【紙ふうせんブログ】
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紙ふうせんだより 8月号 (2022/09/20)

過ぎ去っても、去らないもの

酷いと言えばあまりに酷い炎天の昼も、夕方に吹く風には涼しさ忍び込みつつあるのですから、辛い季節もやがては過ぎ去っていくものです。まずはこの夏を乗り切れそうなことを皆様に感謝です。人生の喜びも悲しみもいつかは過ぎ去っていくものです。過ぎ去っていくものを、忌避したり無理に押し留めようとしたりすると、苦しみが生じてきます。自然の理(ことわり)として去来する物事をありのまま認めること。介護や福祉ではこれを「受容」と呼びます。よく使う言葉ですが「あたりまえ」のように簡単に済むことではないのです。

「大人になる」とは何だろう

大人になった私たちは、大人である自分をあたりまえのように感じていますが、そこに至る道は容易ならざるものだったことは、子供心を忘れない人は覚えています。人は子供としての心の在り様を一度は完成させています。自分の身体を自由に操作でき、自分の感情を自覚できて人に伝えることができます。子供ならではの限界は「いつか大人になれば越えられる」と、無条件に自分と周囲の人を信じています。自他の境界が曖昧な「子供ならではの自由闊達さや自己効力感」と呼んでも良いかもしれません。

やがて思春期(※1)になると、心を追い越して急激に体が変化していきます。心身は不安定となり、自分の考えや行動だけではどうにもならない物事に苛立ったり、裏腹な“大人”の身勝手さに怒ったりします。自分と違う考えや感情を抱いている他者に戸惑い、他者との間に壁を作ったりもします。それでもいつかは外側の世界に目を向けていくのです。これは「子供としての自分の死」の受容です。

子供ならではの自由な心は、他人とは異なる心の中を持っている自分を自覚して自意識に揺れるようになってからは、「内心の自由」として自覚されます。外向けの顔として仲間に同調しながら、「心の中」では悪態をついたりします。そうやって内面と外面の使い分けを自分に対して許容していきます。しかしその許容が、大人になってからも他者に適用されないでいると“子供じみた”身勝手さとなります。例えばそれは、裏腹の無い“真実の愛”を相手に求めながら、そのじつ相手を疑っている自分が居るなどです。

大人になるとは、「内心の自由」の自他の相互性を理解した上で、他者や社会に対しての自分の「自由」の責任を自覚することです。そして他者の「内心の自由」を許容していくことは、他者受容となります。外面の世界は自分の考えや行動だけでは自由にならないと判った上で、だからこそ自分や他者の「内心の自由」を大切にしながら、他者とは異なる自分の気持ちや考えを自他に対して調和的に表出していった時、それは、この社会で生きる自分自身の自己受容となります。

本当の自由な心とは、自分の心も他人の心も縛りつけようとはしないものです。そのような理性的で調和的な「自由な心」の獲得は、子供心の自由さの再生でもあります。子供時代は去ったとしても、子供心は、本当は心の中に生きています。「子供の頃の自由な心を忘れないでいてこそ、人は真に自由な大人になれる」とも言えるのではないでしょうか。

※1 昔は思春期は20歳までと考えられていたが、最近の英国の研究では身体的変化も含めて24歳まで続くとされた。思春期は世界的にどんどん後ろにずれており、現代の日本ではアニメ作品は40代くらいまでをメインターゲットとしており、高校生の主人公に大人が感情移入をしていることなどから、それぐらいまで後期思春期が延長しているとも言われている。

 

「受容」の過程で起こること

「老い」は自分の心身機能の変化や体調、友人やパートナーの死、人間関係の変化などによって現れてきます。自身の内と外とをそれなりに調和的に生きてきたのに、気が付けば不協和音は響いてきます。その変化は受け入れ難いものです。キューブラ―・ロス(※2)は、深い悲しみの過程は「否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容」といような様々な状態を揺れ動きながら進んでいくことを示しました。ロスはこれを「死の受容」への5段階として論じましたが、障害や老いの受容も同様な揺れを体験します。訪問介護という仕事で利用者さんの自宅にお邪魔するということは、受容の過程で揺れ動く内面に関わっていくことを意味します。

セルフネグレクトの方は、自分の現状を否認し自分自身に怒っています。自分を罰しているような面もあります。介護拒否の方への訪問は、自傷行為のような痛みと関わっていくことになりますから覚悟が必要です。ようやくヘルパーさんを受け入れたとしてもヘルパーの粗探しをしてしまうのは、怒りがヘルパーに向かうからです。しかし何に対してどのように怒ったとしても、本人はむなしさを感じていることでしょう。取引の段階は、特別な治療法があれば回復するのではないか? もっと良いヘルパーなら生活は良くなるのではないか? などと色々あがいてみます。それでも進行方向は不可逆的なものだと知って、深い気持ちの落ち込みを体験します。そしていつか不満をぶつけてばかりいた家族やヘルパーさんを頼りにしている自分に気が付きます。そうやって他者を認めていく時、自分の中にある多様な自分も受け入れられるようになっていくのです。

支援者を拒否したり認めたりする感情の揺れは、利用者さんの内面の葛藤の「外在化(※3)」です。不調和な利用者さんの感情を支援者が受けとめて落ち着いた態度を示していくと、利用者さんは外在化した安定感を自分の内面に取り入れて、受け入れ難い自分と自分自身との関係として「内在化(※3)」させていくことができます。しかし皆が拒否を真に受けて訪問をやめてしまうと、利用者さんの「自分と他人」の関係は安定せず、したがって「自分と自分」の関係も安定させることができなくなってしまうのです。

これは、子供が自分の負の側面をも親に認めさせようとして、手を焼くようなことをやらかしてしまう「自我の確立」の過程にも似ています。利用者さんから支援者に向けられるいわれなき感情や要求の高さは、利用者さん自身の「自己受容」への希求の表れでもあります。「自分と他人」や「自分と自分」の関係は円環的なものですから、自己受容は他者受容に、他者受容は自己受容となるのです。

※2 エリザベス・キューブラー=ロス(1926-2004)米国で看取りの研究を行う。主著「死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話」

※3 心理学用語。人は内面の葛藤を外面の態度で表したり(外在化)、外部の事象を自分の心の中のように感じたり(内在化)する。

 

失ったようで、失われないもの

「人間は生まれたときには自由である。しかるに人間はいたる所で鉄鎖に繋がれている(※4)」

これは人間の解放を目指したルソーの言葉です。ルソーは社会制度や権力関係を鉄鎖としましたが、鎖は人の心の中にもあります。病や老いや体の不自由さに心が囚われてしまったら苦しみとなります。しかし人は、外面的な不自由さを自覚してこそ「内面の自由」の大切さを知り、自身の根底からの解放を希求します。心身が不調和となっても生きている限り決して失われないものは何でしょう。

それは「命」です。命あるかぎり「真の心の自由」はそこにあるはずです。死への長い旅路を歩む中で、それをお互いに忘れずに思い出すこと。これが、あたりまえのように言われる「尊厳を守る」ということの核心なのです。

 

※4 ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)主にフランスで活躍した政治哲学者。この言葉は「社会契約論」の冒頭。


紙ふうせんだより 7月号 (2022/08/23)

同じ痛みを持つ者として

皆様、いつもありがとうございます。戻り梅雨に猛暑と天候の変化に体調も乱れてしまいますね。気象の変化による酷い体調悪化を「気象病」と言うそうです。「雨が降ると古傷が痛む」と言われる方もおられます。気圧が下がる時に慢性痛が酷くなるものは「天気痛」や「低気圧不調」と呼ばれます。気圧低下によって血管が拡張し神経を圧迫することで頭痛になったり体内の水分バランスが乱れたり、三半規管(内耳)がストレスを感じて交感神経が緊張するなどして体調不良になるそうです。不調のある方は、ご自愛下さい。

「痛み」とは何か

注射器の針、顔をしかめる子供。逃げ腰になってよじった身体を看護師がおさえます。二の腕に針先が触れおもむろに入っていくと、ぎゅっと閉ざした瞳から涙が溢れ出します。痛みへの恐怖感が極まって遂に子供は泣きだしてしまいます……。このような動画を見ると、自分も何だか痛みを感じませんか。人は、他人の痛みに共感する心のメカニズムを持っています。このような「共感性」は、他者を助ける動機となります。

「痛み」とは何でしょう。感覚器官が捉えた刺激は電気信号となって、大脳皮質の「体性感覚野」に伝わります。すると、記憶や感情や思考に関わる大脳の他の部分も反応します。「身体的な痛み」を体性感覚野が受け取ると同時に、不安や恐怖などに関わる「大脳辺縁系」や、判断や意思決定に関わる「前頭前野」が活性化します。この脳の活動が「情動的な痛み」です。注射をされて泣く子供と泣かない子供がいるのは、痛みへの恐怖や執着などの情動的な反応が異なってくるからです。

この「情動的な痛み」とされる脳の活動は、実際の痛みが自分にあるときにも活性化しますが、他者が痛みを感じる姿を見ている時にも同様に活性化します。また、鎮痛剤の効き目に関する実験では、鎮痛剤を投与すると「身体的な痛み」も和らぎますが、「共感の痛み」の感じ方も低下することが明らかとなっています。人は、身体的な痛みも心の痛みも他人の痛みも、同じ「痛み」として感じているのです。

私たちが介護している方々にも、身体機能に問題が無くても苦しみを訴えたり、実際に何らかの症状が身体に生じている方がいます。また、訴えの言葉の中に見られる出来事が本当の事ではないも関わらず本当の事のように訴えて、実際に苦痛を感じておられる方もおられます。身体と心は密接に連動している(心身相関)ことは良く知られてはいますが、私たちは、身体に問題が無い痛みの訴えを「本当の痛み」では無いとして軽く見積もって良いのでしょうか。

そうではありません。その痛みは体験者にとっては「本当」なのです。国際疼痛(とうつう)学会では、「痛み」を「組織の実質的あるいは潜在的な障害に関連する、またはこのような障害と関連した言語を用いて述べられる不快な感覚・情動体験である」と定義しています。言い換えれば、原因不明でも身体に不快な反応として現れるもの、不快な体験として語られる感情の動きは、全て「痛み」なのです。

自らの存在の意味を問う「スピリチュアルペイン」

緩和ケアの提唱者のシシリー・ソンダース(※1)は、「痛み」を身体の問題に還元するのではなく、社会関係や価値観や個人史などその人の存在の全体から生じてくるものとして、トータルペイン(全人的な痛み)という捉え方を提唱しました。人の「痛み」は、身体的苦痛・心理的苦痛・社会的苦痛・スピリチュアルペイン(魂の苦痛)といった多様な側面(※2)を持ち、多層性を持って現れるのです。

「ある人が『痛い!』と訴えたら、医療者はその原因はともかくとして、その個人の情動体験としての“痛み”をそのまま受け止めることから、適切な痛みへの対処が始まることをしっかり認識すべきです」とは、緩和ケア科の関根龍一医師の言葉です。スピリチュアルペインとは個人の人生に関わる苦しみです。痛みに耐えながら生きているという自分に「意味を求めるけれども見いだせない」という苦痛なのです。

※1 シシリー・ソンダース(1918-2005)英国、近代ホスピス運動の創始者。ソーシャルワーカーとして勤務した病院で末期ガン男性と恋に落ち看取る。33歳になって医学校に入学し38歳で医師免許取得。死んでいく人が本人の人生に価値を見出すことが「死にゆく人の尊厳」であるとして、全人的なトータルなケアを目指して、緩和ケアを実践した。

※2古代の臨床心理学とも言える仏教と通底する考え。仏教では、生の苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみという「四苦」と、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)、求めて得られない苦しみ(求不得苦)、身体相関や認知のプロセスから生じる苦しみ(五陰盛苦)を併せて「四苦八苦」とした。

そこに居続けることが、スピリチュアルな支えとなる

正解のない問いに耐えかねて“病気”を“治療”しようとする医療モデルに支援者が逃げ込んでしまうと、利用者の“痛み”は様々な訴えに変化し、コロコロと変わる訴えに支援者が苛(いら)立つこともあるでしょう。「どうしてそんなに痛がっているの?本当に痛いの?」「あんなに説明をしたのに、どうしてわからないの?」と言い放ってしまう時、支援者は「支える」ということに挫(くじ)け「共感」を手放しそうになっています。

「支える」とは、「その人の杖になる」ということです。「杖」が重みに負けてグラグラしていたら「杖」にはなりません。「あっちだ、こっちだ」などと利用者を引っ張っていくことも「杖」は行いません。スピリチュアルペインは、「あっちに行けば解決する」などといった単純なものではないからです。

支援者に必要なことは「何も答えられなくても、そこに留まる覚悟」です。答えを見出すのは支援者ではなくその人自身であり、「杖」の役割は、人生の終わりに向かってその人が自分の足で歩いて行けるようにそばに居続けることです。シシリー・ソンダースはスピリチュアルケアについて「答えにくい質問をいくつも抱えた患者と家族のそばに、何も答えられないままとどまっている人々は、そばにいることによって患者と家族が求めているスピリチュアルな救いを提供している自分に気づくことになろう」と述べています。

「痛み」を抱えながら生きることの意味

人間の本質を表す言葉に「生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)」があります。「生」は「生まれる苦しみや生きる苦しみ」のことです。続く「老病死」もどんなに健康な若者でも潜在的な「苦痛」を生まれながら持っているということを示しています。自身の「生老病死」の自覚は、相手の痛みを理解する「共感性」の原動力となります。「共感性」には、相手の心に同期して同じ感情を抱く「直感的な側面」と自分の「痛み」を相手と重ね合わせて、経験から相手の気持ちを想像する「認知的な側面」があります。

目の前の人を「自分と同じ痛みを持つ者」として感じ想像すること。「同じ痛みを持つ者が、同じ痛みを持つ者を支える」ということが、人が人を支えることの本質です。あなたは私であり、私はあなたです。私の痛みはあなたの痛みであり、私があなたのそばにとどまりながら、そっとあなたの痛みを抱きしめようとする時、同時に私はあなたから抱きしめられているのです。「痛み」には人と人を寄り添わせる力があります。あなたや私の「痛み」には、きっとかけがえのない意味があるのです。

 

紙面研修

「痛み」と共に生きる

身体的な「痛み」というものは、怪我をした時などに身体に無理をさせない防御反応として、さらには、次の失敗を回避するために強い情動の反応として記憶する面がある。情動が主体の痛みはどうだろう。「悩ましくて頭が痛い」「痛恨のミス」などの言葉もある。心が痛むことは確かに「心もとない」ものではある。不安が強いあまりに「嫌だ」という感情が主体化すると、心の痛みは「苦しみ」としてラベリングされる。過ちを繰り返さぬよう、体罰という「痛み」をもって体に覚え込ませるやり方や厳しい叱責なども「苦しみ」のラベリングを強化する。「心の痛み」は、それを「嫌なこと」として拒否的に構えてしまうと苦しみの情動が再現されて、「苦痛」として認識されてしまうのだ。

農業指導の実践者であり詩人の宮沢賢治は、その類まれなる共感性によって心に多くの痛みを抱えながら生きた人である。賢治は「心の痛み」を「苦痛」にしてしまうのではなく、「けれどもここはこれでいいのだ」と避けがたいものとして「悲しみ」として純粋に受け入れた。「生老病死」からは逃れられない人間の運命を悲しんだのだ。賢治の悲痛な悟りはやがて透明な言葉となって人の心を潤す詩となった。賢治は、偉ぶって自分をガードしてみせるよりも、相手よりも低い位置に我が身を置き、「共感の痛み」を引き受けようとした。人々の悲しみに寄り添い一緒に悲しみを慈しむ「慈悲」の生き方を選んだのだ。




もうけっしてさびしくはない

なんべんさびしくないと云ったとこで

またさびしくなるのはきまっている

けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軌道をすすむ 

宮澤賢治 (「小岩井農場」より)




「雨ニモマケズ」

       宮澤賢治

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしはなりたい




【考えてみよう】

賢治はどうして木偶(でく)の坊(ぼう)(役立たず)と

呼ばれる事を良しとしたのだろう。

 

参考資料

『スピリチュアルペイン』に向き合う覚悟とは(日本終末期ケア協会)

孤独、寂しさ、落ち着きのなさ、不安などの精神的苦痛は、あくまでも「症状」であり、取り除くべく環境を調整することが必要です。環境が変わって眠れないのであれば、眠前に足浴をしたり、安心するように訪室をこまめにしたり、時には薬剤治療も併用したりして、つらさの緩和をしていく必要があるでしょう。

しかし、スピリチュアルペインは意味や価値の喪失であり、完全に取り除くことはできません。いくらベテランの医療者でも、その人が抱えている意味や価値の喪失の特効薬などは持ち合わせていないでしょう。それでも、「何とかしてあげたい」と多くの医療者は解決する方法を考えます。

大切なことは、その見えない意味や価値を一緒に考えていくこと、見放さずに傍にいること、一人ではないとメッセージを伝え続けることで「共にある」という道のりを歩んでいくこと。これこそがスピリチュアルケアなのです。スピリチュアルケアをしようとする医療者にとって必要なことは、「解決」ではなく「覚悟」です。「共にある」ことは何もできない自分と向き合うことでもあります。そんな何もできない自分でも、一緒に苦しみを見つめ続けようとする「覚悟」なのです。


紙ふうせんだより 6月号 (2022/07/22)

他者との相互作用によって見いだされる自己

皆様、いつもありがとうございます。灰色の雲の下で緑が雫に濡れています。緑陰に小さな灯火のように涼し気に咲いている白い花はドクダミです。ある方は「ぽっとん便所の裏に生えていたから、ドクダミは“便所草”のイメージしか無い」と言われ、ドクダミに悪い印象をお持ちの様子でした。花屋の店先のような色鮮やかさは無いけれど、ドクダミにはドクダミの美しさがあります。それを見落としてしまうのは残念です。考え方や価値観が柔軟性を失うと、物事を見る目は自分の偏見ままに留まってしまいます。

 

自己像が硬直化してしまうと、自己は危機にさらされる

良くも悪くも「私は〇〇な人間」と単一的に捉えてしまうのは硬直化した考え方です。考え方や価値観が硬直化してしまうと、「好き」ではなく「嫌い」が先鋭化していきます。嫌なものを避けようとするのが生存本能だからです。そして、どこに行っても何をしても嫌なものばかりが目に付くようになってしまったら、かえって自己の生存の危機となります。辛くてしょうがなくなる訳ですから、ますます嫌なものを避けようとします。そうして、かえって嫌なものが目についてしまうという悪循環(※1)です。

アレも嫌いコレも嫌いとやってると、「好き」の幅は縮小し、「嫌い」の幅がひろがってしまいます。また、そんな自分に悩み「自分のココが嫌い」「ココも良くない」とダメなところを数え上げて(※2)悩みに沈み込んでしまえば憂鬱になりますし、かえって失敗もあるでしょう。失敗から「自分はダメなんだ」と決めつけてしまえば鬱病になってしまいますから、決めつけないことが肝心です。

 

※1 森田療法ではこのような悪循環を「とらわれ」と呼ぶ

※2 認知行動療法で「反すう」と呼ぶ
 

自己は、多面的な自己像を持つ

自分とは何でしょう。循環する構造に着目してみましょう。

調子のよい時は好循環が起きていて、調子の悪い時は悪循環が起きていると捉えるのです。問題は循環にあるのですから、調子が悪い時は、とりあえず循環していそうな言動を一部でも「変えてみる」のです(※3)。実際にそれで悪循環が止まったりするのですから、自己の中に何らかの本質的な問題があると捉えて苦しむよりは、解決のハードルはぐっと下がってきます。いっそのこと単一的で固定的な自己などなく、良くも悪くも自己像は「循環によって立ち現れる」ものとして捉えてみましょう。

「杉浦の自己モデル(※4)」では、「自己とは認識された自己であり、さまざまな行動(他者とのコミュニケーションも行動のひとつである)とその結果のフィードバックの記憶が循環的に軌跡の重なりを形作ることによって、その輪郭が自己として認識される(※5)」としています。「認識される自己は、唯一のものではなく、さまざまな分野、さまざまな他者との関係において複数認識することができる(※5)。私たちは時と場合に応じてさまざまに異なる自己を認識し、それに基づいて自己呈示を行っている」と考えるのです。

ならば、好ましい自己像が周囲の人との相互作用によって多く自己呈示できるになっていけば、「朱(しゅ)に交われば赤くなる」とのことわざの通りに、自己も徐々に変わっていくと思われるのです。

 

※3 認知行動療法の考え方

※4外界・他者との相互作用の記憶が循環的に重なることによって輪郭が浮かび上がり、それが自己として認識される

※5杉浦健(近畿大学教職教育学部教授)「循環によって立ち現れる多面的自己から考えるセルフコントロール」より

 

支援者との関係性から見いだされる自己像

周囲との人間関係によって立ち現れる多面的な自己像は、実際に介護現場でも多く目撃します。要介護高齢期は、アイデンティティの揺らぎもあり、認知症があればなおさら適応行動や記憶が不確かになりますから、循環によって立ち現れる自己像も周囲の人間関係に依存的になります。

例えば、支援者が生活上の不安を事細かに聞いて「それは怖いね。不安だね」と不安に強く共感を示していくことによって不安な気持ちが循環して増幅し、その支援者との関係において利用者さんに「怖がりな自己像」が現れ、利用者さんはその支援者に以前よりも増して不安を訴えるようになった、というようなことはあります(※6)。ところがその利用者さんも別の支援者との関係では、「大丈夫、大丈夫、大したことない」と小さな失敗も支援者が冗談を交えて笑い飛ばしてくれてお互いに笑いあっていたところから、その支援者との関係においては「おおらかな自己像」が現れたりもします。

このようなことが実際にあるわけですから、支援者側の考え方や価値観は柔軟でなければなりません。「自分はたくさん質問して聞き込んだから、アセスメントに間違いはない」などといった気負いがあったりすると、その支援者自身からは見えていない利用者さんの別の側面を見落としてしまったりするのです。実はその利用者さんは質問攻めに嫌気がさして自分の気持ちを打ち明けなかった、ということもよくある話です。

私たちとの関係性によって、利用者さんの自己像はさまざまな姿をとります。例えば、自立支援ということで、レジでの清算に戸惑う利用者さんを(さりげないフォローを入れずに)ただ見守るだけを繰り返していところ、利用者さんに「何もできなくなった自己像」が現れることはあります。また、「自分はもうダメだな~」と言われる利用者さんに「そんな風に考えたらダメですよ」と繰り返し訴えていたら、ますます「ダメな自己像」が強調されたりもするのです。

 

自己像が大きく揺らぐとき

古い自己像を合わない服のように既に脱ぎ捨ててしまったにもかかわらず、新しい自己像が未だに見いだせないような時、私たちの内面は大きく揺らぎ不安にさらされます。自意識の芽生えに揺れる思春期や大人へと変わっていく青年期など、ライフステージの変化に伴って、それは起こります。

家では素直な子が悪友と戯れて万引きしたりするなど、一面しか見ていない人からすれば、信じられないような多面性が現れるのです。時には、自己を「変えてみたい」と変化を無意識的に強く希求するところから、既存の規範を犯すようなこともやってのけます。ギリシャ神話ではプロメテウスが天の火を盗み人間に与えて文明の火となり、創世記ではアダムとイブが知恵の実を盗み食いして人間は楽園から巣立ちますが、人類の黎明を描く神話(※7)にもそのような規範の逸脱が描かれています。

自己像が大きく揺らぐ時、それは利用者さんにもありますが、大きな「やらかし」は起こります。それを新しい自己像へ飛躍の試みであると肯定的に捉えれば、慌てることはありません。利用者さんが起こしてしまったボヤや転倒や迷子といった事件も、自己統合の過程に必要なこととして起きていると周囲が受け止めれば、利用者さん自身も新たな自己像を見出すきっかけとなるでしょう。

ともあれ、鏡に向かって敬い頭を下げる時、鏡に浮かぶ像もこちらを敬い頭を下げます。このような円環的因果律による循環は、自他の関係の基本であると思われます。

 
※6「不安にならなくていいよ」「不安なことは考えない方がいいよ」との声かけは、時にかえって不安に注視させてしまう。この囚われを「皮肉なリバウンド効果」と呼ぶ。囚われてしまっている自己が唯一の自己ではないということを知れば、囚われからの脱出の一歩となる

※7ユング心理学では神話や童話は人間の心理的構造のメタファーになっていると考える
 

 

紙面研修

熱中症を防ぐ

(空欄の穴埋めをしてみよう)

【身体に熱がこもるとどうなるのか】

人間の体の中では、いつも熱が作られています(産熱)。そして体の体温を一定に保つ働きが人間の体にはあります。気候条件や運動量増加により、体内の熱量が増えたにもかかわらず、放熱とのバランスが崩れてしまったときに熱中症は起こります。

体の熱量が増えると、体の表面(皮膚の下)の ① は拡張し血流量は増加します。体内の熱を体の外に逃がしやすくする為です。その時、血液が全身に行き渡るために体内の血液が一時的に不足して ②  が下がってしまう事があります。すると ③ に十分な血液が送られなくなります。 ③ への血液供給が少ないと、脳は酸欠を起してしまい、めまいや立ちくらみや、意識を失ってしまう事があります。これを「熱失神」と言います。お風呂の“のぼせ”と同じ原理です。なお、高齢者がお風呂で亡くなってしまう原因は入浴中の急な血圧低下によって失神し溺れてしまうからだと言われています。

体を冷やすためには、太い動脈が体表近くにあるところ(首、わきの下、太もも等)に、保冷剤や濡れタオルなどを当てるクーリングを行います。

 

 

【脱水になるとどうなるのか】

体温が上昇した時には体は汗をかきます。汗の ④ によって、体は放熱する事ができます。この時、発汗量が多いにもかかわらず、水分補給が足りないと、体は脱水状態になります。脱水状態が長く続くと、頭がボーっとして全身がだるくなって、水分や食事を摂ろうという“やる気”さえ無くなったりします。

「だるい」「なんとなく手足がツル、痺れるような感じがする」さらには「頭が痛い」「吐き気がする」「めまいがする」ということも起こります。「熱疲労」とも言われます。

これらの症状の怖いところは「ぼんやりとしてしまって、判断が鈍る」事です。例えば、炎天下にちょっと外出して帰宅したけれども、だるくってコップ1杯の麦茶を飲んで寝てしまった。その後、目が覚めても疲れが抜けず夕食を抜いてしまった…。単なる“疲れ”であれば、1食抜いても寝て休めば治ります。しかしこの“疲れ”が脱水に起因するものであれば、寝ている間にも症状は進行します。そして、食事から補給される水分量は多いわけですから脱水の悪化は避けられません。翌朝、脱水状態で一晩過ごしてしまったために脳梗塞を起してしまった!となったら大変です。

そのようになる前に、頭がぼんやりとして身体の危険信号に注意を払えなくなってしまう前に、日頃の意識的な水分補給が大切です。体への吸収の速いポカリスエットなどのスポーツドリンクなどが有効ですが、高齢者などで水分摂取が困難な様子であれば、病院へ搬送し点滴をしなければなりません。独居の方は救急車要請を検討する場面です。

脱水症状の本当に怖いところは、それが心筋梗塞や脳梗塞の原因になる事です。体温が上がると、身体は「放熱」の為に血管を拡張させます。その結果、血圧が下がって血液を送り出す力が弱まります。そのような時に脱水が加われば、脱水症状でドロドロになった血液は「血栓」ができやすくなります。血栓が心臓に詰まれば ⑤ 、脳に詰まれば ⑥ です。どちらも対処が遅れれば命に係わります。

 

【運動中の若者が倒れる「熱射病」】

 運動中に疲労はつきものですし、喉も乾きます。だからと言って身体のサインを無視し続けると、熱の影響が脳に出てしまいます。これを「熱射病」と言います。そうなると自分では判断できませんし、意識が遠のいて倒れてしまいます。運動部の練習などで炎天下にトレーニングしていたらぐったりしていたので、木陰で寝かせていたらそのまま亡くなってしまったというニュースがあるように、大変危険な状態です。また、汗の中にはナトリウムなどの塩分(電解質)が含まれていますが、大量の発汗の後に、塩分を補給しないと体の中の塩分量が不足してしまいます。電解質は筋肉の動きを調整する役割も持っているので、塩分が不足をすると手足がつったり、筋肉が ⑦ をおこしてしまうことがあります。これを「熱けいれん」といいます。

 

(回答) ①血管 ②血圧 ③脳 ④蒸発・気化 ⑤心筋梗塞 ⑥脳梗塞 ⑦けいれん

 

【下記の状態が見られた場合は要注意】

 ◾元気がない ◾食欲が無い ◾便秘が続いている  ◾尿の色が濃く量や回数が減った

◾居眠りをしていることが多くなった ◾手足が冷たい ◾指の先が青白く冷たい ◾首筋がべたべたする ◾皮膚やわきの下が乾燥している ◾口の中が乾いている ◾皮膚に張りが感じられない

 ◾微熱が続いている ◾血圧が低い ◾脈が速い(120回/1分) ◾体温が37℃以上ある

◾爪を押して離した時、赤みが戻るまで3秒以上かかる ◾手の甲をつまむと形が残る(富士山)

◾吐き気がする ◾頭痛がする ◾しびれや痙攣がある ◾受け答えの反応が弱い ◾めまいがする

 ◾夜間や日中の室温が高い ◾下痢や嘔吐、大量の汗をかくなどを繰り返している(脱水リスク)

 

 

 


紙ふうせんだより 5月号 (2022/06/17)

あなたも家族も助ける為に

本来はすがすがしい晴天の続く5月ですが、今年は梅雨の走りのようなじめじめとした日が多かったですね。「走り梅雨」とも呼ぶそうです。雨の日の自転車走行にはご注意下さい。

交通事故というものは自宅近くで起こることが多いと言われています。「安心感」が気の緩みとなって事故に繋がるのです。もちろん皆様は十分に注意されていることと思います。うるさいようですが、くれぐれもご注意下さいませ。

「決めつけ」が人を苦しめる

「うるさい」という言葉、漢字ではなぜか「五月蠅い」と書きます。何でも旧暦の5月、つまり梅雨ごろに蠅(はえ)が群れて発生し、その羽音がうるさいことから「五月蠅」との漢字をあてるようになったとのことです。「うるさく言われているうちが花」とはよく言いますね。これは注意する側の視点から「うるさい」ことを肯定的に捉えています。期待や関心が無かったらうるさく言わない、という意味です。うるさく言えるのは、そこに言えるだけの肯定的な結びつきがあることを前提としているがゆえに、相手に対して否定的なことが言えるのです。

でも、そのうるさい内容が「決めつけ」であったら言われる側はたまりません。注意をした側も、労多くして関係を壊してしまったら何の為に今まで言ってきたのか、ということになってしまいます。皆さんも自分の昔のことを振返ってみましょう。「親は私のことを何でも決めつける!」と思っていませんでしたか。しかし子供の側にも「親なのに何で私の事を解ってくれないの!」という期待の裏返しの否定的な決めつけがあります。親の立場からは、「自分自身の気持ちや考えがあるなら、はっきり言ってくれれば良いのに」という言い分があります。しかし子供は、思わずついた溜息に「ウチの子は全く…」(手がかかる、愚図なんだから)といった否定的なメッセージ(二重拘束(ダブルバインド))を読み取っているのです。

「決めつけ」の悪循環を変える為には

お互いに相手を“悪者”として決めつけをしていたら、「鶏が先か、卵が先か」と同じで相互作用によって噛み合わない関係をさらに強化してしまう悪循環となります。自分の見解が「決めつけ」と受け取られてしまうのは、自分にとっては当たり前すぎる思考の「枠組み」があって、当たり前すぎるから気が付かずにその「枠組み」の中に相手を押し込もうとしてしまっているからです。だから、自分の中にそのような固定的な思考の枠組みが無いかを点検し、物事の見方を変えてみる必要があります。これをリフレーミング(再枠付け)と言います。

「○○すべき」「○○しなければならない」という思考パターンが強い方は要注意です。何も親子関係に限った話ではなく、介護関係でも同様です。先の段落の「子」を「利用者」に、「親」を「ケアマネ」や「利用者家族」と読み替えても意味が通じますよね。訪問介護でよく耳にする利用者さんの不満の第一位は、上から目線を含めて「決めつけられて嫌だ」というものです(※1)。「決めつけ」が人を苦しめているのです。

 

※1 こんなことを書くと利用者の不満第一位は「ヘルパーさんがやってくれないこと」だとケアマネさんから叱られそうですが、それぞれの立場としてそれは当然であるし、生活に不具合を抱えて潜在的に不満のある利用者さんにとってはヘルパーさんへの期待値が高く、その反動としての「期待の裏返し」としても説明ができる。しかし、ヘルパーも自戒が必要である。
 

“治らなかった終わり”という観念を生じさせる「治療モデル」

決めつけた態度は、経験に対する自負があるベテランほどとってしまいがちですが、古い介護観の根底ある「治療モデル」が構造的な悪影響を及ぼしています。

治療モデルでは、要介護という現象を病気やケガや健康状態により生じた個人の身心の医学的な問題として捉えるため、治療やリハビリによって回復を目指すことが優先されます。そのため、利用者は医師などの専門家の指示に従わねばならず、ケアマネージャーなどはその専門性から利用者を“指導”することが務めであると考えます。利用者や利用者家族の生活上の困難さは、結局は利用者(の病気等)が原因であるとして、構造的に利用者を責めてしまいます。

“指示の入らない”利用者がいた場合、そこに見られる“反発”を加齢に伴う性格変化や理解力の低下、精神状態の不安定さなどとして捉え、それを病気か病気に近い状態と判断し、その状態や病勢は不可逆的に進行すると予測します。そして、根本的に解決するためには原因を排除するしか無く、健常者と病人・障害者の生活を分離して利用者には遅かれ早かれそれ相応の施設に入って頂くしかない、と考えます。これは、生きる意欲を奪う介護観です。そんな介護観に利用者さんが反発しても“認知が入ってるから…”として“専門家”は、そこに在る心の声をスルーしてしまい、利用者さんと家族を精神的に追い込んでいくのです。

一方の「生活モデル」では、「生活の困難(障害)」の原因は、障害や病気ではなく「生活環境や支援体制の不備」の問題であると捉えます。専門家の役割はそれらを整備することであり、生活の主役は利用者であることを共に確認します。利用者さんに反発があるならば、利用者さんに疎外感を与えてしまった関係性や専門家の説明不足などとして捉えます。支援は、相談や提案という形で利用者の気持ちに寄り添いながら利用者の身心の安定(=生活の安定)に努めます。生活モデルの人間観は、人間を健常者と病人・障害者として分別するのではなく、全ての人間は生老病死を抱えながら生きているのであるから、専門家も同じ痛みを持つ人間として共感し、生きる希望を利用者さんや家族と一緒に考えていくのです。

相手を責めない態度で、部分ではなく全体を視る

「治療モデル」は究極の原因からドミノ倒しのように問題が生じている(直線的因果律)と考えるため、必然的に“悪者”を作ってしまいます。一方、“悪者”を作らない考え方もあります。「家族療法(※2)」は、問題を“家族システムの不調”にあると考えるのです。

例えば、認知症利用者とその家族の不安は相互作用によって「利用者の不安→変な行動→家族の不安→利用者の不安→」と不安は連鎖(円環的因果律)していきますが、「変な行動」に意味やメッセージがあるのではないかと検討してみたりして、部分ではなく全体を、要素だけでなくその繋がりや関係性を重視し、関係性の調整に努めるのです。家族療法では家族の成員全体を支援する視点を持ち、家族を集めた面談が大切であると考えています。

「『(※3)あなたを助けるために、あなたの家族と会いたい』と告げること、それ自体が効果的な介入になっていることは、家族療法の奇跡とも言われている。開放的でかつ相手を責めない態度で、家族の一員の痛みや障害を調べ、修正するために、できるかぎり家族を集めることは、驚くほど有益である」とは、家族療法の実践者の指摘です。サービス担当者会議や訪問介護の現場を、利用者さんとその家族の心を癒していく絶好の機会としていきましょう。

※2 ダブルバインド、直線的・円環的因果律、相互作用、リフレーミングは家族療法の用語。家族療法では、家族システムの中に支援者が加わることによって関係性の調整を促進します。

※3システム心理研究所HP「心理療法とシステム論」

 

紙面研修

医療モデルと生活モデル

治療モデルは、あるがままの「その人」と向き合わないで、その人を利用者・患者・病人・障害者といった枠組みに押し込んでしまいます。治療モデルは「障害」の原因を「個人」の心身機能に求めますから「個人モデル」とも言われます。

対して、生活モデルは、「障害」の原因を社会機能に求めます(個人に原因を求めないところは家族療法も同様)から、「社会モデル」とも言われます。どんな人でも地域で普通に暮らせることが、本来の「普通」と呼ぶべき社会の在り方であるという「ノーマライゼーション」の考え方が根底にあります。

ノーマライゼーションは1950年代に提唱されるようになりましたが、それ以前の考え方は「障害者」を社会の中にある異物(障害)と捉えて社会から排除し施設に収容するものでした。しかしこれは人道的に誤った考えです。「障害」は社会の側にあるのです。社会にある障害を取り除いていくことをバリアフリーと言います。バリアとなっているものは交通障壁のみならず、偏見や差別、営利企業の態度や脆弱な社会保障制度なども含まれます。

 



 

 



 
【考えてみよう】

医療の視点に偏り過ぎて生活や人生の視点に欠けている支援や、特定の個人に原因を負わせ過ぎている支援や、“専門家”が上から目線となっているような支援はないだろうか。
 

 

 

 


紙ふうせんだより 4月号 (2022/05/19)

悲しみを繰り返さないために

雨の後の桜並木の下はまるで雪が白く積もったようでした。花弁を散らした桜の木は萼片(がくへん)や花柄(かへい)の赤色が際立ち、やがて新芽の緑色に入れ替わっていきます。桜の木は駆け足で表情を変え、空の色は夏の気配です。皆様いつもありがとうございます。これからの季節は水分補給をお願いします。東京でこれですから、沖縄などはもう夏になっているのでしょうか。

悲しみのリフレイン

東欧諸国がドミノ倒しのように民主化していったのは、昭和から平成に変わった1989年です。同年11月2日、ついに「ベルリンの壁」が民衆の手によって壊され、東西冷戦の事実上の終結を世界に印象付けました。翌月には「ヤルタからマルタへ」との見出しが新聞に躍りました。クリミア半島のヤルタで米英ソの首脳が行った会談(1945年2月)による戦後体制の取り決め、いわゆる「ヤルタ体制」が終わりを告げ、ソ連のゴルバチョフと米国のジョージ・ブッシュの両大統領が地中海のマルタ島で会談を行い東西冷戦の終結を宣言したのです。これで世界は平和になる――誰もがそう感じていました。しかし、幸せな空気は束の間でした。1990年8月、石油をめぐる対立から突如、戦車350両、兵員10万のイラク軍機甲師団が国境を越えて隣国のクウェートへの侵攻を開始したのです。

歌手の森山良子さんはこの湾岸戦争を受けて、20年間封印してきた「さとうきび畑」を再び歌う決心をしたと明かしています。広いさとうきび畑を風が通り抜ける「ざわわ」という擬音語が66回もリフレインするこの曲に込められている思いは、「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦への悲しみです。しかし、「戦争を知らない自分はその千分の一もうかがい知ることはできません」「とても私の手に負える歌ではない」と、森山さんは1969年のレコーディング以来この曲から遠ざかってしまっていました。1969年は、泥沼化したベトナム戦争の終結を模索するニクソン大統領が、日米会談で沖縄返還(※1)を約束した年でもあります。

 

※1明仁皇太子は返還後の沖縄を初訪問(1975)し『払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこの地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』と述べ『人知らぬ魂 戦ねらぬ世 肝に願て』(人知れず亡くなった魂に戦争のない世を心から願って)と琉歌を捧げられた。以来沖縄訪問は11回を数える

民間人を巻き込んだ大規模地上戦

沖縄戦は、1945年3月26日の慶良間諸島への米軍上陸と本島への空襲や猛烈な艦砲射撃に始まり、米軍の4月1日の沖縄本島上陸により民間人を巻き込んだ大規模な地上戦が3ヶ月間続きました。死者数は双方合わせて20万人を超え、使用された砲弾は20万トン以上、今でも2千トン近くの不発弾が地中や海に眠っていると言われています。

「鉄の暴風と形容された沖縄戦は、敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たち、毒薬を注射されて死んでいった子どもたち、日本軍によってスパイ視され殺された人、自らの手で家族を死に追いやった人、異郷の地で命を落とした人、そしてマラリアや飢えで死んだ人等、沖縄戦はまさに地獄絵さながらでありました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。4人に1人が亡くなったことになります。(沖縄市HP)」


戦争を知らない世代が学ぶべきこと


沖縄戦は、私たちが今介護をしているような世代の方々が実際の戦闘に参加しています。時間稼ぎのために沖縄を「本土防衛の捨て石」とする方針が取られ、軍部は中等学校以上の生徒の多数を戦場へと動員しました。13歳以上の320名の女子生徒によって結成されたひめゆり学徒隊は、傷病兵の看護にあたりながら軍と共に行動し攻撃や自決に巻き込まれて172名が戦死しています。学校ぐるみで編成が行われた14歳から16歳の男子生徒による鉄血勤皇隊は、陣地構築や伝令や特攻の任務を与えられました。特攻は爆薬を詰めた木箱を背負ってキャタピラの切断を狙って戦車に轢かれるもので、1780人中890人が戦死しています。

陸軍中野学校の工作員は沖縄戦を前に沖縄に教員として赴任し、生徒による後方攪乱の為の秘密部隊(護郷(ごきょう)隊)を組織しました。集合に遅れた為に見せしめに銃殺された生徒もいたといい、少年達は組織的戦闘の終了した6月22日以降もゲリラ戦を続け、約千名の隊員のうち160名以上が戦死したことが判っています。また、沖縄には1万人以上の朝鮮人が陣地構築などの土木作業の為に連れてこられており、多くの方が亡くなっています。

何のためにこんな重い歴史の話をするのか、と思う方もおられるでしょう。戦争は決して美談ではなく多くの悲惨が伴うことを知らなければなりません。今太閤(いまたいこう)やコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた戦後最大級の政治家田中角栄(元上等兵)は「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と、日本について危惧していました。

 

終わらない戦争をいつか終わらせるために

2012年に戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)についての初めての大規模調査がありました。沖縄県内のデイサービス利用者から無作為に選んだ359人(平均年齢82歳)に面接し、そのうち約4割にあたる141人に沖縄戦によるPTSDが見られるという結果が示されたのです。症状の特徴の一つは「過覚醒型不眠」で夜中に断続的に目が覚めるものの抑うつ傾向は少なく、夜中に「わーっ」と叫んで飛び起きることなどもあり、ナチスによるホロコーストの生存者にも同様の症状が見られました。

調査した精神科の蟻塚(ありつか)医師によると『「沖縄戦(※2)の時、どこにいましたか?」と聞くと「米軍の爆撃によって目の前で肉親を殺された」「日本軍にガマから追い出された」「艦砲射撃の中で死体の山の中をひたすら逃げた」などという戦場体験が次々と語られ(略)同時に患者さんたちには、「運転していていまどこかわからなくなる」とか「戦場の場面がフラッシュバックしてくる」「日の丸を見ると体が戦慄する」「死体の匂いがする」など、トラウマ性の解離、パニック発作、身体化障害など一連のトラウマ反応(外傷性精神障害)が見られた』ということです。悲惨な戦争体験は、うつ病・統合失調症・てんかん・DV・アルコール依存・自殺・幼児虐待・離婚などのその後の発現にも根深く関わっており、個人の中では戦争は終わってはいないのです。

1972年5月15日、沖縄の施政権は米国から日本に戻されましたが、今でも在日米軍基地の74%が沖縄にあります。戦争による傷は簡単に癒えるものではありません。戦争の惨禍(さんか)を語り継ぎ、武力による威嚇を拒否し武力の行使を否定することで、戦争を二度と起こさせないように働きかけ続けることが、その痛みに報いることではないかと思うのです。

 

※2「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2015年8月号 蟻塚医師によると「本土防衛の捨て石」の遠因は日本による沖縄侵略(1879琉球処分)にあり、以降内地では琉球(沖縄)人は二等国民として「差別」されてきたことにあるという
 

 


紙ふうせんだより 3月号 (2022/04/22)

人生を語るも気づけば春の夢

「春眠暁を覚えず」とは、「春の夜はまことに眠り心地がいいので、朝が来たことにも気付かず、つい寝過ごしてしまう」という意味ですが、孟(もう)浩然(こうねん)の「春暁」(しゅんぎょう)の「春眠不覚暁   処処聞啼鳥」からきています。いいですね。うとうとと夢み心地のなかに、ウグイスなどの春の鳥の鳴き声が聴こえてきて「あぁ朝かな」と思いますが、気持ち良いからまだ寝てよう、という感じ。でも、今日も仕事です。皆様、いつもありがとうございます。

春の夜の夢

「春夢(しゅんむ)」という言葉もあります。「春の夜の夢」の心地よさを惜しんでいるのか、「人生のはかないさま」を譬(たと)える言葉です。「はかない」とは「人べん」に「夢」と書いて「儚(はかな)い」と書きます。睡眠中の「夢」は起きると忘れてしまうので頼りないように思われがちですが、実際には人生の羅針盤として頼りになることもあります。

ある利用者さんが「夢」の話をして下さいました。「人が集まって何かやってるなと思ったら、自分の葬式だった」と言われるのです。人垣の向こうに花の山がしつらえてあって、祭壇かな、とよくよく眺めたら遺影があって…「自分だ…」え、死んだのか? あぁ、やるべきことが色々あったのに遅きに失したか!と言うようなショックがあっただろうことは想像に難くありません。

夢は、一般的には春の暁の浅い眠りのような半覚醒状態で見ると言われています。いわば意識と無意識の中間領域なのですが、意識化されていない未整理状態の心理的課題は、無意識の領域に集積されていると考えられています。夢をありありと覚えていたのは、それが現在の意識の在り様に対して何らかの意味をもっていたからです。意識化されている世界観に何かが欠けていて、必要に迫られて無意識が夢という通路から意識へと働きかけてくるのです。

ユング(※1)が創始した分析心理学では、夢を分析するなどして無意識が意識へと働きかけてくる意味を理解することによって、新しい自己像を見出すことができると考えています。私は、利用者さんが「もうすぐ自分は死ぬんだ」という絶望感に囚われないようにと願い、ユング的な夢の解釈をお伝えしました。

「『死と再生』はセットになっています。神話や物語や芸術作品では、再生が表現されるその前段に必ず死が語られます。その構図と同じように、夢の中の死のイメージはある段階や状況の終了を意味し、再生としてその次のライフステージへと進まねばならないことを告げているのではないでしょうか。問題は次の段階にどのように入っていくかです。人生の最終ステージは今まで得てきた社会的地位などが役に立たなくなる段階でもあり、その段階に無自覚に踏み込んでしまったら、『人生で得てきたものは無意味だった』と大きな喪失感を生じさせてしまいます。しかし自覚的に入って行くならば深い人生回顧となり、今まで気が付かなかった人生の側面に気づかされ、新しい自分の発見になると思うのです。」

 

※1ジークムント・フロイトは「夢は抑圧された願望の偽装した充足である」としたが、カール・グスタフ・ユングはフロイトが性愛理論に偏りすぎていると主張し、夢は無意識や集合的無意識からの意識に向けてのメッセージであるとした。
「生かされ生きている」 命の本質に気が付く

多くの人が勘違いをしています。人生の成熟した期間が長く続いたばかりに、自分のことは自分で全てまかなえていると勘違いして、まかなえていることが「自立」であり、それが自分であると誤解してしまっているのです。しかし私たちは、誰一人として一人では命を継ぐことさえままならない存在です。

食べているお米は誰が栽培したものでしょう。誰が運んだものでしょう。土と水と太陽に育まれなければ稲は枯れてしまいます。着ている服は誰が作ったのでしょう。どこかの国の労働者がミシンをかけています。生地が化繊なら何億年も前の生物が石油となって、木綿なら綿花の、絹ならお蚕様の働きがあります。大地が無ければ人は立っていられません。自分がなぜ立っていられるのか、その支えについて知ることが本当の「自立」ではないでしょうか。

人間は、一人では生まれてくることも死んでいくこともままならない存在です。人生の最終ステージの課題は、「生かされ生きている」自分を身をもって体験することによって、「生かされ生きている」命の本質に気が付くことではないでしょうか。そう考えると、人の世話になることにも深い意味があるのです。周囲に迷惑をかけるから「死んだほうがまし」と言われる方は多くおられます。それは、これからを「新しい視点を持って生き直してみたい」という再生への渇望の表れでもあるのです。

自己統合の過程に必要なこと

死について語ると「縁起が悪い」と反応する人がいます。これは「縁起」という言葉の誤用です。「縁起」とは元来、漢訳された仏教用語で、すべてのものは「縁によって起こる」ものであるから、「ものごとの関係性(縁起)について知ることが、より深い人生理解になる」というような意味なのです。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものなのですから、自身の存在を「独立自存」のように見なしてしまうことは、自己への執着となり他からの支えを見えなくさせて、孤立感の原因ともなるのです。

生命とは、それそのものが自律的に機能し、代謝をしながら恒常性を維持し自己増殖をしていくものですが、その自立した存在は外部環境との縁という“他立”によって支えられているのです。生の根幹に関わる回答は、時に逆説的な構造(※2)で示されることがあります。「自立とは他立を自覚することによって成り立つ」とか「生まれ変わるためには(象徴的な)死を体験しなければならない」などです。

※2 沖永宜司は、禅問答の構造は「問いかけに答えるのではなく、この問いを問いたらしめているものの方へと気づいて行くこと」という面があることを指摘している(禅言語の逆説構造)。

私たちは介護の支援過程で利用者さんが事故を起こしたり急に症状が悪化するような場面に多く遭遇します。それを不安に感じる人は「もう在宅は無理ではないか」と性急な判断をしてしまいがちですが、本当にそうでしょうか。そのような課題は新しい自己像を得るために必要なこととして起きている「自己統合への過程である」と捉え直してみることも大切です。多様な視点を持っていれば、利用者さんの自己実現を介護によって阻害してしまい、かえって状態を悪化させてしまうような悲劇も避けられるはずです。

死の夢を見たその利用者さんは、後に新しい夢を見ることができました。「歯医者に行って歯の手術をされて、もうやめてくれというような状況だったけど、何とか無事に終わることができた」と言うのです。歯は生存に欠かせないもので生命力の象徴と言われています。また、歯が抜けて治ることは、乳歯が永久歯に生え変わるように「再生」を意味します。利用者さんが得ることができた新しい人生を、心豊かに過ごされるように願っています。

 

紙面研修

「ハラスメント」とは

「ハラスメント」という言葉は、一般的には「嫌がらせ」と言う意味で用いられています。「嫌がらせ」とは、他者(特定、不特定多数を問わず)に対して、不愉快な気持ちにさせることや、実質的な損害を与えるなど、不快感を与える行為の総称です。

「嫌がらせ」は英語にはHarassment(ハラスメント)と訳され、英語の意味は「苦しめること」「悩ませること」「迷惑」等となりますが、日本語と異なるニュアンスがあります。日本語の「嫌がらせ」という言葉には、行為者の「悪意」が感じられますが、「ハラスメント」の場合は行為者の悪意は問いません。悪意が無くても相手が嫌がる事は「ハラスメント」です。

「ハラスメント」は人権侵害

【人事用語労務辞典】

ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。

近年、職場における「ハラスメント」が急増し、人事管理上、深刻な問題となっています。

「ハラスメント」の無自覚性

近年、「モラルハラスメント(モラハラ)」や「マタニティハラスメント(マタハラ)」「スモークハラスメント」などハラスメントに関する言葉が増えてきました。「モラハラ夫」などという言葉も登場し、夫の無自覚な妻への依存や攻撃なども離婚の原因となっているようです。「ハラスメント」の行為者は、その言動に無自覚なことが多いために、各自が自己点検をしていく必要があります。

 
私たち皆が、ハラスメントの「加害者」にも「被害者」にも成り得る

【パワーハラスメント】

力関係の差(立場など)のあるところで必要以上の叱責や無理な要求など

    考えられる例)上司→部下(経営者→従業員、管理者→従業員)

           ケアマネージャー→訪問介護のスタッフ

           ケアマネージャー→サービス事業所

           サービス提供責任者→訪問介護員

【介護ハラスメント】

利用者や利用者家族からの必要以上の叱責や無理な要求など

考えられる例)利用者等→ケアマネージャー

利用者等→訪問介護のスタッフ

【介護虐待】

利用者さんにパワハラを行ったら心理的虐待、セクハラを行ったら性的虐待となります。

考えられる例)ケアマネージャー→利用者等

訪問介護のスタッフ→利用者

【セクシャルハラスメント】

性的な言動等で人を不快にさせたり環境を悪くするなど

    例)性的な部分を強調したポスターの掲示

    ※男性から女性へと行われることが多いが、稀に女性から男性もある

【その他のハラスメント】

  例えば、お笑い芸人がよくやる「いじり」という行為も、相手が返答に窮するようなやり方や不快に感じている場合は、ハラスメントとなります。

考えられる例)同僚→同僚(部下→上司 もあり得る)

 
現在、紙ふうせんではハラスメントや虐待対応を盛り込んだ「就業規則」への改定作業を行っています


紙ふうせんだより 2月号 (2022/03/18)

新しい季節に、新しい自分を

皆様、いつもありがとうございます。雪の日の訪問はお疲れ様でした。陽射しの熱量は日ごとに増していくようです。再び始まる季節の一めぐりは、年輪のように私を包み、私をも新しくするでしょうか。新しい季節に再び初々しい気持ちで歩み始めたいと思います。

今を生きることの大切さ

自分の心を生き生きとさせるにはどうしたら良いでしょう。目や耳に入る物事が人生の初体験(※1)であるような新鮮さをもって感じられるなら、毎日は感動の連続です。

ある利用者さんは末期の癌と診断され、家族は穏やかな看取りを求めて在宅生活を選択されました。80歳を過ぎても自分で車を運転し経営する小さな町工場まで通っておられたとの事でしたが、癌はおそらくは全身に転移、認知症状もその影響と思われました。身体的に負担にならないように入浴は行わず清拭の支援。やがて歩行が困難になり排泄の支援が毎朝夕となり、奥様の負担軽減のために食事介助も始まりました。食事のお供のポカリスエットを飲みながら、毎日こう言われるのです。「あぁ美味しい。これは何て言うんだい。そうかい、初めて飲んだよ、美味しいね。」そして飲み終えてお替わりをするのです。

穏やかな日々が続きました。「もうすぐ桜が咲きますね」と問いかけると、「農大脇の河津桜は咲いていましたよ」と奥様。奥様は思い出されたように、「そういえば介護が始まったのは去年の今頃でしたね…余命3ヶ月と宣告されたのにもう一年になるのね…」と言われました。この方は、毎日のケアが終わるたびに、初めてケアを迎え入れたときのような笑顔でお礼を言って下さっていました。後光に包まれている様なその佇まいは、本当に体全体が微かな光を発しているように見えました。そうして染井吉野の開花を待ちわびる頃、霙の降りしきる日に旅立っていかれました。認知症の方は「今を生きている」と言われることがありますが、日々感動して生きているようなあのご様子は忘れられません。

「今」の拡がりが、心の自由度を決める?

1959年の米国北部が舞台の映画『今を生きる(※2)』には、青春という人間形成の季節に、常識や規則や将来の不安に縛られて「自分を小さくしてはいけない」というメッセージがあります。厳格な全寮制男子進学校に赴任してきたキーティング先生は、「バラの蕾は早く摘め、時は過行く。今日咲き誇る花も明日は枯れる(※3)」「今を生きろ(カーペ・ディエム )(※4)」と生徒に訴えます。先生に触発された生徒が結成した秘密クラブ「死せる詩人の会」は、「死ぬ時に悔いの無いよう生きるため」というソロー(※5)の一節が開会宣言として読まれます。生きることの核心は過去でも未来でもなく「今」にあります。過去の悔いも未来への不安も感じるのも「今」であり、未来への扉を開くのもまた「今」なのです。またある時、先生は突然机の上に立ち「なぜここに立った?」と問いかけます。「物事を常に異なる側面から見つめるためだよ」と、生徒全員に机の上に登らせます。そして「君ら自身の声を見つけなくては」と促すのです。




※1ドラえもんの秘密道具にはなんでも初めてのような感動をうける「ハジメテン」という薬がある

※2ロビン・ウイリアムズ主演1989年米国

※3 17世紀英国王党派詩人ロバート・へリック

※4ラテン語で「その日を摘め」紀元前1世紀のローマの詩人ホラティウスより

※5ヘンリー・D・ソロー(1817‐1862)「ウォールデン 森の生活」第2章より




過去を尋ねることによって、新しい自分を知る

地面の蟻、道端の草、雲の形…。子供の頃を思い出すと、「今」という時を精一杯感じていたことが思い出されます。「今」何かを感じ、新鮮な光彩を放つ世界を感じ、それに合わせてプリズムのように多彩に変化する自分の心を感じ、その心を持つ主体としての自分自身を感じ、今生きていることや今生かされていることを身体で感じて、それらを確かなものとして「今」を生きていました。しかし大人になると、計画や行動や検証や改善に追われて「今」を感じる余裕がありません。後悔や不安に囚われて「今」が極端に窮屈になり、何も見えなくなってしまうことさえあります。どうしたら変えられるでしょう。

過去の積み重ねの上に現在という時間意識があります。不安の強い人は現在の上に更に重しのように未来への不安が乗っています。過去への理解がより肯定的なものに変わったならば、「今」を基礎づける足場は今までよりも安定したものになります。一つの方法としては、(マインドフルネス瞑想(※6)などで)「今」に意識を集中し穏やかな心理状態になって、そこから過去から現在までの自分を俯瞰するように見つめ直してみることです。見方が変れば、今まで気が付かなかった新しい発見があります。孔子は、「過去から新しい気づきを得ることの大切さ」を説いています。「故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る」(温故知新)です。

「温故知新(おんこちしん)」の含意は一般的には、「昔のことを学び、そこから新しい知識や道理を見つけ出すことの大切さ」や「先人の知恵からよく学ぶ者こそがリーダとなれる」などとされています。「歴史に学ぶことで現代への認識が深まる」とも言えます。「新しき知る」とは「最新情報を知る」という皮相的な意味ではありません。「新しさ」を決定づける要因は過去にあります。「新しさ」とは、物事の背景に膨大な過去がある事を覚知して、対比させて浮かび上がる「現在の何か」です。新たな何かが見出される時、「変わった」となるのです。

過去も未来も「今」という手の中

業界人だったある利用者さんは、現役時代、活発に多方面に食い込んで人間関係を仕事に活かし、見事な成果を築いてきました。喫茶店で始まる一日4回の食事のうち、夜の2回は打ち合わせや交渉です。妻にも来客の歓待を命じ、気が利かない時に手を挙げたこともありました。世間知らずの妻に自分の足を引っ張られたように感じたからです。奥様は「夫婦だったけど別々の人生を生きてきたようだった」とその頃を述懐されています。

いつか華やかな時代は遠くなり、体にはガタが出てきました。もどかしさから社会的孤立感を感じるようになっていました。しかし変わらない妻の献身的な支えがありました。過去の自分の活躍も妻の裏付けがあってこそ成り立っていたと気が付いた時、かつては深く考慮をしてこなかったあの頃の妻の気持ちも思い起こされて、それがお詫びと感謝の言葉として伝えられた時、お互いに、決して別々の人生では無かったと感じられてくるのです。今、支えあう生活は、苦労を分かち合い必死に生きてきたお互いを確かめ合う意味のあるものとなっています。

「過去は変えられない」と言う人がいますが、過去への認識は変えることができます。過去を丁寧に振り返り、そこに肯定的な新しい意味を見つけ出せれば、鉛色の「今」も色彩豊かな「今」へと変わっていきます。積み上げられた過去への認識の上に「今」の自己認識があるのですから、「今」それを変えられたなら、自分も未来予測も変わっていくのです。




※6 仏教的瞑想に由来する。呼吸を整えて「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、捕らわれのない状態で、ただ観ること」を実践し平らで穏やかで偏りのない状態へと心を整える。「判断を加えないこと」や「現在の瞬間を中心に置く」ことによって、心理療法の「脱中心化」が行われ自分の体験から距離が取れるようになる。紙ふうせん便り平成29年5月号参照。




 

紙面研修

生き生きと生きるために必要なこと

「最も大切なものは何か」と自問し、囚われに気が付くこと

疲れている時などは嫌なことを余計に嫌だと感じるように、人は感情に引きずられた判断をします。感情には自分に降りかかる嫌な要素を増幅させる働きがあるのですが、それは、危険を察知して積極的に逃避するために必要な動物的な本能とも言えます。しかし一方で、人類は分業制を発達させて文明を築いてきたのですから、「楽しくない仕事を引き受ける人」を必要としてきました。現代では多くの人が、自らの生活や人生と直接的に関わりの無いような、“一体何の意味があるの”と思う事もやらざるを得なくなっています。実際問題、嫌なことが多々ある現代社会の中で「嫌だ嫌だ」と言っていたら、感情はすり減ってしまいます。どうしたら良いでしょう。「人間の暮らしや人生や命にとって本当に大切なものは何か」と問いを立て、ウォールデン湖畔の森に自ら丸太小屋を建てて自給自足生活を営んだソローは、『森の生活』(「死せる詩人の会」引用部分)で以下のように述べています。




「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、実は本当には生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。私はあきらめたくはありません。私は深く生き、暮らしの真髄を吸いつくしたいと熱望しました。(今泉吉晴訳・小学館)」




介護の仕事は生きる事と向き合い、命の営みがもたらすものから何かを学び取る仕事です。しかし現代の日本では3Kとして嫌われがちな介護職ですから、人生や命を軽視するような価値観の転倒が社会構造に組み込まれてしまっているとも言えます。その転倒に気が付かなければ個人の考えもまた影響を受け、何かに縛られているように感じながら生きることになります。ソローは、人は「自分についての自分の考えの奴隷になり、囚われ人になっています。」と指摘しています。




「つまり私が生き方を提案したいのは、主に、要は不満がある人、運の悪さや時代のひどさをなんとかしたいと思いながら、不平を言っているだけの人です。また、やるべきことはやっていると思っているために、何ごとにも批判的で、投げやりな人がいます。あるいはまた、お金をため込んでいても、どう使ったらよいか、どんなふうに散財したらいいかわからず、とうとう自分のために金銀の足かせを鋳造する人がいます。私はこのような人にも、生き方を提案したのです。(前掲書)」




感情の囚われから自己を解放すること

皆が森の中で生活できるわけではありませんから、「嫌だ」と感じる自分の感情とは、折り合いをつけなければなりません。「どのような自分が“嫌だ”と感じるのか」と、自分を俯瞰してみることも必要です。そして、余計に嫌だと感じる感情の囚われから自己を解放することが大切です。

ソローはエマソンから古代インド聖典を借りて読んでおり、瞑想にも親しんでいたといいます。瞑想の技法は認知症ケアのバリデーションでも取り入れられています。利用者さんと対面する前に瞑想を行い介護者が穏やかで偏りのない精神状態になることによって、苦手意識や嫌だなといった感情(利用者さんは生存本能からネガティブな感情を敏感に察知します)から離れ、利用者さんとの関係を良好なものとし、さらには利用者さんへの肯定的な気付きを促すのです。

マインドフルネス瞑想は、まず、思考や判断を停止し「今」に意識を集中させます。「今」の身体感覚で心を満たします。そして、感情の囚われが自然と離れていくことをゆっくりと待ちます。瞑想から生じる気分転換や集中力の高まりなどの効果を実生活に活かしていきましょう。

 
【やってみよう】マインドフルネスの簡単なやり方 (1回10分程度を継続すると良い)

・身体の力を抜きリラックスした状態(座位・散歩・仰向け等)を維持します。

・自然な腹式呼吸を行いながら、身体の感覚に“耳を澄ませ”ます。
 


紙ふうせんだより 1月号 (2022/02/17)

人間はつらいよ

明けましておめでとうございます。ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

寅年なので寅さんの話をします。映画「男はつらいよ」の第1作目の公開は1969年、興行成績も微妙な状況で当初は2作品で終了予定だったそうですが、シリーズ映画を欲していた松竹の方針で続編が決定、徐々に人気が出て第8作以降は大ヒットを記録、ついには世界最長の映画シリーズ(作品数)としてギネスにも認定されました。

生きづらさを抱えている寅さん

直情傾向で思い込みが強く粗暴でデリカシーが無いなど人のダメなところを煮詰めたような寅さんは、一方で人懐っこく人情に厚く面倒見が良く純粋一途な愛すべき面を持っています。そんな性格だからこそマドンナなどに要らぬおせっかいを焼いては騒ぎとなります。寅さんに親しみが湧くのは、そのようなダメさを多くの人が内に秘めているからでしょう。カッコつけようとしてはいますが、寅さんはダメな自分を隠すことができません。

中学2年の時には「やっぱりお前は芸者の息子か、どうせ家じゃろくな教育をしてないんだろ」と言い放った校長を殴って退学になっています。誰もが折り目正しく生きられるわけではなく、寅さん自身も差別的な言葉を多用し人を小馬鹿にするようなところがありますが、ここに物語の基本構造が見えてきます。「バカだねー、ホントにバカだ」とか「死んでいた方がマシ」などと罵られる寅さんは、人の世の差別(※1)を一身に背負うような身であるけれど、めげずに生きているのです。

気が付いている人もいると思いますが、寅さんは発達障害を持っていると思われます。「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2016年10月号には、「学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラムなど発達障害的傾向を有する人物は、映画の主人公としても光を放っています。その頂点に立つ人物といえば、渥美清演じる「男はつらいよ」シリーズの「寅さん」こと車寅次郎です」との記事がありました。




「映画で感じる発達障害・愛着障害の豊かな可能性」ノーマライゼーション 障害者の福祉(2016年10月号)

(略)寅さんは、自身のバカの根源は出自にあると思っています。父親がへべれけに酔ったときに芸者に孕(はら)ませた子どもであり、優秀な妹さくらとは異母兄妹です。しかも生母とは別れたままであり、愛着上の問題も抱えています。実父からはたびたび折檻(せっかん)されています。折檻の原因は盗みや不良仲間との喫煙です。実父が寅さんを叱る時、「お前はへべれけの時つくった子どもだから、生まれついての馬鹿だ」と言っています。寅さんは身体的にも心理的にも虐待を受けています。

(略)寅さんには、すぐ手が出てしまう衝動性があり、取っ組み合いのケンカが定番になっています。衝動性のほか、初期作品群では多動、不注意も顕著です。加えて、睡眠、覚醒にも問題があります。開巻一番の夢のシーンは昼寝によるものですし、だれよりも早い就寝、だれよりも遅い陽が高くなってからの起床となります。多眠傾向が顕著です。

毎度お馴染みの寅さんの葉書も、当初は倍賞千恵子が左手で書いていたとのこと。さすがにその後は美術スタッフが書いたようですが、学習障害の一つである書字障害が疑われます。ただし、井上ひさしは、寅さんを「言葉の達人」と評しています。中学校も卒業せずにヤクザ稼業となりますが、その正体は、ADHDと学習障害をベースとする「学習困難=学校不適応」だったといえます。寅さんは発達障害の傍証に事欠かない人物ですが、前述したように愛着上の問題も抱えています。




※1元来は仏教用語で「しゃべつ」と読む。仏教では万物の真の姿は一如(一つの如し)であるが、個別的には条件に応じて差異を現ずると考えるので、差異は当たり前だが本質は平等と考える。一方で現在の差別問題は、差異を理由に不平等の扱いや侮蔑をしており、現象と本質の理解が転倒している。問題は差異にあるのではなくそれに拘る心の狭さ(執着)にある。
 

僕たち人間は、ちょっとしたことで人を差別する

差別とは「合理的な理由なく分け隔てした扱いを受けることを意味します。表現としては、ある個人や集団に対して、偏見、誹傍、侮辱など、著しく傷つける表現や現に存在する差別を、温存・助長することに結びつく表現などがあります」と、人権啓発用語辞典にあります。

社会制度としての差別は、社会の仕組みが特定の属性や集団に不利益(または利益)となるように構造化されていることですが、そのような差別制度が無かったとしても、人の心の中には残念ながら差別意識があり、それは忌み嫌う言葉(ヘイトスピーチ)として表出されます。ヘイトスピーチ(憎悪表現、差別表現)は、「自分から主体的に変えることが困難な事柄(※2)に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」とされています。

先の校長の寅さんへの放言は、自分ではどうすることもできない事柄で寅さんを非難しているので明確な差別です。今の時代にはこんな先生はまずいないでしょう。差別は悪いということが明確に社会的合意事項となり、どのような思考や表現が差別になるかということが広く論じられるようになってきたからです。現代の観点から見れば、男らしさの呪いに縛られているような寅さんというキャラクターや、ジェンダーバイアス(※3)そのままのタイトルは、社会が内包する性差別を描いているとも言えます。

そう、生まれながらのバカとして描かれている寅さんは、差別される立ち位置にありながら、自分のバカさ加減と社会構造ゆえに自身も誰かを差別してしまっているのです。つまり人間はバカなのです。そのような業を持っている人間の辛さや醜さを解っていて山田洋二監督は、バカを愛おしく描いています。監督は「人間に差別意識があることの不条理さとでも言いますか、そこにいつも関心を持ち続けなくてはいけないと思っています。僕たち人間は、ちょっとしたことで人を差別することがたくさんあるんですね(※4)」と述べています。逆説的には、寅さんを見下して全く相手にしないような人こそが自らのバカさに気付かない大バカだと考えれば、劇中の主要人物は口は悪くてもまるごと寅さんを受け入れているのですから、寅さんの世界には、差異はあっても差異を理由に分け隔てする「差別」は無い、とも言えるのです。

※2一般的には、出自(人種・出身地・民族・伝統宗教・一族)・性別・容姿・健康・性的指向などが考えられる。

※3社会的・文化的な刷り込みに基づく性的偏見。

※4「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2010年5月号

 

その言葉で傷つく誰かを想像すること

どんな言葉が人の心を傷つけるのでしょう。例えば「親の顔が見たい」という非難は、個人の過失を親や血縁に当て付けたもので、自分ではどうしよもない生まれを非難しており強烈な否定となります。舅や姑が女の子を生んだ嫁に対して「男の子じゃなくてガッカリした」というのも、嫁や孫の全否定となってしまっています。異性に嫌悪感を持ちながら「男(女)にはなりたくない!」というのも性別による全否定です。

では、「障害者にはなりたくはない」という言葉はどうでしょう。誰しも障害者になりたいと思ってなったわけではないのですから、その言葉を聞いて心がえぐられる人は必ずいます。「認知症にはなりたくない」「生活保護にはなりたくない」という言葉には、差別意識は潜んでいるでしょうか。そのように考えたり、思わず言葉が口をついて出てしまったことはありませんか。

「俺はな、学問つうもんがないから上手い事はいえねえけれども、博(ひろし)がいつか俺にこう言ってくれたぞ。自分が醜いと知った人間は決してもう、醜くねえって…(※5)」 これは寅さんのセリフです。自らの醜さを知るからこそ、人に優しくなれるということもあるのです。

 
※5 第42作(1989)「男はつらいよ ぼくの伯父さん」より。なお渥美清亡き後に制作された第50作(2019)は、この後日譚となっている。
 

 

情報共有

新型コロナ対策情報

「濃厚接触者」の定義

濃厚接触者とは、コロナ感染症発症者の発症日の2日前から療養終了日までの間に、近距離で接触あるいは長時間接触し感染を受けている可能性が高い方。無症状陽性者との接触の場合は検体採取日の2日前)

接触している者。

○陽性確定者と同居あるいは長時間の接触(車内、航空機内等を含む)があったもの

○適切な感染防護なしに陽性確定者を診察、看護もしくは介護していたもの

○陽性確定者の気道分泌液もしくは体液等の汚染物質に直接触れた可能性が高いもの

○手で触れることのできる距離(目安として1m)で、必要な感染予防策なしで、陽性確定者と15分以上の接触があったもの(周辺の環境や接触の状況等個々の状況から総合的に判断)

参照:知人や同僚が新型コロナウイルス感染症の患者となった場合は | 世田谷区ホームページ (setagaya.lg.jp)

(濃厚接触者の考え方について、整理をしました)

【個々の状況から総合的に判断】

この観点から考えれば、家庭内別居状態にあるような生活が分離されている状況ならば、同居だからといって一律に濃厚接触者に該当するとは思われない。

(寮で陽性者が発生したからといって寮生全員が濃厚接触に該当するとは限らないのと同じ。ただしデルタより強い感染力に留意するべし)

【適切な感染防護】

診察・看護・介護の度合いによりますが、体液に触れないような短時間の会話程度の接触であれば、「必要な感染予防策」と同じ考えで良いと思われます。

【必要な感染予防策】

⇒マスクの着用(できるだけ双方着用が望ましい)、適度な距離感(換気)、(当然ですが手指消毒)

※感染疑いの方と接触する場合はマスク2重など更なる工夫が必要です。(事務所に備蓄防護服あり)




※実際、昨年デルタ株のピーク時の保健所の判断では、既にマスクを着用しての訪問介護の接触程度では、濃厚接触にはならないとの判断になっていました。また、既に昨年より「積極的疫学調査は行わない」という方針が都より示されており、保健所からの積極的な濃厚接触者の追跡と検査は行わない事となっているようです。

そのような状況から、現在の市中感染は感染ルートがほぼ不明であるため、「濃厚接触者」は陽性者と接触者した者の自己申告となりつつあるようです。「濃厚接触者」の自覚がある方は、下のチエックシートで自己判断を行い自宅待機(要保健所連絡)をすることとなります。

(該当の疑いがある方は事業所へ相談してください。「自分は大丈夫」という正常性バイアスを留意して、事業所の意見を求めるなど冷静な判断が必要です。)




★濃厚接触者の自宅待機の健康観察期間は原則は最終接触日より10日(接触日を1日目にカウント)

★エッセンシャルシャルワーカー(介護職含む)については、6日目と7日目に抗原検査キットで陰性と出た場合に7日目より就業できるという判断に変更となっています。なお、10日目までは公共交通機関や不要不急の外出は避けて下さい。(逼迫時は“毎日の抗原検査で就業可”の厚労省案もあります)

 
【無料でPCR検査が受けられます】 都事業  

東京都で実施しているPCR等検査の無料化事業について | 世田谷区ホームページ (setagaya.lg.jp)                               

発熱などの症状のない都民の方で、感染している可能性に不安を抱える方等

※濃厚接触者は保健所対応なので不可

(区内近辺の会場)

ウエルシア薬局世田谷千歳台店・世田谷千歳台二丁目店・世田谷砧店⇒各店舗

代田区民センター・宮坂区民センター⇒(コールセンター)0120-758-167

東京都PCR等検査無料化事業に関するお問い合わせ先03-4405-4958


紙ふうせんだより 12月号 (2022/01/17)

小さな声が「小さな声」である理由

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。今年もあとわずかです。皆様には大変お世話になりました。本当にありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いします。

悪貨は良貨を駆逐する

昭和33年12月1日は、一万円札が初めて発行された日です。当時の公務員上級の大学卒初任給は9,200円(※1)でしたが、高度経済成長によるインフレから高額紙幣の必要性が高まり、聖徳太子が紙幣となって登場しました。今年の11月1日には500円玉がバイカラー・クラッド硬貨に変わりましたが、紙幣のほうも2024年度には刷新されます。新紙幣も新硬貨もそれぞれ偽造防止のために新しい技術が使われています。

通貨の歴史をひもといていくと偽造との戦いと言えます。日本最初の通貨発行は和同開珎(708年)(※2)と言われており、それ以降「皇朝十二銭」と称されるように何度も新しい貨幣が発行されてきました。しかし、密鋳銭の横行や銅不足から貨幣の品質は低下し、貨幣サイズも小さくなっていったことから、貨幣の通用価値はどんどんと下落していきました。

和同開珎の発行当初は、銭1文は米2kgの価値でしたが、9世紀中ごろには交換できる米の量は10g~20gに減少していたといいます。質の悪い貨幣が流通すると通貨相場は混乱し、貨幣全体の価値も低下してしまうのです。これを「悪貨は良貨を駆逐(くちく)する(※3)」と言います。

 

※1同等職の初任給は30年後の1988年は141,000円(15.3倍)、2018年は211,500円(30年前比で1.5倍)。

※2わどうかいほう(「わどうかいちん」の説も。)最初の貨幣は「富本銭」とも言われているが、通貨としての流通は疑問視されている。

※3 16世紀イギリスの国王財政顧問トーマス・グレシャムの進言が由来。後に「グレシャムの法則」と言われる。

 
悪いものが蔓延すると、良いものは姿を消す

良い貨幣と悪い貨幣が等価値として流通すると、人々は良い貨幣を出し惜しみ、市場には悪い貨幣ばかりが流通します。そして、貨幣そのものの信用まで低下してしまいます。

このようなことは会社や組織の中でも起こり得ます。例えば、丁寧で質の高い仕事をする人と、雑で乱暴な仕事の人が同給与だった場合、質の高い仕事をしている人が馬鹿らしくなって、全体の仕事の水準が低下するということはある話です。また、とても良く気が利くような人が、「あの人がいろいろやると、他の人もやらなくてはいけなくなるから困る。やらないで欲しい」と、やっかみを受けるような雰囲気の職場もあるでしょう。

介護保険制度では、計画に基づいてサービスを実施しなければならないので、サービス精神が旺盛であることが単純に“良い”ということにはなりませんが、「やらないで」という方向づけがひとたび行われると、気が利く人の意欲はやせ細り介護職そのものが嫌になってしまいかねませんし、「言われたことだけやってればよい」という空気が蔓延します。「計画に載ってないから」などと言って必要なことも行われず、ケアプランは些末な文言に囚われた内容となることもしばしばで、描かれるべき生活上の夢や方向性も共有されなくなってしまい、後手に回った介護現場は、利用者の状態変化に即応できるような機動性や柔軟性が失われて、硬直化した味気ないものとなってしまいかねません。

そうならないようにしていく鍵は、ヘルパーさんとサービス提供責任者の連携にあり、ケアの目指すべき方向性への共通認識が大切です。

良いもの、善いことは手間がかかる

なぜ、悪いものの方が蔓延するのでしょう。

一つは手間の問題です。「お金を稼ぐには盗んだ方が楽だ」という思考があるから犯罪は無くならないのです。善いことをするには手間がかかり、しない方は手間がかかりません。例えば、職員による介護虐待疑惑に対して、事業所として調査・検討・改善のプロセスを踏み職員教育を実施して事業所の雰囲気を根底から改善していくのは大変骨の折れることです(※4)。介護保険制度の支援過程は、利用者さんのニーズを汲み取り家族への説明を行い関係各事業所と調整し、サービス担当者会議を開催して合意形成をし、内容を漏れなくケアプランに記載しますが、これも大変な手間です。必要に迫られて手間を省かなければならない場面も出てくるでしょう。

問題はその手間の省き方にあります。そこにある権力関係(力関係)に着目して考えてみましょう。

※4 だからといって、その手間を惜しんでスルーすることは「悪」です。当然ですが、問題が表面化すれば惜しんだ手間以上のペナルティが待っています。線路上に石を置くことは悪いことですが、それを見て石を取り除かなければ、列車は転覆してしまいます。善いことをしようとしないこともまた、悪となってしまうことがあるのです。

「小さな声」を聴き取るためには、明確な自覚が必要

虐待の根本的構図は介護職(強)>利用者(弱)です。虐待疑惑が報告されても放置されているなら管理者や経営者の責任です。「見て見ぬ振り」が“空気”であって問題が上層部に報告されていないなら、空気を醸成する上層部や空気を支配する職員と、そうでない職員との間に力関係の構造(経営者>管理者>強い職員>弱い職員>利用者)があります。

利用者さんが納得のいかない“お仕着せ”と感じる支援に悩んでいる場合はどうでしょう。これは合意形成が不十分なのですが、合意形成の力関係は、たいてい計画作成者や家族が強く利用者が弱い構図になっています。支援者が家族の顔色ばかりをうかがっているような場合、構造として相対的に利用者の声は軽視されてしまいます。手抜きという作為や無自覚という不作為によって聴き届けられない声があるとき、軽視されるのは常に、権力関係が低位にある「小さな声」なのです。これを構造的暴力といいます。

構造的暴力とは、対等ではない非対称な関係の中で強者から弱者に流れる抑圧の力です。弱者による強者への抑圧は原理的にはあり得ないので、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」的な弱者の反抗は暴力的だったとしても構造的暴力ではありません。「足を踏んだ者は、踏まれた者の痛みを理解できない」という言葉は、権力関係高位者の構造的暴力に対する無自覚性を示しています。例えば、利用者家族からの介護職員への介護ハラスメントも “客の要求は絶対”との思い込みが、客(強者)の内包する暴力性を無自覚に発揮させてしまうのです。強者による弱者への実施が困難なことの強要は、意図しなくてもハラスメント(※5)となるのです。

※5 嫌がらせ、いじめ

自分が変わることから

人は悪い方に流され易く、社会を良くしていくには手間がかかります。だからと言って「善」を強権的に行えば暴力となります。対人支援職ならば、なおさら社会関係の中にある構造を意識するべきでしょう。支援関係という構造の中で、支援者という立ち位置が内包する暴力性に支援者が無自覚ならば、利用者への“介入”は、暴力となります。

それを防ぐためには、「風通しを良くし、何でも言い合える関係をつくる」ことです。これは、弱者も強者に対して普通に注文を言える関係ではないでしょうか。ともあれ、まずは目の前の利用者さんの心の動きに集中し、声なき声に耳を澄ませていきましょう。声を聴くことによって自分自身が変わるならば、世の中に善いものを広めていくことの一つにもなると思うのです。

 

 

紙面研修

文化的背景(構造的問題)を検討する

「BLM」のスローガンに含まれる意味

 世界的なプロテニスプレーヤーの大阪なおみが明確に賛意を示したことから日本でも注目されたBLM、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」という言葉は2013年にインターネット上で拡がりをみせた。この抗議は、フロリダ州で白人警官が黒人少年を射殺したレイボン・マーティン事件(2012年)が発端だ。同様の事件はそれ以前も以後も繰り返し起きている。

 BLMは、「黒人の命も大切だ」と日本語訳された。なぜ「も」と付け加える言い方になったのか。米国では黒人男性と白人男性が口論する等なにか騒ぎが起きた時に、“白人の命は守られるが黒人の命は守られない”という状況がある。だから、「白人の命は大切だ。それは言わなくても皆知っていることだろう。でも、黒人の命も大切なんだ。そのことは皆が解っているかい?」という問いが込められている。

 若い黒人男性が警官に射殺されないで生き延びるためには、沢山の困難がある。インターネットで話題になった「若い黒人が従うべき暗黙のルール」は16箇条ある。このルールを守らなければ、若い黒人男性は「黒人である」という理由だけで“武器を隠し持っているかもしれない犯罪者” と疑われしまい、最悪は警察官に射殺されかねないのだ。米国には、白人が享受しているものと同質の自由が黒人には暗黙のうちに認められてはいない。これは根深い構造的暴力だ。「人種差別」と断言していい。




【構造的暴力】とは

元来は国際政治学や平和学の概念。平和学の創始者J.ガルトゥング(1930〜)は、力を直接行使して他人の肉体を損傷させることだけが暴力なのではなく、社会関係の非対称性を介して間接的に生命や人間の可能性を奪い去るような行為も暴力と呼び、「構造が暴力をふるう」と比喩的にとらえた。暴力とは「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」としている。




【母が作ってくれた若い黒人が従うべき暗黙のルール】

HUFFPOST 2020.6.6

・手をポケットに入れてはいけない

・パーカーのフードをかぶってはいけない

・シャツを着ないまま、外に出てはいけない

・一緒にいる相手がどんな人か確認する。たとえ路上で会った人でも

・遅い時間まで外で出歩かない

・買わないものを触らない

・たとえガム一つだったとしても、何かを買ったらレシートかレジ袋なしで店を出てはいけない

・誰かと言い争いをしているように見せてはいけない

・身分証明書なしに外に出てはいけない

・タンクトップを着て運転してはいけない

・ドゥーラグ(頭に巻く、スカーフのような布)をつけたまま運転してはいけない

・タンクトップを着て、もしくはドゥーラグを巻いて出かけてはいけない

・大きな音楽をかけて車に乗ってはいけない

・白人の女性をじっと見てはいけない

・警察に職務質問されたら、反論してはいけない。協力的でありなさい

・警察に車を停止させられたら、ダッシュボードに両手を乗せて、運転免許証と登録証を出してもいいか尋ねなさい




 指摘しておきたいのは、黒人がそのような抑圧された状況下に置かれているという現実は、白人にとっては「自身が強者に属してることの自覚」がよほどないと理解できないということだ。

 例えば、何も悪いことをしていないのにも関わらず容姿のみで決めつけられて職務質問を何度も受けている人物が、機嫌の悪い時についに怒りを顕わに警官に抗議したとしよう。「俺が何をしたって言うんだ!俺は何もしていない!」 このような怒りを権力関係に無自覚な人は理解できるだろうか。無自覚な白人警官はズドンと一発撃って、こう言うだろう。「怒りだすのは後ろめたいからだ。悪くないのなら、警察の指示に従えばいい。それをしなかった黒人が悪い。これは職務上必要な正当防衛だ」と。

日本ではどうだろう

「女性の意見もきくべきだ」という方向性に、「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」(だから、女性の意見を聞くのは好ましくない)と放言したのは、東京五輪大会組織委員会の森喜朗元首相だ。低劣な発言に批判が起こったが、問題は緊張感のかけらもなく差別発言をさらっと述べることができてしまうような組織風土という構造的要因にある。当該発言を問題と感じないような同質性を持つ人物や、お追従を述べる人間ばかりを優先して組織を固めた結果としか思えない。

 オトモダチばかりを集めて保守的に人事を固めたら、気が付いたらマスク一つすらまともに配布できないくらいに劣化していた某国の政治中枢部とその痴態ぶりが重なってくる。「ジェンダーギャップ指数が156カ国中120位(世界経済フォーラムが2021年3月に発表)ってそういうことじゃないですか。やっぱり日本社会の遅れが、そのまま縮図のように組織委員会の中でも再現されてきたということですね」とは、当該騒動後、五輪組織委員会理事となった來田享子氏のコメント(文春オンライン 2021.11.14)。

 同質性の濃い環境に置かれると、人はその風土の空気を当然のものとして吸っているから、その空気の毒性を「毒」だとは気づけないものだ。例えば、「あの女は出しゃばりだからムカつく」とか「あの女は巨乳だ」などをしゃべくりあっている幼稚なミソジニー(女性嫌悪)的なコミュニティに所属をしていれば、またはそのような偏見に彩られた文化的背景のもとに生育したのならば、そこに蔓延する偏見を自覚するのは難しい。なお、「ウザぃ」だとか「ダリぃ」などという言葉は、同質性に回帰しようとする帰属や承認の欲求から発せられるものだということも理解しておこう。これらの言葉は、部外者を遠ざける防御として、身内に対してはコミュニティに縛り付けるものとして、同質性の補強として機能する。

介護ではどうだろう

「あの利用者はわがままだ」

「あのケアは楽だから良い」

「あの利用者は要求が強いから、びしっと言ってやる必要がある」

「認知症が進んできたからかえってコントロールが楽」

「あのケアはダリぃ」

などという言葉が日常的に発せられているような職場風土では、気が付かないうちに「職員が上で利用者が下」という暴力的な構造が形成される。自分がどのような文化的背景のもとに介護職員としての態度を形成してきたのか。これは各自が自問する必要がある。そして、やっかいなことに構造的問題というものは「一番気がついて欲しい人に、なかなか気が付いて貰えない」というジレンマを抱えている。

考えてみよう

文化的背景から気が付かずに自分が抑圧する側になっていることは無いだろうか

 



 


2022年 新年のご挨拶 (2022/01/05)

新年あけましておめでとうございます。

旧年中は格別のご愛顧を賜り、誠にありがとうございました。

本年も紙ふうせんスタッフ一同、ご利用者様および関係各所の皆様のために精一杯力を尽くして参りたいと思います。

皆さまにとりまして本年が素晴らしい一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。


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