【紙ふうせんブログ】
  1. HOME
  2. 【紙ふうせんブログ】

【紙ふうせんブログ】

紙ふうせんだより 8月号 (2016/02/08)

いつもありがとうございます。急に涼しくなってきたので、体調を崩さぬように、時々はぬるめの風呂に長く入って体を休めて下さい。また、冷たいものを多く摂っていた胃腸は疲れています。暖かいものも摂るようにしていきましょう。利用者さんも体調を崩しやすい時期です。注意深く見守って頂ければと思います。
さて、前回の紙ふうせんだよりでは、「サービス提供責任者から見たヘルパーさん」を書きました。サービス提供責任者について言及しなければ片手落ちですよね。という事で…
サービス提供責任者の業務内容について
サービス提供責任者は忙しい。これは自画自賛でもなければ身内びいきでもありません。
とある介護系のブログにも、サービス提供責任者の業務内容を以下のように書いていました。引用しますね。(佐々木はよく引用をしますが、それは我説ではないという意味での客観性の担保として引用しています。その分、自己主張が強いと自覚しているんですけどね。でも、紙ふうせんだよりを読んで下さっている方の中には、もっと佐々木を主張して欲しい!!という方もおりました。)「サービス提供責任者 」 の業務内容は 訪問介護事業経営そのもの
・人材確保
・利用者確保営業
・訪問介護計画作成
・稼働予定作成
・サービスの実施
・請求業務
・研修指導業務
・労務管理
これらは 障害者・高齢者福祉サービスには普遍である。
ある機関が纏められた「これからのサービス提供責任者に求められる能力は何か?」 には
①自立支援の理念の理解
②利用者の24時間の日常生活状況を把握する調査能力
③利用者の心身の状況から介護ニーズを発見する能力
④短時間のサービスを実行するための介護計画
(サービスの目標設定と手順の作成)立案能力
⑤要介護者の自立を妨げない介護技術の習得
⑥ヘルパーのシフトと巡回型ケアローテーション作成能力
⑦自らの経験・知識を他のスタッフに伝達する指導能力
⑧利用者やスタッフの心を惹きつける明るい態度
とある。
一読して、こんなにやってるの?できるの?という疑問が湧いてきます。さらにお休みのヘルパーさんのサービス代行も重要な業務です。このブログには元ネタがあって実はジャパンケアの資料なんです。このブログを書いた方も、サービス提供責任者の業務負担の多さと望まれる能力の高さをなげきつつ、これでは現場と向き合う時間も無く、離職り構造的な悪循環を生じさせるという旨を述べていました。

構造的な問題や矛盾にさらされて虚しくなる時
介護業界には構造的な問題などの矛盾が多くあります。3Kや低賃金だなどと言われていますが、大きな問題から挙げてみます。政府は社会保障費を毎年3,000億~5,000億円カットし、アベノミクス第二の矢である“機動的な財政出動”を行うとしています。2015年度の社会保障予算削減分は3900億円。一方で、今年の5/5に米国防総省はオスプレイ17機と関連装備を日本に売却する方針を決めました。交換部品込みで1機あたり212億円で、合計3604億円。(米国政府の1機あたりの購入価格は50~60億円と言われており、日本政府の購入価格はあまりにも高いという声があります)このような数字を見せられると、“社会保障の財源が無い”とか“2025年に向けて社会保障費を抑制しなければならない!”とか “社会保障費の充実に消費税導入が必要だ”との政府の主張は、悲しく感じます。
このような矛盾を見せられると、大抵の人は虚しくなるでしょう。これらをさらに掘り下げると腹が立つのでもうやめますが、一つ言える事は介護の仕事を今続けている人は、さまざまな矛盾にさらされても虚しさを乗り越え続けてこられた方だとういう事です。“勇者”と言っても言い過ぎではないでしょう。
大切なのは、どうやったら虚しさを乗り越えて行けるのか、という事なのです。その為の力として必要な事を2つ挙げます。一つは「信頼関係」です。もう一つは「理想」です。
信頼関係が意欲を生む
虚しさを感じる場面はさまざまあります。一生懸命ケアしていた方が突然家族都合で入所してしまったり亡くなったり、自分なりに良かれと思って一生懸命やった事が裏目に出たり評価されなかったり、事業所の方針と自分自身のやりたい介護が違ったりなどは、皆さんも一つくらいは心当たりがあると思います。虚しさとは、物事の価値や意味を見失った時に湧き出る感情ではないでしょうか。「いったい何の意味があるのだろう。やってらんない」という気持ちです。このような時のサービス提供責任者の関わりはとても重要です。ヘルパーさんの悩みに耳を傾けながら、“意味を見いだせない虚しさ”に焦点をあて、ヘルパーさんが気付いていない“意味”を一緒に探していくのです。
例えば、理不尽に見える家族と関わらなければならない意味、それは「家族はどんな気持ちだろう?」とか、「その関係を通して私の人生の学びになる事は?」という問いの答えを探す作業です。この時に、サービス提供責任者は、ヘルパーさんが意味を見つけ出して成長していける事を信じなければならないですし、完全に悪いだけの家族はいないという事も信じるのです。そのような受け入れる姿勢が根底にあってこそ信頼関係が醸成されます。信頼関係とは、相手の個性や自分に合わないところを許容しつつ言うべき事は言い、お互いの存在そのものを肯定し合える関係です。信頼関係を支えに人は生きる意味を見出していきます。
そして、信頼関係の反対は孤独です。信頼関係はコミュニケーションの質も大切ですが、量も大切です。ヘルパーさんが孤独にならないように、サービス提供責任者さんには、煩わしくならないように気を配りながら、きめ細かくヘルパーさんと連絡を取り合って欲しいと思っています。理想としては最低でも週1回くらいはきちんと話ができたらと思っていますが、なかなか忙しくてできないのが現実です。

生きた「理念」を持つ
意味を見出す方向性を指し示すものが「理念」です。例えば虐待事例を見て、ほっておく事はできないという人間的な感情と共に、「虐待はいけない事だ」という理念の確認があるからこそ、何とかしようという行動が生じてきます。理念は、虐待という虚しい状況に立ち向かう意味の裏付になるのです。
ところで「ほっておく事はできないという人間的な感情」と書きました。この感情の“持ち方”を人に教える事は大変難しい事です。しかし、「理念」は人に教える事も学ぶ事もできます。だから、理念を学び合っていく事が大切です。その理念の学び方も、良し悪しがあります。悪い学び方は、例えば、理念を皆で唱和し、ただ暗記するだけのようなやり方です。自分の頭では考えない人になります。そうではなくて、理念の学びが「人間的な感情」を醸成するように生きているものにならなければなりません。その為には、理念を“題材”として自らが、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかを、自らに問い続けなければなりません。問いを深めていく人の周囲の人は、自然と問いを投げかけられる事になります。サービス提供責任者さん自身が(ヘルパーさんに問うだけではなく)、常に「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかを、自らに問い続けて欲しいと思います。
サービス提供責任者に望む事
今回は、サービス提供責任者について書いてみました。自分の事を棚上げしながら書いているので恐縮です。ヘルパーの皆さんはどのように思いますか。こんな事ではなくもっと具体的に「こうして欲しい」という事があると思います。それらは、日常でのヘルパーさんとのコミュニケーションに譲りたいと思います。きっとサービス提供責任者さんはしっかりと聞いてくれると思うので、皆さんの「サービス提供責任者に望む事」を言って下さいね。よろしくお願いいたします。そしていずれは「管理者」について、自分自身について課している事も書かなければならないと思っています。最後に「意味」に関する事を、紙ふうせんだよりの26年7月号の内容を再録します。
介護者に問いかけられているもの
私たちは、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)という“生活の質”が、どうやったら向上できるかという問いをもって利用者さんと向き合います。その時、老いと向き合っている利用者さんの方は、自身の「“人生の質”とは何だったのか」という問いの前に立っています。
人生には、“意図せぬ意図”ですら微塵も見当たらない病気や事故や事件などから、絶望的な状況に立たされる事があります。ナチスの強制収容所に収容されながら生き延びたオーストリアの心理学者V・E・フランクル(代表作は収容所体験を綴った『夜と霧』)は、著書『それでも人生にイエスと言う』(春秋社刊)で、以下のように語っています。
「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない。答えを出さなければならない存在なのです。」

私たちは、ご利用者さんの前に立った時、「この人は、どうしてこのようになってしまったんだろう」という問いを抱く時があります。しかし、問われているのは私たち自身ではないかと思うのです。
「私はこのように生きた。これが私の人生だ…(私を見てあなたはどうのように生きる?)」という無言の問いかけを利用者さんは発しているのです。その問いに一生かけて答えていく事が、本当の意味で“命”と向き合うという事ではないでしょうか。

ひきつづき熱中症にはご注意ください!!

【熱中症のメカニズム】
人間の体の中では、いつも熱が作られています(産熱)。そして体の体温を一定に保つ働きが人間の体にはあります。気候条件や運動量増加により、体内の熱量が増えたにもかかわらず、放熱とのバランスが崩れてしまったときに熱中症は起こります。
体の熱量が増えると、体の表面(皮膚の下)の血流量は増加します。体内の熱を体の外に逃がしやすくする為です。その時、血液が全身に行き渡るために、体内の血液が一時的に不足して、血圧が下がってしまう事があります。すると、脳に十分な血液が送られなくなり、めまいや立ちくらみや、意識を失ってしまう事があります。これを「熱失神」と言います。お風呂の“のぼせ”と同じ原理です。体を冷ます対応が必要です。
体温が上昇した時には体は汗をかきます。その蒸発作用によって、体は放熱する事ができます。この時、発汗量が多いにもかかわらず、水分補給が足りないと、体は脱水状態になります。脱水状態が長く続くと、頭がボーっとして全身がだるくなって、水分や食事を摂ろうというやる気さえ無くなったり、頭が痛くなったり、気持ち悪くなって嘔吐してしまう事もあります。これを「熱疲労」と言います。このような時は、体への吸収の速いスポーツドリンクなどが有効ですが、水分摂取が困難な様子であれば、病院へ搬送し点滴をしなければなりません。独居の方は救急車要請の場面です。
さらにこれらの症状が進むと、熱の影響が脳に出てきます。意識をうしなって倒れてしまい大変危険な状態です。これを「熱射病」と言います。
また、汗の中にはナトリウムなどの塩分が含まれていますが、多量の発汗の後に、塩分を補給しないと体の中の塩分量が不足してしまいます。塩分は筋肉の動きを調整する役割も持っているので、塩分が不足をすると、手足がつったり、筋肉が痙攣をおこしてしまうことがあります。これを「熱けいれん」といいます。運動等で多量の発汗があった時にしっかりと水分を摂っていても、それがお茶や水である場合などに起こります。
「熱中症」は、脱水状態により血がドロドロになるために、血栓ができやすくなります。心筋梗塞や脳梗塞への注意も必要です。
ご利用者さんが体調不良で身体に熱感がある場合、熱中症かもしれないと、意識的に疑って下さい。


紙ふうせんたより 7月号 (2016/02/08)

 

皆様、いつもありがとうございます。暑くなりましたね!!移動時・休憩時の水分補給は欠かさないようにして下さい。利用者さんにも水分補給の必要性の声かけを宜しくお願いします。健康管理的な意味以上に、気遣う言葉はお互いの気持ちを柔らかくします。そこに、ヘルパーさんの真心が見えた時は、利用者さんは本当に喜んで下さいます。そのような些細な事に目を向けてこそ、人は変わっていくのです。
さて、前回の紙ふうせんだよりでは、「ケアマネから見た訪問介護」を瀬口さんに書いて頂きました。最前線としての重要な意味をヘルパーさんは持っています。今回はサービス提供責任者視点でヘルパーさんについて書いてみたいと思います。
サービス提供責任者から見たヘルパーさん
ヘルパーさんに利用者さんをお願いする時には、お互いの相性をまず考えます。相性とは、例えば利用者さんの生活に対する考え方が、こだわりや硬さがあると感じられる場合は、対応するヘルパーさんも、筋道立てて依頼された事を依頼された通りにしっかりやれる方が適任だと考えます。利用者さんが、やる事さえしっかりやってくれれば良い、というような方の場合も、余計なおせっかいをせずに手を抜く事もないような“仕事”意識の高い方を考えます。
逆に、利用者さんが介護の枠組み以前に、ヘルパーさんとの人間的な関わりを求めているような場合には、少々脱線しても柔軟な対応ができるヘルパーさんを考えます。また、事業所の想定した相性が必ずしも最善の答えではありませんから、良い意味で意外な結果がでる事(実際そのような事は多くあります)を楽しみにしています。その時、最も重要視している事は、その出会いから生じる、ヘルパーさん・利用者さん双方の「変化(成長)の可能性」です。この時、ヘルパーさんに求めているのは介護職としての完璧さではありません。むしろ膠着した状況を破るような個性の力を求めています。
9.jpg
“内的な人間関係”と“外的な人間関係”
老いや死の受容には葛藤があります。一つは、過去や未来の自分を考えた時に起こる現在の自分との葛藤や、自分自身の中にある様々な気持ちのせめぎ合いというような、“内的な人間関係”の葛藤です。そしてもう一つは、家族などの周囲の人との“外的な人間関係”の葛藤です。葛藤は、気持ちや考えのどうどう廻りとして現れます。「これからどのように生活したらよいのだろう」という不安が、出口を求めて行ったり来たりします。
そのような時、利用者さんと異なる視点を持った人が、利用者さんの主体性を尊重しながら生活に寄り添っていくという事は、利用者さんの気持ちや考えに新しい風を吹き込み、不安にへこたれそうな気持ちの支えとなり、心の中の霧が晴れるという事があります。
ここで言う“内的な人間関係”とは、「自分関係」とも言えます。自分関係は、その中のどの気持ちも“自分”であるため、両方の気持ちに耳を傾けようとすると膠着状態が生じます。
板挟みに耐えられなくなって、片方の気持ちを立てて他は切り捨てるというような態度を取ると、本当のところは両方とも“真”であるため、無視された気持ちは無意識に潜り込み、表看板の上っ面の自分を毀損しようとします。それを他人から見た時、“感情にムラがある”とか“表裏がある”とか、“一貫性がない”などと評価されて付き合いにくいと思われてしまうのです。残念な事に、内的葛藤を切り捨てたつもりになっている本人は、意図的に自分の表のみに焦点を合わせているため、自分の裏腹さが相手に透けて見られてしまっている事に気が付きません。このため、外的な人間関係もこじれていきます。
このように自分関係は外的な人間関係に影響を及ぼすのですが、もちろん外的な人間関係も内的な人間関係に影響を及ぼします。他人を自分の心に入り込ませないようにガードするような孤独感を抱えた頑なな利用者さんが、ヘルパーさんの真心を感じてヘルパーさんを受け入れる気持ちになった時、自分の中で切り捨てていた、自分や他人へのいたわりや信頼の気持ちも同時に息を吹き返すという事もあるのです。それが“合わせ鏡”の相互関係なのです。相互関係の及ぼす
心への作用は、立場の上下などの表面的な人間関係などとは無関係に作用します。その相互作用は、上っ面の自分を取り繕えない“認知症”の方のほうがより繊細に感じています。
新しい出会いは変化の始まり

9

訪問介護は出会いの場です。さまざまな内面を持つヘルパーさんと利用者さんが出会い、それぞれの個性を発揮した時に思ってもみなかった“化学変化”が生じて、利用者さんやヘルパーさん共々に生活や人生観の新たな展望が得られるとすれば、それはとても幸せな出会いです。幸せな出会いとはそこから肯定的な“変化”が始まるという事です。
ある方が介護認定を受け介護サービスが始まるという事は、生活の枠組みが“変化”するという事です。しかし、枠組みの変化に利用者さんの心がついていかない時、利用者さんの葛藤は高まり、変化への評価は望まぬ否定的なものになります。利用者さんの心の変化と同じ歩調で生活の枠組みが変化していけば、拒否感はそれほど強まらないでしょう。しかし、実際は生活の変化に心が追い付かない事が多いようです。
ケアプランの実施も生活の枠組みの変化です。その変化は具体的に生活の困難さを解決するという意味でとても大切ですが、老いの受容という意味では「心の変化」が最も大切なのです。心の変化は、人と人の触れ合いによって行われます。どんなに科学技術が発展しても機械に介護はできない理由がそこにあります。介護の根本課題は、物理的困難さの除去のみならず、老いや死の受容といった心の成長過程を支え見守る事に他なりません。身近に関わる人の温かさが伝わって「生きててよかったな」と感じて頂く事が、変化の始まりです。そこに個性を持ったヘルパーさんが、ヘルパーであると同時に“人”として関わっていく重要性があります。そして、老いや死の受容は単にマイナス面をあきらめて受け入れるというような消極的なものではなく、老いてこそ輝く自分自身を発見するというような、新たな価値を見出す肯定的・積極的なものであって欲しいと願っています。
個性をより良く発揮する事が、変化を肯定的なものにする
利用者さんの個性を尊重し、介護がお仕着せにならないようにしなければならないのは大原則ですが、それを行っていくヘルパーさんも同時に個性をより良く発揮していく事ができれば、“化学変化”は肯定的に促進されます。その為には、ヘルパーさんには利用者さんの気持ちをしっかりと受け止めて頂きたいと思います。同時に、サービス提供責任者としては利用者さんや家族、ヘルパーさんそれぞれの“当事者”の声をしっかりと聴いていきたいと思っています。特にヘルパーさんには、一人一人の利用者さんに対する疑問や不安、提案などを率直に話して頂ければと思っています。
そして注意しなければならないのは、ヘルパーさんの「個性」を強調すると、ヘルパーさん独自のやり方を利用者さんに押し付けて、それで良しとしてしまうヘルパーさんもいるかもしれませんが、それは誤りです。利用者さんの個性も尊重されより良く発揮できるようにならなければ、介護の価値は半減します。人間らしい偽らない自然体の心の表出は、頑なな心の武装解除を促します。ヘルパーさんの個性の発揮はそこを目的とするのです。ヘルパーさんのやり方の押し付けで利用者さんが窮屈になってしまうような事は、慎まなければなりません。個性の発揮とワガママは、意識して一線を画す必要があります。
その為にはヘルパーさんは、ヘルパーとしての技術などを高めて頂く必要がありますし、同時に、“人”としての人間性を高めて頂きたいと思っています。自分の心の裏側にも意識を払い自分自身を理解しようと努め、自分が相手に与える相互作用も自覚し、相手の為に自分を働かせる事を目指すような、高められた人間性の発露こそが、真の個性の発揮なのです。一人の人間の持つ心の奥深さは、いくら汲んでも汲みつくせない泉のようなものです。だからこそ、どんな時どんな年齢でも人間性を成長させて
行ける変化の可能性があるのです。自戒をしつつ希望を持ってここは書いています。
この訪問介護の仕事は、人間性を高められる仕事です。相互作用に着目すれば、相手にとって良い事は自分にとっても良い事です。ヘルパーさん一人一人がこの仕事を通して成長していく事は、利用者さんにとっても最大の価値になりますし、サービス提供責任者としても大きな喜びとなるところです。ヘルパーの皆さんの成長はサービス提供責任者のやりがいにも大きく関わってくるのです。人に成長しろと言っておいて、自らがそれを怠るわけにはいきません。それは、要介護者と支援者の関係も同じです。「先ず隗(かい)より始めよ」の故事どうり、サービス提供責任者自身が成長していきたいと思っています。
もとより、人の身体や心の変化の持つ意味は、最初から「善悪」に色分けされてはいません。色を付けるのは自分の“眼鏡”です。人と人との相互作用を謙虚に感じとり、相手と自分自身を信じていく事ができれば、どんな出来事からも肯定的な意味を汲めるようになると思うのです。今後とも、利用者さん・ヘルパーさん・ケアマネージャーさんとしっかりと連携を取っていきたいと思います。
【訪問介護の研修会について】
今まで、ほぼ毎月研修会を行ってきました。その内容を振り返ってみます。(囲み)
実は、同じ内容は2度と行わないでここまでやってきました。意識していた事はなるべく皆さんが主体的に自分の話ができるようにする事。状況を考えてタイムリーなテーマを選ぶ。新しい知識や幅広い分野から資料を用意する事。単なる理屈やマニュアル的にならないようにする事。「詩」なども資料として使い感性に訴える。「汝自身を知れ」「己を知れば百戦殆からず」として、研修を通して自己覚知を目指す。
マニュアル的な発想が良くない事は三好春樹氏も「痴呆論」で、バリテーションなどの外来のケア論を形式的に導入しても、その理念の確認がなされなければ意味が無いという旨の持論を展開していますが、そのような意味では、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのか、その意味を考えるような「理念」を常に基盤にする事、なども心掛けてきました。
特に面白かったのは、精神分析理論などをもとに自己分析をした回(エゴグラム・エニアグラム等)です。皆さんから「納得了解した“自分”」「自分の知らない“自分”」が出て話は盛り上がり、自分で自分をどう見ているのか、他人からはどう見られているのか、などを話し合いました。自己分析は今後もやってみたいと思います。
今後も皆さんにふるって参加をお願いしたいのですが、悩みの種は、参加者が固定化されてしまっている事です。「あんまり参加してないわ」という方は、是非参加をお願いします。
そして、あんまり参加されない方にお願いがあるのですが、もっと多様性に満ちた研修にしていくためにも、どんな研修を望んでいるかをお聞かせ下さい。今後の改革としては、①階層別・グループ別研修を行う。②研修参加手当の見直しなど、研修の達成・修了度が給与に反映される仕組みを作る(その代り、一部研修を義務化するなど)が考えられます。研修の目的は、学びよって今まで“介護”を振り返り、明日からの、「何のため」「誰のため」「どのように」介護をするのかに活かしていく事にあります。その時に一番重要なのは、同じヘルパーさん同士なので悩みなどを話し合い、相互作用的に自分自身を客観視し、自分自身の感情から距離を取って考えてみる事によって、精神的にリフレッシュする事です。気軽におしゃべりにくるぐらいの気持ちで参加して下さい。


紙ふうせんだより5月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます。

強い日差しを浴びて、草木が一番成長する季節です。空地はいつの間にか夏草に変り、土も乾きぎみです。草木は青空に両手を拡げて水も欲しているようです。皆さんも水分補給はマメに行って下さいね。

さて、草木はどうやって成長するのでしょうか。光や水や土など適度な環境が整えば、誰からも教わる事なくひとりでに育っていきます。そのような力が初めから植物の種子には備わっているのです。このような成長の季節に私たちも一歩づつ成長していきたいと思います。

 

“生活のしづらさ”を支える

今年の4月から「生活困窮者自立支援制度」が始まりました。今までの福祉制度は対象者を高齢・障害・児童などの縦割りで支援していましたが、そのような垣根を越えて横断的に、「現在は生活保護を受給していないが、生活保護に至るおそれがある人で、自立が見込まれる人」を対象とし、生活の困窮や社会的な孤立から脱却し自立した生活を目指そうというものです。対象者の「生活保護に至るおそれがある人」というところには、給付を抑制したいという国の痛ましい下心が透けて見えるようですが、ともかく次のようなケースが例示されています。

5絵

・高齢で体の弱った親と二人暮らしを続けるうちに、地

 域から孤立してしまった人

・家族の介護のため、時間に余裕はあるが収入の低い仕

 事に移った人

・離職後、求職の努力を重ねたが再就職できず、自信を

 失ってひきこもってしまった人

・いじめなどのために学校を中退し引きこもりを続ける

 うち、社会に出るのが怖くなってしまった人

 

このように支援対象はとても幅広く、3月の研修会で内閣府の資料などを使って取り上げた、対人コミュニケーションに関わる多様な能力のバランスのとれた発達を欠いた“発達障害”の方もここに含まれてくるでしょう。IQなどの知能は普通であっても、物事の段取り構築や、自己感情表現や相手の表情を読んだり、抽象的な言葉の感覚的理解などが苦手な“発達障害”の方は、学校や職場で孤立したりイジメなどを受けて、自己卑下や自信喪失などの感情を生じやすくなります。それは“生きづらさ”となり、就職しても長続きせず“ひきこもり”になるなどし、生活は困窮していきます。2007年にNNNドキュメンタリーが“ネットカフェ難民”を取り上げ流行語となりましたが、生活困窮の多くのケースは、その背景に“生きづらさ”を抱えています。最近、母子家庭の増加とその貧困率の高さが問題視されていますが、一人親になるきっかけにはDVや児童虐待などもあるでしょう。そのような被虐待経験も、情緒の未発達や、自尊感情の破壊、他者への信頼感の喪失などを生じ、“生きづらさ”となります。そして、その“生きづらさ”の解決を障害や心の傷のという“個人の病理や人生の克服”という次元で考えるのではなく、“生活のしづらさ”に置き換え、環境や生活スタイルを整えることに焦点をあてていきます。なぜかというと、“個人の病理や人生の克服”にしか解決策がないのであれば、利用者は自分ではどうにもならない大きな壁にぶつかったような気がして、立ちすくんでしまうからです。また、支援者も“問題のある人”というようにレッテル貼りをしてしまい、利用者をレッテルの中に閉じ込めてしまう事が多いからです。

“生きづらさ”というものは、例えば「自分はダメ人間だけど頑張りたい。頑張りたいけどダメ人間だ」というような、本人にとってはどうしようもないくらいに“どうどう巡り”してしまう思考回路としても現れてきます。そのような時、膠着した思考回路の枠組みをずらして、“生活のしづらさ”として具体的に生活支援の提案をしていきます。「ダメと感じるのは生活の○○で困っているからですよね。では、○○に対してこんな取組をしてみるのはいかがでしょうか」というように、支援者側もレッテル張りの枠組みから抜け出せる提案を考えなければなりません。そのために求められるものは支援者自身の視点の切り替えと、支援の枠組みの変化なのです。

 

医療モデルから生活モデル(生活者支援)への転換

 

従来の福祉では、利用者の課題を、疾病や障害を中心に理解してきました。そのため、支援の中心は疾病や障害をいかに治療・改善するのかが課題となり、その方法として投薬やリハビリ、健康管理等の医療的アプローチが優先される事になります。すると支援過程の主体や責任者は治療や健康管理をする側となり、もし利用者が支援を拒むならば、専門家の教育や訓練に従わない“ワガママ”な利用者という事になっていました。利用者の反発は、自分自身こそが人生や生活の主役であるはずなのに、その主体性を奪われた怒りです。しかしその反発を受けた“専門家”を称する支援者は、言う事を聞かせようとますます指導的・管理的になっていきます。その悪循環の結果は、支援関係の破たんです。支援者が支配者として君臨し、NOと言えない利用者は自分の殻に閉じこもり意欲を低下させていくか、支援者がワガママに振り回される事に疲れ果てて降りてしまうか、のどちらかです。そのような福祉の文化を「オールドカルチャー」と呼んで克服していこうという潮流が今あります。 一方の「ニューカルチャー」での支援者の立場は、“専門家”という権力を行使して援助をスムーズにするのではなく、支援者自身も生活者として“対等な一対一の視点を持ち、“共に歩む・支えて手”でなければならないとされています。問題解決型の方法論ではなく、もし“生活のしづらさ”がなくなったらどんな事がしたい?と、思い描く生活への目標を話し合いながら、具体的に生活環境の改善を目指します。それは、本人の主体性を促した上での取り組みとなり、本人の自己決定を支援していくものになります。 進行性の癌の方を例にしてみましょう。医療モデルでは、ガンの治癒を第一の目標とします。抗がん剤の投与などの辛い治療により、患者の多くは食欲不振になるなどし、日常の生活もままならなくなります。医療という専門家の視点からすれば、延命こそが価値の第一番になるので、治療による患者の苦しみや生活破壊は、深く顧みられなくなります。それに対して生活モデルの視点では、本人がどのような“生活”を送りたいか、という想いを明確にする事から始め、その為には何に困っているのかを明らかにし、そこにどのような治療が要・不要なのかという事も含めて一緒に考え、それらを自己決定できるように促していきます。そして、ゆくゆくはどんな場所でどのように締めくくりたいかという事にまで、本人が心を定めて不安を乗り越えて、周囲に自分の気持ちを伝えられるようにしていく事が大切だと考えられています。生活モデルの視点は、常に主役は本人であって支援者ではない事が強調されます。そして、本人が主役であるために最も大切なのは、本人による本人のための「自己決定」なのです。

 

「自己決定」を支援する

 先の「生活困窮者自立支援制度」の国研修の資料によると、「健康な『自己決定』を成立させる要素」として、以下の5項目を挙げています。これらが“できなくなった”時には、 「健康な」自己決定がさまたげられ“生活のしづらさ”が生じてくるとしています。

(平成26年度自立相談支援事業従事者養成研修 ・相談員研修「自己決定の支援とは何か ~判断能力が不十分な人への関わりを中心に~」より)

 

・率直に話し、かたよりなく聴いて理解する 6絵

・見通しを立てて、段取りを組む

・優先順位を決める

・実行に移し、最後までやりとげる

・適切にふり返り、記憶に残しておく

このように見ていくと認知症の方は、自己決定を“健康”に行う事が困難になってくる事はすぐに了解できます。しかしだからといって、自己決定ができないわけでも、自己決定が必要ないわけでもありません。むしろ、支障を来しているがゆえにその支障となっているところを支援する。絡み合った困難さを一つ一つ解きほぐしながら一緒に考えていく、というプロセスこそが大切なのです。「健康な『自己決定』を成立させる要素」は、アセスメントを行いそこから抽出された課題を本人と一緒に確認しケアプランを作るというような、PDCAサイクル(Plan計画→ Do実行→ Check評価→ Act改善)を回せと言われているケアマネジメントのプロセスとそのまま重なります。まさにケアマネジメント過程は自己決定の支援過程でもあるのです。そして、話し合った事を本人が忘れてしまったとしても、自分の事を一緒に考えてくれる信頼できる人間関係があると感じるか、自分の知らないところで自分の事が勝手に決まってくという疎外感を得るかは、その後のその人自身の在り方に大きな違いとなって現れてくるのです。

 

自己決定はその人固有のもの

 

ケアマネジメントについて書くと、ヘルパーさんは“関係ない”と思われるかもしれませんが、そんな事はありません。自己決定の重要性は自分自身の問題でもあるのです。例えばヘルパーさんが、この仕事を「自分自身が希望して、やりたいから、好きだから」やっている人と、「他に仕事がなくて、仕方がなくて」やっている人とでは、ヘルパーとしての相手の方との関わり合いにも大きな差が出てくるように思われます。前者は健康な自己決定をしていますが、後者は社会的・経済的な圧力の下に“不健康な”自己決定をさせられていると言えます。そして、“不健康な”自己決定をしてしまった人に限って相手に対しても“不健康な”自己決定を強いるような合わせ鏡の関係になってしまいがちである事を感じます。そして、相手を批評という天秤に掛けてしまう時、実は自分の秤こそが歪んでいるかもしれないのです。前出の資料には「相談員自身が自己理解をしていなければ、相談者の自己決定を混乱させてしまう」とあります。また、自己決定は「誰も代われないその人固有のもの、その人の人生そのものであると理解する」とあります。

「彼らと一緒に悩む、迷う、つまずく、謝る、喜ぶ →彼らが『生きていく』ことに寄り添っていく」(同資料)これは、誰かの伴走者になる事の重たくて必要不可欠な態度を示しています。私たちは、一週間の内の何時間かは誰かの人生の伴走者になるのです。そしてそこから得た想いは、自己理解という形で合わせ鏡のように結局は自分自身に帰ってくるのではないでしょうか。懸命に生きている方と関わるなかで自分自身を振り返ると、他人に対してと同じように自分で自分にレッテル張りをしていた事に気付かされます。そのレッテルをはぎ取った時、自分にとって不本意だった状況も、実は自分自身が無意識に望んでそのような状況を作り、自己変革を求めて知らず知らずに飛び込んでいた、とさえ思えてくるのです。

私は、自己決定をする力はどんな人であっても、認知症や知的障害や精神疾患があっても、種子のようにその人の中に在り続けるものだと信じています。支援者は、その種が芽を出すように環境を整える事が役割なのです。なぜならば、私自身“不健康”な状況もあったけれど、結局自分は自己決定してきたし、今後も自己決定していきたいと望むからです。それが掛け替えのない自分自身の人生に他ならないと感じるからです。


紙ふうせんだより4月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます。これから暑くなってきますね

ゴールンウィークに向かって気温が上昇していく季節です。季節の変化に追い付けない利用者さんは、水分が足りなかったり厚着のままでいて、“脱水症状”や“熱中症”という事もあり得ます。これからの季節は、利用者さんが「なんか調子悪い」「ぼんやりしていて、いまいち受け答えがはっきりしない」という時は、それらも可能性の一つとして考えておいて下さい、利用者さんからおかしな発言が見られる時、認知症の進行だけではなく、“脱水”や“こもり熱”“低栄養”なども疑いの中に入れておいて下さい。

 

それ以外の可能性としては、本当に緊急事態になりますが“脳卒中”です。脳血管障害は、主に「脳出血」か「脳梗塞」になります。これらは大きな病変が発生する前に、「かくれ脳出血」や「かくれ脳梗塞」などの予兆がみられる場合があります。倒れてしまう前に「四肢のどこかに力が入らなくなったり痺れが現れた」などの場合が多く、利用者さんは「歩けない」「立てない」と訴えます。普段から脊椎圧迫骨折などがあり歩行困難な方は、その症状と見誤る事があり注意が必要です。脳血管障害に特徴的なのは、痺れや力が入らないなどに『左右差』(片麻痺)がある事です。脊椎の神経障害でも左右差が出る事がありますが部分に限られており、脳血管障害の場合は障害が片側全体におよぶところが特徴的です。両手をバンザイしてみると片方の腕が上がりにくい。手や足をつねったりくすぐってみると片方が感じにくい。温度を感じる事も片側が鈍くなります。また、うつらうつら寝てばかりになる事もあります。これらのサインが急に現れた場合には脳を疑い、基本的には救急車要請です。

 

最近の利用者さんでこのような状態が見られたのである大学病院に救急搬送をしてもらったところ、しっかりとした検査をしてもらえずその日のうちに帰され(脊椎に病気がある方でした)、後日別の病院で精密検査をしてもらうと、やはり脳梗塞が見つかったとういケースがありました。救急搬送の場合は、私たちは診断はできませんが、こちらの疑念をしっかりと伝えていきたいと思います。

 

いずれにしても、普段の利用者さんの日常生活のイメージを持っている事が大切です。私たちは限られた時間しか訪問しませんが、それ以外の時間で利用者さんがどのような生活をしているのかという事に、想像力をしっかりと働かせるのです。それは、現実には「見ていない」「知らない」事ですが、『見えない事』を想像し、“理解”する事が良いサービスにつながるのです。この見えない事を見ようとする事は、介護の仕事の本質に深く関わる事なので、掘り下げて書いてみたいと思います。

 

見えないものを見ようとし、見えるようにする事

映画監督の黒澤明は、自伝『蝦蟇の油』でモーパッサンの「誰にも見えないところまで見ろ、そして誰にも見えるようになるまで見ろ」という言葉を引いて、目に見えないものを、見えるようにしていく事が映画監督の仕事だと語っています。黒澤明は映画『夢』で、富士山が噴火し浜岡原発が被災し放射能をまき散らし、その放射能には色が付いて「見えてしまう」という恐怖を描いています。目に見えない恐怖(原子力発電所と共に生活する恐怖など)を、まさに「見える」ようにしたのがこの作品です。

 私たちの介護の仕事は、特にケアマネージャーさんは利用者さんの「表現できていない」「言葉にならない」気持ちをケアプランという形で“見える化”し関係者で共有すると共に、利用者さん自身の自己覚知を促し、生活に対して新たな目標などを持って臨めるようにしていくケアマネジメントが重要です。

 

このように考えていくと、どんな物事でもその本質はなかなか見えないもの、隠されたものであって、見えないものだからこそ見ていこうという姿勢が大切であると言えるでしょう。また、本当に大切な気持ちはなかなか表現できないもので、言いやすい耳障りの良い事を言って自分の本心を誤魔化したり、目の前の人に無意識的に合わせたりするのが、多くの人の取り得る態度だと言えるでしょう。こんな複雑な裏腹さをもって表現される人の心は、恋愛を例にすると了解しやすいのではないでしょうか。

 

見えぬものでもあるんだよ

 

金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」と いうものがあります。この詩には「目には見えないけど本当は存在するものがいっぱいあるんだよ」という他者との共生感覚のような愛情が、ふるえるような言葉で紡がれています。金子みすずの言う「見えぬけれどもあるんだよ / 見えぬものでもあるんだよ」というようなものごとは、何が考えられるでしょうか。

 

           星とたんぽぽ

                                           金子みすず

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

   見えぬけれどもあるんだよ、

   見えぬものでもあるんだよ。

 

ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきにだァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

 

それらの一つに人の心があります。例えば恋愛の場面では、一番気になるのは相手が自分に対して好意を持っているかどうかでしょう。しかし自分の気持ちでいっぱいいっぱいになると、相手の気持ちは全く見えなくなります。見えないからといって、相手に心が無いかといえばそんな事はありません。相手には相手独自の気持ちや考えがあります。それを、どうせ考えても解らないから、見えないからと言った理由で、自分の気持ちを押しつければ、稀に成功するかもしれませんが、たいていは失敗します。そして成功に見えた関係も長続きはしないでしょう。人の気持ちを考えない傾向が、だんだん顕著になってくると相手が離れていくからです。こうして、その人はだんだん孤独になっていきます。

 

目に見えないものをおろそかにする気持ちと「孤独感」の関係

 

私たちが介護をする方のなかにも、強い孤独を抱えておられる方が沢山います。それは、親しい人が亡くなったなどのさまざまな理由があるでしょう。一概に論ずる事はできませんが、先の恋愛の例で言うと、もしかしたら孤独だからこそ、自分の気持ちを相手に押し付けてしまったと言えるかもしれません。そうすると、悲しいことに孤独がさらに孤独を強めてしまう負のスパイラルに陥っているのかもしれません。そのような方は時々見受けられ、介護現場で “手を焼かせる”方になっているように思われます。それは、支援の在り方の至らなさもありますが、心からの忠告も耳に入らず、自分の孤独さのみに気を奪われ、周囲で大勢の人が支えてやろうと一所懸命になっているのに、煩わしいと感じてはねのけたりするような方などです。

 

そのような方は、周囲の人は優しくしてくれているのに、その優しさでは自分の孤独感は埋まらないというようなアマノジャクな態度を見せる事になります。周囲の優しさに気が付かないから孤独に陥っているとも言えます。このような方には心を開いて頂いて、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」の歌詞にもありますが「人生捨てたもんじゃないよね」という事を、介護者としては解って頂きたいと思うのです。困った事にこのような方は、自分自身でも自分がどうしたいか解らなくて、周囲の人を振り回す事が多々あります。

 

人の優しさは明確な形で目に見えるものではありません。むしろ自身の心で感じていく性質のものです。だからこそ、見えないものを見ようとする気持ちが必要なのではないでしょうか。目に見えないものをどうやって見て、どのように感じていくかは、一朝一夕には上手くいかない積み重ねのようなところがあります。

 

例えば、掃除の仕事の時に、「どうせ利用者さんは見えないから」「見ていないから」「指示がないから」と、当初のサービス計画よりも質を下げて(さぼって)支援をしたとします。このような時、利用者さんからクレームが有るとか無いとかは本質的な問題ではありません。利用者さんは、内心では「あそこの掃除もお願いしていたんだけど、いつの間にかやってくれなくなった…でも、いろんな方がいるから口に出して指摘するのはやめよう。そのうち気が付いてくれればいいんだけれど…」と思っているかもしれません。このような時、二重の意味で、目に見えないものを意図的に無視している事になります。一つは利用者さんの気持ち、そして何よりも重要なのは、自分自身の良心です。仕事をしっかりとやって利用者さんに気持ち良くなって頂こうという自分自身の優しさを、自分で無い事にしてしまっているのです。このような態度を「裏表がある」と言います。「人間には裏があって当然」と開きなおってしまったら、困るのは自分自身です。目に見えないものは無いものとしているうちに、他人の心に不感症になり、その優しさを感じられずに孤独感を抱いてしまったり、無視し続けたがために自分自身の本当の気持ちが解らなくなってしまうのではないでしょうか。

 

誰かの孤独感を感じた時、自分自身はどう振る舞うのか

 

「孤独感」をこのような構図だけで説明するのは実は乱暴な事です。その背景には生い立ちや時代背景や、現在の人間関係やどうにもならなかった悔しさなどもあるでしょう。ただ、こうやって裏表のある態度と孤独感の関連性を明らかにすると、誰しもがドキッとするのではないでしょうか。それは、全く裏の無い人は居ないからです。だからこそ利用者さんが抱いている孤独感とどう向き合っていくかは大きな課題なのです。利用者さんの孤独感は「私は関係ない」というものではなく、私の孤独感の問題でもあると捉える必要があるのではないでしょうか。そのような気持ちになった時、利用者さんとヘルパーさんとの間で目に見えない信頼関係が生まれます。そして、その孤独感について一緒に考えていき、ヘルパーの気持ちも素直に利用者さんに述べるというような壁の無い態度が、利用者さんの孤独感を解きほぐしていく可能性があると言えるのではないでしょうか。

 

本来、人間関係を成り立たせている関係性は、目に見える存在としては無いものです。その目に見えないものに対して、存在を信じる心になれば優しさを感じ、疑う気持ちになれば孤独感を生じるのでしょう。介護の仕事の本命を、三大介護(排泄・入浴・食事)ではなく人の心やスピリチュアル・ケアと捉えれば、私たちの仕事は、目に見えないものの存在や価値を信じていく事に他なりません。私たちは単なる掃除屋や入浴屋ではありません。生活援助や身体介護を機会として、手の温もりや声の響きを通して自分の心を相手に伝え、人の心の畑を耕し、心の豊かさを開拓する仕事なのです。私たちがこの仕事のやりがいを感じる時は、必ず、お互いの気持ちが通じ合ったと感じる時ではないでしょうか。通じ合ったその“感じ”に疑問を挟む必要はありません。自信をもってそこは素直に信じていきましょう。

 

利用者さんがいつの間にか明るくなり元気になったという時には、必ずヘルパーさんや家族の目に見えない努力があるという事を私は信じています。そして、そのような皆様方を待っている利用者さんが沢山いるという事は、私たちの心にとっても、豊かな実りとなり得るとても幸せな事ではないでしょうか。


紙ふうせんだより3月号 (2015/07/31)

皆様、いつもありがとうございます。桜が咲きましたね!

 

私にとって4月の思い出は、なんと言っても子供のころの進級・クラス替え、卒業式・入学式などの新しい始まりに心を躍らせた思い出です。その高ぶった感情が咲き誇る桜と結びついて、桜の花はエネルギーの塊が光を放つようなイメージで心に刻まれています。皆さんはいかがでしょうか。日本人がお花見好きなのは、単に花より団子だけではなく、桜の木でお酒の力を借りつつ、子供の頃の純粋な気持ちを思い出すからではないでしょうか。

 

子供の心の純粋さ

 

打算や世間体などから離れたところで、誰かに絵

 とってではなく自分にとって、良い悪いや好き嫌いなどを、自己抑制なく感じられる心には、命の純粋さがあります。一方で、それを“ワガママ”と言う声もあるでしょう。“成長”とは、自分を抑えて周りに合わせられる事だと言うのです。しかし、皆の為と称してして自らの命の深みからの声を聴かず、自分や仲間への利益誘導や保身に明け暮れ、人の心や命を平気で踏みにじれる“強さ”を持つ事が“大人”への成長だとしたら、どんなにか残酷な事がその人の心の中で行われてきたのだろうかと恐ろしくなります。

河合隼雄『子どもの宇宙』岩波新書より引用します。

 

この宇宙の中に子どもたちがいる。これはだれでも知っている。しかし、ひとりひとりの子どもの中に宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さを持って存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは、小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を湾曲してしまったり、回復困難なほどに破壊しりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。私はふと、大人になるということは、子どもたちの持つこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去っていく過程なのかとさえ思う。それでは、あまりにもつまらないのではなかろうか。

子供や老人の中の宇宙

2絵

 

「老人と子どもは不思議な親近性を持っている。子どもはあちらの世界から来たばかりだし、老人はもうすぐあちらに行くことになっている。両者ともあちらの世界に近い点が共通なのである。青年や壮年がこちらの世界のことで忙しくしているとき、老人と子どもは不思議な親近性によって結ばれ」ていると河合隼雄は述べています。そして、老人や子供の本質の一つを“魂を導く者”と指摘しています。老人や子供がなぜ魂の導者となり得るのか、それは“大人”と異なり社会的規範などに縛られる事なく、魂の側から自然体でこの世を見ているからと言えるでしょう。しかし、老人や子供の声が聞こえない“大人”は、「善意」のつもりでとんでもない事をしている恐れがあるのです。

「介護」や「支援」の両面性

 

最初の引用文の『子ども』を『高齢者』や『認知症高齢者』または『知的障害者』と読み替えたらいかがでしょうか。また『「教育」や「指導」』を『「支援」や「介護」』と読み替えてみましょう。すると私たちの行っている「善意」を自己検証せずに安易に他者に適用する事はできなくなってきます。

私たちの行っている「介護」は生活に働きかける具体的な力を持っています。孤独さに心を閉ざしていた方が「介護」という関わりで、心を開いていくという事もあるように、実に強い作用があります。しかし強い作用というものは、常に薬と毒の両方の可能性を考えておかなくてはなりません。もし医師が処方する薬の副作用を知らなければ事故になります。人の心と関わる仕事をするものは、本人の主体性のない現状変更は本人の力を奪い、時として現状破壊につながる危険性も自覚しておく必要があるでしょう。

 

社会的規範の両面性

 

私たちが社会的生活を送る上で、「○○しなければならない」というような社会的規範は実に多くあります。それらは、多数の他者によるこの社会を成りたたせる為には必要不可欠ですが、それらが余りにも多く重くのしかかると、社会は窮屈になります。社会全体の許容量が少なくなり多様性は損なわれ、皆がイライラし始め、枠に入りきらない人を意識的・無意識的に排除し始めます。そのような時、排除された者や脱落したと感じる者が、うつ病や引き籠りなどという静かな抵抗を試みる事もあるでしょう。

排除の論理が働く時、排除する側には、「自分は排除される側に回りたくない」という強迫観念めいたものが現れます。すっかり定着したかのような“勝ち組”“負け組”という言葉もそうでしょう。最近では、中高生の間でも“スクールカースト”などという言葉がささやかれ、自分が“下位”にランクされないように“下位”のクラスメートとの付き合いは避け、“上位”のクラスメートとのみ付き合っているように表面上は見せかけるという“処世術”もあるようです。残念ながら、“大人”の世界の論理がだんだんと子供の世界を侵食しはじめ、子供が本当に子供らしく生きられる期間が、極端に短くなってしまっているようなのです。

 

導者の役割

 

言うまでもなく誰の心の中にも“宇宙”は存在しています。しかし、現実の生活や生産活動がネオンのように輝くと、それは夜の星の光のように見えにくくなってしまいます。そのような時、改めて“宇宙”の存在を気づかせてくれるのが、子供や老人なのです。そしてそれはある種の反抗として現れます。私たちが“介護”している方たちも、時々私たちの“介護”に“反抗”します。それは、不確実な言動で周囲を右往左往させたり、認知症の方の行動・心理症状(昔は問題行動や周辺症状と呼ばれていた)だったりします。しかしそれらは、“大人”の合理性や一方的な論理を押し付けないで欲しいという悲鳴だったり、“介護”を見て“人生や魂”を見ないような、「木を見て森を見ない」態度を改めさせるべく生じていると考えてはいかがでしょうか。“導者”は道化師(ピエロ)のように振る舞いながら、“大人”が目に見えないものを軽んじるようになった時、そんな事あってたまるか!と、私たちに迫ってくるのです。それは人間存在の重みの叫びであり、命の深みへの気付きを導くのです。

河合隼雄は、戦時中を舞台にする児童文学を例に導者について次のように言っています。

 「方向性が明確に定まっているところでは、指導者や教師が活躍する。彼らは何が「正しい」かについて確信を持っており、同じことを繰り返し言っておればよい。そして、その正しい方針に従わぬものは悪として裁断すればいいのである。しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるものだろうか。人間の魂はそれに対して、強く「否(ノー)」と叫ぶだろう。(略)導者は社会的規範や、指導者のことばにまどわされることなく、魂の呼びかけに応じていく。そこでは、言葉よりも行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。」(同書)

 

価値観の逆転

魂の導者は、既存の価値観の見直しを促し根源的な問いを発します。それは露骨な言い方をすれば、介護を受けなければ生活できないような者は哀れな存在なのか否か、というものであり、それに答える私たちが明確な答えを見出さないかぎり、介護する側と介護を受ける側に作られてしまった序列を逆転させるのです。私たちは、人生や魂の学びの為に、導者に頭を垂れ謙虚に教えを乞う立場なのです。

このように考えると既存の価値観の多くが揺らいできます。例えば、還暦を迎えた老人に赤いちゃんちゃんこ着て頂く風習があります。これは、還暦を迎えた大人が赤子のように無力な存在になるという意味ではなく、社会的役割から徐々に解放され、社会や生活の維持などの視点から人生を見つめるのではなく、子供のような純粋性を持って、魂の側から人生を眺め直す時が訪れたと理解すれば、意義深いものになるのではないでしょうか。年を重ねる事は悪い事ではないのです。


紙ふうせんだより6月号 (2015/07/31)

 

皆様、いつもありがとうございます

梅雨です。自転車のスリップ(マンホール、横断歩道、歩道の段差)、傘さし運転による出会い頭の事故には、くれぐれもご注意ください。レインコートなど事前の準備と、余裕を持った移動をお願いいたします。

さて、正月から数えてもう一年の折り返し地点です。「一年の計は元旦にあり」と言いますが、ここらでもう一度自分のやりたい事や目標を振り返ってみるのも良いでしょう。

私の本当に“やりたい事”は何だろう?

就職活動など学生や若い人は、度々「私の本当に“やりたい事”は何だろう?」と自問自答をします。それは「どんな職業に就きたいか」として具体化され、明確になれば行動に結びつきます。しかし、なかなか明確にならない方もいます。明確化されないのは、自分自身の掘り下げ不足や視野の拡がり方などの問題もあるでしょう。また、マニュアル的な“目標は具体的なほど実現する”などの考え方に偏りすぎると、一面性の弊害が出てくる場合もあります。職業というのは器であって、本質的には「そこに何を入れるのか」という“想い”が重要なのです。問われているのは、「どんな」ではなく「どのように」という事なのです。

サッカーをやりたい、映画をやりたい、起業をしたい、ビジネスパーソンとしてバリバリと仕事をしたい等という事が見えているということは、幸せな事です。それを目指していけば良い。しかしそこに、自分の何を入れていくのかという事が無ければ、例えばサッカー哲学や、どのような映画で人間の何を謳い上げるのか、誰の為に何の為にという信念がなければ、一流になるなど程遠く生き残る事さえ危ういと思われます。介護の仕事も、誰の為に何の為にという信念に裏打されていなければ、皆さんのように長く続ける事はできなかったと言えるでしょう。

一方で、つきたい職業ややりたい事が分らないという事も、決して寂しいわけでも劣っているわけでもありません。「どのようにありたいか」という人間性を追求してゆく信念があれば、器の具体性が無くても、可能性はいつどんな時でも拡がっていると言えるでしょう。もし、中身ではなく器にしか価値がないのであれば、

え 仕事を引退した隠居には、価値が無いという事になってしまいます。そうでは無い事を私たちは介護を通して知っています。

また別の例えをすれば、「どのようにありたいか」は、人生の土台であり、その上に「やりたい事」が乗っているとも言えましょう。6月18日の研修では土台としての「パーソンセンタードケア」があり、それを具体的に表現する技術としての「ユマニチュード」について学びました。このような、重なりあっている構造に理解があれば「私の本当にやりたい事は何だろう?」というように、自分自身の方向性について取り組んでいる事は、若年者も高齢者も年齢に関係なく、実は同じであるという事が了解されます。要介護高齢者には、職業などのやりたい事やれる事はもう無いかもしれません。しかし、人生の総まとめという場面において、より直接的に「どのような人生、生き方でありたいか」という課題を、まさに体現しなければならない段階に入っているのです。

やりたい事とやるべき事

 ミャンマーの非暴力民主化運動の指導者、アウンサンスーチーさん(独立を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘、1991年ノーベル平和賞受賞)は、インタビューで「研究者になりたかった」と語り「政治家になった事を後悔していないか?」との問いに「人生にとって、やりたい事よりもやるべき事をやらなければならない時があるのです」と答えています。スーチーさんは、軍事独裁政権の圧政を許してはおけないという人間としての信念に基づいて行動を起こしました。それは、狭い意味で自分を“犠牲にして”というようなものではなく、より自分自身を高め信念に生きるという意味で、自分の為でもあり皆の為でもあったのです。そして「やるべき事をやらなければならない時」も、年齢に関係なく現れます。例えば“神風”に散った青年たちも、やりたくて“特攻”したのではなく、郷土の人々の平和な暮らしの為、それを“やるべき事”として飛び立ったのです。祖国がいずれ平和になるようにと祈り、願いを後世の人々に託したのです。『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)に収められている学徒出陣した上原良司の遺書にもそれを伺う事ができます。

いずれにしろ、自分の人生の終わりを見通すようになると、やるべき事の比重が大きくなってくると思われます。それを具体化すれば、後進を育てるという事が中心になってくるのではないでしょうか。その「育てる」という事を本当に行おうとすれば、それは相手を自分のカラーに染め上げるというようなエゴの拡大ではなく、相手の内発性や主体性を信じ託して、その人が自分の中に秘めている宝石に気が付き、自分らしく輝いていけるようにしてく事となるのではないでしょうか。私の行った雑な介護にもかかわらず、私の頭のてっぺんから爪先まで全身を包み込むように暖かく眺め、「ありがとう、また来てね」とおっしゃって下さる方の眼の中に、そして時に厳しい眼の中に、その「託す」ような育つのを見守る気持ちを見る事があります。この時、お世話をしているのは私達ではなく、実は立場は逆で、自分はお世話をされているのだと痛感させられるのです。(それに気が付かずに「この利用者は何も文句を言わないから楽だ」と思ってしまう浅ましい自分がいる事もありますが…)

このように介護の世界では、主体と客体の逆転が常に生じます。その逆転の作用こそが、利用者の意欲を高め介護職の自分自身を癒すという働きを生じさせるのではないでしょうか。

 

足下を掘れ、そこに泉あり

 自分はどうするべきか考えあぐねている方に、「足下を掘れ、そこに泉あり」とのニーチェの言葉を贈ります。足下とは、自分の置かれている状況や環境、自分に起こった事、自分が起こした事、自己の内面、今の仕事など人によって捉え方は様々できます。掘るとは、それらに真剣に向き合い誠実に我が身を振り返る事です。今ある関係性や出来事に着目し、そこから意味を汲み上げる作業です。そのように、他人の足元や他の場所ではなく自分自身の足元を掘り下げる事こそが、自分自身にとっての本当の“宝”となるのではないでしょうか。

 
 (資料)1945年5月11日 22歳で沖縄県嘉手納沖で戦死した、上原良司の遺書(下線は佐々木)「所感」栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。 思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、 これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。 人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、 底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。 我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。 ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、 今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。 自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。 現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。 ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。 何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

 
【解説】上原は権力主義全体主義の国家は「必ずや最後には敗れる」と日本の敗戦を予見している。その「自己の信念の正しかった事」を「祖国にとって恐るべき事」ではあるが「吾人にとっては嬉しい」と述べている。あえて毒杯を呑んだソクラテスにも似た心境だろう。「大帝国たらしめん」とは皮肉と偽装だろう。一貫して“日本”との文言を使い、一度も“大日本帝国”とは言わない上原の愛する祖国は「日本」なのだ。「真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかった」と、日本の取るべき別の道があった事を示唆しつつ、権力主義全体主義の支配者たちが偽りの愛国者である事を見抜いている。「願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです」と後進の日本人に願いを託し、自己の信念は国家権力と戦う「過激」なものとし、「彼の後姿は淋しい」と権力主義全体主義に呑み込まれ“大日本帝国”に殉じるように見える淋しさを記しつつも、実は「愛する日本を」後世の「国民の方々にお願い」し、誤りに気付かせる為に死して国を諌める信念に忠実である自己を「心中満足で一杯です」としている。上原の心は真に自由だったのだろう。なお、上原は出撃前の昭和20年4月、最後の別れのため帰郷した夜、家族や近所の人々に対して「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため、戦死しても天国へ行くから、靖国神社には行かないよ」と語ったという。その魂も真に自由であった。今の日本人は上原の願いどおり「世界どこにおいても肩で風を切って歩く」事ができる。世界中で平和主義の「日本」が認知され、武力によって国際紛争を解決しないという主張が、不安定な世界情勢の中で信頼に値するからだ。東南アジア(ミャンマーやタイなど)や西アジア(イスラム圏)の人々は、日本に対して親愛と尊敬を示す方が多いと言われている。権力主義全体主義の人はそれをもって「日本は、太平洋戦争によって欧米の植民地支配から解放した英雄だからだ」と言うが根本的に誤りである。日本が尊敬されるのは、植民地支配からの独立のきっかけを作ったという事もないわけではないが、その後の日本が真摯に反省し偉大な理想を掲げ憲法9条を抱き、敗戦の焼野原から立ち上がり、ベトナム戦争などにも参加せずODAなど平和外交に努め、戦後70年にわたる不戦・非暴力を築いてきた、その歴史の転換にこそある。今再び権力主義全体主義が、権力者のエゴを国家にまで拡大しようとその暴力を増しているこの状況に、私は上原ら先人に対して申し訳ないと思う。今、戦後を生きる日本人の覚悟が再び問われている。
 


平成27年2月 紙ふうせんだより (2015/03/12)

皆様、いつもありがとうございます。だんだんと暖かくなってきてほっとしています。昨年のような大雪が無いのが救いです。天気が悪いと事故が起こらないかなと心配になります。

さて、心配の種は、実はいたるところに転がっています。電車に乗れば電車の事故、交通事故、通り魔の凶行、食品の偽装や汚染、放射線被ばく。血圧やコレステロール値、巨大地震はいつ起こるかわかりません。しかしそういった心配事に振り回されずに、日常生活を過していけるのはなぜでしょう。

不安をコントロールする扁桃体

脳科学では、扁桃体という部位が“不安”とロゴ

いう感情をコントロールしていると考えられて

います。扁桃体が機能しないある人は、薬物中

毒者にナイフを突きつけられ「殺すぞ」と脅さ

れてもまったく恐怖を感じることがなかったそうです。扁桃体を削除したマウスの実験では感電する装置にセットされた餌を、何度

感電しても食べようとします。この事から、痛みを予測して適切に恐れる機能が失われ、欲求のままに行動していると考えられま

す。野生動物が自然界で生き残っていく為には、危険を本能的に察知し回避する事が重要です。その為に不安や恐れという感情があ

り、扁桃体はそれらをコントロールしているのです。そして、扁桃体の適切な活動は危険回避という生物の生存に必要な防御作用ですが、何かをきっかけに活動が過剰になってしまうと、常に強い不安にさらされる“うつ病”になるという仮説が立てられています。

心身の防御機能の過剰反応

どうして扁桃体が過活動になってしまうのでしょうか。脳内ホルモンのバランスなど、さまざまな説明がなされていますが、ここでは現代病の一つであるアレルギー疾患を例に、考えてみたいと思います。アレルギーとは、人間の体に害を及ぼす異物に反応して体の防御機能が働くべきところに、防御機能が過敏になり害のないものにまで反応してしまっている状態です。なぜそのような暴走が起きてしまうのかというと、病的なまでの除菌・抗菌生活が原因の一つと言われています。仕事を失った防御機能が、余計な仕事をしてしまっているのです。『清潔はビョーキだ』(朝日文庫)などの著作があり、回虫などの研究で知られる藤田紘一郎氏は、適度に細菌と触れ合わないと免疫機能が育たないと指摘しています。

人間の免疫力の70%は腸内細菌の働きによって作られます。赤ちゃんは産まれたらいろいろなものをなめたがります。これは腸内細菌を入れようとしているのです。パンダは生まれたら必ずお母さんのうんちをなめます。なぜかと言うと、腸内細菌の持っているササを消化する酵素を赤ちゃんパンダが持っていないからです。コアラもそうです。(中略)最近、生まれたばかりの赤ちゃんで、アトピーになっている赤ちゃんのうんちを調べたら、40%の赤ちゃんに大腸菌が一匹もいませんでした。大腸菌が一匹もいないという事は、この地球上で生き物として育っていないということです。無菌室に入れ無菌の餌をあげられた実験動物みたいなものです。」(藤田紘一郎氏の講演より)

の論旨と同じ文脈で扁桃体について考えると、本来恐れを感じるべき事に、恐れを感じずに生活した結果として、突然に恐れを感じなくても良いものにまで恐れを感じるようになってしまったと、私見ですが言えなくはないでしょうか。扁桃体や免疫機能の仕事量低下による機能低下があるところに、何かをきっかけにした過剰反応が起こるという構図です。

恐れるべきことと、恐れざるべきこと

「勇とは、人が恐れるべきことと、恐れざるべきことの区別である。」とは、新渡戸稲造が『武士道』で紹介しているプラトンの考えです。人が恐れるべきことを恐れないという事は、本当に大切なものとそうでないものの区別がついていないとも言えます。それは時代が変われど常に人の心の課題であり続けました。

例えば、どんな結果になるか解りきっているのに犯罪に手を染める人や、従業員の生活や人生など一切考えないブラック企業の経営者や、自分や身内への利益誘導ばかり考えている政治家や官僚、ウソで身を飾る人や、泣き続ける我が子を無視してスマホをずっといじっている母親など、例をあげればきりがないくらい出てきます。そしてそれらの人々もまた、何かを大切に思っていて、それに対しては一所懸命に生きているので、本当に大切なものを見ていない事に気が付いていないか、開き直ってあえて無視しているのです。現代日本は、マスメディアなどもでも“勝ち組”“負け組”などの言葉を使い、他人を蹴落とす事を肯定するような物言いをしている始末ですから、社会全体が大切なものを見失ってきているのではないかと、私は恐れるのです。このような社会的状況でのうつ病の増加は、社会的病理と言ってよいでしょう。

生きることではなくて、よく生きること

プラトンはその著作で師ソクラテスの言葉として「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。この「よく生きる」事については、過度な延命を見直してQOL(クオリティ・オブ・ライフ 生活や人生や命の“質”)を重視する方向性や、かつて介護の目的は、“三大介護”(排泄、入浴、食事)とされてきましたが、今、スピリチュアル・ケアこそが介護の目的とさえ言われるようになってきた新しい介護文化とも合致します。

プラトンやソクラテスの主張を煎じ詰めれば、よく生きて“魂”を高める事こそが、人生の目的と言えるかと思います。(ちなみにプラトニック・ラブとは「プラトン的な魂を高める聖なる愛」という意味です。)ソクラテスは「『よく』というのと『立派に』というのと『正しく』というのは同じである」と言っています。そして同時に、恐れるべき事を恐れなかった結果として、自らの魂を貶めてしまう事に警告を発しています。

私たちが介護をしていく中で、ただ単に介護というサービスを提供するだけでなく、スピリチュアル・ケアを目指していく時、その良い介護は、その生き方は、利用者さんの“魂” (スピリチュアル)を癒していくのみならず、私たち自身の“魂”を高めて行くものだと信じています。皆様はいかがでしょうか。

自らの“魂”を高めゆく生き方を探し求めていくうちに、介護という仕事に縁あって出会ったという原点を、忘れないようにしていきたいと私は思っています。

汝、自身を知れ  (以下はもうちょっと学びたい人の為に…読み飛ばしても可)

ソクラテス(紀元前469年頃 – 紀元前399年4月27日)は、「汝、自身を知れ」と、動物ではなく、本当に人間らしい生き方とは何かと追求したがゆえに、哲学の父と呼ばれています。ソクラテスに著作は無く弟子のプラトンがソクラテスを主人公として物語を書き、その哲学を現代に伝えています。なおプラトンはアリストテレスの師でもあります。

(死生観について)

「死を恐れることは、実は知者ではないのに知者であると思いこむこと以外の何ものでもないからです。すなわち、知らないことを知っていると思いこむことなのです。実際、だれ一人として死というものを知りもしなければ、ひょっとするとそれは人間にとってありとあらゆる善いものの中でも最大の善であるかも知れないということも知らないくせに、それが災いの中でも最大のものであるということをまるでよく知っているかのように恐れているのです。そしてまさにこのことが、どうして無知、それも最も恥ずべき無知でないことがありましょうか。つまり、知らないことを知っていると思いこんでいるという無知でないことが。」(『ソクラテスの弁明』プラトン著)

ソクラテスやプラトンは、“死”に対しても恐れざるべきこととしています。死とは逆の“生存”にこだわりすぎると、金銭や世俗的名誉、社会的地位ばかりに執着する事になり、かえって自らの“魂”を汚す事になりかねないことを「恐れるべきこと」としています。

(蓄財や栄誉について)

「よき友よ、・・・・できる限り多量の蓄財や栄誉のことのみを考えて、知見や真理やまた自分の霊魂をできる限りよくすることなどについては、少しも気にかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか」(『ソクラテスの弁明』プラトン著)

ソクラテスは、人間には誰にでもある良心の命令に従って忠実に生きることが、人間の真の生き方なのだと主張しています。

ソクラテスの主張が正しいと教条的に信じる必要はありません。ただ、私たちは人間の生死や、人生の最晩年に携わる仕事をしている者として、「私自身が、人間の生き方として、一体何を大切にしようとしているのだろう」と自分自身を深めていく事は、必要な事ではないでしょうか。

画像出典:www.actioforma.net


平成27年1月 紙ふうせんだより (2015/03/10)

皆様、明けましておめでとうございます。皆様と新しい年を迎える事ができて本当にうれしいです。年末年始には、仕事をして頂いたヘルパーさんもおりました。重ねてお礼を申し上げます。お正月には、皆様は、来し方を振り返る余裕は持てましたでしょうか。昨年1年だけでも訪問介護事業所としては、新たに60人以上の利用者さんと出会い、同時にその約8割程度の人数の方々とお別れをしました。お別れは、卒業・入院・入所・永眠等です。慌ただしい訪問介護の仕事ですが、それでも出会い別れた方に、少しだけでも何かを届ける事ができたのではないかと思っています。あらためて、ヘルパーの皆様や利用者の皆様との縁に感謝の念を表したいと思います。いつもいつもありがとうございます。

縁と絆

ところで“縁”とは、本来「縁起」という仏教用語ですが、難しい解説は抜きにしてその言葉の印象を述べると、“眼には見えないけど何かしら繋がっている関係”とでも言いましょうか。震災以降に流行している「絆」という言葉は、人と人の明瞭な結びつきを確認したいという願望を示しているように感じますが、それに対して“縁”とは明瞭な関係性の背後にある結びつける力のようなものと言えるでしょう。出会いの不思議は、本当のところ誰にも解りません。ただ、その背後に何かしらの意味や、根源的な因果があるのではないかとの推察が、縁起にはあります。縁を大切にする心には“無関係”という関係は無く、遠い外国の事柄ですら、何かしら私と繋がっているという感性をもたらします。そのような感性からは、たとえ相手が見えなくてもお礼は言われなくても、誰かの役に立ちたいという謙虚な優しさが生じてくるでしょう。そして大切なのは、そのような“縁”を知らなくても知らされていなくても、“縁”は確かにあると多くの人が感じている事ではないでしょうか。

知りもせず 知らされもせず

さて、介護の仕事を志望する方の中には、「人の役に立ちたい」という動機を前面に出して面接に来られる方がいます。良い心がけですが少々気になる事もあり、「介護の仕事は、相手から“ありがとう”と言われるばかりでは無いですよ。自分が良かれと思って行った事が、相手の反感を買う事もありますが、どう思いますか?」と聞くようにしています。

このような時、自分が相手に役に立ちたい一心で、相手の状況を“自分の力で”変えてやろうという狭い視野になってしまっている事があるようです。その時見えているものは、相手の本当の気持ちではなく、自分自身の“やりがい”や“使命感”であったり、“介護手順”だったりします。役の立ちたい一心で、役に立っている自分を確認したくて、知らず知らずに、お仕着せの優しさを相手に押し付けてしまう事も考えられます。

そんな風に肩に力を入れなくても、役に立とうと思っても思わなくても、実はすべての生命(いのち)は、何かの誰かの役に立っているのではないかという事を考えさせられる一編の詩があります。詩集『風が吹くと』(1977年)から引用します。

『生命は』

吉野弘

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけではロゴ

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて

そのなかに欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだロゴ

世界は多分

他者の総和

しかし

互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

自己完結を破る力

作者は、芙蓉の花を見ていて、雌しべと雄しべが受粉しにくい形状になっている事に気が付きました。簡単に自家受粉してしまうとその種が滅んでしまいかねないため、あえて「自己完結」しないように生物種にとって一番大切な生殖に他者を介在させているのではないか、という発見からこの詩の着想を得たようです。『詩の楽しみ』には作者自身の思索が以下のように綴られています。

「生命というものは、自己に同意し、自己の思い通りに振る舞っている末には、ついに衰滅してしまうような性質のものではないでしょうか。その安易な自己完結を破る力として、ことさら、他人を介入させるのが、生命の世界の維持原理なのではないかと思われます。

もしも、このような生命観が見当違いでないとすれば、生命体はすべてその内部に、それ自身だけでは完結できない『欠如』を抱いており、その欠如を『他者』によって埋めるよう、自己を運命づけている、ということができそうです。

他者なしでは完結することのできない生命、そして、おたがいがおたがいにとって必要な他者である関係、これは、もしかしたら生命世界の基本構造ではないのか――」

完璧主義を越えていくい力

私たち人間は、その多くの人は、「自分の思い通りに生きたい」という願望を持っています。しかし、思い通りにならない現実と接すれば苛立ちますし、思い通りにならない相手を排除したいという気持ちも生じてくるでしょう。“権利擁護”の研修では、そのような気持ちが虐待の背景にあることも指摘されています。ある研修の配布資料には「人間は完璧ではないのだから、援助に完璧を求めてはならないし、完璧であってはならない」という趣旨の文がありました。完成度の高さの追求は悪い事ではありませんが、形にはまってしまえば弊害も出てくるというものです。例えば、介護手順書通りに完璧に援助を遂行しようとすれば、利用者さんの小さな変化や可能性を見落とし、かえって良い介護からは遠ざかってしまう事もあるでしょう。完璧さばかりを求めていくと、かえって視野が狭まります。そのような視野狭窄を破っていくためには、「他の人が見たらどう感じるだろう」「自分の感じた事だけではなく、人の意見も聞いてみよう」というような、あえて『他者』を自分の中に取り込んでいく事も必要なのです。「自己完結を破る力」とは、「完璧主義を越えていく力」でもあるのです。

自身を成長に導く力

介護の現場では、「ホウレンソウ」が大切だと言われています。皆様もご存じの報告・連絡・相談です。何事も自分だけで片付けようとせずに誰かに話してみる事によって、安易な自己完結を破っていくのです。また、困った事があったら誰かに相談できる術を持っている人は、悩みから、自分自身を見つめ直す力を得ていくでしょう。事業所としては、皆様からのホウレンソウをしっかりと受け止めていきたいと願っています。是非、積極的にホウレンソウをお願いいたします。また、ホウレンソウがしづらい気持ちの中には、「失敗したと思われたくない」「失敗をとがめられたくない」という気持ちもあるでしょう。しかしその背景には、自分は完成された大人でありたいという気持ちから、ちょっとした不遜さが生じているのかもしれません。そのような時、不思議な縁の力で“失敗”が生じ、“自己完結が破られる”という事態になり、そこから何かを得て、「失敗は成功のもと」という新たな可能性が生じるという事もあります。欠けるという事は、常に新たな創造性の萌芽をそこに含むのです。「自己完結を破る力」は「自身を成長に導く力」でもあるのです。

お互いに支え合う関係を目指して

私たち事業所としては、皆様の支えになりたいし、至らぬところを改善していきたいと思っています。しかし私たちサービス提供責任者は完全ではありませんし、ケアマネージャーもそれは同じです。私たちが良い仕事をするには、皆様の力が必要です。お互いに欠けるところを満たしあう関係として、お互いに支え合い、お互いが新たな創造性を発揮し、より良く変わっていけるように念願しています。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 


平成26年12月 紙ふうせんだより (2015/03/10)

皆様いつもありがとうございます。寒いですね~。身が縮こまって体も硬くなってしまいますね。ご利用者さんも体が痛くなります。体操を促してみましょう。皆さんも自転車運転の判断や操作が鈍くなると思われますので、くれぐれも事故にはご注意下さい。見通しの悪いところでは、徐行や一時停止をお願いします。

12月22日は冬至です。冬至は一年のうち最も昼の短い日です。どんどん短くなってきた昼が、冬至を境にこれからは長くなっていきます。それを昔の人は、太陽が死んで生まれ変わると考えました。冬至をさす言葉に「一陽来復(いちようらいふく)」というものがありますが、その意義は「陰が極まって陽がかえってくること」や「悪い事ばかりあったのがようやく回復して善い方に向いてくること」となっています。(今年の冬至は19年に一度の特別な冬至で朔旦冬至と言い、冬至に新月が重なります。太陽と月の再生の日が重なる朔旦冬至は、古来朝廷では盛大な祝宴を催しました。)

昔話に現れる“死と再生”のテーマ

昔話には庶民の智恵や人生訓があり、時代の変化に耐える重みがあるからこそ語り継がれます。その中には普遍的なテーマがあり、象徴的に表現される“死と再生”もその一つです。

河合隼雄は『日本人とアイデンティティ』の中で、「赤ずきん」を例に「成長するためには、内面的に死と再生ということを経験しなくてはならない」と語っています。

日本の昔話でも、「一寸法師」が死を覚悟して敢えて鬼に飲み込まれる事によって、一人前の大人として生まれ変わる事ができましたし、「こぶとり爺さん」では恐ろしい

鬼との出会いをユーモアによって乗り越え、コブが治ります。また、「花咲かじいさん」では“枯れ木に花が咲く”という命の再生の前には、愛犬の死がありました。

赤ずきんが狼のお腹に食われながら、またそこから出てきたことは、おとぎ話の中によく出てくる「死と再生」というテーマを示していると思います。赤ずきんが一段と成長するにためには、内面的に死と再生ということを経験しなくてはならないのではないでしょうか。

こんな風に考えてゆくと、赤ずきんがお母さんの言いつけを破ったことは悪いことだし、危険でもあるけれど、本当に成長してゆくためには必要なことだったとさえ考えられます。(『日本人とアイデンティティ』)

ノーベル平和賞のマララさんの話

女性や子供が教育を受ける権利を訴えて武装勢力に頭を撃たれたマララ・ユスフザイさんは、国連でのスピーチで、次のように語っています。

「2012年10月9日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。(中略)私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。」

生命の本質的な力

マララさんの話を引き合いに出してしまうと、“死と再生”は、とてつもなく大変な事と思われてきます。確かに大変な側面もありますが、一方で、万物は絶えず日常的に“死と再生”を繰り返しているとも考えられます。

私たちの身体のなかでは、約3000億個の細胞が日々死に続けています。その一方で、死んでゆく細胞の数とほぼ同数の細胞が誕生し、生体の恒常性が保たれます。

また、古代人は太陽も毎朝毎晩、生まれては死んでいくと考えていました。何度も死と再生を繰り返すその強い生命力に対して、古代人は畏敬の念を抱きながら、その生命力を我が身に取り込もうとして太陽信仰が生じてきた事は想像に難くありません。私たち人間も朝な夕なに生まれ死に、80年の人生では、約29000回以上もの生死を繰り返してきたと言えなくもありません。命の持つ力は、どんなに奥深いものなのかと考えさせられます。

私たちが夜空を見あげる時、そこに永遠の昔から星々の煌めきがあり、それはずっと続いていくように見えます。しかし、最新の物理学の知見では、宇宙を満たしている素粒子は瞬間瞬間に生成消滅を繰り返し絶えず激しく運動している事が解ってきました。宇宙も含めて生命として捉え、『生命の本質とは、その力とは何か』と突き詰めるならば、それは、“変化してゆく力”を絶えず発揮しながら、同時に自らの“恒常性を保つ力”をも発揮しているという一見矛盾した解になります。“死と生”という対立概念が、分離不可分のものとして繰り返し人生のさまざまな場面で現れるように、『矛盾が対立を孕みながら均衡を保ち調和している』という姿が、命の本質的な有り様ではないでしょうか。

人は常に変化してゆく力を持っている。老いとは変化するということ

ロゴそもそも、命というものは生まれた時から死を運命づけ

られている矛盾した存在です。私たちが介護をしていると

き悩んでしまうのは、元々存在していたさまざまな矛盾の

均衡が崩れ、対立が表面化した時です。

制度の事を言えば給付と財源のバランスもそうですし、

利用者本人と家族の葛藤もよくあります。利用者さんが、

ヘルパーさんに依存しながら反発するという事もよくあり

ます。「早く死にたい」と言いながら足繁く病院に通う方も

います。それらを見て私たちは「難しいよね~」と嘆きま

すが、むしろそれらの矛盾と向き合う事こそが、仕事の本

筋とも言えるのではないでしょうか。

なぜならば“老い”とは、身体のバランスが崩れ内在していた矛盾が表面化する事に他なりません。矛盾とは“変化してゆく力”の源泉あり、生きる力の源泉なのです。

変らないか、悪く変わるか、良く変わるか

「人は変れない」と思っている人もいます。「自分は変りたくない。変わる必要はない」と思っている人もいます。しかし、カナダの精神科医エリック・バーン(エリック・バーンについては、「交流分析」の研修会で取り上げた事があります)は次のように言っています。

「他人と過去は、変えられない。自分と未来は、変えられる」

考えてゆくと、変わらない人には共通点があるように思われます。一つは、他者や環境との矛盾が生じた時に、無意識的に“常に正しいのは自分”という態度をとってしまう事です。この態度を貫くと、思考や感情が柔軟性を失い、結果として悪く変わっていく事のほうが多いように思われます。そしてもう一つは、多くの矛盾にさらされながら、(それは、日常の些細な失敗や行き違いなど小さな事なのかもしれませんが)それらを気にもとめない事によって、自分自身が良く変わっていくチャンスを逃しているように思われるのです。命は常に変化してゆく力に満ちているのに、「人は変わらない」という開き直りを持っているのであれば、それは本当に惜しい事だと思います。

変化の力をどのように自分のものにするか

ここまで自戒をこめて書いてきました。私自身も、良く変わりたいと思いながら変わらない一人であり、常に模索をしているからです。そして変わらない自分の中には、自分自身が気に入っている自分もあるのです。まぁそれは良しとしながらも、良く変わっていくにはどうしたら良いのでしょうか。これは願いであり、実際に実践できている事ではないのですが、毎日毎日を、「朝に生まれ夕べに死す」というような新鮮さをもって、どんな些細な事にも真剣な誠実さをもって取り組んで行きたいという事です。それは、いつ何時死んでも構わないという覚悟とも通じてきます。具体的には、挨拶だったり掃除だったり言葉づかいや気遣いの一つ一つなのですが、そのような一所懸命さが、生命に満ちている変化する力を、自らのものにする事になるのではないでしょうか。

私たちの日常生活も、実に多くの矛盾を内包しています。「朝はゆっくり寝ていたい。でも仕事に行かなければならない」というのも些細な一つです。矛盾は葛藤を生じます。その葛藤という心のエネルギーの高まりから、自分自身がより良く変化してゆく力を取り出していくのです。

今年一年、本当にありがとうございました

もう少しで年が明けます。古い年が死に新しい年が生まれます。一つの死は一つの生でもあります。今年一年本当にありがとうございました。皆様の利用者さんの老いという変化に寄り添う努力が、老いを肯定する安穏とした境地に利用者さんを導いていく事を信じています。そして同時に、利用者さんに寄り添う事で、皆様も一人一人が良く変わっていく事を信じています。

楽な人生が無い事は、皆様は十分解っているかと思います。困難は常にあります。その困難に直面し葛藤する度に、古い自分が死に新しい自分が生まれ、新鮮な強さ、力、勇気が湧いてくるように願っています。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


認知症介護実践リポート (2014/12/19)

“自立”した生活とは何か“尊厳ある生活”とは何か

紙ふうせん訪問介護事業所  佐々木 伸孝                実習施設:まささんの家

1:問題意識としての、介護や認知症に対する“負”の印象

報道等を見ると介護“負担”という文脈で介護が語られる事が多い。負担を強調しすぎると「介護は出来ればしたくない」もしする事になってしまったらそれは「貧乏くじを引いてしまった」というような事になりかねない。そのような意識が根底にあると、優しくいたわる態度をとりつつも、心の底では「手がかかるようになって大変だ。困ったもんだ」と家族は思う。認知症ともなれば「どうして解らないの?」「なんでそんなになっちゃったの?」と本人を責める事もあるだろう。いくら言葉は優しくても詰め寄るような口調となり、本人は敏感に受け止める。介護を受けたくないと思い、自分で自分の事をやろうと試みる。これが介護者にとって“問題行動”と映り、事態はエスカレートする。

介護に対する受け止め方は人さまざまであるし、認知症の行動・心理症状の解決の糸口はいろいろとあるだろう。だが、掘り下げていくと根底の課題として、介護が必要な状態や認知症を、どのように評価し人生の中に位置づけるのかという事になってくる。もし“負”の側面のみのしか目を向けられなかったとしたら、介護する事もされる事も苦痛と感じるのではないだろうか。苦痛は逃げ出したい気持ちを生む。そこからは創造的な取り組みは生まれない。これは家族に限らず介護職も同じだ。逃げ出さずに踏みとどまったとしても、「家族だから、仕事だから(仕方がない)」という気持ちになるだろう。

 

2:“負”という認識をどう転換させるかというテーマを自らに課す必要性。

例えば、末期ガンの患者の看取りを行うとしよう。もし支援する側が、ガンや死について「苦痛」という認識しか持っていなければ、本人がガンや死を受け入れていく支えとなれるだろうか。私達がより良い認知症介護を真に志す時、「認知症だからどうせ解らない」「認知症だから何をやっても無駄」という“あきらめ”の認識を生じさせる、根底にある“負”の価値観そのものを、私自身が問い直さなければならないのではないだろうか。

 

3:認知症体験の疑問。認知症の状態は、常に“苦痛”に満ちているのだろうか? 

認知症であっても感じる心や楽しむ心が残されているのならば、“苦痛”は環境からの影響を強く受けているからである。主体的に環境を選択や変更ができない方にとっては環境を整えれば、心地よさや安らぎを感じる事もできるはずだ。その仮定のもと他施設実習の認知症体験を試みた。利用者になりきるために条件として、①言語的思考を停止させる。観察される周囲の状況に対して思考的に反応しない。(例えば時計を見て、「時計だ」「10時だ」ではなく、何か(丸いものが)“ある”とする)②先入観や反射的反応を極力排除し、一切の判断を停止させる。とした。もちろん自分からは環境や他者に働きかけないようにする。

認知症の中核症状は、記憶障害や見当識障害、理解や判断の障害などがあげられる。眼の前に見える物が何か解らなくなり(記憶の不鮮明さ)、時間や空間認識などの感覚も弱くなり、また合理的な推論や将来の予測などが立てられなくなり(理解・判断の困難さ)、日常のさまざまな生活動作が記憶や判断の問題から実行できなくなる(実行機能障害)となっていく。これらの困難などから、状況に対して不適応を起こし、行動・心理症状が発生すると考えられる。①と②の条件設定は、記憶や思考や判断の障害をわずかながらでも再現できないかとの試みである。

開始初期段階では、言語的思考による認識からなかなか離脱できず、そこにおられる方を観察し、手本とした。どこか1点をなんとなく見たり、眼を閉じて静かに内面に入る(そのように見えた)、時々周囲を見回し興味がわいたらそれを見る…。かすかに揺れている線(天井からぶら下がった電燈)が揺れている揺れている。壁でもひらひらと赤と白が揺れている(やっこ凧)。それらがささやき合うように何かを取り交わしているようにも、てんでばらばらに動いているようにも見える。ずっと見ていたあと目を閉じる。あの揺れが私の目に焼きついており、私の体も静かに揺れているようだ。ゆったりとした時間に我が身をゆだね埋もれた時、私の感覚に不思議な変化が現れた。ああそうだ、私は揺れているのだ。さまざまな存在と交感しながら、昔から…そして今も、これからずっと先も、みんな一様に揺れているのだ。時の流れから解放され、“今”という時が際立ち、心に沁み込み満ちてゆく。

この時の気持ちを言い表すのに最適と思われる表現、児童文学の詩を2編を引用する。

ひかる

わたしは だんだん    わからないことが多くなる

わからないことばかりになり   さらに わからなくなり      ついに  ひかるとは これか と      はじめてのように 知る

花は    こんなに ひかるのか と     思う

みえる

ナスもトマトも机もペンも       みな元気でやっているような    朝がある      風景が透きとおり

ナスやトマトや机やペンが       見えすぎる朝である      みえすぎて          驚いてとびのく朝である

ものたちはおそらく太古から  わたしは ひょっとして今まで  目を閉じつつけていたのではなかろうか    と思われる朝である

私の隣に座っていた方は、時々テーブルクロスをなでで、しわの感触を確かめていた。それに飽きると目を閉じ、手を重ね合わせて親指で皮膚をさすって(楽しんで?)いた。周囲が騒がしくなってくると、不安そうな表情を浮かべ騒がしさの元をさぐろうとする。ようやく今初めて気が付いたかのように「キッチンて書いてあるわね」とほほ笑んだ。食後、自分の食器を手でこすり、なでながら、食器について何かを感じようとされていた。

この日は、私は末期ガンの独居宅に訪問し泊りでのサービスを行った明けだった(この方は明けの昼に入院しその夜永眠された)。 私のこの感覚変化は疲れからなのかもしれない…。この日、私はまるで初めての食事のように、ゆっくりと噛んで食べる事ができた。口のなかでころころと転がりながら喉に落ちていくこの甘いものは……(お米!!)という具合に。

私の認知症体験が、的を得ているものかどうかは疑問が出るところだろう。だが、認知症の方にとっての「安らぎ」や「充実感」などについて、介護者側のイメージが豊かにならないかぎり、それらを提供するための支援は困難となるだろう。「みえる」の詩にあるように、存在の根源に触れるような感触を得た時は、同時にこの瞬間の自分自身が、太古からの永遠性の中に位置づけられるような、深い体験と成り得るのではないだろうか。まささんの家では、水に手を合わせ祈りながら飲まれる方がいた。その方なども、私達の理解の範疇を越えた深い体験を伴いながら豊かな瞬間瞬間の今を生きている、と信じるならば、言語的思考の束縛から解放される認知症も、決して悪くないと言っても良いのではなかろうか。本当に豊かな生活や心とは何かと考えた時、私は問い直す。本当に私が自分自身であるようなありのままの時を生きた事があるだろうか?

 

4:不安を生じさせない介護、不安を乗り越えていく介護を目指して。

自分だけの時間がある事は、自分らしく過ごす為にはとても大切な事と思われる。まささんの家で、食後に居室で窓の外をずっと眺めておられる方に、「外を見ているんですか?」とあえて聞いてみた。その方は、「そのとうり!」と強い口調で不快な顔をされた。私は気がついていた。手を合わせながら外を見ていたのだ。その方の大切な時間を邪魔してしまった。不要な声かけは不安を呼ぶ。いきなり声をかけられて、その合理的な解釈ができなければ、意味不明な横やりでしかない。自分にとっての嫌な状況や会話を拒否できる事は、精神が健全な証でもある。

得体の知れないものが自分を脅かしている感覚、「これからどうなるの?」「これからどうしたらよいの?」など、将来を伴った漠然とした否定的な感情が不安と言えるだろう。その不安は介護する側が気付かずに作り出している場合も多い。逆に、自分は今何をしても良く自由であるという感覚があり、“何もしないでぼんやりしている”という事を含めて自発性が保証され、自分自身を生きている実感があれば、心は地に足の着いたものとなる。

まささんの家では、全てが利用者の個別のペースで良いとと感じさせるような、介護者側の都合を感じさせない工夫が随所にあった。無駄な声かけも、指示的な張り紙も、全体主義的な号令も、働いている者のせわしさ(働いていない者への無言の圧力)も、無かった。例えてみれば、子供の頃の自宅で、忙しくする母の存在を背中に感じつつも、そこには無頓着でいられる事ができて、やりたいように好きなように遊んだり寝たりしながらも、それが許され見守られている雰囲気だった。それは、施設であっても、誰にも干渉されないで自身の心を自分で確認できる空間や時間が継続可能であるという事であった。

何かを一緒にみんなで行う事は楽しい。連帯感も生まれ、共感すれば泣き笑いも増える。しかし、これは“みんなでいっしょに行う事が、自分はできている”という実感が伴っている方のみの喜びである。例えば、学校の運動会でみんなが盛り上がっている時に、自分だけ盛り上がれないと思う子はいないだろうか。運動音痴でコンプレックスを持っていたり、いじめを受けクラスの輪に入れない子は、みんなが盛り上がれば盛り上がるほど疎外感が生じいたたまれなくなる。福祉業界で生活弱者の「社会参加」が叫ばれているが、参加への取り組みが一方通行であれば、かえって疎外感をあおる事にもなる。なおさら共同生活の場においては、“参加”と同等に“孤独”(安らかに一人で過ごせる時間)も保障される必要があるのではないだろうか。介護が必要な方々は能力差も相当あり一様な対応はできない。個別対応は自立支援の大切な方法であるし、個別性を発揮できることが自分らしさでもある。

 

5:自立、尊厳、その先へ

全ての生命の中に生老病死が備わっているのだから、“認知症である自分を肯定できる” という事が尊厳を守るという事ではないだろうか。ところで、“守る”主語は誰だろう。介護者か本人か。真の尊厳は、生命の存在そのものに本来備わっているものと考えれば、誰かに与えられものではなく、一人一人の心に元からあるものだ。尊厳は自分で守るもの、自分の尊厳を自分で守る事が自立であり、介護者はそれを支えるのだ。介護者は、上の立場の者が下の者に対して施すような“守る”というニュアンスを絶対に抱いてはならない。

翻って私達は自身の尊厳を自分で守れているだろうか。強者に媚びを売ったり、お金に頭を下げたり、心にも無い事を言ったり、自分の言葉を他人の言葉にすり替えたり、社会に過剰に適応しようとして、自身の尊厳を自分から捨ててはいないだろうか。「尊厳」という言葉が峻厳さを持つのは、それが「死守」とでもいうような存亡をかけるような戦いを常に要求してくるものだからだ。

茨木のり子(1926-2006)の詩が私の胸に刺さる。『自分の感受性くらい』花神社 1977

自分の感受性くらい

ぱさぱさにかわいていく心を   ひとのせいにはするな   みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを   友人のせいにはするな   しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを   近親のせいにはするな   何もかもへたくそだったのはわたくし

初心消えかかるのを   暮らしのせいにはするな   そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を   時代のせいにはするな   わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい   自分で守れ   ばかものよ

介護職としても、3Kだとの他者からの評価に甘んじ、くさくさして尊厳を放棄してはいないか。借り物のモノサシで自分を測ってはいないか。疲れはててこんなもんだと志を低くしてはいないか。自らの尊厳を守れていないものが、どうして他者の尊厳に気が付き、それを支える事ができよう。私達は、自身の尊厳を守ろうとして、必死に叫んだり物を投げたりしている方々から、尊厳を守るとはどうゆう事なのかを学ばなくてはならない。それらは自立への道であるし、尊厳を守る戦いなのだ。私達はその戦いを支援する。そしてまた、他者を支える事によって自らも支えられるのだ。そこで得た力は、自身の尊厳を発掘する力となるだろう。“負”の価値は同時に“正”の価値でもありうると、家族や地域や社会が気付いていけるように支えていく事が、生命に肉薄する仕事をしている誇り高き介護職の使命だ。

最後に中沢新一(1950-)の『リアルであること』メタローグ1994 から引用する。

「人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命とのリアルな接触という事だ」

私には、認知症のあなたが私をそこに連れていってくれるように思えてならない。


2020年4月
« 2月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  
  • 求人情報
  • 紙ふうせんブログ
  • リンク集
  • 資格取得支援制度

運営法人:紙ふうせん株式会社

紙ふうせん

住所:〒154-0022
東京都世田谷区梅丘1-13-4
朝日プラザ梅ヶ丘202(MAP

TEL:03-5426-2831
TEL:03-5426-2832
FAX:03-3706-7601

QRコード 

アルバイト募集情報


ヘルパー募集(初心者) 
ヘルパー募集(経験者)