自信がありますが、反面「型」から外れることを求められると「苦手」となってしまいます。
「型」が形成されることはごく自然なことです。例えば、脳神経細胞同士の結びつき(シナプス)の数が最も多いのは幼児期ですが、認知機能や動作や思考の「型」を作ることによって脳は情報処理の効率化を行い、脳神経回路も簡素化されて10歳頃までにシナプスは半減します。

特定の分野に秀でている人はその分野に必要なシナプスの結びつきは強いと言われています。
このように必要に応じて形成された「型」ですが、「型」に合わない事は、「できない」事となってしまうのでしょうか。

そんなことはありません。例えば、怪我や病気で脳神経回路の一部が損傷しても、リハビリによって健全な細胞がシナプスを伸ばして欠けたところを補う回路が作られますから、「苦手」なことも練習によってできるようになることは事実なのです。自分の「型」と「苦手」を知ることは、自分の可能性の再発見となります。

「できない」ことと「しない」ことの取り違えに気が付く。ある利用者さんは事前情報では「歩けない」という話でした。これを鵜呑みにしてはいけません。
どうして「歩けない」のか、それを誰が言っているのか、介助があれば歩けるのか、必要な介助の度合いはどのくらいか、有効な自助具が使えれば一人でも歩けるのか、問題の分析が必要です。

結論から言うとこの方は、「歩けない」のではなく「歩かなかった」のです。夫が入院して、その状況を上手くのみこめない認知症状もあって、不安などから一人では「外出しなくなった」ようなのです。ヘルパーさんと一緒に外出し、買い物の時に自分で歩いて頂くようになってから、ほどなくして一人で外を歩いている姿を見かけるようになりました。

これは支援の重要な分岐点です。もし、「歩けない」という伝聞を鵜吞みにして利用者さんに歩いて貰わなかったら、「しない」ことが「型」となってしまい(構造化されてしまい)、やがて本当に「できない」「歩けない」となってしまうところでした。

 

「できない」と切り捨てていることは多い
“料理ができない”という話はよくありますが、本当に「できない」のでしょうか。日常生活動作(ADL)として包丁や菜箸が握れないのでしょうか。

たいていの方はそうではありません。台所に長時間立っていられないとか固い野菜が切れないなどの部分的な困難があって料理をしなくなってしまい、それを「できない」と表現しているのです。椅子に座ったら包丁を安心して握れますし、「できる」要素はたくさんあるのです。

料理の手順の組み立ても同様です。材料を目の前にして「何から始めれば…」と困ってしまう方も、「まず野菜を切りましょう」とまな板と包丁をセットすればできたりします。
自立支援は十把一絡げに「できない」と言ってはいけないのです。

これは健常者も同様です。料理や掃除や洗濯をしない夫は、ADLとして「できない」のではなく「してこなかったから」理解が浅く、これからもする気が無いから「しない」だけということは、「する」妻の側からすれば見え透いています。
私たちはいかに多くの事を「できない」と切り捨てているのではないか、ということに思い当たります。

 

“型破り”から得られる自分自身の再発見
要介護高齢期とは、今までの自分の生活の仕方の「型」が通用しなくなる時でもあります。多くの方が一度はそこで意欲の低下を経験します。
今までの生活の「型」から新しい生活の「型」に移行する中で、なぜ「しない」となったのかについては検討が必要です。

きちんとできる自信がないから、普通の人が手早くやってるのに遅い自分が恥ずかしいから、「危ないからダメ」と言われたから、やってもらった方が楽だから、などといった言葉が聞こえてきます。私たちはそのような方々に「一緒にやってみましょう」ときっかけを作り、「できるじゃないですか!」と褒めて意欲を盛り上げていく働きかけをします。

具体的には、支援の中で本人が活躍できる「型」を作ることになります。
しかしこれは、「今までと同じようにできる」という表面的な「結果」を求めているのではありません。

閉じていくのみと思われた人生にも、別の新たな可能性が開かれていると気が付いていくことに意味があります。
今までの「型」からは接点の無かったような人と出会ったり未体験の体験を通じて、経験してこなかった人生の側面を再発見すること。これは「生老病死」という命の全体性の中で、若い時には知り得ないかった「老」や「死」についての“型破りな学び”(自己統合)でもあります。

利用者さんだけが挑戦するのは“もったいない”
利用者さんにとって「自己統合」は、とても大きな挑戦となります。そのような挑戦を利用者さんにのみやって頂くのは“もったいない”と私は思っています。
利用者さんから勇気を貰って、自分の「やらない」ことを「やってみる」挑戦に変えていくこと。今までの「型」を破ること。

「我らが外なる人は壊れども 内なる人は日々に新なり(※2)」 これはある利用者さん宅に飾ってあった色紙の言葉です。90歳を超える方がしたためたそうで、そう聞くとなおさら励みになりませんか。私たちの頑張りも同時に利用者さんへの励みにもなるはずです。

 

※1 :伊能忠敬は50歳になって家業を引退し、江戸に出て19歳年下の高橋至時に弟子入りして暦学や天文学を学び、地球の大きさを測量するという夢を実現させた。世界最高精度の地図も作成している。高齢になっても挑戦することは可能である。

※2: 新約聖書に収められた書簡の一つ『コリントの信徒への手紙二』の一節。パウロがコリント教会に宛てた手紙。苦難の中の慰めや弱さの中の強さについてなど、教会員への励ましや感謝、教えについてなどを記している。

 


紙ふうせんだより 1月号 (2021/03/12)

はじまりのまくあけ

明けましておめでとうございます。ヘルパーの皆様、本年もどうぞよろしくお願いします。新年の幕は明けましたが、頭の幕も遅れても良いのでしっかりと開幕していきたいものです。その為にも自分自身の思いを新たにしていきましょう。

どのような生き方が幸せを感じられるのか

皆さん今年の「目標」はなんですか? 新年の抱負など何かありますか。そう問われて「ハテ何にしようか」と迷ったりはしませんか。具体的に行為や事物や数値で「目標」を示せないと、確かに気後れしてしまうものがあります。

「目標を立てて計画を実行し結果を評価する」という方法論はビジネスのみならず介護でも取り入れられています。「結果」が常に評価対象となるところから、目標や計画は「結果を得るための手段」であり「結果が全て」という風潮も出てきました。いかに速やかに「結果にコミット」するか、その為の目標や計画であるという考え方です。

しかし、結果ありきで人生の目標を立てろと言われたら、「ハテ何しようか」と困ってしまうのは当然です。人生における究極の結果は「死」です。その結果を最大限の合理性をもって得ようとするならば「早く死んだ方が良い」となってしまいます。「長生きしたくない、長生きは迷惑をかける」という後ろめたい感情が生じてくるのは、「いくら頑張ってみたところでどうせ死ぬんだから」という気持ちもあるのではないでしょうか。

何かの「結果」を得るための支援ではなく、「過程」に関わる

確かにビジネスなどの分野においては、計画は行為や事物や数値等をできるだけ具体的に検討した方が良いでしょう。「事業を拡大させたい」というのも悪くありません。しかし事業拡大のみを「目標」として悪徳商法に手を染めブラック企業となってしまっては意味がありません。事業で拡大したのは「人の幸福なのか不幸なのか」が大問題だからです。このように考えていくと、「目標」を立てる視点には「どのような生き方が人を幸せにするのか」という人生観が関わってきます。お金も同じです。お金の持つ価値の本質は「交換価値」ですが、お金と何かを交換して「自分は何が得たいのか」というところが問われてくるのです。

私たちの取り組んでいる介護の仕事は、必ず入院や入所や死去などの別れという結果がやってきます。「死ぬのがわかっているんだから頑張って生きるのを支えなくても…」と考えてしまうと、末期癌の疼痛に苦しむ人への支援などは辛くなってきます。私たちの目標は、死ぬまでの間に「どのように過ごすのか」という「過程」に「どのように関わるか」なのです。

若返りさせられないケアや効果の上がらないリハビリは無意味でしょうか。そんなことはありません。ケアやリハビリは人と人を結ぶ接点です。それらを通じて人と人が交歓(こうかん)できることに価値があります。交歓とは「互いにうちとけあって楽しむこと」です。たとえ孤独な人生だったとしても、最晩年に出会った誰かと打ち解け合うことが出来れば、今までの辛さが誰かからの優しさを感じる喜びに変り、寂しかった心も死ぬ前に癒されるのです。

介護の価値の本質は「交歓価値」にある

やがて死にゆく人に健康や生活上の世話をすることの目的は、「長生させる為」にあるのではないことはもはや明確です。本人の意思や気持ちを無視して「安全のため」「健康のため」と、本人の意欲や楽しみを奪ってしまっては、何の為の誰の為の介護なのか解らなくなります。介護の目的はQOL(クオリティ・オブ・ライフ)すなわち、命や生きている価値をあらためて実感することです。人は、独りでは生まれることも育つことも死ぬこともできません。人は、人の助けが無ければ存在できないのです。

ならば、人の助けを借りることがどうして悪い事なのでしょう。人生の最晩年にあって人の助けが必要となってくることは、むしろ恩寵(おんちょう)となり得ます。成人として一丁前の人間のつもりで生きてきた時間が長く続く中で、人は時々「生かされている自分」を忘れ「自分だけで生きている」ような自分優先の気持ちになります。そうして例えば、政治や権力などの腐敗を見ても「皆やってるよ。人間は皆自分が一番大事なんだ。そんなもんだろ?」と、エゴイストであることが当然の様になってしまいます。そのような時、自分の思い通りにならない困難さとそれを支える人間関係が生じてくることは、「自分だけで生きている」のではない命の在り様の再発見となります。

人生の最晩年の目標は「自己統合」にあります。自己統合とはとどのつまり、忘れてしまったもう一つの側面の「生かされている自分」を思い出すことにあります。そうやって、自分だけで生きてきた自分と生かされてきた自分を統合し、「生かされてきた命を自分なりに精一杯生きてきた」と感じられれば、生と死を肯定できるようになります。このような感情は、ヘルプを必要とする者とヘルプをする者との交歓から生じるものです。必要なのは、今この瞬間を利用者さんと共に「互いにうちとけあって楽しむこと」、これが介護の本質的な価値なのです。

助けてもらっているのは介護者の方?

「生かし生かされる」という生命存在の本質から考えると、本当は助けて貰っているのは利用者さんよりも私たちヘルパーの方ではないでしょうか。この仕事は「生かされているお陰で、誰かの役に立つことができた自分」をいつも感じる事ができるのですから。

私が書いている今回の文章も、実は利用者さんの助けによるものです。というのも、この論考はある利用者さんが詠んだ短歌からアイデアを頂いたのです。その短歌はとても味わい深く、いずれまた皆さんと味わってみたいと思っていますが、今日はご紹介だけに留めます。

もう一度若返らせてやると言われても ハテ何しようか神様いじわる

私たちは、死が決定している命を生かされています。そして、生かされているのに「何の為に生きているのか」は、いじわるなのか誰も教えてはくれません。それは、命を精一杯生きてみて自分の人生をかけて、自分なりに掴み取るしかないのです。

 

※コロナ感染拡大予防をお願いします。風邪症状がある場合は原則出勤停止です。

 

 

 

新型コロナウイルスに係る休業等が余儀なくされた場合の

公的な支援内容について以下にまとめました

 



 

 

 

 

※個人申請の公的支援は、有給休暇を含め事業者から休業補償を受けた場合は、申請できません。

(但し、世田谷区の傷病手当の場合は、給与減額でも補償対象となる場合があるようです)

 

「新型コロナウイルス感染症対応休業支援金・給付金」

コールセンター 0120-221-276 月~金 8:30~20:00 / 土日祝 8:30~17:15

・令和2年4⽉1⽇から令和3年2⽉28日までの間に、事業主の指示により休業した中小事業主の労働者

・その休業に対する賃⾦(休業⼿当)を受けることができない⽅→申請期限:令和3年5⽉31日(月)

①支給申請書、②支給要件確認書、③本人確認書類(免許証の写しなど)、④振込先口座確認書類

(キャッシュカードの写しなど)、⑤休業前および休業中の賃⾦額を確認できる書類

申請方法はWebか郵送です。(郵送先):〒600ー8799 ⽇本郵便株式会社 京都中央郵便局留置

厚⽣労働省 新型コロナウイルス感染症対応休業⽀援⾦・給付⾦担当 ⾏

★日々雇用、登録型派遣、いわゆるシフト制の労働者などについて

これらの方についても、休業前の就労の実態や、下記のケースなどを踏まえ、申請対象期間に事業主が休業させたことについて労使の認識が一致した上で支給要件確認書を作成していただければ、休業支援金・給付金の対象となります。(厚労省)

→労働条件通知書に「週○日勤務」などの具体的な勤務日の記載がある、申請対象月のシフト表が出てい るといった場合

→給与明細等により、6か月以上の間、原則として月4日以上の勤務がある事実が確認可能で、かつ、事業主に対して、新型コロナウイルス感染症の影響がなければ申請対象月において同様の

勤務を続けさせていた意向が確認できる場合

 

 

傷病手当(個人で健康保険組合や居住自治体に申請)

・業務外の病気やけがで療養中であること

・労務不能であること(仕事に就くことができないこと)

・連続する3日間を含み4日以上仕事を休んでいること

・休職期間に給与の支払いがないこと

 

《国民健康保険》世田谷区の場合の条件(世田谷区役所国保・年金課保険給付係)

  1. 新型コロナウイルス感染症に感染した、または発熱等の症状があり感染が疑われ療養のため労務に服することができなかった。(事業者による自宅待機命令は含まない)
 


紙ふうせんだより 11-12月号 (2021/01/25)

動的均衡という確かさと不確かさ

ヘルパーの皆様、大変お世話になりました。年末年始のケアに入って下さるヘルパーさん、本当にありがとうございます。皆様、来年もどうぞよろしくお願いします。

日々の入れ替わりによって保たれる身心

突然ですが問題です。「ある程度の年齢を越えたら筋肉はつかないので高齢でのリハビリ効果は望めない。」答えはNOです。筋肉は20代をピークになにもしなければ加齢とともに落ちていきますが、上手に運動を行うと90歳になっても筋肉を強くすることが出来るとされています。もちろん高齢になれば遺伝子や細胞の代謝能力の限界などがあって20代と同じような運動効果は望めません。しかし、適切にリハビリをすれば必ず効果はあるのです。

なぜでしょうか。人間の身体は全体で60兆個の細胞がある中で毎日1兆個の細胞が新しい細胞と入れ替わると言われています(※1)。不要になった細胞は自律的に機能停止(アポトーシス)して分解されて新たな細胞の材料となり、元気な細胞が分裂して入れ換わります。この時、身体はとても合理的なので、新しい細胞を必要な量しか作りません。運動不足(筋肉が必要無い)となると筋肉が衰えるのはそのためです。逆に、日常生活での運動量(必要とされる筋肉量)を無理のない範囲で増やしていくと、筋肉は全体として強くなることができるのです。人間の体は微細なレベルで見れば絶えず入れ替わっており、細胞の生死の繰り返しによって全体のバランスを保っている「動的均衡(どうてききんこう)」にあるのです。

動的均衡はあらゆるものに見い出されます。宇宙は人間の尺度では不変のように見えますが、銀河や星々など全ての天体は高速で運動しながら生成と消滅を絶えず繰り返しています。鴨長明の『方丈記』の冒頭の一文の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」も動的均衡です。宮澤賢治は、動的均衡によって存在する人間の確かさと不確かさを『春と修羅(しゅら)』の序で次のように表現しています。

「わたくしといふ現象は / 仮定された有機交流電燈(※2)の / ひとつの青い照明です /(略)/

風景やみんなといつしよに / せはしくせはしく明滅しながら / いかにもたしかにともりつづける / 因果交流電燈(※2)の / ひとつの青い照明です /(略)」

※1早い細胞(腸の微絨毛など)は約1日で全て入れ替わり、遅い細胞でも約1年で全て入れ替わる。筋肉は早い細胞で1ヶ月で約60%、遅い細胞でも約200日で全て入れ替わる。脳は早い細胞は1ヶ月で約40%、遅い細胞でも約1年で全て入れ替わる。(単純計算すると2カ月で全身の細胞が入れ替わる)

※2賢治の造語。24コマの静止画で1秒の動画を作り出す「映写機」の隠喩と考えると理解しやすい
人間は、日常生活の些細な原因と結果(因果)の積み重ねの連続によって構成されています。生活習慣病もそうですが、もっと深く見ていけば私たちの心の有り様もそうではないでしょうか。自分と周囲との有機的な交流(※3)の中で日々私たちは、怠惰に流されそうになるのを押しとどめたり、諦めそうな気持を奮い立たせたり、飛躍したいという思い委縮させたりして、全体としては“仮定された自己像”の中に自分が納まるように生きています。先週はやる気になっていた利用者さんが一週間たったらその気が失せていたというようなパターンも、“仮定される今後の生活像”の中に自己像が収まりにくくなると不安になってくるので、無意識的に考えを調整して気持ちが入れ替わってしまったとも言えるのではないでしょうか。

※3多くの部分が緊密な連関をもちながら全体を形作っているさま。【動的均衡】互いに逆向きの過程がほぼ同じ速度で進行することにより、全体としてはバランスが保てている状態。(画像は「太極図」。陰陽の均衡によって世界が成り立っている事を表す道教のシンボル)
昨日はどこにもありません

三好達治

昨日はどこにもありません

あちらの箪笥のひき出しにも

こちらの机の引き出しにも

昨日はどこにもありません

 

それは昨日の写真でしょうか

そこにあなたの立っている

そこにあなたの笑っている

それは昨日の写真でしょうか

 

いいえ

昨日はありません

 

今日を打つのは今日の時計

昨日の時計はありません

今日を打つのは今日の時計

 

昨日はどこにもありません

昨日の部屋はありません

それは今日の窓掛けです

それは今日のスリッパです

 

今日悲しいのは今日のこと

昨日のことではありません

昨日はどこにもありません

今日悲しいのは今日のこと

 

いいえ悲しくはありません

何で悲しいものでしょう

昨日はどこにもありません

何が悲しいものですか

 

昨日はどこにもありません

そこにあなたの立っていた

そこにあなたの笑っていた

 

昨日はどこにもありません
積み重ねていけば変わることができる

『昨日はどこにもありません』という三好達治の詩には「今日を打つのは今日の時計 / 昨日の時計はありません」という一節があります。よく「先週言い聞かせたのに、今週になったら忘れてて困っちゃう!」というケアの嘆きも聞こえてきますが、それは「先週の話」です。同様に、無気力な態度を示す方の態度も明日になれば「明日の態度」が出てくる可能性があります。一生涯持続する固い決意というのはありません。同様に、一生涯持続する恨みや不安もまたありません。それらは瞬間瞬間の因果的・有機的積み重ねの結果として、全体としては連続しているように見えているだけです。

心や体が日々入れ替わっていくということは、少しずつでも好ましいものを積み重ねていけば全体も好ましく変わっていくことができるということを示しています。変わろうとした時に必要なのは瞬間の強い言葉や固い決意ではなく、日々の働きかけなのです。逆に言えば、利用者さんや自分に常に新しい励ましを送らなければ、心は少しずつ枯れてしまうのです。

日々の励ましが現実を変えていく

物事の取り組みが長続きしているような方は、何か失敗や嫌なことがあっても気持ちを切り替えて「よし、また頑張ろう!」と、気持ちを切り替えることが上手なように思われます。頑張るという言葉の裏側には、「そうありたい自分」という理想のイメージがあります。それは「いつも笑顔でいたい自分」であったり「成功を収める自分」であったりします。そのようなイメージは日々少しずつ変化しながら柔軟性を獲得し様々な物事を受容できるよう、多様性をもつものへと発展していくことが理想的です。また、そうならなければ自己像は凝り固まった融通のきかないものとなってしまい、身心機能や環境の大きな変化に対応できなくなってしまいます。

「失敗も成功のうち」「待てば海路の日和あり」といった気持ちの切り替えは、自己像(セルフイメージ)の豊かさ(多様性)のなせる業なのです。このような構造は、福祉の理念が「多様性尊重」を理想の一つとして掲げ、多様な個を柔軟に包摂できる社会がどんな人にとっても生きやすい暮らしやすい幸せな社会であると考えるのと原理は同じです。

ところで「現実は甘くない」として過度に「現在の有り様」にこだわる人もいます。このような方は「現実と理想」を対比させて、「現実を見るべきである」と主張します。しかし人間の身心も人生も社会もせわしく明滅しながらその姿を保っているのですから、変わり得ることもまた確かなのです。今日の単純な延長線上に明日があり、それがずっと続いていく幻燈を見るような錯覚を持ってしまいがちですが、良くも悪くも少しずつ変わっていくのですから、良く変わっていく道しるべとなるような理想像をイメージしていきたいと思います。

 
紙面研修   セクシャル・ハラスメント
1989年の新語・流行語大賞の新語部門・金賞は「セクシャルハラスメント」でした。30年以上経過している現代では「セクハラ」という言葉を知らない人はいないでしょう。一方で2018年4月、財務次官がその立場を利用して女性記者に「おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」「ホテル行こうよ」などのセクハラ発言を繰り返していたことが明らかになりました。その際、責任を問われた麻生太郎財務相が「セクハラ罪っていう罪はない」とセクハラが悪くないような時代錯誤発言をして、まともな男女から嫌悪されています。ジェンダー・ギャップ指数が121位たる所以です。

セクハラは犯罪です。(「準強制わいせつ罪」や「強制わいせつ罪」等となる場合がある)

「虐待罪は無い」と言って虐待(「暴行罪)等)を擁護できないように、セクハラも犯罪となります。以下は、実際に判決で準強制わいせつ罪が成立したケースです。テレビ局に就職を希望している被害女性に対して、加害者が「自分は人事部課長で権限があるから、そういう採用はできる」と騙り、まんが喫茶やカラオケ店の個室で「本当にこのテレビ局に入りたいんでしょ、第一志望でしょ」などと被害者に申し向け、キスをするなどのわいせつ行為に至ったものです。(対価型セクハラ)

 

職場におけるセクシャルハラスメント

《対価型セクハラ》労働者の意に反する性的な言動に対する労働者の対応(拒否や抵抗)により、その労働者が解雇、降格、減給、労働契約の更新拒否、昇進・昇格の対象からの除外、客観的に見て不利益な配置転換などの不利益を受けること。

《環境型セクハラ》労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること。(例:事務所内にヌードポスターを掲示している)

《職場とは》事業所以外でも以下のような場所や状況は「職場」となります。取引先の事務所、取引先と打合せをするための飲食店(接待の席も含む)、顧客の自宅、取材先、出張先、業務で使用する車中、勤務時間外の「宴会」などであっても実質上職務の延長と考えられるもの。
◇ 「男女雇用機会均等法」のセクシュアルハラスメント対策規定

第11条 事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。
 

セクシュアルハラスメントの状況は多様であり、判断に当たり個別の状況を斟酌する必要があります。(略)男女の認識の違いにより生じている面があることを考慮すると、被害を受けた労働者が女性である場合には「平均的な女性労働者の感じ方」を基準とし、被害を受けた労働者が男性である場合には「平均的な男性労働者の感じ方」を基準とすることが適当です。(引用:厚労省労働局雇用均等室)

 

“介護ハラスメント”への対応義務が事業者にはある

“介護ハラスメント”とは、利用者さんやそのご家族からのセクハラや暴言・暴力です。近年問題視されており、来年度の介護保険制度改正ではその対策が盛り込まれる方向です。

《ハラスメントの具体例》介助中に胸やお尻を触られる。アダルトビデオを無理やり見せられる。学歴が低いことをバカにされる。職員へ命令し思いどおりに動かないと殴ったり蹴ったりする。等

★介護職員が利用者さんにセクハラをするケースは、介護虐待であり犯罪です。一方で、必要な介護をしているにも関わらず利用者さんから「セクハラを受けた」と介護職が言われてしまうケースも。

【“介護ハラスメント”への介護現場対応】(参考文献:WEBサイト「ケアスタイル」)

・パワハラは優しい声で注意し、可能な限り利用者さんと距離を置き、身の安全を確保する。

・セクハラには「やめてください」「イヤです」と自分の意思をはっきり伝える。

・利用者さんと距離ができたら速やかに事業所に報告。指示を仰ぐ。

・介護職員は我慢をしない。介護職員に我慢をさせない。

・介護職員は強い言葉で注意しにくいため、嫌がっている気持ちが利用者さんに伝わりにくい。そのため介護職員から訴えがあった時は、問題が長期化している場合がある。
考えてみよう

①   利用者さんからの介護ハラスメントにはどんなケースがあるだろう。

②   それにはどんな背景があるだろう。③改善方法を考えてみよう。
 
《介護ハラスメント 背景要因例》

・ハラスメントという言葉もなく問題意識が低かった時代を生きてきた。

・一部の方の場合、男尊女卑の考えを今でも持っている。

・利用者さん自身が認知機能の低下で自分の行動をきちんと律せなくなっている。

・出来ていたことができなくなる苦しみ(介護を受ける苦しみ)がストレスとなり、そのイライラをぶつけてしまう。

・感情のコントロールが難しくなり、ダメなことだとわかっていても暴言や暴力が止まらない。

・介護職員に安心感や親近感を持っており、一方的な感情をぶつけてしまう。

・介護職員と感情的な接触をもちたい気持ちや孤独感から、からかいや挑発をしてしまう。
《ハラスメントは人権侵害です》

ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。(引用:WEBサイト「日本の人事部」)

ハラスメントとは、相手の意に反する行為によって不快な感情を抱かせることであり、「嫌がらせ」を指します。ここで重要なのは「行為者がどう思っているのかは関係なく、相手が不快な感情を抱けばハラスメントになる」ということ。概念としてはシンプルで分かりやすい定義ですが、人の感情は表立って現れないこともあり、「そんなつもりではなかった」などと行為者がハラスメントをしていることを理解できていないケースも少なくありません。現在は、セクシャル・ハラスメント(セクハラ)やパワー・ハラスメント(パワハラ)、モラル・ハラスメント(モラハラ)、マタニティ・ハラスメント(マタハラ)、スモーク・ハラスメント(スモハラ)など、さまざまなハラスメントが問題となっています。
職場の同僚や上司からのハラスメントへの対応義務が事業者にはある
【重要なお知らせ】

①   職場の同僚や部下へのハラスメントは絶対にいけません。

②   紙ふうせんの就業規則にはセクハラ禁止規定があり、破った場合は服務規律違反となります。

③   同僚からのハラスメント相談窓口は所属長となりますが、所属長に相談しにくい場合等は、相談窓口は代表取締役となります。(03-5426-2831 加藤はるみ)

( “介護ハラスメント”に関しては、サービス提供責任者や管理者、担当ケアマネが相談窓口となります)

④   相談に対しては、事業所や法人として責任をもって対処します。

⑤   相談については、事実関係を迅速に正確に確認します。

⑥   被害が確認できた場合には、被害者に対しては適正な配慮と必要な措置を実施します。

⑦   ハラスメント行為者に対しては適正な措置を実施します。

⑧   再発防止の措置の実施をします。

⑨   当事者等のプライバシー保護に努め必要な措置を実施します。

⑩   ハラスメント相談、報告協力等を理由に就業上、不利益となるような取り扱いは行いません。

※今回のセクハラに関する特集は「テレワーク助成金」取得にあたっての必要事項(セクシュアルハラスメント等を防止するための措置をとっていること)でもあるため、掲載させて頂きました。
 
 


紙ふうせんだより 10月号 (2020/11/30)

揺るぎない視座はありますか?

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。朝夕が冷えてきましたので風邪などひかれぬようにご自愛下さい。今年で介護保険制度開始から20年です。

介護保険制度の20年を見渡せば?

介護保険制度によって「介護の社会化」が行われ、家庭内の問題(※1)とされてきた介護に社会的支援の光が差し込んだことは、日本の社会の大きな文化的発展となりました。一方でベテラン介護職員のケアマネへの転出によって介護現場での支援技術の構築や継承が停滞したり、支援の枠組みが縦割り化になりがちで「医療モデル」などの古い介護文化が払拭しきれていないなどが反省点として挙げられます。今行われている対策は、主任ケアマネージャーの育成や、ベテラン介護職員を特定処遇改善などで厚遇して後進指導を担わせるなどがあります。

※1:場合によっては家庭内の抑圧構造となる。

ところで技術の発展や継承に必須のものは何でしょう。曖昧を好む文化の日本人が苦手とする「原理を提示する、言語化して伝える」という筋道です。“愛情”や“寄り添って”という気持ちは大切ですが、情緒的な言葉では技術は伝わりません。また、その“気持ち”の伝わり方もズレてしまうことがあります。弱音を吐く利用者さんを“叱咤”することが愛情だと考える人もいれば、“利用者さんの好きなようにさせる”ことが愛情だと考える人もいるからです。これらはどちらも支援者の主観で利用者さんを見ています。利用者さんとのズレを生じさせないためには、対人支援職には自分の主観を“客観視”する努力が必要です。それは、自分の好みや感情に左右されない視座(※2)を持つことです。「〇〇さんとは合わない」「あのタイプは嫌い」といった主観的評価から抜け出さなければ、「相手を選ぶ人」となります。合う人への支援が上手く行くのは当たり前で、技術ではありません。皆さんの心の中に介護への揺るぎない視座はありますか?

※2:物事を認識する時の立場。

それがあなたの「原理(※3)」です。それを自分の言葉で語れたら誰かに助言ができますし、相手の考えも聞きやすくなります。判断の軸があればお互いのズレに気が付くことができます。お互いの個人的な原理を語り合い、より多くの人が納得できる言葉に変換・集約していきます。相互触発から「普遍的な原理」が紡ぎだされていきます。それが記述されていけば学問や技術となり、後世へ継承され社会や文化の発展に寄与するでしょう。介護の教科書はカタカナ単語が多いですよね。欧米で発展した「原理」が他人事の理念となっていないでしょうか。難しいことは専門家や“お上”に「おまかせ」という距離感はありませんか? 物事の判断を他人任せにしていては、“お上”が制度改悪など変なことを言いだしても反論できませんし、介護現場での緊急対応にあたふたしてしまいます。現場の自立した「問いと学び」が大切なのです。私たち自らが「原理」を内面化していくならば、技術向上と共に自身の生き方の深化も行われるでしょう。誰の為ではなく自分自身の為です。もっと良いやり方はないか? 自分はどうしたいのか? 問うことから学びが始まります。問いましょう「学問の秋」なのですから。見つけて語りましょう「自分の答え」を。

※3:事物・事象が依拠する根本法則・基本法則。他のものを規定するが、それ自身は他に依存しない根本的・根源的なもの。福祉や社会の原理の一つに「基本的人権」がある。




【紙面研修】  「自立」への歩み

ある脳性麻痺1種1級の方が、色々考えぬいた挙句に辿り着いた一つの理解として、『自立は依存の反対語として解釈されるべき概念ではなく、むしろ自立した生活は、依存できる先をオプションとして可能な限り多く確保し、それらを巧みに賢く利用することだ』と述べていました。この場合、身体的には誰かに依存しないと生活できないこともあるが、周囲の方に依頼や指示をして『賢く利用する』ことができますから、精神的には自立していると言えます。これは「依存の自覚」をして自分自身を問うことによって見てきた、逆説的な「自立は依存によって成り立つ」という自分の答えです。
【自立】じりつ ①他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」

②支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式のパネル」(大辞泉)
「ADL向上を目指して自立支援をしましょう」という時、たいていは「身体的自立」を指します。「自分の足で歩きましょう」と言う意味です。しかし、歩行練習を効果のあるものとして行うためには、「頑張って歩こう」という強い自分の意志、いわば「精神的自立」が必要です。そして歩行練習を行うためには、ヘルパーさんなどの手を借りることを潔しとする妥協が必要です。大正や昭和一桁世代は、「手を借りること」を「甘え」や「依存」と見なして忌避する方もおられます。

しかし、「手を借りること」も「自立」の一つなのではないでしょうか。

必要な時には誰かに「助けて下さい!」と言えるのは「精神的自立」でもあるのです。しかし、助けを求めることは自分の弱さをさらけ出すことになってしまい、誰かに励まされたり世話を焼かれたりして、「精神的な自立も無くなってしまうのではないか?」というような自分を情けなく思う気持ちも出てくるかもしれません。それはそれで良いのです。人生の最終段階での自立への欲求は、身体や精神の自立を越えて、いわば「魂の自立」だからです。このような人生の究極目標を様々な心理学派が「自己実現」や「自己統合」や「自己超越」などと呼んでいます。死を見据える段階では、身体的には誰かに依存し、精神的にも誰かの支えや優しさを受けながらも、自分自身の中に「他に依存しない根本的、根源的なもの」を見つけられるかどうかが課題となってきます。それは、性別や親や子や身体的特徴であるとか、かつて「○○であったという記憶」などといった属性を全て取り去って見いだされる「自己」そのもの(自己実現)であり、また、今までの自己にこだわる狭い自己から抜け出して自己を包摂する世界もまた自己のうち(自己統合)にあり、開かれた自己が世界をも包摂していくような境地(自己超越)でもあります。自他や彼我の境界を越えていくならば、助ける者と助けられる者は同一のものの二つの顕れと見えるでしょう。若年性認知症によって「自分」を規定する記憶を失っていく『私は誰になっていくの?』という不安の中で「自己自身」を再発見した心境をクリスティーン・ブライデンさんは次のように語っています。

『私の魂としての自己は、過去も未来もない「今」という時に存在している。仏教の「刹那」という言葉は、このように時間の枠から離れた存在感覚を捉えたものだ。万物が「今」という場所に存在することを理解すれば、時間の外に在られる神がなんであるかをより深く知ることができる』『私たちにわかったことは、「自分が何を言うか、何をするかが私なのではなく、私はただ私である」ということだ。自分が誰かは魂が決めることだ。認知と感情は人生で変化するが、私たちの本質である魂は神の手の内にある。』(『私は私になっていく 認知症とダンス』クリエイツかもがわ)
【梵我一如】ぼんがいちにょ 梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること。古代インドではこれを悟ることが究極とされた。
「自立」への志向は、赤子が親に育てられて歩けるようになり親から自立して独り立ちしていくように、本能の欲求です。その最後の試みとして「魂の自立」への挑戦が現れます。認知症が進行し動作もままならず誰かの優しさに触れる時、「自分は生かされている!」という喜びから自他の境界が消えていく「自己超越」もあるのです。青年期には「自分は一人で生きるんだ!」という気概も大切です。しかし老年期にはそれが自立ではなく「孤立」になってしまいかねません。助けを受け入れることは、自分や自分を含む社会を肯定的に受け入れることにもなるのです。

 

考えてみよう

「魂の自立」への課題が自分自身に現れた時、どのように周囲から助けてもらいたいだろう?

①その時にそのように助けて貰える(助けてと言える)自分になるためには、今、どのように利用者さんを助けていくと良いだろう。

②一見、誰かの助けを受けなければままならない方も、誰かを助けてはいないだろうか。

※身体的自立と精神的自立の達成が「魂の自立」とならないことからも判る通り、ここで言う魂(spiritual)とは、精神と身体の二項対立を越えた人間存在のより根本的、根源的なものを指す。「魂の自立」支援はスピリチュアルケアとも言えます。


紙ふうせんだより 9月号 (2020/11/30)

秋の実り」を収穫するために

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。夕方の風に冷涼さが混ざり黄色味を増す木々の葉が揺れています。夏の暑さに身構えて固くなっていた体と心をほぐしてください。皆さんが秋の訪れを楽しみ、その景色を愛でられることを願っています。

見渡せば花も紅葉もなかりけり?

コロナ禍によって大学に行けなくなった新入大学生が、友人も作れずバイトも無く上京してきたアパートの中で鬱になっているという話があります。オンライン授業では何のために東京にいるのかという意味も掴めずに、休学や退学者も出ているようです。秋からは一部対面授業も再開されるようですが、大学生の弧愁の痛みは他人ごとではありません。人間は社会的な動物だからです。子供から大人へと成長していく過程で人は自分が周囲から何を求められているかを自覚し、「自分とは何か?」という問いがあれば、社会からの視点で自分の位置づけを確認します。もし自分と社会との関係性が希薄になり、社会的に認められた立場で自分を修飾することが難しくなったならば、「自分とは何か?」が解らなくなってしまう大人は多くいます。利用者さんにもそのような方がおられることは、皆さんご存知の通りです。老年期の心理的発達課題はここから始まります。

長期化するコロナ禍によって通奏低音のように鳴り響く不安と苛立ちは、実はこのような課題と同じではないでしょうか。自営の店舗経営の存続の危機の人、仕事の無くなったイベントや舞台関係者等、テレワークでの仕事の進め方に迷う人、会議や決済印で上下関係を誇示できなくなった幹部社員、多くの人が自分の役割の流動化にさらされているのです。多くの人に「自分とは何か?」という不安が募れば、雇用情勢やビジネスモデルなどの経済の変化以上に社会は大きく流動化していくでしょう。利に敏(さと)い者はビジネスチャンスを虎視眈々と狙っているでしょう。しかし変化の先がどのように落ち着くのかは、未だ見えないのです。

もう一つコロナ禍が突きつけてきた疑念があります。かつて、ニューヨークなどの不動産を買い漁ってブイブイ言わせて日本人がエコノミックアニマルと揶揄されたバブル経済がありました。社会を人生になぞらえるのは乱暴ではありますが、戦後社会を今年で75歳と考えると、バブルに狂奔して崩壊したのは「ミッドライフクライシス(※1)」ではなかったかと思うのです。バブル以前から政官財の癒着は批判されていましたが、崩壊を機に規制緩和や行政改革・構造改革が声高に叫ばれました。しかし結局は利権の付け替えが行われただけで癒着構造は温存され、気が付けばオンライン化にしてもPCR検査拡充にしても機能不全となっている有様です。日本は何も変われないで30年近くを無為に過ごしてしまったのではないかと疑ってしまいます。何の冗談なのか新内閣の自民党4役の平均年齢は71.5歳です。私たちの社会はどこに向かっているのでしょう。しかし再生できるはずです。老年期の心理的発達課題を参考に、これからの社会と自分の人生を生きる心構えについて考えてみましょう。

※1:人生の盛夏や晩夏に譬えられるような脂ののった中年期に、アイデンティティや自己肯定感が揺らぐこと。何かをきっかけに自分に限界を感じ失望や後悔が現れるので思秋期とも言う。自己点検が必要だが怠ると発達段階が足踏みしてしまう。

心の内側から自分を見る視点への転換

還暦になると赤い「ちゃんちゃんこ」を着る風習があります。これは端的に言うと「赤ちゃんに産まれ直す」ということを象徴しています。子供は、社会的な外的な視点で自分を見るということがありません。「ダイエットのためにおやつをやめよう」などという視点は無く、『裸の王様』に「なんにも着てないよ!」と言ってのけるのも子供です。子供は借り物ではない自分の目で自分の心に映るものを見ているのです。

「自己統合(※2)」と言われる老年期の発達課題は社会的役割を降りた後に始まりますが、身体機能の衰えとは逆に内面の世界では“再生”が始まります。自分の人生を今までとは異なる内的な視点で再び振り返ることになるのです。大人の事情やエゴは子供には通用しません。「〇〇だから仕方がない」などと言って咀嚼せずに飲み込んだ誰かの痛みを、目覚めた子供の心が再び感じ始めます。自分の人生を自らの納得に基づいて歩んできたかどうか、良いことも悪いことも失敗や成功も、全て含めて「自己を肯定できるかどうか」という“産みの苦しみ”に似た葛藤が現れます。失敗が無い人生で成功のみだったら簡単に「自己肯定」ができるでしょうか?「自分はこんなに財産を獲得したのだから成功者だ」と自分に言い聞かせるほど、心の中の子供は「自分は裸だ!」と叫ぶでしょう。人生に失敗が無いことはなく、誰の心も一切傷つけないで生きることは不可能だからです。しかし、大抵の人が40歳にもなれば20歳の自分に恥かしさを覚えるように、「自分の人生は良かったのか悪かったのか」と悩めることは気付きの証であり好ましいことなのです。どのような側面や裏面に気付くかは人それぞれですが、人生回顧をすることは当たり前なのです。悔やまれる過去も自身の一部となれるようかみ砕いて受け入れること。また、目の前の人や物事に自らの新しい態度もって回答を示していくこと。これが過去との和解となり「死」を受容する心構えとなります。私たちはこの段階で人生を「若さや生」と「老いや死」の二つの視点から二度味わうことになります。このような多様な視点は、思い出をより豊かな色合いに輝かせるでしょう。

これからの社会に必要なことは何でしょう。景気回復を簡単に成し遂げられるような都合の良い魔法は(政治家はそんな事を言いますが)、まぁ無いでしょう。景気の指標だけでは測れない自己肯定感や生きづらさや心の豊かさなど、視点を転換して外的なものではなく内的なものに目を向けていく必要があります。空疎な「日本凄い」「自分凄い」や「やってる感」は“裸の王様”が太るだけですから不要です。変わる為には、日本の社会が積み残してきた課題を直視して地道に取り組んでいくことが大切です。例えば世界経済フォーラムが発表した男女格差を測るジェンダー・ギャップ指数は、日本は153か国中121位でした。(※3)

さて、私達はどのように生活をしたら良いでしょう。私自身は丁寧に生きていきたいと思っています。何をするにしても「本当にやりたいやり方で人と接したり、物事と向き合っているか」などを、自分の中にある純粋な心で自らに問うならば、どんな答えが返ってくるでしょうか。たぶん大切なのは「どこで何をするか」ではなく、それを今「ここでどのようにやるか」です。“次のこと”や“目標”(※4)ばかりを見るのではなく「今・ここ」に心を落ち着かせる。「死」の視点を胸に刻みながら「一期一会(※5)」の覚悟であなたと丁寧に向き合う。人は自分の心を通して景色を眺めます。私やあなたの見る最後の景色が美しくありますように。

※2:エリク・H・エリクソンによる心理社会的発達理論の最終段階

※3: 2019年12月発表。前回は149か国中110位

※4:利用者さんの心の動きを見ないで介護手順や目標だけを見るという態度は改めたい

※5:千利休の人をもてなす心構え。「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのもの」との自覚をもって相手と対面する。

 

 

【紙面研修】 「自己統合」という課題

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

これは新古今和歌集にある藤原定家の歌ですが、2つの読み方ができます。

①花も紅葉もないもない淋しい秋の夕暮れだなぁ

②花も紅葉も無いけれど、秋の夕暮れのなんと趣のあることよ「秋の夕暮」は人生の晩年を想起させますが、どちらの意味で捉えるかは自分自身です。

人生には、自分の在り方に相反する意味を見出しながらもそのどちらもが真であり、どちらの意味をも自分のものとして受け入れてそれらを止揚し、新たな人生の展望を得るという場面があります。そのような発達課題は、子どもから高齢者に至るまでの各年齢段階にあると言われています。例えば「自分とは何か?」と迷う若者が、「自分は自分である」という限界と可能性に思案するということがあります。いくら他人をうらやんでも自分は他人にはなれないし、ましてやスーパーマンにも変身できないという限界と、それでも自分は自分である限り自分の人生を自分で決定づけなければならない(決定づけることができる)という可能性がそこにはあります。「限界か可能性か」を悩むうちに、「我思う、ゆえに我あり」というような自己存在の深い確信が得られれば、自分の人生を自分らしく歩もうとする腹が決まってきます。そうなれば「自分がそう決めているから、自分がそうなってくる」という構図が理解できます。

*止揚【しよう】:対立する二つ捉え方をぶつけ合わせて統合して、より深く高く視野の広い見解を得ること

 

~われわれは、長く生きるほどに、何とわずかなことしか知らないのか、と教えられる。成長して年を重ねるということは面白い冒険であり、驚きにみちている。~
エリク・H・エリクソン(1902-1994)発達心理学者・精神分析家

年を重ねた結果として「何とわずかなことしか知らないのか」と絶望するか、「まだまだ学ぶことがって人生に興味は尽きない」となるか。二つの態度の基礎となる「自分」という存在はどちらも同じ「自分」です。違うのは「自分」という存在を見つめる自分の視野が、狭い自分に囚われているか「複眼的」な見方ができているかどうかです。そもそも限界を感じるということは、今までの自分の見方やものの考え方では袋小路に入ってしまっているという状態です。自身を再評価するためには、今までの自分の価値尺度以外の視点を自分自身に取り入れていく必要があります。

老年期(成熟期)エリクソンによるとこの段階の葛藤は「統合性 絶望」とされています。

人生しめくくる重要な時であり、自分の生涯を総合的に振り返り肯定的に再評価するという課題が現れます。この課題達成を放棄すると人生に絶望することになりますが、後悔や挫折感をも受け入れて「統合性」に至れれば心の安定と人間的な円熟となり、「英知」をもって自分自身や周囲と関わる事ができるようになります。発達心理学では、人間は生涯にわたって発達しつづけることが可能であると考えます。

 

 

考えてみよう

後悔にさいなまれる方への 支援として、どのような態度が考えられるだろう?

①自分の人生に後悔するかどうかは自己責任なので、支援者側の心理的負担にならないように、利用者の悩みにはあまり関わらないようにする。

②せっかく出会った御縁なので自分の意見を積極的に伝えて、変れるように働きかける。

③悩みに寄り添うため、どんな内容の話でも傾聴に徹する。

 

先の①②③を選択して、それぞれの態度を後に後悔するとします。

その理由は何が考えられるだろう。そのような反省が訪れるのは自分にどのような状況変化があった時だろう?

また、①②③以外にはどのような接し方が考えられるだろう?

人生経験や考え方の異なる人間が介護という場面で出会うことは、双方にとってどのような価値を生じさせるだろう?

 

 

フランス文学者で武道家の内田樹は、コロナ禍が『根源的な問いを自分自身に向ける機会』となれば良いと述べています。興味深いので以下に引用します。

「パンデミックとその後の世界」2020.09.20 内田樹

(略)どれほど社会活動が縮んでも、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網など)の管理運営、医療、教育、そして宗教生活なしに人間は生きてゆくことはできない。それらのどれかの領域において何らかの専門的な技術と知見を具えた人は、

どこにいても、それを生業として生き延びることができるだろう。ぜひ、この機会に人間が共同的に生きてゆくためになくてはならない仕事のうち、自分に「何ができるか」を自問してみて欲しい。(略)それは、改めて「私には何ができるのか?」「私はほんとうは何をしたかったのか?」「私を求めている人がいるとしたら、それはどこにいるのか?」といった根源的な問いを自分自身に向ける機会となるからである。

どんな場合でも(たとえそれがパンデミックであっても)、根源的な問いを自分に向けるのは、よいことである。(略)「天職」「召命」のことを英語ではcallingとかvocationと言う。いずれも「呼ぶ」という動詞の派生語である。私たちが自分の生涯の仕事とするものは多くの場合、自己決定して選択したものではない。もののはずみで、誰かに「呼ばれて」、その場に赴き、その仕事をするようになって、気がついたら「天職」になっていたのである。それはしばしば「自分がそんな仕事をするようになるとは思ってもいなかった仕事」である。

始まり方はだいたいいつも同じである。偶然に出合った人から「お願いです。これをしてください(頼めるのはあなたしかいないんです)」と言われるのである。先方がどういう根拠で私を選び、私にはそれが「できる」と思うに至ったのか、それはわからない。でも、こういう場合には外部評価の方が自己評価よりも客観性が高いから、それに従う。多くの人はそうやって天職に出会ってきた。(略)

コロナは多くの人の命と健康を奪い、多くの人が経済的困窮で苦しんでいる。けれども、これを奇貨として、各国の軍事行動が抑制的になり、環境破壊が止まり、グローバル資本主義と新自由主義についての反省が始まり、自分自身の生き方について根源的な問いを向け、「召命」の声を求めて耳を澄ます人たちが出てくるなら、この疫病からも引き出し得るいくばくかの「よきこと」があったのだということになるだろう。


紙ふうせんだより 8月号 (2020/10/26)

自己中心性からの脱却のために

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。お盆が過ぎて夕方の風に秋色が加わり、夜はいくらか過ごしやすくなってきました。体温調整の苦手な方は調子を崩しがちです。体調の変化に目配り気配り心配りをしていきましょう。

死の側から見えてくる「おごり」

お盆には先祖を迎えることによって生者は死者と対面します。もともと日本にあった祖霊信仰に仏教が融合した風習のお盆は、死の側から人生を見つめ直すことにもなります。全ての命は先祖から受け継がれた命の灯であると理解すれば、命への畏敬の念が生まれます。自分もいつかは死んで連綿とした繋がりのなかに還っていくと想像するならば、命を自分だけのモノと錯覚するような自己中心的な視点は相対化されます。死者の側から生を見つめてみることは、現代社会の軋轢によって極限まで狭くなった“自分”という境界線を内側から壊すことにもなるでしょう。若いころにブイブイ言わせてきた人が、高齢になってお盆などの風習を大切にし始めるといった態度の変化には、「今さえ自分さえ良ければ」となってしまってきたこと(誰にでもある過去の一部)への反省があるのかもしれません。

大抵の人は、自分の行為にそれなりの根拠を持っており、それなりに「自分は正しい」と思っています。また、今日の延長線上に明日があり、それがずっと続くような錯覚を持っています。しかし本当にそうでしょうか?『徒然草(つれづれぐさ)』で兼好法師は「我々の死の到来は、今すぐかもしれない。それを忘れて物見て日を暮らすのは愚かだ」と述べています。「死を忘れるな」という警鐘は、西洋伝統絵画の主題の一つメメント・モリや、日本の九相(くそう)図など様々な文化の中で繰り返し鳴らされています。現在の在り様をあえて疑うことによって思索を深め、より確かものを掴み取ろうと努める哲学者たちは、「哲学(※1)を極めることは死ぬことを学ぶこと」としています。シャカ族の王子であったシッダールタ(仏教の開祖の釈尊)は、自身の「若さのおごり」「健康のおごり」「生存のおごり」に気が付いて克服のために出家をします。昨今、コロナをめぐり極端な反応を示す人にもそれらの「おごり」の一端が現れているように思います。当たり前のことですが誰しも生きている自分を中心にして世界を見ています。そのような視点を相対化することは、私たちの内にある「生者のおごり」「健常者のおごり」「自分が正しいというおごり」に釘を刺し、私たちの生の在り様の点検を促すのです。

介護に即して言えば、自身に「生者のおごり」があれば、少しずつ死に赴(おもむ)く利用者さんと本当に向き合うことはできず、無意識の忌避(きひ)が生じます。「健常者のおごり」があれば、心身の衰えに嘆く利用者さんの気持ちに寄り添うことができません。「自分が正しいというおごり」があれば、利用者さんや周囲の人は常に自分より考えが浅いという無意識が働き、無自覚な上から目線となります。死の側からの生を見つめ直す視点は、より良い介護を提供することはもちろんのこと、世界観を拡げ心の余裕を生じさせ、自身の心の豊かさを育むのです。

※1フランスの哲学者モンテーニュの言葉、「死はどこで我々を待っているかもわからない。あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する」とある

歴史的視点から見えてくる「おごり」



 

 

 

 

 

 

 

「はだしのゲン」中沢啓治

 

見えている世界が自分の世界である人は、それでもその限られた範囲の中で自分の行為や考えをよりマシな側、比較対象とする側(自覚せずに見下しているものと比較する)よりも良くあろうとします。「盗人(ぬすびと)にも三分の理(り)」と言うように、暴力団の抗争なども双方共に「我に仁義あり」と主張します。しかし本当に自説が正しいかどうか、客観的に判断する尺度(※2)を持たない限り破綻はやってきます。

1945年8月、そのような破綻が社会全体で起こりました。当時日本は、国家を主語とし国家を目的とする国家主義であり(現在は国民を主語とし国民を目的とする民主主義)、自らが引き起こした侵略戦争を「聖戦」と叫び、戦争遂行が絶対正義でした。戦争遂行のスローガンは「一億玉砕」(一億の国民は、皆戦って死のう!)というものでした。全国民が死んでしまっては何の意味もないと思いますが、そのような視点を戦争指導者が持つことは一切ありませんでした。当時、命の重さは「一銭五厘(※3)」と言われていました。兵隊の命を大切にしない軍部では、司令官の自己顕示欲による乱暴な作戦が横行し、いたずらに前線の兵隊を全滅(※4)させて、戦略的にも愚かな失敗を繰り返していきます。「命を大切にしない者はやがて自身の命を滅ぼす」という道理のごとく、数多の国民や周辺国の人々等を道連れに殺して破滅したのが大日本帝国なのです。どうして日本は暴走を止められなかったのでしょう。それは自身を相対化する視点を決定的に欠いていたからです。戦前の日本は「神の国であり永遠不滅である」と信じ込まされていました。まやかし(※5)の「神州不滅」を信じ込ませた戦争指導者も戦局が悪化すると自分の「死」を直視するのが怖くなったのか、進んで狂信的観念に一体化していきます。日本は「絶対正義のおごり」や「不滅のおごり」に染まって道を誤ったのです。
ある利用者さんの話

「学徒出陣であの雨の壮行会にいました。学徒航空兵となった。訓練中に友人は着陸に失敗して操縦桿が腹に刺さって死んだ。ようやく離着陸できるような状態で、特攻への出撃命令が出た。はじめから特攻要員と決まっていた。断ることなどできなかった。出撃の報告に博多の両親に会いに行ったが、お互いに涙を流し一言もしゃべれなかった。山陽本線の広島で、原爆の焼け野原を見た。新型爆弾のうわさは聞いていた。もう少し早く戦争を終わりにしていれば、大勢の人が死なずに済んだのに!」と怒りに肩を震わせながら泣いていました。
ここまで、自らの生存や正しさを相対化して「死」の側からの自己点検の必要性を述べてきました。「死」からの視点の重要性は「死」の賛美ではありません。自らの「生」の中にある「老病死」をありのまま認め直視してこそ自らの「おごり」に気が付くことができるのです。私たちは、自身に繋がる死と生存の歴史を振り返えるとき、「自分は自分一人で生きているのではない」という気持ちになり、命に対して謙虚になります。同様に、自身に繋がる社会の歴史を振り返るならば、一方的な「正しさ」の危うさが理解できます。あれから75年、今の日本は命を大切にできているでしょうか。恐ろしい時代を生き延びた戦争体験者の肉声を聴けるのもあと僅かです。
※2その最低限の基準は、基本的人権の相互尊重・社会的弱者の権利擁護(命を大切にすること)であると考えます。

※3召集令状の郵便代なので今の63円の価値。

※4伸びきった戦線を維持することができず、司令部は前線の部隊に玉砕命令を出して「全滅」と処理することがあった。全滅の部隊への補給や救援は放棄され、生き残った兵士が地獄の苦しみ(一部では人肉食もあったと言う)を味わった。戦死の通知が届きながら帰還を果たした方が一部におられたのはそのような事情による。

※5「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」三笠宮崇仁親
 

紙面研修

一方通行の「介護観」を点検する

【相対化】そうたいか

一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。

 

人は誰しも自分中心に世界を見ています。だからこそ自分のモノの見え方や考え方を相対化する視点を持つ事が重要であって、「あなたの意見は唯一絶対ではない」と他者の意見を拒否することは誤った相対化と言えます。しかし、福祉の世界には、支援者側が利用者さんの意見を相対化してしまう一方通行な態度が見られる場合があります。なぜそうなってしまうのでしょうか。構造的な問題を持っている古い福祉の考え方は医療中心の視点であるため、「医療モデル」と言われています。
医療モデル (医学モデル・専門家モデルとも言われる)
支援の着眼点 「診断→治療→回復」を重視し、「人が抱える問題はその個人のどこかに欠陥・歪みがあるため」と考える。服薬やリハビリなど身体機能の改善が大切。
支援の主体者 専門家
支援関係の序列 上下関係がある(医者→ケアマネ→介護職→利用者など)
困難の原因 認知症や障害や病気など、本人の心身の状態が原因

(例)足が無い人が外出できないのは足が無いから
困難へのアプローチ 身体機能の改善を中心に障害の克服や病気の治癒を目指す
望まれる利用者の態度 利用者は専門家の指示に従うこと
解決のメド 解決は難しいことが多く、解決できない場合はあきらめが必要
利用者への情報提供 知らせるべき情報と知らせるべきでない情報を専門家が決める
支援関係のトラブル理由 利用者のワガママなど
社会との関係性 利用者が社会に適応できるように訓練する
対して新しいモデル(と言っても提唱されてから40年以上になる)は、専門家の専門領域からの狭い視点を相対化して、生活や社会全般を視野に入れるようになり「生活モデル」と呼ばれています。
生活モデル (社会モデルとも言われる)
支援の着眼点 「人と環境の交互作用」を重視し「個人と環境の両方」を支援する。

支援者と利用者の関係性の歪みを改めるだけで改善する場合もある。

利用者をいかにエンパワメントさせる(笑顔にさせる)かが大切。
支援の主体者 利用者本人(パーソン・センタード・ケアなど)
支援関係の序列 利用者を中心に支援者同士は対等な関係(チームケアなど)
困難の原因 利用者の認知症や障害や病気に対応していない支援関係や介護環境や社会の在り方などに原因がある

(例)足が無い人でも適切な支援があれば外出できる
困難へのアプローチ 利用者の気持ちに着目しながら、本人ができるやり方を考えたり、環境を改善したりする
望まれる利用者の態度 利用者は自分の困難さや望む生活の希望をのべること
解決のメド 利用者と支援者に信頼関係ができて、利用者の本心が聞かれれば一つ一つ進んでいける
利用者への情報提供 説明責任がある。極力理解してもらえるように伝える
支援関係のトラブル理由 支援者側の説明不足など
社会との関係性 どんな人でも普通に社会で暮らせる(ノーマライゼーション)ように社会に働きかける(ソーシャルワーク※)ことは、福祉従事者の使命
※ソーシャルワークとは、社会に対しては「社会変革」「社会開発」「社会的結束」を、個人に対しては「エンパワメント」「解放」を促進する実践を意味する。また、その実践を発動・継続する根拠(原理)は「社会正義」「人権」「集団的責任」「多様性の尊重」であり、働きかける対象は「社会の様々な構造」「実践を必要とする人々」である。(2014年7月の国際ソーシャルワーカー連盟の定義より)
考えてみよう

「利用者の○○さんは言うことを聞かなくて困っている~」というような嘆きが聞かれる場合、支援の主体者は誰になっているだろう? 支援の関係性に着目した時、何をどのように変えていくことができるだろう?

(その方の自動思考を仮定して検証し、その考えを問い直す模擬会話を考えてみよう)
 

以下の新聞資料は「自分が正しいというおごり」がもたらす暴力性への指摘です。戦時中の“非国民”大合唱の他罰的な雰囲気と合わせて考えていただけるとより理解が深まると思います。

自分は絶対に正しい」という思い込みが人間を凶暴にする 歪んだ正義   毎日新聞2020.8.23

◇不安から「正義」を振りかざす

「なんでこの時期に東京から来るのですか? 知事がテレビで言ってるでしょうが!! 知ってるのかよ!!」

「さっさと帰ってください。皆の迷惑になります」

東京都内在住の男性が青森市の実家に帰省するとそんな内容の手書きのビラが玄関先に置かれていたという。男性は帰省までに自主的に新型コロナウイルスへの感染を調べるPCR検査を2度受けいずれも陰性だった。帰省後もできるだけ自宅で過ごしていたという。

大渕憲一・東北大学名誉教授(社会心理学)によると、新型コロナウイルスで顕在化した人間の攻撃性の一つに「制裁・報復」感情や「同一性」(自尊心)を動機とするタイプがある。政府から自宅待機の要請が出ている時に外出している人やマスクをしないで歩いている人を激しく非難する――そんな「自粛警察」がこれに当てはまるという。

「社会秩序や規則順守といった『正義』を振りかざして人を攻撃することは自尊心を満たし、周りの人たちから賛同が得られれば承認欲求も満たされる」(大渕名誉教授)。「規則を守る人」と「守らない人」、「絶対的に正しい自分(たち)=善」(内集団)と「絶対的に間違った他者=悪」(外集団)に社会を二分して上から目線で懲らしめる行為で、通常なら「やり過ぎ」との自制心も働くがコロナ禍という非常事態においては「(内集団から)理解や承認を得られるはずだ」という思い込みから抑制が利かなくなりがちだという。

「自分は絶対に正しい」という思い込みが人間を凶暴にするのだ。


紙ふうせんたより 7月号 (2020/09/25)

※4小泉政権がマーケッティングによって扇動に弱く政権支持に誘導できると導き出した知性の低い層、米国のトランプ支持者と似る ※5アリストテレスの『政治学』の「共通の利益」に由来、マイケル・サンデルがNHK『ハーバード白熱教室』 (2010年)で強調、『これからの「正義」の話をしよう』に書籍化 ※6先進国で自殺が1位は日本だけ。他国は事故死(自殺白書)

新しい時代を拓くために

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。東京都の感染者集が1日で400人を超えてしまいました。感染予防対策をお願いいたします。日本の古典や仏典では人心や治世が乱れると飢饉・疫病や戦争や災害が起こるとしてきました。身内びいきの暗愚な政治がコロナ禍を加速させている様相ですが、時代を俯瞰しながらこれからの社会を考えてみましょう。

自分本位の“価値観の相対化”が否定してしまったもの

東西冷戦が解消しイデオロギー対立が終焉すると確固たる価値観は語られなくなり、あらゆるものが相対化して語られるようになりました。時を同じくして日本はバブル崩壊を迎えます。相対化の視点は、多様性尊重の揺りかごとなりましたが、同時に社会病理をこじらせます。より良い人生やより良い社会を目指していくという「目標」が失われ、“より良い”とは何か?と問う精神的営みや社会的努力を“無駄なもの”と考える人が現れるようになってしまったのです。漂流する社会は不況を長引かせ、根無し草となった者は確固とした手ごたえのあるモノ「金と権力」に吸い寄せられていきます。そして自由競争の中での勝者を正義(市場原理)と見なす新自由主義がグルーバリズムの嵐にのって規制の無い(弱者に対する配慮の無い)自由競争を叫び支持を集め、強者の論理で社会が動かされ、政治や経済などのシステムも変化していきました。格差社会が出現し、多くの人が“強者”の口真似をして「強者の論理」を語り、「価値観の相対化」と「新自由主義」が時代の空気となりました。

「“〇〇でなければならない”という価値観の押し付けはしないで欲しい」

「隙を見せたら強者に喰われてしまうので、自分も強者にならなくてはいけない(弱者の面倒をみている余裕は無い)」

相対化論法は“自分さえ良ければ良い”という自己中心性の自己弁護として使われたため、“〇〇”には「基本的人権」や「権利擁護」などが入り、善い自己・善い社会といった「目標」が冷笑されるようになりました。本来、自分の狭い価値観を破って「多様な他者の受容」へと導くはずだった「価値観の相対化」は、自分本位に使われることによって社会や自分自身の中の倫理的な基準を失わせてしまいました。自分本位の“価値観の相対化”は、自己中心的な劣悪な主張を許容し「万人の万人に対する闘争(※1)」を再現させ、民主主義や自由主義の基盤となる「基本的人権の相互尊重」をも破壊するようになってしまったのです。ネットの中で氾濫する差別発言や「やまゆり園事件」の植松被告や国会議員の一部にさえ見られる「障害者や高齢者への税金投入は社会の無駄。障害者は社会に迷惑をかけている。障害者は抹殺されるべき。また、このような主張も、言論の自由として許容されるべき。」という主張は、「大きな物語の終焉(※2)」として『歴史の終わり(※3)』などと肯定的に語られた時代の負の落とし子、 価値観の共有なんて幻想だ、孤独なまま『終わりなき日常を生きろ(※4)』、どうせ理解されない、といった観念に強迫された“他者との関係性が結べなくなってしまった病”なのです。現代社会は袋小路に追い込まれつつあり、閉塞感の中では偏見が増殖し差別や暴力となります。

※1 トマス・ホッブズの著作(1651年)による自然状態における人間の有様

※2 イデオロギーが無くなって価値観相対主義の時代(ポストモダン)とされた

※3 フランシス・フクヤマの論文(1989年)

※4 宮台真司の著作(1998年)

弱い者たちが“さらに弱い者叩く”負の連鎖から抜け出るために

悲しいことに“弱者叩き”は、自分がされた事を他人にしてしまうという側面があります。 一部の扇動屋を除いてB層(※5)とされるような者が自らの行為の自由を根拠に自分より弱い者を叩くという構造がありますが、これは自由をはき違えています。本来、私達が享受している「自由」は他者の人権を侵害しないという「基本的人権の相互尊重」を前提としているのです。しかし、自分本位の相対化論法は「そのような考え方もあるが、私の考えは違う」として自己中心性の変更を拒否します。コロナ騒動でも“他県ナンバー狩り”や“感染者差別”“医療従事者への偏見”が見られました。このような時代に必要なものは、「基本的人権の相互尊重」と「社会的弱者に対する権利擁護」を「共通善(※6)」として公教育レベルから再確認していくことではないでしょうか。多様な生き方やマイノリィとの共存を当然の前提として「どのように共同体を維持していくのか」という方向性を持って各個人が社会の構成員としての「善き生き方」を考慮に入れていくのです。各個人が自由を享受しつつも自分自身の自己中心性を相対化して「異なる者への寛容」を示していくならば、「異なる者を排除しようとする差別や暴力」への不寛容な空気が社会に醸成されます。例えばイジメをしてしまう・されてしまう子供たちにとってもこのような「人権」の考えを真に自分のものにできたならば、自分が生きていく柱となり負の連鎖から抜け出す道筋にもなってくると思います。

介護職とはどのような仕事か 時代を拓く鍵となる職業

「やまゆり園事件」は4年前の7月26日に発生しました。植松被告は介護職を経験し権利擁護や虐待防止などの研修も受けただろう“にもかかわらず”という福祉業界の敗北がそこにはあります。私達自身が、福祉の仕事が社会にとってどのような意味や価値を持つのかを問い直していかなければなりません。私達の仕事は、弱肉強食や自分本位を是とする社会の風潮に対して反対(カウンター)する位置づけにあることをはっきりと自覚する必要があります。私達の仕事は、「基本的人権の相互尊重」や「社会的弱者に対する権利擁護」の実現を柱としながら、困っている個人に対して具体的に直接的に支援します。それは、漂流する社会に根を下ろし、さらにはそれを「共通善」という大地につなぎ止め、「善き社会」の成立・維持・継続に関わる仕事なのです。私達が健全に福祉の仕事に邁進するならば、有るべき社会の姿「この社会は生きるに値する」という事を現実に示す事になり、同時に誰かの「生」に対して「この命は生きるに値する」と感じさせていく事になります。

若者(※7)の死因・第1位が「自殺」の日本、先進国で最も酷い社会の中で若者は生きています。誤解してはいけません。若者は「自分の人生を生きるに値しない」と思ったのではありません。そう思わされた構造的な歪みがあった上で、より本質的には「この社会は生きるに値しない」から、この社会から去っていったのです。また、「国際比較調査に見る日本の高齢者の意識」の調査結果(平成27年)では、家族以外の人で相談し合ったり、世話をし合ったりする親しい友人がいるか尋ねたところ、「いずれもいない」と回答した高齢者の割合が、日本は、アメリカ、ドイツ、スウェーデンを含めた4ヶ国の中で最も高いのです。自殺する若者と同じように要介護高齢者も「死にたい」と言われる方が多くいます。何がそう言わせてしまうのか。私達介護職は、まずそこから戦わなければならないのです。

※5 小泉政権がマーケッティングによって扇動に弱く政権支持に誘導できると導き出した知性の低い層、米国のトランプ支持者と似る

※6 アリストテレスの『政治学』の「共通の利益」に由来、マイケル・サンデルがNHK『ハーバード白熱教室』 (2010年)で強調、『これからの「正義」の話をしよう』に書籍化

※7 先進国で自殺が1位は日本だけ。他国は事故死(自殺白書)

 
紙面研修
 
QOLから見た死
【安楽死】(日本臨床倫理学会)

安楽死は、行為の主体として他人が関与し、自分自身ではもはや実行することのできなくなった患者に、身体的侵害によって直接死をもたらすことです。

積極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何かをすること」

消極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何かをしないこと」

【自殺ほう助】

自殺幇助とは「自殺の意図をもつものに、有形・無形の便宜を提供することによって、その意図を実現させること」です。安楽死が、行為主体として他人が関与するのに対して、自殺幇助は、その時点で意思能力のある患者本人が関与します。患者は、例えば処方された薬物、あるいは毒物、あるいは他の行為によって自分の命を絶ちます。

【患者の意思で延命治療をしないこと(差し控え・中止)』と、『消極的安楽死』との違い】

患者の命を終わらせようとする意図や目的がある場合は「安楽死」であり、それに対して、患者本人に延命治療拒否の(事前)意思があり、その意思を尊重しよう、患者の苦痛を除いてあげようという意図・目的の下に延命治療を中止・差し控えるのが『患者の意思で延命治療をしないこと』です。患者の‘命’を終わらせる目的ではないので、消極的安楽死とは異なる概念であると考えられます。

したがって、『患者本人の意思で延命治療をしないこと』においては、無益な延命治療は中止したり差し控えたりしますが、その患者が生きている限りは、緩和ケアのコンセプトの下に、十分な心のこもった快適ケアは提供されることになりますし、疼痛緩和のために必要な治療も提供されます。

 

 

【尊厳死】(清水哲郎『医療現場に臨む哲学』)

「尊厳ある死」(Death with Dignity -本来の意味での「尊厳死」) とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。「尊厳死は倫理的に許されるか」と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなる。すべての死は尊厳死が理想である。

 

★POINT★  自殺(ほう助)→死ぬこと(手伝うこと)……死を目的とする人為的な死

積極的安楽死→死なせること(殺すこと )……死を目的とする人為的な死

消極的安楽死→死ぬにまかせること……死を目的とする自然な死

尊厳死→緩和医療・緩和ケアの実施……苦痛を取り除くことを目的とする自然な死

★治療が困難であり、患者は死が避けられずその死期が迫っていることが医学的にも判っており、本人や家族が延命を望まない場合は、一般的には延命治療をやめて緩和医療に切り替えられる。

★苦痛を取り除くことはQOL(クオリティ・オブ・ライフ)にとって大切(ライフ=人生・命、QOL=質の高い人生・質の高い生存を追求すると、最終局面は尊厳死となる)、その意味でも、生と死を分断されたものではなく連続したものとして考える必要がある。「皆に迷惑をかけるからから死にたい」という“死にたい”は本当に「自己決定」と言えるでしょうか。
【考えてみよう】  “クオリティ・オブ・デス”(質の高い死)とは何だろう

※尊厳死を誤解して“安楽死”と呼ぶ方が多くいます。また、「死の自己決定」を求めて医師による自殺ほう助や積極的安楽死の合法化を求める声(どちらも“安楽死”と主張)もありますが、なかには意思表示できない人を殺すこと(明確な殺人)をも“安楽死”と呼び実施を叫ぶ人がいるため、安易な(意図的なのか?定義をぼやかした)“安楽死”是非の議論は危険です。(死を選ばざるを得ない状況での「選んだ死」は「本当に望んで選んだのか?」ということに注意を払う必要があります)
 
 「嘱託殺人、安楽死議論の契機にすべきでない」日医会長

日本医師会の中川俊男会長は29日の会見で、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)への嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件と、安楽死の議論を結びつけることについて「これを(議論の)契機にすべきではない。慎重にしたい」と述べた。

中川氏は「今回の事件のように患者さんから『死なせてほしい』と要請があったとしても、生命を終わらせる行為は医療ではない」と強調した。「そのような要請があった場合は患者さんがなぜそのように思ったのか、苦痛に寄り添い、ともに考えることが医師の役割だ」と述べた。

終末期医療のあり方については、これまで日本医師会内部で検討を重ねてきたといい、「ALSをもってただちに人生の最終段階ではないことを確認している」とした。「死を選ばなければいけない社会ではなく、生きることを支える社会をつくる」と訴えた。(久永隆一2020年7月29日朝日新聞)
熱中症にご注意下さい(自分も利用者さんも)


◎疑いのあるケースは、すぐに現場からお電話下さい◎
 
介護福祉士国家試験

【申し込み】令和2年8月12日(水曜日)から9月11日(金曜日)まで(消印有効)
筆記試験 令和3年1月31日(日曜日)

左のようにはがきを記入して郵送すると、「社会福祉振興・試験センター」より『受験の手引』(受験申し込み書)が送られてきます。なお、

はがきの裏面は「あて名ラベル」として使用するそうなので、はっきり大きく正確に!

Webからでも申し込みできます。

受験希望者はご相談下さい。
~8月のヘルパーミーティングは例年、懇談会ですが

開催は自粛予定です。~
 

 

 


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