【紙ふうせんブログ】

令和5年

紙ふうせんだより 12月号 (2024/01/19)

「人として関わる」ことの大切さ

皆様、いつもありがとうございます。今年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。仲間である皆様が元気に年を越されることを願っています。年末の風物詩、ベートーベンの交響曲第9番「合唱」の日本での全曲演奏は1918年6月1日の徳島県の板東俘虜収容所でのドイツ兵捕虜によるものです。同年年末、第一次世界大戦が終わって平和を願う声からドイツのライプツィヒでも「第九」コンサートが行われました。以後、大晦日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は毎年「第九」を演奏しているそうです。

「親友」について考える

第九の「歓喜の歌」のおおもとは、ドイツの歴史学者、劇作家、思想家のシラーがフランス革命の直後に記した詩「歓喜に寄す」です。この詩に感動したベートーベン(※1)は楽曲化することを30年間構想し、失聴と人生の苦悩の中、1824年5月7日の初演を成功させています。

その歌詞には、「ひとりの友の友となるという大きな成功を勝ち取った者、優しき伴侶を得たものは合唱に加われ!そうだ、地球上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者は歓呼せよ!」とあります。たったの一人だけでも「親友」と呼び得る者がいれば人生は大成功であり、それぐらいに「心を分かち合える者」を得ることは奇跡なのだ。その奇跡が自らにあれば歓喜せよ!と、「歓喜の歌」は呼びかけているのです。このような詩であったから、戦争終結や友との再会を祝し博愛と平和を願って演奏されたのでしょう。

「友よ!この調べに非ず。さらに麗しく喜びに満ちた歌を合唱せん!」 冒頭でこのように叫ぶこの楽曲に心を震わせた私は、若い頃、「そうではない。こんな馴れ合いで群れているだけではダメだ。親友とはもっと深遠で『魂』に触れる存在だ」と考え、「友達」のハードルを自分で高くしました。これは、今思うと良い面も悪い面もあったように思います。「本当の人間関係とは何か」と考え続けたこと、関わりの可能性を自ら狭めてしまっていたこと。




※1ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770-1827)

シラーの詩に出会った当時、ヨーロッパは絶対君主制が崩壊し新しい市民社会が待望された。貧困と虐待の中に少年時代を過ごしたベートーベンは、同詩の「すべての人々は、みな兄弟となる」という無差別平等の理想に歓喜したと思われる。ベートーベンは「良きことに向かう美しさ」を座右とし、音楽を通して自らと人間の精神を高めていく事をひたむきに求めた。




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「認識」によって「現実」が変性される

「親友」とは一つの概念です。概念とは、思考によって把握された事象の名前と意味です。それなりに関わり合いのある人物がいた時、その人のどこを探しても「親友」というラベルは貼ってありません。「仕事仲間」というラベルも同様です。同じ職場の人でも自分が「仲間意識」を持っていなければ「職場の人」というラベルになるのかもしれません。「仕事仲間」の職場が変ったら「仕事」が落ちて単に「仲間」となるのでしょうか。それとも「過去の人」でしょうか。

これらは科学的に事実認定できない「認識」の問題です。個人の価値観と言ってしまえばそれまでですが、それが自然科学的な「事実」ではないのに、自分自身の考えや行動を知らず知らずに縛っていることもまた「現実」です。「利用者」という言葉も同様です。

利用者という認識がその人を「利用者」に縛り付け、その人自身の姿を見えなくさせてはいないでしょうか。当然ですが、ケアプラン作成以前に「利用者」は存在しません。

 

あなたも私も「記号」であってはならない

「話し合いをしてサービス導入を決定しても、すぐに『必要ない、来ないで良い』と断ってしまいサービス提供が継続せず、生活に支障が出ていることが伺われるのに“拒否”があるから難しい」と、ケアマネさんが困っているケースがありました。サービス担当者会議ではその人の生活の問題点が洗い出されます。作文されたニーズなるものが読み上げられ、「あなたは今日から利用者だから利用者らしく振舞って下さい」と暗に命じられているような状況にその方は拒否的な態度を示します。

たしかに「利用者にサービス内容の適否を判断する能力が無い」という状況は現実的にはあることです。しかし「認知症」だからと言って「判断を委ねなければならない」というようなことを言われれば、本人は、原則的には容認できません。個人の尊厳には、自分の問題について「誤った判断をする権利」も含まれているからです。

「(私が間違っていてもいいの、自己責任だから)ほっといてちょうだい」と言いながら、本当に拒んでいるのは人との関わりではなく「利用者という『記号』にされてしまうこと」なのです。そこには同時に「あなたは誰?」という問いが含まれています。

そうであれば、対応する私達が杓子定規に「介護保険のルール」を説き、「制度内の人」という顔をして説得を試みても、余計に「人権はく奪」の疑念を生じさせてしまいます。このような場合、サービス提供の枠組みの原則の「ケアプラン」に様々な可能性を織り込んだ上で、あなたと直接「人として関わっている」顔をしながら、柔軟で即応性のある現実的な対応が大切です。

自分がそう思えば誰だって「友達」

利用者さんの存在は、「利用者」という言葉以上の意味を持っています。ヘルパーも同様です。それを教えてくれたある方がいました。

その方は、衰えの自覚から鬱のようになっており、活性化のために外出介助が組まれました。疲労感から拒まれることもありましたが会話をして和めば外出し、歩きながら様々な話をしました。死の誘いのような辛い気持ちを吐露され、対して私も自分の人生観を個人の価値観として語ります。お互いに自己開示を心地よく良く受けとめることができて信頼となり、その方は心を開かれてこう言われました。「こんな状況になってあなたに出会えるとは自分はラッキーだった。あなたは親友だ。有難い…。」

私は、自分が気安く使うべきではないと思っていた「親友」という評価に戸惑いました。親子以上の年齢差があり、関係性は「仕事」です。しかしその方は「親友」と言われるのです。驚きと共に自分の狭い認識が開かれていくのを感じました。

私は精一杯のお礼として、信頼に応えるべくその方の心を閉ざしている「こうなったら人間終わりだ」という認識についての提案を試みることにしました。「閉じていくように見える時、開かれていくものがあること。終わりのように見える時、新たな始まりもあること」などを日常風景の中で例を出して、話を重ねていきました。

ある時、二人で散歩をしている姿を見た奥様は「あなたのことを信頼しているのね。安心しきっているのが伝わってくる。夫はあなたの事が大好きなのね」と言われました。「大好きだ」と言われて嬉しくならない人はいません。私もその方や奥様のことが大好きになりました。私の心を開いて下さったのはその方だったのです。

自分がそう決めれば誰だって「友達」です。せっかくの新年ですから、幼稚園児くらいの時は疑いもしなかったその「原則」を、今一度思い出してみませんか。


 

紙面研修


「尊厳」について

介護保険法 第一条

この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。

 

社会福祉法 第三条

福祉サービスは、個人の尊厳の保持を旨とし、その内容は、福祉サービスの利用者が心身ともに健やかに育成され、又はその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように支援するものとして、良質かつ適切なものでなければならない。

 




「表札」  石垣りん

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。

 

自分の寝泊まりする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない。

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。

 

旅館に泊まっても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼き場の鑵にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私がこばめるか?

 

様も

殿も

付いてはいけない、

 

自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 




「わたしを束ねないで」  新川和江

 

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱(ねぎ)のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂

 

わたしを止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃(はばた)き

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音

 

わたしを注(つ)がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮(うしお) ふちのない水

 

わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

坐すわりきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

わたしを区切らないで

,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩




考えてみよう

「困難事例」という言葉で束ねられてしまっているような方の気持ちを想像してみよう。

「利用者様」と名付けられてしまった時に、どのような気持ちになっただろう。

人生が閉じていくように感じる時、開かれていくものがあることも感じていけるようにするには、どのような接し方や声掛けが良いだろう。






 


紙ふうせんだより 11月号 (2023/12/22)

「家族」について考える

皆様、いつもありがとうございます。11月の第三日曜日は、2007年度より内閣府が「家族の日」と定めています。「生命を次代に伝え育んでいくことや、子育てを支える家族と地域の大切さが国民一人一人に再認識されるよう」に、という趣旨だそうです。

家族であれば「家族になれる」という誤解

内閣府の資料では、「家族」の定義を「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。社会構成の基本単位(広辞苑)」としていますから、「家族」の成立は婚姻や血縁に依拠していることになります。そして同資料(ユースアドバイザー養成プログラム)では、「近代の家族をモデルとすれば『家族崩壊』,『家族機能不全』としか言いようがない現象が社会にあふれている」とし、「若者支援に当たって、まず気をつけなければならないことは、『家族と本人だけの関係に閉じこめない』ということであり,広く社会に目を向け『社会の中に居場所をつくる』ということである」としています。

ここに家族の問題の構造が端的に示されています。婚姻・血縁関係があれば自動的に「家族」になるのですが、「家族機能」は自動的には発揮されないのです。同資料では『家族機能不全』を「よく怒りが爆発する家族」「冷たい愛のない家族」「他人の目だけを気にする表面上は幸せそうな家族」等(※1)と例を挙げ、「全く何も当てはまらない家族」は無いとしています。




※1(同資料では、他には以下を述べている)

性的・身体的・精神的な虐待のある家族

他人や兄弟姉妹が比較される家族

あれこれ批判される家族

期待が大き過ぎて何をやっても期待に沿えない家族

お金や仕事・学歴だけが重視される家族

親が病気がち・留守がちな家族、親と子の関係が反対になっている家族

両親の仲が悪い・ケンカの絶えない家族

嫁姑の仲が悪い家族




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家族を「家族」たり得るものとするのは何か

かつて「家父長制」のもと家族が結束することが無条件に当たり前とされていた時代がありました。軍国主義もあり「男尊女卑」が根深く植え付けられ、嫁や子供に手を挙げる「父」は普通の話でした。「家長」または家長代理のような絶対的権力者が家族の中にいて、服従を強いられて「嫌だった、辛かった」という話は、利用者さんやその子供からよく耳にする話です。「権力によって人心を束ねる」というようなことは虐待やハラスメントの温床ともなり弊害が大きすぎて戻るべきではありません。これは職場の人間関係も同様です。

令和5年4月1日施行の「こども基本法」では、基本理念に「全てのこどもについて、個人として尊重」と明記しています。夫婦や親子関係以前に相互に「個人として尊重」される基本的な人間関係が無ければ、「家族機能」は十分には発揮されないのです。望まれる「家族機能」の第一は何でしょう。それは、そこが安心できる『居場所』となることです。

「個人として尊重」にも誤解があります。「尊重」がはき違えられて相互不干渉や相互無関心となり、気持ちや考えの交流が無くなって、そもそもの人間関係が希薄になってしまっている家族像もあります。宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』では、子供の心の痛みに全く「無関心」な親の姿が描かれており、そのために主人公の千尋の自己肯定感が育まれていない様子がうかがわれます。「個人としての尊重」とは、相手に関心を持ち相手の問題に自分も関わっているという自覚を、特に立場の強い者こそ、持つことが大切なのです。

 

家族の外側から「問題」を解決する

先の資料では「問題」を抱える若者の本質的な要因の一つを家族や他者との「『関係性』とその認識」としており、具体的な解決方法の例として「家族や兄弟姉妹に依存しない…家族だから分かること・できることもある反面,家族だから分からない・許せないこともある。家庭や血縁のネットワークが教育力を失い,学校が必ずしも信用を得ているとはいえない現状にあって『働く世界(※2)』は若者にとって『新たな人生=職業人としての人生=の出発点』になり得る。社会=非血縁関係だからこそできることに気づかせる必要がある」としています。

これは『千と千尋の神隠し』で描かれた千尋の成長物語と同じです。自分本位のままに生きる両親とはぐれてしまった千尋は、居場所がどこにもないので風呂屋で働くことになりますが、強欲な経営者は千尋を道具のように扱いました。しかし職場で得た人間関係や労働によって千尋は自信と自分を取り戻し、両親への認識を変えることができたのです。

「家族の問題=血縁=改変不可能」ではありません。家族の問題も基本は個人と個人の人間関係であると捉え直しができれば、家族外の人間関係を持つことによっても克服は可能となるのです。




※2〈仕事について〉成功体験(良かったこと)と失敗体験(イヤだったこと)のどちらかだけの経験はあり得ず、両方があって初めてリアルな経験になるという当たり前の事実の確認〈見守り〉が必要となる。

事実を問題にするというよりは経験をどのように受け止めたか(認知したか)に注目し、経験(行動)に基づき考え方・受け止め方(認知)を変えることを学習〈フォロー〉する。




「家族」を問い直す時代にあって

「明治生まれの父は大変恐い存在で、大人になるまで父とまともに会話をしたことが無かった。風呂も食事も父が一番で、父が食べ終わらないと家族の食事とならないが、家族の給仕も母が行い最後になった母は残り物を台所で食べていた…。」今では考えられない話ですが、家父長制に厳格な家では、家族の成員にはそれぞれ義務と序列がありました。

家長(父)の義務は稼ぐこと。家庭内の一切の責任は嫁(母)にあり祖父母の介護も義務。小さい子の面倒は上の子が見る。子供は親を手伝い勉強をする。長男は家督を継ぐ者で家族や家に何かあれば守らなければならず、娘がどこに嫁ぐかは家長が決めることでした。家族に求められているものの第一は「家」を守ることであり個人の心の中は顧みられませんから、それぞれが役割をまっとうしていれば、家を守るという意味では問題は起きません。個人の自由はそもそも抑圧されています。もし自由にしたいのなら「家」を出るか捨てるかだったのです。

2018年のカンヌ国際映画祭では、是枝裕和監督の『万引き家族』が最高賞(パルムドール)となりました。笑いの絶えない家族が実は本当の家族ではなく、心に傷のある者の寄り合い所帯だったという粗筋でした。また、この冬に上映される『SPY×FAMILY』は、スパイ任務の都合で形成されたかりそめの家族の物語です。これら「疑似家族」の物語は、「家族ではない」からこそ「家族」になろうとします。その努力がお互いの気持ちを寄り添わせていくのです。

 

現代では、「家族」に求められているものは何でしょう。

外的規制としての役割が消失しつつある今、各人は自覚的に役務を提供するべきでしょう。お互いを尊重するために、自分本位には自制が必要です。何よりも、お互いがそれぞれに何を期待しているのかを伝え合わなければなりません。伝える力や理解力に差があれば、力のある側の気遣いが必要です。

相手への感謝の表現は大切です。家族内で解決困難な問題は外に開かれる必要があります。介護保険制度も介護の問題を「家族に閉じ込めない」ために始まりました。個人の問題も「個人に押し込める」べきではありません。

人の心の優しさは垣根を超えて人と人を結び付けます。孤独を癒す拠り所を「家族」と呼ぶのであれば、介護職員もまた「家族」となり得るのです。


 

紙面研修

こどもの人権と「こども基本法」について




【人権の基本】

・すべての人が権利をもっています

・みな生まれながらに権利をもっています

・権利を奪いとることはできません

・権利は無条件にあるものです

・すべての権利が同じように大切です




「こども権利条約」(日本は1994年に批准)

子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)は、世界中すべての子どもたちがもつ人権(権利)を定めた条約です。1989年11月20日、国連総会において採択されました。この条約を守ることを約束している「締約国・地域」の数は196。世界で最も広く受け入れられている人権条約です。

子どもの権利条約は、子ども(18歳未満の人)が守られる対象であるだけでなく、権利をもつ主体であることを明確にしました。子どもがおとなと同じように、ひとりの人間としてもつ様々な権利を認めるとともに、成長の過程にあって保護や配慮が必要な、子どもならではの権利も定めています。(ユニセフHP)

 

「こども権利条約」の4つの基本

○生命、生存および発達に対する権利(命を守られ成長できること)

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されなければなりません。

○子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮しなければなりません。

○子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)

子どもに関することが決められ行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何であるか」を第一に考えなければなりません。

○差別の禁止(差別のないこと)

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などいかなる理由でも差別されてはいけません。

 

「こども基本法」の成立経緯

日本には、戦前より(旧)児童虐待防止法(1933制定)がありました。虐待は貧困が原因とされ昭和恐慌のもと親の搾取を防せぐ目的で、親子心中の防止、欠食児童の援助、見世物や乞食、風俗での児童労働の禁止を定めました。

しかし規制や支援は限定的で、個人として子供を尊重する考えに欠けていたため、前借金で事実上未成年者が人身売買されることは戦後まで続きました(人身売買は1925年に婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約の批准により非合法化されている)。1947年に戦災孤児対策の観点から虐待防止法の意義を含む児童福祉法が制定されると、それに伴い旧法は廃止されます。

1994年に日本は「こども権利条約」を批准し、関連の法整備(1997児童福祉法改正)を進め、2000年に新たな児童虐待防止法を制定します。虐待の定義が明確化され通告義務が規定されると、今まで「しつけ」の名のもとに行われていた虐待が可視化され「虐待認知件数」が増加、貧困でなくとも「虐待は起こる」と認識されるようになり、2012年に民法の「親の懲戒権(子どもを罰する権利)」が「子の利益のために限る」とされ、2020年には児童虐待防止法が改正されて保護者による体罰が禁止されました。

しかし、日本には子供を「個人として尊重」することを明示した基本法はなく、憲法や条約の精神にのっとった、子供の健全な人格形成と自立した個人としての成長を目的とする法律の制定が求められてきました。

2022年6月、「こども基本法」が成立し、2023年4月1日の施行日に併せて子ども家庭庁が設立されます。こども基本法にはこども権利条約の4つの基本が含まれるとともに、「保護者が第一義的責任を有する」とした上での「養育環境の確保」と「社会環境の整備」の2点が加えられました。この2点と共に「こども施策を総合的に策定し実施する」責務は国にあり、国民や事業者の施策への「協力の努め」も明記されました。(トップ画像は、こども家庭庁の「こどもまんなかアクション」より)




「こども基本法」(基本理念要約)

1.全てのこどもについて、個人として尊重され、その基本的人権が保障されるとともに、差別的取扱いを受けることがないようにすること。

2.適切に養育される、生活を保障される、愛され保護される、健やかな成長及び発達並びにその自立が図られる、その他の福祉に係る権利が等しく保障される、教育を受ける機会が等しく与えられること

3.その年齢及び発達の程度に応じて、己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会と多様な社会的活動に参画する機会が確保されること

4.その年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮されること

5.こどもの養育は、家庭を基本として行われ、父母その他の保護者が第一義的責任を有するとの認識の下、これらの者に対してこどもの養育に関し十分な支援を行うとともに、家庭での養育が困難なこどもにはできる限り家庭と同様の養育環境を確保することにより、こどもが心身ともに健やかに育成されるようにすること

6.家庭や子育てに夢を持ち、子育てに伴う喜びを実感できる社会環境を整備すること




考えてみよう

「あなたのため」として親が子供の自主性・主体性を抑えてしまう「パターナリズム」が日本には根深くあるが、その長所・短所について考えてみよう。


紙ふうせんだより 10月号 (2023/11/22)

「現実」の複層性

皆様、いつもありがとうございます。夜間は肌寒い日もでてきましたね。日中は暖かくても一枚余分に持参した方が良い季節になってきました。温度変化には薄物を重ね着するなど、工夫したいものです。

話は変わりますが、海の向こうでまた戦争が始まってしまいました。ハマスの民間人虐殺やミサイル攻撃は許されるものではありません。同様にイスラエルの無差別空爆や民間人虐殺は容認できません。いいかげん虐殺も地上侵攻も勘弁して下さい。

日常の裏側

ウクライナにロシア軍が侵略を開始した時も、そして今も、信じがたい暴力の行使に心が引き裂かれるような思いがします。なごやかに誰かと話し美味しいものを食べて、笑いあって過ごしていけるという日常が実は薄氷(はくひょう)を踏んでいるのではないのかという疑念。この瞬間にも誰かが血を流し涙も枯れて生き残ったことさえ恨んでしまうような凄惨(せいさん)な状況が、この日常の裏側で起こっています。

私たちに見えている世界のなんと狭いことか。自分が感じている現実は、無限とも言うべき無数の現実から選びとられた、わずかな一つであるということを思い知らされるのです。しかしたとえ自分の現実は針の穴から覗くような小さなものであったとしても、強制的に命を断たれるようなものではないのだから、自分とは異なる数多(あまた)の「現実の複層性」に戸惑いながらも、生きていることそのものをまず肯定し、失われていったものたちの弔(とむら)いのためにも、今ある得難(えがた)きものを大切にしていきたいと思います。

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ドキュメンタリー映画「ガザ 素顔の日常」(2019年制作 アイルランド)を見ました。パレスチナ自治区ガザは、約南北40km・東西10kmの狭い地域に240万人が押し込められており人口の半数は18歳以下で、平均年齢が世界で最も低い地域です。ガザはイスラエル軍によってほぼ完全に封鎖されており「天井の無い監獄」と言われています。ガザは3方を高い壁(※1)で囲まれ、西側の海岸も5.5㎞より沖に出ればイスラエル軍に殺されてしまいます。しかし映画は「監獄」であることに焦点をあてるのではなく、タクシー運転手や海で遊ぶ子供など、そこに生きる人々の日常を写していきます。そして車椅子の青年がでてきます。

「俺は魂の救済者」「今を求めてひたすら考える」とアラビア語の韻を踏んで自作ラップを歌う青年は、「障害があっても、自分でこうやって行動して、自分に満足を感じたいんだ。自分は声をあげているんだ…」と語り、16歳の時にデモ(※2)に参加して銃撃されたと言います。

言葉にできない気持ちが沢山あるからチェロ弾くと言う10代の少女は、英語で「よその国の人から見た私たちは『戦争ばかりの地域で暮らす人間』です。単にかわいそうと同情されるのはとても苦痛です。物事の表面だけでなく、本質を見てほしい」と語ります。

ベドウィン系の女性デザイナーはファッションショーを開き「国境検問所が開いたら、あなたたちをどの国にでも連れて行くわ。フランスやアメリカからモデルの仕事のオファーがたくさん来ているの。あなたたちにはガザの誇りであってほしい」とモデルに語っています。




※1 イスラエルによる不当なパレスチナ占領への抗議運動をインティファーダ(頭を上げる)と呼ぶ。第一次は1987年、投石・道路封鎖・納税拒否等による暴動・抗議となり多数の死傷者が出る。1993年のオスロ合意を挟み、第二次は2000年で武力蜂起の様相となり、過激派の自爆テロも発生したが圧倒的な武力で制圧される。以後イスラエルは占領地の周囲に巨大な壁の建設を開始。

※2イスラエルはガザを壁で封鎖して弾圧(集団懲罰)する方針に転換。生活物資や食料も枯渇し、市民の若者による壁への投石とタイヤを燃やすデモが散発的に発生しているが催涙弾と実弾射撃によって、毎回パレスチナ人に負傷者や死者が出ている。対イスラエル過激派のハマスがガザの実権を握ると、テロへの報復としてイスラエルはガザに武力侵攻を繰り返すようになる。




忘れてはならない「現実」

監獄のような場所、隣り合う暴力と死、高い失業率。将来の全く見えぬ暮らしの中で、ガザの子供や若者たちは、必死で明日を見ようとしています。「昨日に戻れるなら 俺は明日を変える 俺たちはチャンスが欲しい…」と青年ラッパーは歌います。

天を焦がす炎、吹き上がる黒煙、瓦礫の山…。圧倒的な暴力の映像に、私たちが見落としてしまっている「現実」は何でしょう。遠隔からのミサイル攻撃や爆撃や犠牲者何名という戦況報道は、ひとつ一つの命の「現実」を見えなくさせていきます。しかし、あの下に人がいます。困難な状況の中でも、私たちと同じように周囲の人と泣いたり笑ったりしながら、明日を紡ぎだそうとしている私たちと同じ命があります。それを忘れてはならないのです。

「自分でこうやって行動して、自分に満足を感じたい」

「単にかわいそうと同情されるのはとても苦痛」

「あなたたちにはガザの誇りであってほしい」

これらは、特殊な状況に置かれる特定の人の感情ではありません。どんな人にもあてはまる、生きている限り感じていたい素朴な感情です。悩んでいる人を見た時、誇りが失われそうになっている時、自分を見失いそうな時、「この当たり前」の気持ちを、何度でも私たちは思い出さなければなりません。

「自分らしくありたい」「自分に満足したい」「下に見られたくない」「誇りを持ち続けたい」という気持ちは、意識の表面を浮遊する「何もかもが嫌になりそうな現実」とは異なる「命の奥底にあるもう一つの現実」として、存在しつづけるのです。

もう一つの「命の現実」

子供を抱きながら防空壕に入り、空襲に恐怖した経験のある利用者さんがこう言っていました。「私たちの時代は戦争でひどい目にあったんだよ。平和になったんだって思ってたら、戦争だなんてびっくりだよ。戦争は本当に酷いからね。絶対にやってはいけないんだよ…」

短い言葉の中にも痛みが思い起こされていることが伺われるのですが、ここにも複数の「現実」があります。戦争を知っているこの方の胸中に去来する「現実」と、位相(いそう)の異なる現実の存在に気が付かないで、ただの世間話のようにその話を聞いてしまう戦争を知らない自分の「現実」です。人は同じ空間に存在し同じ風景を見たように思っても、そこから感じる「現実」は人によって異なります。

また、同じ言葉を発しているようでも、心の中の「現実」が違えば、意味あいもまた異なってきます。障害や認知症の方や余命宣告を受けている方の「自分でこうやって行動して、自分に満足を感じたい」という言葉と、生活能力に不自由を感じない健常者の「同じ言葉」とでは、込められた重みが違います。

人は、どうしても自分のモノサシで物事を見てしまいます。自分がそうだからと言って、どうして相手のその言葉も「わがまま」だと言えるのでしょうか。自分の目に映ることだけが「現実」ではないのです。ともあれ「現実」は複層的です。個人の心も複層的です。「もうどうでも良い」と捨て鉢になったところから心が澄んで執着を離れて「本当の願い」を拾いにいこうとする、「捨てる神あれば拾う神あり」というような、位相の異なる心の働きは誰の心の中にもあります。

私たちは、自分が辛い時だからこそ現実という名の「冷たい水」のその底で、凍えながら息づいている「魂」を、もう一つの「命の現実」をこの手ですくい上げなければならないのです。






↑2000.10.29 投石する13歳のガザの少年

このファレス少年は10日後イスラエル軍に射殺される(ABCNews)

 



↑2018.5.11 パレスチナ人が歴史的な祖国であるイスラエルの地に戻る権利を求めるガザのデモ。制圧にかかるイスラエル軍に車椅子上からスリングで投石する29歳のサーベル青年 (ABCNews)

「パレスチナ人だから石を投げるのではなく、石を投げるからパレスチナ人なのです(取材ガイド)」

 

↑ガザ地区には、バンクシーの作品(落書き)が複数あるが、その一つには「力を持つ者と持たざる者の争いに背を向けるなら、それは力を持つ側に立つことになるのだ。中立な立場などありえない」と記されている。(Banksy.co.uk)

 

冷戦終結の融和を受けて1993年、イスラエル国家とパレスチナ自治政府を相互承認する「オスロ合意」が結ばれた。翌年には、イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長がノーベル平和賞をダブル受賞。しかし1995年、ラビン首相は和平反対の極右イスラエル青年によって暗殺される。

現在、イスラエルは極右強硬派の支持を受けた政権となっている。イスラエルはパレスチナ人への弾圧をやめて占領地から撤退し、パレスチナは国家を樹立して独立と尊厳を回復するという道(二国共存)は塞がれてしまっている。





 

紙面研修

「リアル」と「リアリティ」

「現実」認識の複層性の理由

映画やアニメの演出家が、「リアルとリアリティは違う」という言うことがあります。リアル(real)は形容詞で、「真の、本物の、 実在(存)する○○」という意味です。リアリティ(reality)は名詞で、「現実、実在、現実性、本性、迫真性」を意味します。品詞が異なるだけで本来の意味は同じですが、演出家が使う場合は、現実の存在を「なるべくそのまま描いた」ものを「リアルだ」と言い、時に空想の存在を「あたかも現実存在かのように描いた」ものを「リアリティがある」と言ったりします。そして現実存在を描いたのに下手糞で「ニセモノのよう見える」時は「リアリティがない」となります。

このような言葉使いを援用すると、私たちは、個人の外側にある現実世界(リアル)を個人の心象風景(リアリティ)によって認識している、と言えるでしょう。実は「リアル」の四次元的な時空間の拡がりは無限の情報量があり人間には認識不可能です(そこに他人の「心」という物理的に計量不可能な次元を加えれば一体「現実」は何次元になるのでしょうか)。そこで人間は、感覚器官からの入力情報を意識や無意識(これも複層性がある)のデータべースに照合して認識するという情報処理の簡略化を行っています。そのようにして認識された物が「リアリティ」です。

このような「リアル」と「リアリティ」を最初に論じたのは、古代ギリシアの哲学者プラトンです。

人間とは洞窟の住人で住人の後ろには様々な「リアル」があるが、洞窟の住人は振返って「リアル」を直接見ることが出来ない状態にあるので、人間は「リアル」の後ろで燃えるたいまつに照らされて洞窟の壁に映し出される「リアルの影」(リアリティ)を見て、「リアル」だと思い込んでいる。これがプラトンの主張(洞窟の比喩)です。

そしてプラトンはこれを個人の内面に生起する認識の問題のみならず、世界の存在についてもあてはめて考えました。本当の実在(リアル)は「イデア」であり、イデアを私たちは見ることはできないが、現実世界のさまざまなリアルはイデアの表れであり、その表れを見て私たちはイデアを観念し認識することができる、としたのです。

「現実の複層性」の話に戻りますが、これまで3つの階層構造が出てきたことになります。便宜的にそれを「イデア、リアル、リアリティ」と表記してみましょう。「現実」はこの3つで終わりでしょうか。そんなことはありません。

まず「リアル」に対する目の付け所は複数ありますし、「意識や無意識のデータべースに照合」と述べたように、照合先が「何であるか、どんな状態であるか」によって「リアリティ」は異なってきますから、原理的には、一つの事象からほとんど無限に近い「現実」認識が生じてくることになってきます。認識が異なってくることは、例えば、空腹の時に大好きな人から差し出された鯛焼きと、満腹の時に嫌いな人から差し出された鯛焼きの「味」は、異なりますよね。これは皆、経験済みです。

存在論では認識不可能なので、目的論的に考えてみよう

私たちは利用者さんの「本当の姿」を果たして見ることが出来ているでしょうか。これは原理的に不可能です。しかし「それぞれが見ている現実は異なるから何を持って本当かは言えない」と相対主義に逃避してしまっては、話は前に進まなくなるどころか後退してしまいます。

目的論的に話を前に進めましょう。テーマは、介護提供が「美味しい鯛焼き」になれば良いのです。目の前にリアルな利用者さんがいます。しかしリアリティには高低浅深があります。「肯定的なリアリティ」があれば鯛焼きはお互いにとって「絶対旨いやつ」になります。「肯定的なリアリティ」を得るために「イデア」を仮定します。利用者さんの「リアル」は今こんなだけど、この利用者さんは「本当はとても良い素晴らしい人なのだ」と考えるのです。すると当然ですが、今まで見えなかったことが見えてきたり、見えるものの解釈が違ってきます。

しかし本当に「イデア」なんてあるの?という疑いが生じてきます。プラトンは「イデアを観念できるなら、イデアは実在する。無から有は生じない」と、こんな風に答えています。これ、「神の存在証明」とほぼ同じなんですが、「人間は不完全な存在である。しかし、不完全な人間は完全なるもの(神)を観念することができる。不完全な存在は、完全な存在の実在が無ければ『完全』という認識を持つことはできないはずだ。したがって、神は存在する」とデカルトは言いました。

プラトンは、「善のイデア」を最高のイデアとしました。利用者さんも自分も「最高最善のもの」から生じたものだ、利用者さんの中にも自分の中にも「最高最善のものがある」、利用者さんも自分も本当は仏様だ等、言い方は色々あります。

信じるか信じないかはあなた次第です。でも、鯛焼きは美味しい方が良いですよね。

 
考えてみよう

①  どんな人にも可能性として「最高最善のもの」があると前提してみよう。

②  その上で、ネガティブな「リアリティ」が生じる要因について考えてみよう。自分が見落としている可能性や「現実」について考えてみよう。

 

 

 

 


紙ふうせんだより 9月号 (2023/10/20)

「おばあさん」の願い

皆様、いつもありがとうございます。9月の第3月曜日は「敬老の日」です。この日は、国民の祝日に関する法律で「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としています。「老」という漢字には「年長者」という意味だけではなく、「経験に優れ物事に通じている」という意味があります。武家の家臣を束ねる最重要の役職を「家老」と呼ぶのは、「老」という言葉に敬意が込められているからです。

繁殖不可能な「生存期間」の「謎(≒役割)」

人類学に「おばあさん仮説」というものがあります。一部のハクジラを除いて、動物の寿命と繁殖可能年齢はほぼ一致します。動物は、繁殖不可能になれば役割を終え寿命を迎えるのが普通なのです。ヒトの雄は、生殖力は弱まりますが死ぬまで繁殖が可能です。それに対してヒトの雌は50歳を超えてからの妊娠は難しいと考えられます。にもかかわらず、繁殖できなくなった後に何十年も生存するからには、種としての生存戦略にとって有益な何かがあるから、ヒトの雌は「おばあさん」に進化したと考えられるのです。

チンパンジーの雌の妊娠可能年齢は13歳で寿命は50歳程度であり、死ぬまで子供を産み続けることができます。しかし基本的には一人で子育てするので(※1)、育児期間中は出産できません。チンパンジーの出産間隔は5~7年(授乳期間は4〜5年)とされています。一方でヒトは、子育てを経験した母親の母親が育児に参加するようになり、毎年の出産が可能となりました。不慮の死などを考えると妊娠機会の多い方が、種としての生存戦略が有利になります。そのために、ヒトの雌は閉経(日本人の平均は約50歳)後にも育児に参加できるように、「繁殖不可能になっても長期間生存できる」ように進化したと考えられるのです。




※1近年、母親以外の育児への参加が観察されヒトの進化の過程を考える上で注目されている。




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「生物進化」から「社会進化」へ

「おばあさん」への進化は3万年よりも前(※2)と考えられています。現代、人間の子育てには父や保育士や地域の方々なども参加し、社会全体で共同育児を進めていこうとしています。それは人間の進化の段階が「生物進化」から「社会進化」の段階に入っているからです。現存する人類最古の絵は、旧石器時代後期の約36,000年前の洞窟壁画(※3)です。「ばあさん」への進化と芸術や文化の始まりは同時期であると考えられます。

「おばあさん」が行ったことは育児の手伝いにとどまりませんでした。「世代を超えて情報を伝達する」ことができたので、情報の共有や再構成から「芸術などの文化を生み出す」ことができました。そしておそらくは「おばあさん」の存在により、世代別の役割分化も進んだと思われます。「繁殖できない個体の生存が群れにとっても価値がある」となれば、高年齢の雄は若い雄との競争から降りることができます。高年齢の雄の知識や経験が競争相手ではなくなった若い雄に伝授されるようになりヒトの群れは安定し、血縁を越えた大きな集団へと発展できるようになったのではないでしょうか。「おばあさんの誕生」は社会進化への画期となったのです。




※2 化石人骨の第三臼歯(親知らず)の有無や摩耗から世代を推定したところ、20万年前以降のネアンデルタール人の年配対若者の個体数比は0.39であったが、3万年以降の化石人骨では対比が2.08であった。この間に年配者人口が増えたと考えられる。

※3フランス、ショーヴェ洞窟




 

「次世代を育てる」課題の後の「自己統合」

エリクソンの心理社会的発達理論では、自我の発達段階を8つに区分しています。その段階は、「乳児期→幼児前期→幼児後期→学童期→青年期→成人期→壮年期→老年期」であり、各課題は「基本的信頼→自律性→積極性→勤勉性→親密性→生殖性→統合性」となります。

成人期(20〜40歳)は、実子を産み育てる段階でもあり「特定の他者との親密な関係を築く」ことが課題となります。その次の壮年期(40〜65歳)はヒトの雌が「おばあさん」へと進化する世代です。壮年期は、自己中心的な関心から離れて「社会(≒様々な他者や次世代)と良く関わっていけるかどうか」が大切だと言われています。壮年期になっても社会への関心が、社会から「チヤホヤされたい」というような「内向きな利己的な関心」に留まっていれば、自分目線しか無いので何をするにも浅くつまらなくなり、ますます自分にしか興味が持てなくなるので(自己没頭(※4))、老いとともに自分自身に失望してしまいます。壮年期の課題は「generativity(※5ジェネラティビティー)」で生殖性や世代継続性と訳されていますが、「次世代の育成に積極的に関わる」とされています。青年期から壮年期に、個人的利害(繁殖)から集団への貢献(生殖性)へと課題が変化していくことは、人類学の知見とも重なるのです。

動物の生存戦略は、優れた遺伝子を次世代に残すとともに、遺伝的多様性を担保することです。人間の生存戦略は、優れた社会(※6)を次世代に残すとともに、多様性を社会の中に包摂することです。「多様性の尊重」は良い社会への鍵となりますが、「良い人生の締めくくり」にも必要です。嫌な出会いや辛い出来事や心残りなど人生には良い事ばかりではありません。多様な面があり多様な評価が可能な自分の人生を「まるごと肯定的に受け入れる」ことが必要となってきます。老年期の課題としてエリクソンはこれを「自己統合」と呼びました。




※4 バートランド・ラッセルは自分を不幸にする最大の原因を「自己没頭」としている。発達心理学では自己没頭のまま「老年期」に入ってしまうと「自分の人生は何だったのか」というような虚しさを抱き、自己の「統合性」に大きな支障を生じるとする。

※5エリク・H・エリクソン(1902-1994)の造語

※6高度な社会性と利他行動の関係が動物行動学などで注目されている




一人での生活が不可能な「生存期間」の意味

自己統合への道のりは容易ではありません。老いや死への不安が高まり良い思い出まで塗り潰されてしまうこともあります。しかし「辛い状態でも長期間生存できる」時間的猶予を得たということは、「人と人の間に生きる」人間にとって何か意味があるはずです。

生活が一人で成り立たなくなることは、受け入れ難いものがあります。へルパーさんが来るようになって「人の手を煩わせてまで長生きしたくない」とうそぶいていた自分が情けなくなり、「やらなくいい」と突き放してしまう人がいます。「申し訳ない」が口癖の人もいます。「もっと人の気持ちがわかるようになりなさい」との気持ちで、過去の積み残し感から厳しいことを言ってしまうこともあります。しかし、そんな抵抗感をものともしないで働きかけてくるヘルパーさんの笑顔に、思わず「ありがとう」の言葉がこぼれてしまいます。これは現状を受け入れるようとする自分の心の声でした。ハッとして相手の顔を見つめます。「こちらこそ嬉しいです!」本気でそう言っているヘルパーさんの笑顔に、自分も嬉しさが込み上げてきます。

世代を超えた触れ合いは過去と未来の接点です。「ああ良かった」と深く思えた瞬間に、今までの道のりには全て意味があったように思えてくるのです。利己的繁殖を手放した人間が次世代にリレーしたいと願うものは、「人と人が触れ合うことから生じてくる価値」です。「ありがとう」を言える機会があることは幸せなことです。心のリレーは受け取ってくれる人がいてこそ完結します。感謝の気持ち、本気で受け取りましょう。


 

紙面研修

紙面研修

「自我」から「自己」へ

 

「自分」に対する捉え方をひろげる

アイデンティティー(自我同一性)という概念を提唱したのはエリクソンです。これは、「自分が誰なのか」を自分で解るようになっていくことです。「わたしは私である」という意識や自己認識が肯定的な統一性や連続性を持ててこそ、周囲との人間関係は安定していきます。青年期はこの「自我の同一性」の確立が発達課題となってきます。そして、老年期になると今度は「私は私でいてよかったか?」との葛藤が生じてきます。この時の課題は「自我の同一性」ではなく「自己の統合性」となります。

自我とは言わば「意識」の中心です。しかし人間の心の中には意識よりもさらに膨大な「無意識」があります。周囲との相互作用とその結果を含めた様々な無意識や、様々な社会的関係を含めて揺れ動く心の在り様や記憶や経験の蓄積の全体が「自己」であり、また、どこかに中心点を取って名付けるなら、それも「自己」となります。

限りない自己成長(個性化の過程)を説くユングの「自己実現」や、自己の殻を超えていこうとするマズローの「自己超越」など、「自己」を探求する心理学は、言葉の違いはあれど同じベクトルを持っています。「人間はいついかなる状況からでも成長できる」という確信が根底にあるのです。「自己統合」を説いたエリクソンは年代別の発達課題を示して見せましたが、エリクソン自身は「この図表は一度使ってそして捨て去ることができる人だけお勧めしたい」と言っています。人間の成長プロセスは固定的なものではなく、過去や幼児期の体験が決定的に心の在り様や人生の全てを決めてしまうものではないからです。

エリクソンの晩年の著作『ライフサイクル、その完結』(1982)の前書きには、「本書の表題をアイロニカルなものとして受け取り、ひとつの完璧な生涯に関する包括的な記述が見出だされるだろうなどと受け取らないことを希望する」とあり、人生や老年期のあるべき姿が型にはめたように提示できるものではないと示唆しています。




彼らの描いた心理的成熟のプロセスは、ほぼ共通した内容をもち、「自己実現」プロセスとして一括できるようなものであった。それは、一面的な自我を脱して、本来的自己を実現してゆくプロセス、あるいはより真正なる自己に漸進してゆくプロセスであり、自己への究極的な関わりを特徴とするものである(「心理的自己実現論の系譜と宗教」堀江宗正)




他者との相互作用によって変容する自己

球全体が「自己」

人間の「意識」は、防衛機制によって自分の中にある矛盾を糊塗し、嫌なものは自分ではなく常に他人によってもたらされると認識しがちです。そのため、「自我」の視点にのみに立つ人は、自他を切り離して狭い視野になり、適正に自分を振り返ることを苦手とします。しかし「自己」という捉え方なら、あらゆる物事に「自己」の反映を見出せるのですから、様々な問題を自分のものとしたアプローチが可能となります。

私たちは、エリクソンの発達理論などを参考にしながらも、自分の人生の「自分らしさ」を誇りとして、良くも悪くなるのも「自分の人生」として受け入れていくほかはありません。そのためには、自分の心の風景を描き出しているものは自己自身であるとする捉え方を持つ必要があります。「自己」の説明を求められたユングは、「ここにおられるすべてのひと、皆さんが、私の自己です」と答えたといいます。目の前の他者は自分と「相互作用」して自己の一部となっていきます。それらも含めて自分自身を再発見し受け入れていくことが「自己統合」なのです。

 

 


考えてみよう

「自分の気持」を受け取って貰えた喜びは、人をどのように変えるだろう

紙ふうせんだより 8月号 (2023/09/19)

「こころの平和」は「人として尊重」から

皆様、いつもありがとうございます。8月15日は「終戦の日」ですが、この日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として記念日に制定されたのは1982年の閣議決定によります。一方米国では「対日戦勝記念日」を降伏文書調印の9月2日としていますし、ソ連は8月9日に対日戦争に参戦して火事場泥棒的に9月2日に歯舞群島攻略作戦を発動していることから9月3日を対日戦勝記念日(5日に千島列島全島制圧)としていました。

本来、日本でも「敗戦」の日をポツダム宣言の受諾(じゅだく)通知の日付の8月14日か降伏文書調印日の9月2日とすべきところですが、戦争体験者の記憶の中では「大事な放送があるから」とラジオの前に集められた「玉音(ぎょくおん)放送」の8月15日の正午が焼き付いているのです。

78年前の 「現実否認」

防衛大学名誉教授の佐瀬氏は『私の世代は「国民学校」に学び「小学校」を知らない。そこで行われたのは、文字通り軍国主義教育。二度とそういうことがあってはならない。だから日本は戦争に「敗れた」のであり、戦争が「終わった」のにという気はない』とコラムで記していますが、そこには二重の悲しみが見られます。

「戦争に負けてしまった」軍国少年の悲しみと、「勝つ」と信じさせられていたが「騙されて」加担させられていにということに気が付いてしまった悲しみです。国民を騙せても「現実」を騙すことはできません。

コラムでは、『後年調べた経済(OECD)協力開発機構の統計によると、「大東亜戦争」開戦時の昭和16年、日本の国内(GDP)総生産は2045億ドル強、米国のそれは1兆1002億ドル強。実に5倍の大差だった。しかも敗戦時の昭和20年には日本のGDPは987億ドル強、つまり大戦による疲弊のゆえに開戦時の半分以下に落ちた。これで勝てるはずはなかった』と、佐瀬昌盛氏は述べています。

日本の実力を「誇大妄想」する現実否認から始まった戦争は、政治的には、敗戦の現実を「終戦」という言葉で糊塗(こと)し、9月2日の全面降伏を意識しないようにする否認で終わっています。「否認」によって何かを守っていたのです。

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防衛機制の 「否認」 自分を守る心の働き

心理学の「否認」とは、自分にとって受け入れがたいことを認めない心理状態です。これは、自分の心がこれ以上傷つかないようにする無意識の働きです。現実を認めてしまうと自分が更なる苦悩に苛(さいな)まれてしまうから「現実を認めない」という防衛機制(※1)か働くのです。

これは、利用者さんにもよく見られます。既にやらなくなった事や出来なくなったことを聞かれて「やっている」「できている」と述べてしまうことについての原因は、「認知症だから忘れた」ということに限りません。記憶があやふやで自信が持てない不安な状況の中で、「できる」イメージを維持し「できない」自分を否認することによって心が壊れてしまわないように自分を守っているのです。この肯定的なイメージは急かして変える必要はなく、ご本人の気持ちを盛立てて本当に「できた」となるように支援していくことが大切です。

 




※ 1ディフェンス・メカニズム(defence mechanism)

自分の受け入れがたい状況に対して、元々あった自分の考えや現実認識やその時の実際の体調までも無意識的に修正(歪曲)してしまう無意識の働き。防衛機制が働き続けると精神的なバランスを崩しかねない「抑圧」や「逃避」や「否認」などもあるが、不安や満たされない欲求を良い方向への行動に置き換える「昇華」もある。




生きる意欲を奪う 「ディス・エンパワーメント」

「やっている」「できている」との発言を、認知症による「物忘れ」として単純化して理解してしまったらどうなるでしょう。

「物忘れ」なら「思い出せばいい」と、周囲の善意から「××しないように」「△△注意」といったお小言の貼り紙だらけになっているお宅もあります。それを本人が 非難に取り囲まれているように感じ、貼り紙が読めない(読みたくない)となることもあるでしょう。「この前言ったでしょ」「ここに書いてあるでしょ!」との支援者の言葉には、「忘れてしまうことを自覚して欲しい」との考えがありますが、否認の「否定」は悪循環の入口となりかねません。忘れたことを「聞いてない」などと言って「怒らないで欲しい」という気持ちもあるとは思いますが、「怒りたくなるくらいに『責められている』気持ちに本人がなってしまっている」のではないか、ということにも留意が必要です。

否認や反発の表現は、その時の支援者の関わり方が「非対称な力関係」になっていることも考えられます。支援関係は、支援者目線の庇護や救済や指導であってはなりません。利用者さんに「うまくできない」現実を理解させて「自分でやらせない」ようにしたり、言うことを聞かせて「自己管理させない」ようにすることを「ディス・エンパワーメント」と言います。これは「権限を奪い自信を奪うこと」であり、誤った支援方法となります。反対語の「エンパワーメント」とは「権限を付与し自信を持たせること」となります。支援関係の根底には、「人として尊重する」対等な人間観が無ければならないのです。

支援の肝は「元気にさせる」という一言につきます。「自分はもうダメだ」と思っている気持ちからは「困難を乗り越えよう」という気持ちは生じてきませんから、支援の第一は「ダメじゃないよ」というメッセージを利用者さんに送り続けることになります。その為には、「否認は自分の心を守ることであり、怒ることは意に添わぬことをはね返す力があることであり、どちらも本人の『強み』なのだ」と、支援者側の評価尺度を改めてみることも大切です。

利用者さんはネガティブな他者評価や自己評価の中で暮らしています。利用者さんが抑圧状況にあることを理解し、自己認識に揺れる言葉に耳を傾けて共感を示し「自信や自己決定力を回復・強化できるように支援する」ことがエンパワーメントなのです。

回復は 「エンパワーメント」 からはじまる

1945年8月15日以降、日本は挫折感に打ちひしがれていました。そんな中で、日本を元気にさせていったのは主に子供や女性たちでした(※2)。 8月25日には、「平等なくして平和なし」の信念を持つ市川房枝たちは「戦後対策婦人委員会」を組織し政府に婦人参政権実現を申し入れています。奇跡と言われる戦後復興の始まりは、差別や洗脳教育で「自己決定権」を奪われていた者の権限回復やセルフ・エンパワーメントから始まっています。

私たちは、「うまくできない」ところを、「大丈夫だよ」「できるよ」「一緒にやろう」などと声をかけ、利用者さんの参加意識や主体者意識を高めていきます。そして、たとえ物理的な参加が難しくても「本人の意に沿って」それが行われているように絶えず声をかけながら、できるところは一部分だけでも御本人にお願いをしていきます。たとえ大部分を物理的にヘルパーが手を出したとしても、本人が主体者意識を持って参加し「できた」ことを「良かった」と感じることができれば、それは本人の「できた」であり「元気」となるのです。

 




※ 2 文部省は9/20に教科書の軍国主義的記述の削除を指示し生徒による墨塗りが行われる。大人達の変わり身に時代の大転換を感じた子供達はいち早く新しい価値観を摂取していく。

10/9成立の幣原内閣はGHQの介入回避の為に翌日の初会議で婦人参政権を決定。翌年の衆院選で39人の女性議員誕生。市川房枝( 1893ー1981 )信念は「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」






 

紙面研修


 

(傾聴)深い体験を聞くために

今私たちが関わる昭和一桁生まれの利用者さんの人生体験の核に戦争があることは確かです。そこにうまく触れることができたなら利用者理解は進み、ケアの発展にもなります。しかし、戦争体験は時代背景を知らない人に対しては語りにくいものです。

当時の雰囲気はどうだったのでしょう。洗脳教育を受けた子供なら正しく「騙された」のですが、大人達はどうでしょうか。戦争を金儲けや成り上がりの機会として待望する声は民間にもありました。宮崎駿の映画「風立ちぬ」には日米開戦のラジオ放送に快哉を叫ぶ男子学生が描かれています。一方で、女学校では「みな沈んでいた」と話す利用者さんもいます。世代や男女でも受け止め方は異なるのです。

 
「戦争責任者の問題」映画監督:伊丹万作(1946.4.28

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁(ちょうりょう)を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 
「わたしが一番きれいだったとき」茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達がたくさん死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差しだけを残して皆発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり

卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのうようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった

 

だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように
 
考えてみよう

利用者さんの人生体験の深いところを聞くために必要な態度は何だろう
 

セルフ・エンパワーメントをしてみよう

 

「できない」「できる」のあれこれ

「できない」ことを「できる」と言ってしまう心理は、「否認」以外にも様々なケースがあるでしょう。幼児は夢の世界にいるような「全能感」があり、本気で仮面ライダーに変身「できる」と思っていたりします。少年や青年期は、「できない」と言うことが恥かしかったり、見栄や自己認識の甘さによる背伸びもあります。『「できる」と言ってしまったから意地でも「できる」ようになって見せる』と努力すれば、防衛機制の働きは「昇華」となり、結果的に良かったことになります。中年期以降はさらに複雑です。経済観念が優位する大人は、ハッタリなど交渉術としての「できる」というのもあるでしょう。請負の仕事で「何でもできます!」と謳っておいて、実際は美味しいところの摘まみ喰いをしたいという打算もよくある話で、意識的に嘘をつける「大人」であれば、「できる」と言った場合の「できない」責任についても一応は、知ってはいるでしょう。「大人になるということは、責任を自覚する」とも言えます。

一方で、「できる」のに「できない」と言ってしまう場合もあります。これは「責任」の重みや自分自身を知っている「大人」ならではで、「責任」を負いたくないから「できない」ということもあるでしょうし、実際に自分の能力や仕事容量や時間などを計量して無理があるから、簡単に「できる」とは言えない責任感からの「できない」ということもあるでしょう。自己肯定感が低くて「できない」と言ってしまうケースについては、自己認識を拡げていく取り組みが必要となるでしょう。ある言葉を発したり自己認識の在り方によって自分はどう変わるのか、傾聴の耳は自分の心の揺れ動きにも傾ける必要があります。

【エンパワーメントの定義】 

元々のエンパワーメントは権利や権限の付与を意味する法律用語でしたが、公民権運動などの中で運動理念として発達しソーシャルワークに取り入れられていきました。エンパワーメントは単に「力を与える」という意味でも使われていますが、様々な論者が定義・再定義を試みています。キーワードは「自身のコントロール」「パワーレスからの回復」「社会参加」が共通します。

WHOのオタワ憲章「人々や組織、コミュニティーを通じて自分たちの生活を統御する過程である」

公衆衛生・健康教育の領域「コミュニティーやより広い社会において、自分達の生活をコントロールしていくために、人々やコミュニティーの参加を促進していくソーシャルアクションの過程」

看護の領域「自分の生活に影響する要因のコントロールを支援するプロセス」

コミュニティー心理学の領域「個人が自分自身の生活全般にわたってコントロールするだけでなく、コミュニティーへの自主的な参加にも同様にコントロールを獲得する一つのプロセス」

保健福祉領域「一般的にパワーレスな人々が自分たちの生活の中の制御感を獲得し、自分たちが生活する範囲内での組織的、社会的構造に影響を与える過程」

★支援過程におけるエンパワーメントは、「パワーレス(意欲を失った弱った状態)からの回復」に焦点があります。支援側から権限を本人に移譲して主体的な自己決定ができるように支援していくということを基礎として、コミュニティやケアへの参加過程で「自身のコントロール感」や「生活の中の制御感」を得て頂くことによってパワーレス状態から回復し、エンパワーメントから更なる「参加」が促進され、ますます元気になる、と説明できるのではないでしょうか。そうすると「セルフ・エンパワーメント」については、そのような過程を自覚して、「自分の態度を自分で決めていくこと」となるではないでしょうか




エンパワーメント(empowerment 「力を与える」「権限を与える」という意味で、ビジネスにおいては「権限委譲」を意味する言葉としてで用いられます。これまで上司が持っていた権限を部下に与えることで自律的な行動を促し、組織全体のパフォーマンスを高めることを目的としています。(人事労務用語辞典)




 

【考えてみよう】

「自身のコントロール感」が高まるのはどれだろう。

A「できない」のに「できる」と言ってしまい、後で後悔する。

B「できない」ことは「できない」と率直に言った上で、どうしたら部分的にでも「できる」かを検討する。

C「参加」を促されて、断り切れずに嫌々参加してしまった。

D「参加」を促されて乗り気では無かったが参加することになってしまったので、「参加」から何か得たいと思う。

 

「パワーレス」が増幅するのはどれだろう。

A「できない」ことや苦手なことはできるだけ避けたいしやりたくない。

B「できない」ことや苦手に気が付いたら、「できる」ようになってみたいと思う。

C できれば責任は負いたくないし、重要なことの決定については誰かが決めてくれれば良いと思う。

D どんなことでも「自分に一切無関係」ということは無いので、様々なことに関心を払い意見などを述べる機会があったら述べてみたり関わってみたいと思う。

E できれば自分の関心のある領域のみの関わりで生きていきたい。それ以外は疲れるから避けたい


紙ふうせんだより 7月号 (2023/09/08)

皆様、いつもありがとうこざいます。セミが鳴いていますね。セミの成虫の寿命は俗説では1週間などと言われてきましたが、1ヶ月程度生存する個体もいるようです。卵で1年間過こしに後、地中で木の根にしがみついて暮らす幼虫の期間は、種や固体や環境にもよりますが1年~ 5年と言われています。

繰り返す生と死の意味について

セミの寿命を長いと考えるか、短いと考えるか。真夏の始まりにセミの抜け殻の「空蝉(うつせみ)」を見かけます。これは「現身(うつしみ)」とかけた言葉で、「現世に生きているこの身」もまた「仮住まい」であって、空っぽの抜け殻にやがてはどこかに旅立たなけれはならない人身を重ねています。夏の終わりにはひっくり返った「落蝉(おちせみ)」が転がっています。触るとまた力の残るものは羽をハタバタさせますが、やがて死ぬ命です。どうせ死ぬのだから「生まれたってしょうがない」と、セミは考えるでしようか。

直射日光で焼かれたアスファルトの上に「陽炎(かげろう)」がゆらめくことがあります。同じ音の昆虫の「蜉蝣(かげろう)」は、数年の水生生活の後に一斉に羽化します。大量発生して交尾の饗宴を繰り広ける成虫の寿命は、数時間(※1)と言われています。コウモリがカケロウを狙って乱舞し、交尾を終えてカ尽きたオスは落下して群がる魚の餌食となります。その間にメスは着水し産卵を行いますが、メスも卵も魚に狙われます。大量投下された餌には必す食べ残しが発生し、残った卵が種の命脈を次世代に繋ぎます。そうやってカケロウは3億5千年間生き抜いてきました(※2)。

カゲロウは「ほとんど食べられてしまうし、すぐに死んじゃうのだから、産んでも意味が無い」と言うでしょうか。儚く弱い命の象徴のように語られるカゲロウですが、今生きている個体は、地球上で最初に空を飛んに生きものの最後の生き残りでもあるのです。




※ 1 短命種の場合、長命のものでも数日。

※ 2「生きた化石」とも言われる。




人を殺すのも人間 人を生かすのも人間

文明の発達で「人間の天敵はもはや人間」という状況に私たちは生きています。戦争は、医療や福祉が総力をあげてようやく助ける一つの命を単位にあっと言う間に殺戮します。だから戦争は人類が憎むべき最悪のものと言うべきですが、戦争には技術などの革新を呼び込んで文明を発展させてきた面もあります。

人に殺し合いをさせる権力の横暴に対抗すべく「人権」という概念は生まれました。戦争を起させない、起こせない社会を私たちは築くことができるでしようか。「戦争はどうせ無くならない」と言う人もいます。そのような人でも戦場に放り込まれれは、自分や家族や仲間の生き残りをかけて奮闘するでしよう。多くの人が死んでしまい、周囲の人に死なれても生き残った人は、自分も「生きていたってしようがない」と思うでしょうか。

心が傷つけばそう考える時もあるでしよう。罪悪感に苛(さいな)まれることもあるでしょう(※3)。それでも心の底からは「生きねば」という声が聞こえてきます。生き残った者の生き残った意味は、生き抜いてみないと本当には解からないからです。




※ 3 サバイバーズ・ギルトと言う。戦争や災害、事件事故、虐待等に遭って生き残った者は、周りの人々が亡くなって「自分が助かった」ことに、しはしば罪悪感を抱いてしまう。




 

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「社会」 に自分をぶつけていく

昭和5年生まれの利用者さんが、兄の話をして下さいました。「兄の及人が志願して(※4)戦死した報せが入ってきた時、兄や仲間たちは『次は俺たちだ!後に続こう』と吹き上がったことがあった。兄が志願したいと母に伝えると、おとなしかった母は、人が変ったように怒り狂い『死なせるために産んだわけじゃない』と泣き叫んで兄を怒った」とのことでした。しかし必死で母が守った兄は、東京大空襲下の両国で消息を絶ってしまいました。

戦死を美徳とする軍国教育を受けたこの世代の男子は、皆一度は死を覚悟しています。知人や親族の中には必す戦争関連の死者がいます。生き残った者の罪悪感は、刀の切っ先のような問いを突き付けます。生き残った自分に何の意味があるのか――。

少年はやがて大人になり社会に出るとがむしゃらに働きはじめます。結婚前の初デートも15分で仕事があるからと退席し、仕事に明け暮れる日々でした。答えを出すにめには、自己存在を何かに投じて全力で壊れるくらいにぶつかって、どうでも良いような自分の要素をぶっ壊してみたあとに残った「芯」を掴みにいくような生き方をせざるを得なくなるのでしょう。妻の多大な負担を背景に、仕事では大成功を納めやがて引退。老後の平穏な生活がしばらく続いたあと、だんだんと身心の自由がきかなくなってきます。

意図しなかった介護生活、再び妻に負担を強いる状況に「こんな状態で生きていて良いのか」と、もう一度生きている意味を問うことになります。それは、身心にガタがきた後に、残った「信」を掴みにいくような問いとなります。

 

人生からの問いかけに答えるために

生物学的には、多細胞生物の「死」は進化して「獲得されたもの」と考えます。種の遺伝子の多様性を開発し良きものを子孫に手渡していくために「個体の死」があるのです。私たち人類は、社会を開発し世代交代によって社会を変革していくことを種の生存戦略としてきました。個体だけの狭隘(きようあい)な視点では、生死の意味の全体を見通すことはできません。

答えを求める人生の最晩年に、介護というかたちで世代を超えた出会いがあります。手を繋ぐことによって伝わるお互いをいにわる気持ち。話し笑いあうことの純粋な楽しさ。それは一つの小さな社会でありながら、助け合って生きる人間の本質と、私にちが目指すべき社会の方向を示しています。人と人が触れ合う価値は、命ある限り紡きだすことができるのです。

先の利用者さんは、ヘルパーさんとの出会いを「こんな時に出会えるなんて、自分は幸運だった」「あなたは親友だ」と喜んでおられました。そうした介護生活もやがて終わりを告け、昏睡の枕もとで妻が手を握り感謝の言葉を述べています。本当の気持ちは言葉の次元を超えて伝わります。その刹那(せつな)に「これで良かったんだ」という確信が心を満たしていきます。90 年を超える生涯はあっという間に過きていたのです。奥様も「私が語りかけると瞼(まぶた)が動いた」と言われ、お互いの気持ちが伝わっていることを、確信しておられました。

人生に対する「私」の答えは、自分自身が「他者との触れ合いによって」発見する以外にありません。個人の視点のみでは、意味の全容を掴むことは構造的に不可能にからです。私たちが人生最晩年の喜びを利用者さんに届けるように、私の中の優しい気持ちは利用者さんによってリフレッシュされます。人生の彩りの豊かさや、やがて再発見されるだろう「意味」は、「あなた」がきっかけとなり「あなた」が友となり、私に届けられるのです。

 




※ 4 大戦末期には募集年齢が15歳から14歳に引き下げられ、志願の名のもとに「地域ぐるみ、学校ぐるみ」で徴募された。

既に15年戦争期には陸軍だけでも17歳未満の少年志願兵の総数は40万人にのぼるとされる。昭和18年には少年飛行兵を「絶対獲得ヲ期セラレ度」などと要請が出され、13歳の児童(現中学1年生)にも誕生日入隊の働きかけが行われた。非力なエンジンのためパイロットは小柄軽量も有用とされ、ようやく離陸できる程度の未熟な少年飛行兵が無謀な作戦に戦果無く散っていった。

 

紙面研修

回復過程としてのサバイバーズ・ ギルト

「個性化の過程」 「全ては回復過程」

『生き残ることの悲しみはどのようなものであるだろうか。そこには自らが「生きること」と「死ぬこと」をかんがえるだけではなく、自ずと「なぜ生きるのか」、 「なぜ死ぬのか」という問いを投げかけられることでもあるのではないだろうか。それは答えの出ない問いを投げかけられることであり、深い宗教的あるいは哲学的な問いを与えられる出来事でもある。

そして、深い悲しみは「どう生きるか」と、全存在を賭けた問いを投げかけてくる。禅の公案を投げかけられるような問いに人はどのように答えを求めていくのか。それが個性化の過程であるのかもしれない。』(「能『鐵門』と能『大原御幸』から見た「生き残ること」の「かなしみ」と語ることについて」花園大学心理カウンセリングセンター宮野知子)
サバイバーズ・ギルト (suivivor’s guilt) とは、自分だけ生き残った、もしくは自分だけ生き延びたなどの理由で抱く罪悪感、あるいはそれに似た感情のことをいいます。

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは『菊と刀』のなかで、西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」と分類しました。そのため日本人は恥ばかり気にして、罪の意識が欠けている、などと批判されることがあります。

しかしその一方では、日本人は、サバイバーズ・ギルトという形で罪の意識をいだきやすいこともまた指摘されます。

たとえば、太平洋戦争のときは、戦地におもむいた兵士たちのあいだで、戦友が戦死したり、特攻隊で生き残ったりすると、「戦争で死ねなかった」ということが、その後のその人の人生の重荷になったりしました。

また、最近では東日本大震災の後に、被災地だけでなく、被災地から離れた人々のあいだにも、このサバイバーズ・ギルトが広がりました。

この感情は、人々がボランティアとして現地へ入っていく動機にもなりましたが、このために震災後多くの人が鬱になっているともいわれます。(日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン)

 
被災者が生き残ったことや損失が少ないこと対して抱く罪悪感

サバイバーズギルトは、心的外傷反応の一部である。サバイバーズギルトを持つ人への対応として以下のものがある。

①災害においては、生存するか否かは無作為であり、生き残ったものはそれを受容しなければならないことを繰り返し伝える。

②生き残ったことを罰する必要のないことを知らせ、日常生活に復帰できるように支援する。

③生き残った人の考えや感情、活動が展望を持てるように支援する。

④支援したい、役に立ちたいと思っている生存者を支援計画に巻き込む。誰かの役に立ち、人助けをしているうちに生存したことへの罪悪感を小さくしていく。(日本災害看護学会)
 

心の傷は受傷の無い環境に行けば治るというものではない。それが血肉となって人生の大切な一部として人生観に組み込まれていく過程は長い目で見ていかなければならないが、生き延びたということはその時から「回復過程」を歩んでいると言える。

ただ、簡単に起きたことの良し悪しを決めつけたり、無かったことのように振る舞ってしまえば、受傷の否認となって自然の治癒力の妨げになってしまうこともあるだろう。全ての回復過程は同時に自己統合・自己実現過程(「個性化の過程」とほぼ同義)でもあるのであって、それらは快適なことばかりではなく苦しいことも含むが、必ずしも苦しみだけとは限らない。

 
家族や親しい人を亡くした被災者にかけるべきではない言葉

兵庫県こころのケアセンター「サイコロジカル・ファーストェイド実施の手引き第2版」より要約

・きっと、これが最善だったのです。

・彼は楽になったんですよ。

・これが彼女の寿命だったのでしょう。

・少なくとも、彼には苦しむ時間もなかったでしよう。

・がんばってこれを乗り越えないといけませんよ。

・あなたには、これに対処する力があります。

・できるだけのことはやったのです。

・あなたが生きていてよかった。

・他には誰も死ななくてよかった。

・耐えられないようなことは、起こらないものです。

・もっとひどいことだって起こったかもしれません。あなたにはまだ、兄弟もお母さんもいます。
考えてみよう

「かけるべきではない言葉」の例がどうしてそうなるのか、考えてみよう。

 
I was born (あいわずぼ一ん)吉野弘(初出「消息」自費出版1957年)

確か英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと青いタ靄の奥から浮き出るように白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の柔軟なうごめきを腹のあたりに連想しそれがやがて世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

女はゆき過ぎた。

少年の思いは飛躍しやすい。その時僕は<生まれる>ことがまさしく<受身>である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

ーーやつばりI was bornなんだね

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

ーーI was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだねーー

その時、どんな驚きで父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

父は無言で暫く歩いた後思いがけない話をした。

ーー蜉蝣という虫はね。生まれてから二、 三日で死ぬんだそうだが それなら一体何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってねーー

僕は父を見た。父は続けた。

ーー友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると口は全く退化して食物を摂るに適しない。 胃の腑を開いても人っているのは空気ばかり。 見るとその通りなんだ。 

ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していてほっそりした胸の方にまで及んでいる。 それはまるで目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまでこみあげているように見えるのだ。 つめたい光りの粒々だったね。

私が友人の方を振り向いて<卵>というと彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。 そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのはーー。

父の話のそれからあとはもう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく僕の脳裡に灼きついたものがあった。

ーーほっそりした母の胸の方まで息苦しくふさいでいた白い僕の肉体ーー
 



 

 


紙ふうせんだより 6月号 (2023/07/25)

皆様、いつもありがとうこさいます。湿度をはらんだ生暖かい空気が身体にまとわりつくこの季節は、新年度の対応疲れと気候の変化が相まって、溜まった疲れが身に影響を及ぼします。近年は五月病のみならず「六月病」や「七月病」という言葉もあり、この時期に身の不調を訴える方の多いことや、社会的な関の高まりがうかがわれます。自分自身のリフレッシュをがけましょう。リフレッシュとは、「再び新しく」という意味です。

ストレスを溜めてしまう 「自己表現の癖」

「ストレスを溜めないように、ストレスに気が付きましよう」といったアドハイスは多くありますが、これも困惑してしまうものの一つです。人生や仕事で重要な場面ほど、対応したら「ストレスがかかる」ということを解った上で、取り組まさるを得ない状況になるからです。避けてばかりいたら意欲も自己効力感も活動性もかえって失われてしまいますから、「やるしかない」と腹をくくるしかありません。そして、開き直りは「ストレス耐性」となって何とかなってしまうものです。

とすると問題があるのは特別な場面ではなく、気が付かずにストレスを抱え込んでしまう「日常の在り方」にあります。気が付かないことに「気が付かなけれはならない」という矛盾に「なぜ気が付かないのか」と着目し過きてしまうと、内省の”沼”にはまりこんでしまうので、ここでは、自分の「感情や主張」を日常生活で表出させたり呑み込んだりしている自身の「自己表現の癖」に着目してみましょう。

介護も看護も離職理由の第一位は「職場の人間関係」にあると言われています。これらの仕事は、利用者さんを明るくするために、自分の「笑顔を見せる」というように感情を駆使します。感情労働に疲れてしまったところに、トラブルが生じてじっくりと話し合うことが必要な場面になったとします。疲れているとつい極端な対応になってしまいがちです。相手の話を聞く余裕が無く、つい感情的になって自分の主張を一方的に相手にぶつけてしまったり、表情は作り笑いだけど「聞くだけ無駄」と思ってしまって心は冷めて「無表情」になってしまったりします。このような齟齬から人間関係は悪くなっていくのです。

そもそもですが、本来のあるべきフラットな人間関係は、自分の感情や主張は「伝えるか、伝えないか」という二者択一の性質のものではないはずです。自分の感情や主張を呑み込んでばかりいては、ストレスが溜まってしまいます。ぶつけてはかりで相手の話す機会を奪っていれば、聞くことが少なくなり自分の心も淋しくなり、人のが離れていけば思い通りにならないストレスを抱えます。かといって、齟齬を避けた無難な選択として「聞く、伝える」という相手との関わりを減らしていけば、発展性は失われ袋小路に迷い込んでしまいます。お互いに「何を考えているかわからない」となってしまうからです。

改善していくために私たちにとって必要なことは、相手と「良い関係で関わろうとする意思(積極性)」と共に、「上手に聞き、上手に話す」というコミュニケーション型の習得となります。

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「言うか、 言わないか」 ではなく、 「聞き、 話す」

「話すか、話さないか」という二者択一は、自分の態度を硬直化させます。二者択一の自己主張の表出ならば、自分は話してすっきりしたけど相手からは”ちょっと…”という「自分OK、相手NG」となります。逆に相手の主張をただ聞いて呑み込むたけの自分であれは「相手OK、自分NG」となります。目指すべきは相互尊重の「自分OK、相手OK」です。「アサーション(※1)」ではこれを「アサーテイブな自己表現」と言います。

アサーテイブな態度がとれないと、人は「攻撃的(アグレッシブ)」か「非主張的(ノン・アサーテイブ)」な「自己表現」に偏ることになります。
「アグレッシブ」は、適切に「聞き、話す」という対話の大変さを回避して、相手にマウントを取ることで自分の主張を通す態度があり、相手の発言の機会を奪ってしまい結果的に反論も受け付けません。この型が暴走すると相手の非主張的態度に甘えたパワハラとなります。
一方、「ノン・アサーテイブ」は、自分を抑圧して自己主張を避けることで葛藤を回避しますが、相手に依存し「自分では判断できない」となり、ついには「自分の考えが解らない」となってしまいます。

そして両者は表裏一体の関係にあります。
こじらせてしまうと「アグレッシブ」は力関係下位には容赦なく牙をきますが、上位には何も言えすに黙って従属してしまいます。「ノン・アサーテイブ」は、突然切れてしまい攻撃性が爆発することがありますし、自分では話せない気持ちを「○○さんが言っていた」などと他人の口を借りてみたり、ゴマカシや嘘で「作為的」に相手をコントロールしようとする「回りくどさに隠された攻撃性」を持っことがあります。


どちらにしても、「自分の者えや気持ちを捉え、それを正直に伝えてみようとする」「伝えたら相手の反応を受けとめようとする」というようなアサーテイブな自己表現の積み重ね不足があり、偏りが「型」となってしまっているのです。そうであれば、日頃から誰に対してもアサーテイブなコミュ二ケーションを心がけたいものです。それが、自分がアサーテイブになっていく練習でもあります。

自分の態度を 「解放」 していく

しかし、「絶対にアサーテイブになれない相手はいる」「そんなの無理!」と言いたくなることもあるでしょう。実際かなりやっかいな人もいますが、あの人は「変わってるから、自分勝手だから、性格だから、理解力が無いから、病気だから」などとして、相手を安易に決めつけて自分から壁を作ってしまうのなら、自分にも偏りがあるということです。

アサーションでは、「アサーション権」という権利(基本的人権)があると考えます。これは「誰しも相手の自己表現を奪ってはならないし、自由に自己表現をする(しない)権利がある」というものです。これは、「誠実・率直・対等な自己表現は自己責任において実現可能である」ということを意味しています。相手に自己表現の在り方を強制することは出来ませんが、自分のコミュニケーション力を高めて自分がアサーテイブな自己表現ができるようになれば良いのです。そうすれば、自分の被害や加害やストレスは軽減できるはずです。

「自分の者えや気持らを捉え、それを正直に伝えてみようとする」「伝えたら相手の反応を受けとめようとする」ということは、支援関係の原点でもあります。利用者さんを決めつけて、「利用者さんの自己表現」を奪ってはいないでしようか。利用者さんに対して新鮮な見方ができるように日々心がけながら、今日も再び向き合っていきたいと思います。

※ 1「アサーション」はアンドリュー・ソルターの条件反射療法(1949)が源流と言われているが、行動療法や認知行動療法と共に発展してきた。「OK」という言い方は、交流分析の「I am 0K/ You are OK」や[I am OK/ You are not OK」から来るが、こではOKの対義語として和製英語の「NG」 (no good)と表記した。

 

紙面研修

アサーションとは

アサーテイブな自己表現の実現は 「エンパワーメント」 そのものである

「アサーション」は、米国の「公民権運動」や「女性解放運動」等と影響を与え合いながら発展してきたと言われています。アサーションは、差別や抑圧されてきた人々が適切に自己主張し、声をあげる方法だったのです。平木典子の『アサーション入門』によるとアサーションは、「もともとは、人間関係が苦手な人、引っ込み思案でコミュニケーションが下手な人を対象としたカウンセリングの方法・訓練方法として開発されました。

ところがやがてそのような人たちだけを対象に支援していても、効果はあがらないことが分かってきました。なぜなら、よく観察すると、問題はコミュニケーションが苦手な人だけでなく、彼らを取り巻く他の人々の問題であること、つまり、ぎくしやくする人間関係の裏には、悩んでいる当事者だけでなく、自己表現を踏みにじったり押しつぶしたりする人々の問題が関わっていることが分かってきたからです」とあります。

そこで、「(弱い側だけではなく)力や権威を行使する側にもアサーションという考え方を意識してもらう必要がある」と考えられるようになっていったのです。現在、アサーション研修は、企業などでコミュニケーションスキルの研修やハラスメント研修として活用されています。

私たちは 利用者さんに対して 「自己表現を踏みにじったり押しつぶしたりする人」と成り得る立場にあります。虐待やハラスメントが発生する土壌には、必ずアグレッシブやノン・アサーテイブな表現があり、それが関係性へと発展・固定化していく過程があります。虐待やハラスメントを未然に防ぐためには、各人がアサーテイブな表現や関係を心がけることから始まります。

私たちの支援する利用者さん夫婦には、時々「アグレッシブ、ノン・アサーテイブ」の組み合わせを見かけることがあります。これについても、お互い(特にノン・アサーティブ)が最初からそうだったわけではなく、偏った表現が関係へと固定化していってしまったものでしよう。

アサーションは「誠実・率直・対等・自己責任」を柱としていますが、この4つは「心理的安全性」と同じものと考えられますので、これらが職場で重視されていれば必ず「生産性」も高まってくるでしよう。ノン・アサーテイブなメンバーが職場にいて「生産性」が低く留まっているというような場合には、先輩や上司社員がアグレッシブでそうさせてしまっている「上の責任」という面もあるでしよう。

(アサーション権における「自己責任」とは、全ての人には自分の責任を全うする権利があり、過度な責任を押し付けられたり、責任を果たすことを奪われたりしないことであり、自分が「自分の責任を果たす」ことに積極的になれる状況、「自分の責任」をためらいなく口に出来て実行でき、失敗も許容される状況などを意味します。また、アサーティブな自己表現は、自分自身に対する「自己責任」を深く自覚するからこそ実現可能となるのです)

①【A ~ Eの設問に答えてみよう】(平木典子「アサーション入門」より)
A 危険や恐怖に出会うと、心配になり何もできなくなくなる (日頃の思うことと)
まったく合ってない・
あまり合っていない・
どちらとも言えない・
かなり合っている・
非常に合っている
B 過ちや失敗したら、責められるのは当然だ
C 物事が思い通りにならないとき、苛立つのは当然だ
D 誰からも好かれ、愛されなければならない
E 人を傷つけてはならない
 

②【A~ Eの主語はなんだろう】

・自分・まわりの人(他人)、そのような人はいる ・世間一般や常識やルール

 

解説: A~Eの考えは例示であるが、そのような固定的な価値観や考えを強く持っていると自分の考えが縛られてしまい、アサーションが苦手となりがちになります。それらの考えの主語が「自分」であれば、その部分では非主張的になりやすく、世間一般の常識として捉えていると(自分の側に常識や正義があると思うから)その部分では他人に対して攻撃的になりやすい。

 

考えてみよう

「アグレッシブ、ノン・アサーテイブ」の組み合わせや「アグレッシブ」のぶつかり合いの夫婦や家族と関わる時、両者の間に入ったり関係調整を試みたりする支援者の態度や表現は、どのようなものが望ましいだろう。

(関係の調整や良い方向への転換や発展は、「悪者」を一方的に決めつけなければ可能です。そのような方向づけができれば、「自己統合」「自己実現」への大きな支援になると考えます。)

 
【アサーション】 Assertion

アサーションとは、相手を尊重しつつ自分の意見を伝えるコミュニケーション方法の一つです。

アサーテイブネス(assertiveness)は直訳すると「自己主張」となり、アサーションについて長年にわたり研究してきた臨床心理士である平木典子氏は「アサーションとは自分も相手も大切にする自己表現」であり、「自分の考え、欲求、気持ちなどを率直に、正直に、その場の状況にあった適切な方法で述べること」としています。

近年アサーションが注目を集める背景には、職場でのストレス増加があります。ハラスメントの発生件数が増えたことと、テレワークの普及でコミュニケーションでの課題が多くなったことが原因です。ストレスが大きい環境の中で、「対等な立場で話せる」「言いたいことを言える」「相手に不快感をあたえずにNOをいえる」メリットを持つアサーションは、有用なコミュニケーションスキルとして脚光を浴びています。 (Webサイト「日本の人事部」)
 
【アサーション9つの実行スキル】

1.     主張する価値があるかどうか、自問してみる

2.     タイミングに注意を払う:相手の置かれている状況を考慮する

3.     「私メッセージ」を使う:私を主語に使うことによって提案型になる

4.     否定ではなく肯定的に使う

5.     具体的に言う:自分の意図を相手が感じやすいように

6.     依頼の言葉の基本形は「感情+説明理由+依頼内容」

7.     断りの言葉の基本形は「謝罪(感謝) +説明理由+断りの表明+代替案」

8.     非言語チャンネルを使う:言葉だけではなく身体的動作を利用する

9.     聴くスキルを使う:自分の主張の合間に生じる相手の応答にも注意する

(Webサイト「産業保健新聞」)

紙ふうせんだより 5月号 (2023/06/23)

皆様、いつもありがとうごさいます。暑い日がやってきました。そうかと思えば雨天の肌寒い日もあって、体の調子も狂ってしまいがちです。とは言え猛暑は間違いなくやってきますので、今のうちにしっかりと身体を動かして汗をかき、夏に備えた体づくりをしていきましよう。天候もそうですが、振り回されてしまうと疲れてしまいます。負けてしまわないように体力をつけましょう。そして心が負けてしまわないためには何が必要でしようか。

世の中の予盾を知って

世の中は矛盾だらけです。例を挙ければきりがありません。公僕・選良であるはずの政治家が私欲まみれだったり、私たちの現場では、信頼関係こそが基本となるべき対人支援職にありながら現場労働軽視の風潮からか「利用者との十分なコミュニケーション・人間関係をとおして信頼関係をつくりだすゆとりもなく、常に変化する利用者の状態に即応するホームヘルバーの主体的判断や裁量権も介護保険制度のなかで奪われて(※ 1)」ということがあります。

矛盾に振り回されて折れてしまいそうになる心は、感受性が豊かな証でもあります。「何千、何万の苦しんでいる人々の存在を思うとき・・・・・・農民たちの小屋という小屋には、同情さえも受け付けない苦しみが満ちているのを目にするとき一一そうしてこの世はすべてあいも変わらす朝ことに同じことを繰り返している。一一そしてこのさまよえる地球は永遠の沈黙を守りつつ、何事もないかのように、これまた冷徹な星々の間を、その単調な軌道のうえを、容赦なく回り続けるのです。こんなことなら死よりも、生きている方がいっそうわびしいというものです。」

矛盾に鈍感でいることは「死よりも辛い」という24歳の告白です。この手紙を書いたのはナイチンゲール(※ 2)です。産業革命期のイギリスでは貧富の差が圧倒的に拡大していきます。感受性の豊かな彼女は16歳の時に「神は私に語りかけられ、『神に仕えよ』と命じられた」という体験をし、何をするべきかを自らを問い続けます。

25歳、彼女は苦しんでいる人を助けるために看護婦をやりたいと親に打ち明けます。当時の看護婦は、尼僧か無学の下働きの酒飲みの女がやるものたと思われており、病院は汚物まみれで不潔極まりない場所でした。近代医療が確立する以前の病院は乞食や食い詰めた病人や障害者や孤児や巡礼者などを宿泊させる救貧院を原型としており、「施し」として収容するのであって、待遇が良すぎると貧者が努力をしなくなるという理由で、その処遇は最低限を下回るものとなっていたため、「病院にだけは収容されたくない」という場所が「ホスピタル」だったのです。

不道徳や堕落が同居すると考えられていた病院の仕事を親が許すはすはありません。大反対されたナイチンゲールは「今朝の自分は、涙に魂までも流れ果てる思いである。胸をえぐる悲しみ、孤独の苦しみ、このどうしようもない淋しさ」「もう私は生きていけない。主よ、どうかおゆるし下さい。そしてどうか今日私に死を与えて下さい」と苦しみます。しかし彼女は親に隠れて病院に関する資料を集め猛勉強を開始します。




※ 1 「社会福祉政策と福祉労働」加藤薗子(2002)

※ 2 フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)

イタリア旅行中に花の都フィレンツェで生まれたことからフローレンスと名づけられる




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自分の中の矛盾を乗り越えて 

彼女の中にも矛盾はありました。彼女の家は上流階級で多くの召使に囲まれお城のような家に住んでいたのです。そして、自分の中にも「社交界の星となって賞賛されたい」という気持ちがあったことにも気が付いていて、罪の意識にも苦しみました。自分が慕う相手から求婚を受けましたが断ってしまいます。結婚してしまえば、使命の道は閉ざされてしまうからです。

「神は朝、私を呼ばれて、神のために、たた神のためだけに、わが身の名声を顧みすに、善をなす意志があるかと問われた」と再びの啓示。しかし未だに道を切り開けない彼女は自分を資め、心は病み疲労は極限に達します。「家族の同情や援助は、一切期待してはならない。長いこと家族の理解が欲しくてたまらずにいたので、この事実を受け入れるのはなかなか大変である・・・私はあまりに長いこと子供扱いされ、そのように扱われることに甘んじてきた」と彼女は記しています。

31歳、彼女はドイツの先進的な病院付属学園で実習を受け、パリにある病院で見習い生として働きます。ついに長年の苦悩と猛勉強が実を結ぶ日寺が来ました。33歳の彼女はロンドンの経営困に陥っに病院の管理者に赴任し、水を得た魚のように働き大改革(※ 3)を断行します。覚悟を決めた人に恐れるものは無いのでした。




※ 3 換気の行き届いた衛生的な病室、頻繁に交換されるシーツ、水と湯の出る病室の蛇ロ、ナースコール、ナースステーション、新しい在庫管理方法等、これらは全てナイチンゲールの発案



写真はナイチンゲールが考案した円グラフ。彼女は若い頃、数学者を目指していたこともあった。




苦悩する者のために戦う

1853年、クリミア戦争が勃発します。34歳のナイチンケールは友人の陸軍大臣の呼びかけに応えて看護団を組織し戦地に赴きます。野戦病院での兵士の死亡率は42 %と高率でしたが、その原因は兵士を「くず」「ごろつき」としてさけすむ軍隊の体質と共に、食料不足や極悪な衛生状態にありました。最初の2週間で運び出された汚物や腐敗物は手押し車 556杯分と2頭の馬・24体の動物の死骸という有様でした。

彼女は陸軍省に改善要求を行うと共に、兵士に寄り添い傷を洗い包帯を取り換えて栄養・衛生改善(※ 4)に努め、死亡率を2%にまで低下させました。人間らしく扱われて感激した兵士は、ランプを持って夜間巡回を行うナイチングールの影に接吻をしたほどでした。本国では戦意高揚の意図もあり彼女を「クリミアの天使」と呼んで英雄視しましたが、彼女はそんなことには目もくれず、最後の兵士が退院するまで病院に残り、騒がれることを嫌って偽名で帰国しました。

その後のナイチンゲールは、全国の病院の調査を行ってはデータを集め統計を駆使して数々の報告書を記し、病院や軍隊の改革を提案していきます。しかし、疲労と戦地で罹患したクリミア熱の後遺症から衰弱して倒れ、41歳で歩けなくなってしまいます。それでも彼女はペットやソファーの上で働き続けます。病院設計や公衆衛生や看護師養成の専門家として数多くの著作を発表し各方面に提言を続け、請われて法律の草稿や認可条件の執筆も続けていきます。

多くの矛盾から目を背けずに自らの戦いを続けられた彼女のエネルギーの源は、一体何だったのでしよう。それは、天啓として表象された「何のために生きるのか」と自らを問う心の声だったのではないでしようか。看護も介護も突き詰めれは世の矛盾にぶつかり、心が折れそうになる大変な仕事です。私たちも続けていくために、負けないために彼女の次の言葉を励みにしながら自らを問い、その原点に立ち返っていきたいと思います。

「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」

自らが深く真摯に苦悩したことは、間違いなく誰かの苦悩を癒す力となるのです。




※ 4近代医療の成立をコッホやパスツールの近代細菌学の確立に見るならば、ロベルト・コッホ( 1843-1910)による1884年のコレラ菌の病原性の確認に先立っ慧眼と先見性がナイチンゲールにあったと言える。「近代看護の創始者」と言われる彼女は、統計学やソーシャルワークの先駆者でもあった。5月12日はナイチンゲールの誕生日にちなんで国際看護師の日となっている。




 

紙面研修

ナイチンゲールの人間観

「自然の働きかけ」 「全ては回復過程」

ナイチンゲールが24歳の頃、サミュエル・ハウ博士が彼女の家に滞在した。博士は米国の医師であり社会事業家でパーキンス盲学校(アン・サリバンやヘレン・ケラーもここの卒業生)の創設者でもあった。彼女は博士に看護婦の仕事についてどう思うかを聞いた。それを自分がやることについて。

「それは確かに異例のことです。しかし私は『進みなさい』と言いましょう。もし、そのような生き方が自分の示された生き方だ、自分の天職だと感じるのであれば、その心のひらめきに従って行動しなさい。他者の幸いのために自分の義務を行っていくかぎり、決してそれは間違っていないということが分かってくるでしよう。たとえ、どんな道に導かれようとも、選んだ道をひたすら進みなさい。そうすれば神はあなたと共にあるでしょう」と博士は答えている。

淑女は紳士と結婚し紳士に添えられた”花”のように生活し、家事や仕事を一切せずにパーティーやおしゃべりに明け暮れる退屈な日々を過ごすことが上流階級の女子の「人生」とされていた当時にあって、ナイチンゲールの考えは異例中の異例だった。それは、女性の自立した生き方の先駆であったのだが、根源には「人間の自立への志向」がある。

人間が、普遍的価値に肉薄しながら自らを活かし生きようとする時に、根源的な力はひらめきのように自分の内側から湧き上がってくるものだ。それはクリスチャンにとっては「愛の力」とも言えるだろうし、「神と共にある」という表現にもなろう。ナイチンゲールの思想にはこのような「人間に内在する力」(普遍的な力・生命力)への実体験に基づく信念が見られる。




『病院覚え書』

・病院がそなえているべき第一の条件は、病院は病人に害を与えないことである。

『看護覚え書』

・看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること、こういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小限にするように整えることを意味すべきである。

・看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるのに最も良い状態に患者を置くことである。

・全ての病気は、その過程のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程であって、必ずしも苦痛をともなうものではない。

・看護師のまさに基本は、患者が何を感じているかを、患者に辛い思いをさせて言わせることなく、患者の表情に現れるあらゆる変化から読みとることができることなのである。

『病人と看護と健康を守る看護』

・病気とは、健康を阻害してきた、いろいろな条件からくる結果や影響を取り除こうとする自然の働きかけの過程なのである。癒そうとしているのは自然であって、私たちは、その自然の働きかけを助けるのである。

・健康とは何か? 健康とは良い状態をさすだけではなく、われわれが持てる力を充分に活用できている状態をさす。

・看護師は自分の仕事に三重の関心をもたなければならない。ひとつはその症例に対する理性的な関心、そして病人に対する(もっと強い)心のこもった関心、もうひとつは病人の世話と治療についての技術的(実践的)関心である。

・看護師は、病人を看護師のために存在するとみなしてはならない。看護師が病人のために存在すると考えなけれはならない。

『看護師の訓練と病人の看護』

・看護はひとつの芸術であり、それは実際的かっ科学的な、系統だった訓練を必要とする芸術である。

『救貧覚え書』

・体が丈夫でない貧困者に関するかぎりは、彼らに対する救貧法の本来の目的は、彼らに対する罰を与えたり、食べ物を提供したりすることではなく、彼らを勤勉で自立できる人にするために、訓練を施すことである。

それはある意味では、読み、書き、計算と言った国民教育の一野が引き受けるべき事柄であり、またそれは国民の間で”共通認識ができている良心のあり方、つまり道徳”を教えることによってなされていくことであろう。




「全ての老いは、その過程のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は自己実現過程であって、必ずしも苦痛をともなうものではない」と単語を読み替えても、首肯できる言葉ではないだろうか。

 

考えてみよう

利用者さんが持てる力を充分に発揮できるようにするためには、私たちは何に関心を払い、どのような態度であるべきだろうか。


紙ふうせんだより 4月号 (2023/05/17)

私を決めつけないでください

皆様、いつもありがとうこさいます。4月2日は世界自閉症啓発デー(※ 1)です。「自閉症」という言葉が医学に登場するのは、児童精神科医のカナー(※ 2)による論文「情緒的接触の自閉的障害」( 1943 )や小児科医のアスペルガーによる「幼児期の自閉性精神病質」( 1944)などが始まりです。残念なことにカナーの仮説や考察は誤りであったため、自閉症に対して誤った認識が広まってしまいました。障害や病気に対する「誤解」によって当事者に対す態度が偏見を帯びてしまい、当事者が傷つけられたり苦労することは度あることです。




※ 1カタール王国王妃の提案により2007年12月18の国連総会で決議

※ 2レオ・カナー( 1894-1981 )自閉症を「早期発症型(陰性症状)の統合失調症」ではないかとし「親の養育態度」のにも言及




障害や病気への誤解から生じる 「レッテル」

日本での自閉症についての初の実態調杳は、1967年に文部省によって行われました。このときに自閉症は「情緒障害」に分類されたため自閉症は因性と考えられてしまい、その「誤解」から当事者は長年苦しむことになってしまいました。「自閉」という言葉も良くはありませんでした。「自分の殻に閉じこもっている」という語感から本人のメンタルが問題とされたり、「人間嫌い」や「親の愛情不足ではないか」と言われてしまったのです。

世界自閉症啓発デーの国連決議文には、「生後3年間のうちに発現する自閉症は、脳の機能に影響を及ほす神経障害に起因し、一生続く発達障害であり、その影響は主として、性別、人種または社会経済的地位を問わず、多くの国々の子どもに及び」とあります。そしてその持徴を「社会的相互作用における機能的障害」「コミュニケーション上の問題」としています。

このように現在では脳神経が原因とされている自閉症ですが、「社会的相互作用」に言及をしているところは重要です。障害の要因を個人にのみに押し付けるのではなく、「コミュニケーション上の問題」などとして社会との関わりで起こっている「障害」は、社会の側の無理解・無関心な態度が変ることによっても改善することを示しているのです。

「誤解」が当事者を苦しめるケースは、例えは「らい予防法」による患者の強制隔離もその一つです。他には何があるでしよう。厚労省のサイトには「依存症は、アルコールや薬物の摂取やギャンプル等の行為を繰り返しているうちにそれをコントロールする脳の機能が弱まってしまう『病気』です。決して、意志が弱いからという理由で依存症になるわけではありません」とあります。「意思が弱い」との批難によって、依存症者はかえって適切な治療から遠さかってきました。

私たらも「誤解」をしていないか自己点検するべきですが、介護職の誤解の第一は、やはり「認知症」ではないでしようか。「認知症」という名の病気は厳密には存在しません。認知機能に障害をきたした症状のある状態像をまとめて「認知症」と呼んでいるにもかかわらず、簡単に「認知症」のレッテルを貼り、「認知症」=「×× という機能障害が起きる」という単純な図式的理解をしたら誤りなのです。「機能障害」の国際的な定義には「機能障害はその基礎となっている病理と同じではなく、その病理の表現である」との文言があり、「機能障害は病気の診断とは異なる」と注意を促しています。

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「レッテル」 を貼られた者の苦痛

自分の望まぬケアや入所などが説明不足のまま半強制的に行われたとします。それが自分の身に起こったらどんな気持ちになるか、想像してみましよう。

何やら陰でコソコソ話が進んでいるようです。今まで信じてきた人に裏切られている気持ちです。そういった事が積み重なれは、何かをきっかけに怒りを爆発させてしまうこともあるでしよう。認知症たから「全部忘れる」と思っている態度が納得のいかなさに輪をかけます。抗議の意思表明として怒ってみせても、それも「認知症の症状」にされてしまいます。理解力や記憶力が怪しくなってきたから不安でたまらなく、たからこそ解るように何度でも説明して欲しいのに、惨めな気持ちにもなっていきます。誰も「私」をきちんと見てくれません。そこには「認知症の病人」がいるだけです。私の尊厳はどこにいったのでしよう。最後の抵抗として諦めの気持らと共に、私は感情や考えを表明することをやめ、押し黙ることにしました—

このように「押し黙ってしまった」と考えられるケースには、有名な実話があります。イキリスの者人病棟で重い認知症とされていた老婦人が亡くなり、持ち物から看護師に宛てたメッセージ(※ 3)がでてきました。そこには、「何が見えるの、看護婦さん。あなたには何が見えるの」あなたが見ているのは”認知症のおはあさん”なのでしようけれど「でも目を開けてこらんなさい。看護婦さん、あなたは私を見ていないのですよ。」と綴られていたのです。




※ 3「私は三年間老人だった」パット・ムーア( 1988)や「穏やかに死ぬということ」若林和美( 1997 )などで紹介されている




誰が 「障害」 を作り出しているのか

ある青年の詩を紹介します。「僕は僕に『瞳害』があると思っていなかった/僕はほくが生きにくい世の中に『障害』があると思っていた。/でも人は僕のことを『障害』のある人と言う/僕は僕自身だけど/『障害』ではない」(「僕と言う人間」松下大介)

重度の自閉症当事者の東田直樹さんの手記(※ 4)にも次のようにあります。「自分が瞳害をもっていることを、僕は小さい頃は分かりませんでした。どうして障害者だと気づいたのでしょう。それは、僕たらは普通と違う所があってそれが困る、とみんなが言ったからです。」

私たち人間は、どうしても物事にレッテルを貼って「ラベリング」をしてしまいます。これは認識プロセスの効率化のために仕方のないことですが、「偏見」の一つだと自覚しておいた方が良いでしよう。社会学者ハワード・べッカーは、「社会集団は、これを犯せは逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みたすのである」(ラベリング理論)としています(※ 5)。「障害」の発生もまた社会が生み出している「逸脱」であり、「社会病理(※ 6)」と言える面があるのです。

自閉症は症例の積み重ねによって、症状の有無ではなく「どのくらいあるのか」という「自閉スペクトラム」という概念に変ってきました。虹の色は「7色」と決めつけるのは誤りであって、実態は徐々に変化するスペクトラム(連続体)であるという考えです。近年増加していると言われている「発達障害」もその延長としても捉えることができます。そうであれは「なせ増加しているのか」ということを問わなけれはなりません。許容されるラベルが付与されれは許容され、無けれは許容されない現代社会の窮屈さが、「ラベル」を増やしてはいないでしようか。誰にとっても生きやすいことと、自分の生きやすさは対立しないはすなのに、弱い者がさらに弱い者を叩く世の中になってはいないでしようか。




※ 4「自閉症のぼくが飛び跳ねる理由」(2007)

※ 5「アウトサイダーズ」( 1963)社会の側が特定の行為を逸脱と判定し、その行為をする者を「逸脱者」とみなすことで、逸脱者が生みだされると考える。

※ 6「個人や集団や地域社会の生活機能障害にかかわる現象のこと」で「広く集合的な社会現象としてみた場合、個体原因ばかりでなく、社会にその発生の根が求められる」ものや「社会に発生する病的な状態」をいう。




 

紙面研修

誰が 「認知症状」 を作り出しているのか




看護婦さん

あなたはいったい、何を見ているの?

あなたが私を見るとき、あなたは頭を働かせているかしら?

気難しい年老いたおはあさん

それほど賢くなくとりえがあるわけでもない。

老眼で食べるものをぼたぼたこぼしあなたが大声で

「もっと、きれいに食べなさい」といってもできないしあなたのすることにも気づかずに

靴や靴下を失くしてしまうのはいつものこと。

食事も、入浴も

私が好きか嫌いかは関係なく

あなたの意のままに長い一日を過ごしている。

あなたはそんなふうに

私のことを考えているのではないですか?

私をそんなふうに見ているのではないですか?

そうだとしたら、

あなたは私を見ていません。

もっとよく目を開いて、看護婦さん。

ここに黙ってすわり

あなたの言いつけどおりに

あなたの意のままに食べている私が誰か、教えてあげましよう。

10歳のとき、両親や兄弟姉妹に愛情をいつはいに注がれながら暮らしている少女です。

16歳、愛する人とめぐりあえることを夢みています。

20歳になって花嫁となり、私の心は踊っています。

25歳、安らぎと楽しい家庭を必要とする赤ちゃんが生まれました。

30歳、子どもたちは日々成長していきますが、しつかりとした絆で結ばれています。

40歳、子どもたちは大きくなり巣立って行きます。

しかし、夫が傍らにいるので悲しくはありません。

50歳、小さな赤ん坊が私の膝の上で遊んでいます。

夫と私は子どもたちと過ごした日々を味わっています。

そして、夫の死。

希望のない日々が続きます。

将来のことを考えると恐ろしさで震えおののきます。

私の子どもたちは、自分のことで忙しく

私はたったひとりで過ぎ去った日々や

愛に包まれていたときのことを思い起こしています。

今はもう年をとりました。

自然は過酷です。

老いたものは役たたずと嘲笑い、からかっているようです。

からだはぼろぼろになり栄光も気力もなく以前のあたたかい心は

まるで石のようになってしまいました。

でもね、看護婦さん

この老いた屍の奥にもまだ小さな少女がすんでいるのです。

この打ちひしがれる私の心もときめくことがあるのです。

楽しかったこと、悲しかったことを思い起こし・愛することのできる人生を生きているのです。

人生はほんとうに短い。

ほんとうに早く過ぎ去ります。

そして今、私は永遠に続くものはない

という、ありのままの真実を受け入れています。

ですから、看護婦さん

もっとよく目を開いて私のことをよく見てください。

気難しい年老いたおばあさんではなく

もっとよく心を寄せて・・・      この私を見てください




認知症状があって画像所見で脳の委縮がみられれば「認知症」と診断されます。だから一応認知症の原因は脳神経の変質ということになるのでしよう。しかし、脳に委縮が無くても認知症状が現れる方や、脳に委縮が見られるものの認知症状が無い方がいます。

やはり、認知機能に障害がみられると診断されても、それは「病気の診断とは異なる」ということなのです。だから、「認知症だから必ずxxになる」という理解は誤りであり、メンタルの持ちようや、周囲の人の理解や声掛け、環境の工夫、社会の価値観や文化など様々な社会的相互作用によって認知症状の発現や進行は、変ってくるのです。

決めつけてはいけません。

たとえば朝耕暮耘のような自然の流れにそった規則正しくゆとりと張り合いのある生活であれば、「ボケ」ても大きな問題は起きにくいと思われます。「ボケ」という言葉の意味は、形象や主張の輪郭や中心がぼやけて曖昧になることです。「ボケ味」という写真用語がありますが、画面構成に程よいポケを作ることで、画面に緩急や深みが生まれて全体はより美しくなります。

「ボケ」の良さを肯定するならば、年寄りの居る光景はもっと美しく豊かになるのではないでしようか。私たちは、あまりにも「ボケ」を恐れすぎています。その高まった不安が相互作用して認知症状を悪化させ B P S D (行動・心理症状)を引き起こすのです。BPSDは、本人中心のケアを実践し本人が穏やかに暮らしていけるように、心身と環境を整えれば発現しません。

BPSDは不適切な介入やケアによって生じる「逸脱」とも言えるのです。

考えてみよう

自分が「老婦人」の立場になったら、何を感じるだろうか。どうしようとするだろうか。


紙ふうせんだより 3月号 (2023/04/21)

自分の苦しさを思い出してみる

皆様、いつもありがとうございます。咲き散り急ぐ桜に人の世の邂逅と別離を重ねてしまうからでしようか、春はどことなく感傷的です。春の疾風に宮沢賢治も痛みを感じとっています。『春と修羅』には「雲はちきれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はきしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」とあります。春は再生の季節ですが、取り残された癒えない痛みを思い出してしまうのもまた春なのかもしれません。

春の心になるように

心が辛い痛い悲しい。そのような思い出が綴られにの中の「詩集」を「誰しも持っている」とする詩、『春の詩集』では、作者の河井醉茗(すいめい)(※ 1)は「春が来る毎に/春の心になるように/自分の苦しさを思い出してみることです」と、そっと呼びかけています。なぜ苦しみを思い出した方が良いのでしよう。

仏教では、自分の意のままにならないものにこだわってしまうことこそが「苦しみ」であるとして、その対象を「生者病死」の四苦と共に「愛」や「憎しみ」、「欲求」や「身心」へのこにわりを加えて八苦(※ 2)としました。アドラー心理学(※ 3)も「他者を支配しないで生きる決心すること」を説いていますが、「他者」もまた自分の意のままになりません。考えてみれば「若い時の詩集」には、納得のいかないことで多くの人とすれ違い結局自分で自分を孤独に追い込んにりした苦い思い出ぱかりです。「どうして」とこだわり続けるから苦しくて、忘れたいけどかえって忘れられなくなるということはあります。

痛みや悲しみは、それはそれとして受け入れて自然体となり、時思い出していれは後悔も何かの学びとなります。また、悲しみがあるからこそ人は人に優しくなれるのです。この詩にある、他人に見せたくない心の傷が「春の心になる」ということは、「自分の苦しさを思い出してみること」で、いつかその「苦しみ」が苦しみではなくなるということなのでしようか。




※ 1河井醉茗( 1874ー1965) 口語自由詩を提唱した詩人。『紫羅欄花』( 1932)など平明な作風が特徴。→春の詩集 — HAS Magazine (has-mag.jp)

※ 2八苦には愛する人と生き別れる苦、うらみ憎む人と会う苦等がある。

※ 3アルフレッド・アドラー( 1870ー1937)は「自己実現的な人にとって他の人が与えてくれる名誉や地位や報酬等は重要ではなくなっている」とし、マズローの「欲求5段階説」の「承認欲求」を求めるなと説く




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「どうして」 から 「どうやって」 

自分の命や運命もまた意のままになりません。何となくこの先もこのまま生きていく事ができるという漠然とした希望がある日突然断たれてしまった時、人は悩み苦しみます。そしてその「苦しみの意味」を「どうして」と問うのです。筋ジストロフィーと診断されていた石川正一さんは1 0歳の夏、ついに歩けなくなります。日記が書籍化された『たとえぼくに明日はなくとも車椅子の上の17才の青春』には、その時のことが記されています。

「お母さん/もう一度立ってみる/ちきしよう/ちきしよう/ほくはもう駄目なんだ /ぼくなんかどうして生れてきたんた! /生れてこなければよかったんだ!」

苦しい時、人は「何で自分は苦しまなければならないのか」と考えます。苦しみを抱えてまでして人はなぜ生きなけれはならないのか。生きなくてもいいじゃないか。死んでしまってもいいじゃないか。そう思うこともあります。

でも、無くなって欲しいものは本当は「苦しみ」の方です。その苦しみに「どうして、どうして」と問いかけても「苦しみ」は答えてはくれません。苦しみを抱えた自分が「どうやって」生きて行ったらよいのか、問われているのは、本当は「自分の態度」だったのです。答えの出ない問いから自分自身へと問いを反転させるために、仮定として自分の「死」を者えます。それが「死にたい」と言う表現です。

「自分が死ねばこの苦しみは終わるのか?」そう妄想します。苦しい時は、永遠不変の実在としての「苦しみ」の中に小さな自分が呑み込まれているように感じますが、本当は有限な自分の中に(自分よりも小さくて自分よりもさらに儚い)苦しいという「自分が抱く感情」あるのです。そうであれば「自分が変ればこの苦しみも変わるのではないか?」と言えるのです。「死にたい」という表現は「今までの自分の考え方は終わりにして、新しい考え方のできる自分に再生したい」という気持ちの表れではないでしようか。

「お母さん、もう、あんなことは言わないよ。生命をそまつにすることはいけないね。ごめんなさい。」

石川さんは14歳の時に20歳までの命と宣告されます。死を自覚して石川さんは変わっていきます。そして、自分に問うのです。

「たとえ短い命でも/生きる意味があるとすれば/それはなんだろう/働けぬ体で/一生を過ごす人生にも/生きる価値があるとすれば/それはなんだろう/もしも人間の生きる価値が/社会に役立つことで決まるなら/ぼくたちには/生きる価値も権利もない/しかしどんな人間にも差別なく/ 生きる資格があるのなら/それは何によるのたろうか」

石川さんは、「人生からの問い」に「自分の答え」を示すために生き抜くことに決めました。

「たとえぼくに明日はなくとも /たとえ短かい道のりを歩もうとも/生命は一つしかないのだ/だから何かをしないではいられない/一生けんめいを忙しく働かせて/心のあかしをすること/それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている/釜の火は陶器を焼きあけるために精一杯燃えている」

精一杯生きた証は誰かの心に残ります。「人か死ねばとても悲しいじゃないか。誰もが、必す死ぬのだということが解っていても、やはり悲しい事だよ。それは死ぬから悲しいのではなくて、実は”別れる”ということが悲しいのだ。」悲しみは悲しみとしてあるけれど、融和的に思い出されれば、それは優しくて暖かくて懐かしい春の風となります。苦しみは粘土のような自分を鍛錬して、陶器に焼き上けるための「炎」ではないでしようか。




※ 4石川正一( 1955ー1978)筋ジストロフィーは全身の筋肉が変性する進行性の難病で根本的な治療法はない。10歳で車椅子となり23歳で死去。

「2 0歳をこえようとこえまいと/人間は有限な存在にかわりはないのだ/生きているかぎりは/何かをしないではいられない/おまえは伸びようとしている/芽なのだ(20歳誕生日)」東映で「ありがとう」という記録映画がある。




※引用の河井醉茗の詩は、読みやすさを重視し旧仮名遣いを現代新仮名遣いに改め、一部の漢字をかなに、かなを漢字へと表記し直しています。

 

紙面研修

「ゆずりは」 に想う

【ュズリハ】ユズリハ科の常緑高木。福島以西の本州、四国、九州、沖縄に自生する。和名の「ユズリハ」は、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来します。漢字表記は「譲葉」です。一方、古名では「ユズルハ」とされ、万葉集にも見られる表記は「弓弦葉」です。これは、葉の主脈が太く目立ち、弓に張る弦のように見えることからだそうです。新葉が揃うまで古葉が落ちず新旧の葉が着実に入れ替わる様子に、円満な世代交代や子孫繁栄への願いが託されて縁起の良い木とされ、葉は正月飾りにも使われ、庭木としても利用されています。




古に恋ふる鳥かも弓絃葉の御井(みい)の上より鳴き渡りゆく

現代語訳:昔を恋しく思う鳥だろうか、弓絃葉の井戸の上より鳴き渡っていく(万葉集弓削皇子)

 

■この歌は弓削皇子が持統天皇の行幸に同行した時に大和にいる額田王(2代前の天皇の后)に贈ったものです。額田王は「昔を恋しく思う鳥はホトトギス(不如帰)ではないですか」(古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が思へるごと)と返歌をしています。

中国の故事に、古蜀の望帝の復位の願いが叶わずに死んでホトトギスとなり「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いたとあります。譲り葉の上でホトトギスが「昔に帰りたいけど帰れない」と鳴いて飛び去っていく。そんな光景です。




以前、利用者ご家族より利用者さんの「散財」について、それをどのように抑止するかを相談されたことがあります。私の回答の一部を引用します↓

 

金銭感覚については家族間でも異なっていることが多く、認知機能の問題とする前に異なっている事を前提に構えることが大切です。要介護高齢期になると金銭感覚も昔のご本人と比べて変化していく人も多いように思います。

支援側(昔のご本人も)が生活者の視点で見るのに対して、ご本人は、次代に何物かを「贈与」してこの世を去っていく「ゆずり葉」的な自己像を持っているように思います。身近な人や社会に対して「贈与」したいという欲求が、欲求の中でも強くなるような方もおられます。

それは、生活者視点では散財なのですが、本人にとっては自分を確認する行為としての「贈与」であるという視点での理解も必要かと思います。また、金銭管理は「自己決定」に大きく関わり、自己決定による物品購入や贈与は「自己効力感」とも大きく関わっているかと思います。(引用終)




人には、自分が誰かから何かを受け取ったと感じた時は、自分もまた誰かに何かを渡さないといけないと感じ実行する習性があります。与える義務、受け取る義務、お返しの義務。これらが履行されないことは、人にとっては(祟られる等)よろしくないのです。そうやって世界は循環し、その秩序が保たれる。これが文化人類学で論じられている「贈与」です。

考えてみよう

去るべき者が譲り遺していきたいと思っているものは、本当は何だろう

自分が受け取るべきものは何だろう

残った者の応答責任とは何だろう

 

参考資料:ゆずりは(河井醉茗『紫羅欄花』より)


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